第2話


 買い物がてら、夫の病状報告に病院へ行くことにした。

「どうですか。何か、原因となるようなことはわかりましたか」

 前回と変わらない微笑みを浮かべながら医者が問いかけてくる。発症から二週間が経った。初めの一週間は毎日のように夫は泣いていたが、少し落ち着いたのか今は二日に一度くらいの発症ペースになっている。しかし、泣いている時の記憶はほとんどないようだ。

「いいえ。まだ、わかりません」

「……そうですか。まあ、難しい病ですので」

 私は医者のその言葉が「本当は夫のことなどわかっていないのではないか」というニュアンスに聞こえ、少し苛立つ。そんなことはない。

 私達は、七年間も一緒にいるのだ。

「間隔が空くようになっているのはいい事ですが、発症時の記憶がなくなってしまうのは、正直、あまり芳しくない症状です。泣きながら、うわ言のように何か話す例もあるのですが、旦那さんはいかがですか」

 何故夫は泣くのだろう。何故私は原因を見つけられないのだろう。私たちは知らず知らずの内に壁ができていたのだろうか。これまでは順風満帆だったはずなのに。

「……奥さん、大丈夫ですか」

「……あ。すいません」

 私の悪い癖が出た。考え事をすると、自分と世界を切り離してしまう。夫にもよく注意されてきた。

「だいぶ、お疲れのようですね」

「いえ、大丈夫です」

「世の病気全般に言えることですが、患者さんのご家族にも大きな負担がかかります。あまり、無理をなさらぬように」

 無理? もし本当にそう思うのなら、私は夫から離れているだろう。『本当に無理なことをしない』を信条に生きてきた私が今の夫といる。無理はしていない。

「ご心配でしょうが、ご自身のこともちゃんと考えてください。あなたが、自分を見失ってはいけませんよ」

「……はい、わかっています。でも、大丈夫ですから。またお伺いします」

 席を立つ私に、医者は憐れむような、慰めるような目を投げかけてきた。そんなに私の顔が情けなく見えたのか。そんなことはない。どんなに辛くても、痛くても、私は負けない。冷静に、その場面に向き合っていく。今回も、それは変わらない。

 病院を出ると、晴れ晴れとした青空が広がっていたが、私にはそれが嫌味な空に見えた。



 私は、昔から自分について何か表現してみようといった授業や風潮が嫌いだった。

 なんとなく、意見を持たないという生き方が一番私に合っていると思い、常にスクールカーストの中位に属し、いじめず、いじめられず、常に落ち着いた生活を心がけてきた。無理なことはしない、できることはきちんとこなす。俗に言う普通な女の子を目指して生きてきた。部活には入らず、万年帰宅部。友達は多くもなく少なくもなくだった。それが原因なのか、大きく興味を引かれたという経験もなく、夢と呼べるものも持ち得なかった。

 高校三年の夏の日、野球部の彼氏がいるという友達に連れられて野球場に行った。あと二回勝てば全国大会に出場できたそうだが、その試合で母校は大敗し、友達の彼氏はマウンドで泣き崩れた。どうしてあんなに泣くのだろうと思った。あんなに泣くくらいなら、夢なんて持たなかったらいいのに。

 隣を見ると友達も泣いていた。私は驚いた。

どうして泣いているの、とは聞けず、私は友達の背中をさすることしかできなかった。

 夢って難儀なんだな。そう思った。



「じゃあ、なんで東京に出てきたの」

 彼がジュースを飲みながら問いかけてくる。

 私たちはその日、デパートの屋上にある、寂れた小さな遊園地に来ていた。彼は「哀愁とノスタルジーを感じられる、ここの雰囲気がとても好きなんだ」と言った。

「さあ。私、自分がよくわからないんだもの。なんとなく来たかったのよ、なんとなく」

 まばらにいる親子連れがゴーカートで遊んでいるのを横目に、私もジュースをすする。

 ゆっくりと時間が流れている感じがして、どこか地元と似ているなと思う。

「いや。君はよく自分のことをわかってるよ。わかってるから、ここに来たんだ」

 ジュースを飲み干し、彼は微笑んだ。

「……意味わかんない」

「わかってるはずさ」

「理解不能。私たちもあれ乗る? 免許取ったし」

「そうやってすぐお茶を濁す」

「今飲んでいるのはジュース」

「はいはい。あ、そうだ」

 彼はポケットから小さな白い箱を取り出した。

「なにこれ」

「なんでしょう」

「時限爆弾。遊園地テロだ」

「そんな度胸あったら君の運転する車に乗るさ」

「……あなた、ここには『何かに挫折した時によく来る』って言ってなかった?」

「まあ、そうなんだけどね。これからそれを変えられたらなって」

 彼はゆっくりと箱を開けた。



 そこで、目が覚めた。私はそこから三年後に引き戻される。時計を見ると朝方の四時を回っていた。違和感を覚えて隣を見た。ぽっかりと空いた布団に微かな温もりを残して、夫は消えていた。私に行き先を告げずに。それは、結婚してから初めてのことだった。


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