第3話


 なんとなく、夫の行き先はわかっていた。それは確証のないものではあったが、根拠はあった。コートを着込み、その場所へ向かう。

 夜明け前の寒空の下、しんとした空気が私を包む。この時間帯の雰囲気は人を自分へと向けさせる力を持っている。

 なぜ、私はここを歩いているのか。冷静に家で夫の帰りを待っていても良かったはずだ。

しかし、またも湧き始めた言い知れぬ妙な感情が私を突き動かしていた。その感情を突き止めようとする。これは不安? それとも期待? 私は、この感情を知っている。あれは……、そう、地元からここへ来たとき。何か、自分を変えられるだろうかと、出てきたとき。

 はっとした。私は変わりたかったのだろうか。しかし、変わるということは以前の自分への否定でもある。『無理をしないこと』を信条にしてきた私にとって、それは耐えがたいことであったのに。それに、夫が消えたという今の状況に、何かが変わるという不安と期待を抱いているというのか。

 徐々に私は気づき始めていた。自分の心の奥底の本性。『なんとなく』で済ませていた理由たちが、おぼろげに形を持ち始める。

 気持ちが悪い。冷静でいられない。でも、自分のことについて考えずにはいられない。

 夫と過ごしてきた日々を思い出す。とても楽しかった。学生時代、小さな淡い気持ちを抱いた相手はいたが、多分本当の初恋の相手は夫だった。初めて、見返りを求めたくない男だった。夫の登場は大きな衝撃であり、その衝撃は私の人生に大きな変革をもたらすものだったのだろう。変わりたくないのに変わりたい、歪な二面性を持った私に対して、夫は真摯に向き合ってくれていた、はずだ。私は、とても幸せだった。

 ……はずだ? 私は? 

 鼓動とともに、足の動きも早くなる。

 夫は、本当はどう思っていたのだろう。ずっと、『はずだ』で誤魔化して、本当に夫の気持ちを感じ取れていなかったのではないか。

 私は、思い出とはなにかを考える。思い出とは、共有されるものではなく、自分の主観から見た景色でしかない。その場面でどう感じどう動いたか、自分自身の説明は言えるけれど、他人の気持ちがどうだったかを証明することはできないのだ。

 これまで信じていたものが、脆く壊れていく感覚。私がどんな人間だったのか、自覚していく辛酸。呼吸が荒くなり、肺が痛い。酸っぱいものが喉元に込み上げてくる。

 しかし、私の足は前へ動く。足元は、崩れない。その理由もわかっている。

 夫に会いたい。会って言わなければ、確かめなければいけないことがある。

 大きく息を吸い込み、私は速度を上げた。



 潰れかかったデパート。警備が甘く、施錠されていない非常階段を登っていく。登りきると、今はほとんど廃業状態の寂れた遊園地が見えてきた。夫が、私にプロポーズしてくれた、思い出の場所。

 やはり、ここにいた。破れたパラソルの刺さったテーブル椅子に、突っ伏した夫がいた。

肩が震えている。夫に向き合って座る。夫の鳴き声と私の息切れの音だけがしばらく続いた。

「……私ね、気づいたんだ。自分が、どんな人間か」

 少しずつ、息が整ってきた。

 嗚咽が少し小さくなった。

「自分勝手で、天邪鬼で、傲慢で。そのくせ自分と向き合おうとしない、すごく弱い人間だった」

 何かがこみ上げてきた。知らない、何か。

「変わって行くことを怖がって、なのにどこかでそんな自分を変えたくて、ごちゃごちゃなまま生きてたの」

 こみ上げてきたのが感情的なものだと気付く。初めての、知らない感覚。

「……ごめん、意味わかんないよね。多分、あなたに甘えすぎてたんだと思う。だから、知らないうちにあなたに凄い負担をかけてた。ごめん、ごめんね」

 こみ上げてきた感情が、胸いっぱいに広がる。たまらず上を見上げる。私は、この感情の処理の仕方が、わからない。

「でもさ、多分、多分としか言えないんだけど、私ね、ちゃんとね、あなたのことね」

 破れたパラソルの間から見える、半透明になった月がぼやける。頬に温かな違和感が流れた。

 ふいに両肩を掴まれた。夫がこちらを向いていた。目を真っ赤に腫らしているが、しっかりと私を見ている。夫の確かな腕の力を感じ、私にも嗚咽が生まれる。

 ああ、これが、悲しいってことか。やっと、夫の気持ちがわかった、気がする。

 そのまま私は抱きしめられた。夫が昔、指輪をくれたこの場所で、今度は悲しみをもらった。

 夜の帳が消えかける中、二人の慟哭は寂れた遊園地に響き渡った。


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