屍蝋之涙


其れは長い間、眠っていた様だった。

目を閉じて、僅かに天を仰いで、何かを待ちわびる様に、ずっと其処に佇んで居った。

然し、彼の鼓動は遥か昔に失われており、忘れ去られた地の海の底で、静かに、静かに、微睡んで居った。

誰も、彼を知らない。其処に居ることも、何者なのかも……。


月が水面に姿をおとす。真ん丸に満ちたその姿は、まるで鏡の様であった。


ぱしゃり――


あ、歪む。さざ波が姿見を砕き、拡がる。


ぱしゃり――


また歪む。其の正体は何モノであるか。姿見が砕けている為、誰とも知れぬ。

魔怪であるか、化生であるか、あるは……。いずれにせよ、只のモノではない。


ばしゃっ――


一際大きな音がする。其の後、暫くは何モノの気配も無く、前の静寂が辺りを支配した。

さざ波が消え、姿見の形が戻ってくる。其れはやたらと大きく、あらゆるモノを飲み込んでしまう顎にも見える。黒い水面に現れた白い虚無は、そうやって餌を探して、夜な夜な顕現するのだろうか。



――ざあぁ……


あ、虚無から何かが出てきた。獲物が奴を内側から食い破って、再び姿見の形を砕く。


「やっと……見つけた」


やや、言葉を発しおる。然も其奴の腕とおぼしきには、誰も知らぬ彼が居るではないか。


そして、其奴は彼の閉じた瞼に接吻をしたのである。さも、いとおしそうに……。


「可哀想に……、こんなに綺麗なのに、ずっと忘れられたまま、打ち捨てられて」


君の未練が、君を君の儘で残した。実に幸福な事だね。

固く、彼を抱き締め乍ら、其奴は詠う様に語り掛けて居った。鼓動の失われた彼は応えること等無いというのに。


だが、彼は泣いた。目許に一滴の雫を湛えて。其れは、長らく水底に居ったから偶々目許に付いておった水滴が流れただけやも知れぬ。然し、そんな理屈、この場には必要ではない。


彼は確かに泣いたのだ。奴が、彼を起こしたのだ。


「おや、口惜しいかい?」


ぱたり――


雫が落ちる。其奴は笑った。


「そう、では俺と共においで……」


願いを叶えてあげる。命の理から助けてあげる。でも、其れは命を冒涜する罪ともなる。安らかな夢は二度と見られない。きっときっと、苦しい旅が待っている。其れでも、君は良いというのか。


ぱたり――


また溢れる。其奴は笑みを深くして、そうかそうか、と繰り返す。


「なんて可愛くて綺麗な、奇跡の子なんだろうか」


屍蝋は、未練と後悔と哀しみの念が先走り、いつか時が来たら、といつまでも待ちわびる憐れな子だ。其れでもいつしか寂しさに飲まれて溶ける子達も居ると言うのに。


「君は、どうしても君の想いを捨てられないのだね」


もう其れも今日で終わりだ。

ねぇ、屍蝋之子。

命を冒涜する事になっても尚、成す事が有るならば、もう一度、俺の元でやり直すんだ。

そうそう、本当の名は対価としていただく。代わりに君には新しい名をやろう。


ククロ《人形》


君にぴったりの名だ。

ほら目を覚まして。もう夜明けだよ。


黒いコウモリを従えた其奴が拾った、屍蝋之子。彼の未練はまた別の話である。


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