慟哭症

髙木ヒラク

第1話

「慟哭症ですね」

「はあ」

 温和な笑顔を浮かべた医者の診断に、私はなんとも間の抜けた返事をした。夫の知り合いだというその医者は、小太りの体型に白衣をまとい、いかにもという感じがした。

「まあ、うつ病の一種ですな。ほら、最近引退した酒井ナントカって女優も同じ病気だそうですよ」

「へえ」

 その酒井ナントカという女優にピンとこない。またもポカンと返

事を返す。

「症状としては、いきなり泣き出す。ただそれだけなのです。しかし、その泣き出す以外はまったく健常者と一緒なんですね。そこがうつ病とまた違ってやっかいなのですが」

 私としては、うつ病の人も普通の人もあまり見分けが付かないの

だが、とりあえず頷く。

「今は安定剤ですこしぼんやりとしておられますが、意識がはっき

りしたら一緒に帰ってもらってもかまいません。病院にいる方が悪

化しかねませんからね」

 病室で横になっている夫の顔を思い浮かべる。目の周りを真っ赤に泣き腫らしたその顔がまるで狸やパンダの様で、私は思い出し笑いをかみ殺した。

「旦那さん、最近変った所はありましたか」

「いえ、特に」

 むしろ、最近はよく夫の笑顔を見ていた気がする。何かに悩んでいた素振りは見ていない。

「そうですか」

 医者は唸って、たるんだ顎をさすった。

「……それで、私はどうすれば」

「おかしなこと言う様ですけどね、旦那さんのことをもっとよく知ってあげることです」

 なるほどおかしい。私は、夫の妻なのだ。知らないことなどあるはずがない。

「慟哭症の明確な治療法は一つ。周りが患者のことをきちんと理解して、何が悲しいのか突き止めてあげることが大切です。」

「……わかりました」

 なんだ、それなら簡単だ。私は、夫のことをよくわかっている、自分のこと以上に。少し晴れた気持ちになって、診察室を後にした。



 心地の良い風が吹く、病院から家までの静かな帰り道。緩やかな坂を泣き腫らした目の夫と二人で歩く。

 病院で目を覚ました彼は、鏡を見るなり笑い始めた。ひとしきり笑った後、夫はいつもの笑顔で「帰ろう」と言った。

 何か大きな出来事、繰り返しの日常では起こりえないことがあっても、私たち夫婦はあまり取り乱さない。大袈裟な反応をせず、冷静に、日常と変わらない態度で過ごす。それは私たちの暗黙の了解のようなもので、似ているところでもある。

「ビックリした?」

 夫はいつもの笑顔で私に言った。

「…まあまあ」

「僕は結構ビックリしたな、慟哭症だなんて」

「晩ご飯、どうする?」

「んー、昨日カツだったから、さっぱりめで」

 からりとした調子で会話をしながら、私は夫の顔を斜め上に見上げる。

 夫の身長は百七十五センチ、体重は、一ヶ月前と変わっていなければ六十八キロ。私より十五センチ高く、二十三キロ重い。歳は私より四つ年上の三十歳。男ばかり四人兄弟の長男で、一人っ子の私はとても羨ましく思う。出身は神奈川で都会生まれ都会育ち。鳥取の片田舎で育った私とは、これまでの人生で見てきたものが大きく違うだろう。

 生まれも育ちも、体も大きく違っている私たちがこうして夫婦になっている。多分、心だけはちょっと似通っている。変だなと思う。

「なんだよ、じっと見て。目つき悪い。田舎ヤンキー」

「狸に言われたくない」

「せめてパンダにしてくれよ。そっちの方が可愛いだろ」

「いや、やっぱり狸。狸のほうが可愛い。……そういや昔、家の前に車に引かれた狸が横たわっていたな」

「嫌なこと言うな」

 二人で笑って、どちらからともなく手を繋ぐ。これからも二人は変わらない。私が変わらなければ夫も変わることはない、はずだ。慟哭症なんてすぐに直る。

 辺りは夜の帳が降り始め、風は少し冷たくなった。



「慟哭症の原因というのは、Es、つまり深層心理だとか、自我の無意識部分のなんらかの異常が起因であると言われています。患者本人もうまく説明できない部分が影響しているのです。普通の鬱病は人間関係や環境など、明確に嫌だといえるものがあったりするのですが、慟哭症はそうはいきません」

 医者の言葉を頭の中で反芻しながら食器を洗う。夫は泣き疲れが出たのか早々と床に入り穏やかな寝息を立てている。明日になったら目の腫れは取れているのだろうか。

 ソファに座り、ホットミルクを飲みながらゆっくりと思い出す。結婚して三年、出会って七年近く。私は、私なりに、夫も、夫なりに、お互いきちんと向き合って生きてきた、はずだ。

 しんとした夜の空気を少し震わすように、遠くで電車の音がした。



 東京。田舎の若者が意味もなく崇める地。

十九歳の私はなんとなくそこにいた。やりたいことも学びたいことも特に見つからず、高校時代にバイトで貯めたお金を持って、半ば家出に近い形で地元から出てきた。親とは大喧嘩をしたが、今はもう会うこともない。

 自分が田舎者だから慣れていないのか、東京の人の多さに辟易していたが、そんな悩みも東京に出てきた高揚感で少しずつ消えていった。家賃四万半ばで六畳ほどのアパートを借り、私は都会生活をスタートさせた。

 生活費を稼ぐため近場の居酒屋でバイトを始めた。コンビニで高校三年間真面目に働いた経験があるので、接客業には自信があった。そして、なんといっても居酒屋バイトには賄いが付いている。時にはタッパに詰め込み、節約家と貧乏性の生活を謳歌した。

 しばらくして、新人が入ってきた。新人と言っても私より年上の大学院生らしい。仕事の覚えが早いねと店長に褒められていた私はその新人の教育係になった。人に教えるのは改めて仕事の確認にもなる。私は、その新人に仕事を教えるのがとても楽しかった。

 ある日、閉店後にバイト仲間と新人が談笑をしていた。どうやら新人をじっと見つめていた客がいたらしく、その女の子が新人に好意があるのではないか、と盛り上がっていた。

 私も意味もなく人を見つめてしまう癖があるので、その客に少し共感を抱きながら、話の外で新人の顔をぼんやり見つめていた。

「どうしたの? 僕の顔になんか付いてる?」

 視線に気付いた新人が私の方を向く。周りの仲間達は「こいつもお前に興味あるんじゃないの」などとはやし立てている。

「鼻が付いてるなんてベタな返しはなしな」

「……というか」

「というか?」

「目玉なら付いてるって言えるかもしれないけど、鼻はどちらかといえば生えてるよね」

 バイト仲間はポカンとした。新人は少し面食らった顔をした後、肩を震わせ笑いだした。

「…うん、それ、僕も思ってた」

 私も笑った。ちょっとした共感だった。ほんの一瞬、私達二人だけの世界になった。バイト仲間達は白けて、「帰ろ帰ろ」と店を出ていった。私たちはそのまま残って色々と話をした。バイトのこと、都会のこと、田舎のこと、親のこと、これまでの思い出。楽しかった。

 それから四年後、その新人は、私の夫となった。



 妙な音で目が覚めた。

 いつのまにかソファで寝てしまっていた。首を傾けたままで寝むっていたせいで頸椎が痛む。首回りを揉みながら、音に耳を澄ませる。どうやら寝室からのようだ。寝ぼけ眼で寝室の扉を開ける。夫が泣いていた。私の頭は完全に覚醒して、夫に駆け寄り抱きしめた。

「ねえ、大丈夫?」

 夫はいやいやと頭を振り、嗚咽のボルテージを上げた。慟哭症だ。初めは仕事場で発症しているので、今回が二度目。しかし、私には初めての場面。

「ねえ、どうして泣くの?」

 夫の名を呼び、問いかける。だが答えは返ってこず、夫はただ、ただ泣くばかり。

「仕事がつらいの? 何か問題でもあった?  誰かと、喧嘩とかした?」

 夫は泣いている。

「……もしかして、借金とかあるの? 大丈夫だよ、私も一緒に頑張るよ」

 夫は泣いている。

「私、何かいけないことしたかな。……私のせい?」

 夫は、泣いている。

 本当に、この人は夫なのだろうか。言い知れぬ感情が湧き始める。意思疎通ができない、今まで見たことのない夫の姿に、私は動揺する。……動揺? 私達はこんな時冷静に過ごしてきた、はずだ。私が取り乱してはいけない、変わってはいけない。夫を守らなければ。

 夫は泣き続けている。このままでは涙と共に溶けて消えてしまうのではないだろうかと思ってしまうくらいに。

 夫の嗚咽とともに伝わる振動。そこから生まれる微かな一体感を頼りにして、私は確かめるように、夫をもう一度強く抱きしめた。



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