第七章 天地不仁(5)


           5


「ミナスティア国には、馬はいないんでしょうか」


 オダの言葉を、鳩がシーッと遮った。唇の前に指をたて、「声が大きいわ」とたしなめる。ニーナイ国の青年は慍然むっとしたが、トグルを観て声を落とした。

 草原の男は、食事も摂らず愛馬につき添っている。雉は彼の体調も気にしていた。

 ニーナイ国から連れて来た駱駝ラクダは、暢気に草をんでいる。草原の馬は四頭とも活気がなく、食も進まない様子だ。


 雉はいそいで考えた。

 シェル城下でトグルが倒れたのは、ただの貧血ではなかったのかもしれない。あの時、既に彼の身体の変調は始まっていて、雉と鷲の能力に支えられているから、ここまで来られたのかもしれない。馬たちには、そんな支えはないのだ。

 今トグルの身を傷つけたら、どうなるのだろう。――雉は恐ろしくなった。これは、〈草原の民〉とあの地方で生息する生物種に関わる問題だ。しかし、自分の考えが正しいのかどうか、確かめる術はない。

 雉は溜息をつき、不安げな鳩とオダを顧みた。


「おれに分かるのは、あの駱駝と神矢ジュベたちは違うってことだよ」


『そして、鳩。お前とトグルも、多分ちがう』思ったが、口に出す勇気はなかった。トグルがそれを知っているのなら、尚更だ。

 鳩は、要領を得ない雉の説明に唇を尖らせたものの、トグルに遠慮して黙っていた。

 オダが首を傾げた。


「どういう意味ですか? 雉さん」

「雉どの」


 雉が悩んでいると、後方から声をかけられた。キイ帝国の青年兵が帰って来たのだ。サートルは、筋肉の発達した太い腕に、薪となる小枝と馬に与える草の葉を抱えていた。

 雉は、ほっと息を吐いた。


「おかえり。ご苦労様」

如何いかがですか?」


 雉は肩をすくめて応じた。サートルは眉根を寄せて黒馬を見遣り、小枝と草の束を足元に置いて長身を屈めた。


「……ご相談が」

「おれに?」


 珍しいと思いながら、雉は耳を傾けた。オダも顔を近づける。サートルは、低い声をさらに低くした。


「私たちの後をけて来た者がいます。如何しますか?」


 雉とオダは、息を呑んで顔を見合わせた。


 

 神矢ジュベはブルル……と鼻を鳴らし、主人の掌に額をこすりつけた。優美な曲線をえがく首は、びっしょり汗に濡れている。熱が上がっているのだ。

 トグルは無言で彼の首を撫でてやる。隣では、葦毛ボルテも心配そうに仲間の背を嗅いでいた。

『なんて目をするのだろう……』 その様子を眺めながら、鳩は密かに切ない想いを噛み締めていた。トグルの表情は険しいが、馬たちを気遣う眼差しは本当に優しい。水を吸った苔のようにやわらかく、物悲しい翳が宿っている。彼がこんな瞳を向けるのは馬だけだと分かっていて、鳩の胸は、ちくりと痛んだ。


「お前は、大丈夫か?」


 突然、トグルが話しかけてきた。深い声に、鳩はどきりとした。


「う、うん。蒸し暑いけど、大丈夫」

「そうか……」


 トグルは溜息まじりに囁くと、己の思索に戻った。鳩は、どきどきする胸を両手で押さえ、その横顔を見守った。


「トグル」


 雉の声が近づき、トグルは視線を上げた。オダが彼の前に片方の膝をつく。サートルの長身が黒い影になってそびえている。


「さっき通った村から、おれ達の後をけて来た者がいるらしい。お前と鳩とおれは、容姿すがたがこうだから、オダとサートルに話をしてもらおうと思う」


 トグルはひょいと顎を上げ、物憂い口調で答えた。


「……その気遣いは無用のようだぞ、キジ」


 ひるまの熱を含んだ風がざわめき、木々の下に溜まり始めた闇を動かした。

 黄金の夕陽を反射して、きらりと刃が光った。鳩が悲鳴を呑み、トグルはすうっと眼を細めた。サートルの硬い声と、聞き慣れないしわがれ声が重なった。


「止まれ」

「何者だ?」


 剣を抜いて牽制し合う人影を見て、雉は立った。呆然と呟く。


「シジン……」

「シジンさん?」


 オダも声をあげた。

 トグルは、緊張する愛馬の肩に手をのせた。鳩は頭から被布かずきをかぶり、神矢ジュベの陰に身を隠す。

 捜す手間が省けたと歓ぶべきか、事態が更に混乱したと嘆くべきか。『――そういえば。こいつとは、以前もこうだったな』 思って、トグルはふとわらった。



「雉、オダ?」


 シジンは、片方だけの腕に持っていた剣を下ろした。エセル達は、トグルと雉の容姿に驚いている。

『鷲が来ているのだ。雉がいても、不思議ではないか』 ぼんやり考えてから、シジンは我に返ってひざまずいた。

 エセル=ナアヤとサートルは、場の緊張が萎えたのを察して、ほぼ同時に武器を収めた。シジンについて来たのは、エセルを含め十人ほどの地主と護衛ナアヤたちだ。

 トグルは冷ややかにたしなめた。


「俺は、貴様に跪かれる理由はないと思うぞ。神官ティーマ

はいラーテュメン……」


 しかし、シジンはすぐには面を上げられなかった。間接的にではあっても、ずっと彼に支えられてきたと感じるのだ。以前と全く変わらない緑柱石ベリルの双眸を仰ぎ、シジンは改めて叩頭した。その態度を観て、仲間たちがざわめいた。


ラージャン?」

王族ムティワナか。この方が?」


 貴族とはいえ、皆が王家の近くで暮らしていたわけではない。王族は黄色い肌と黒目黒髪をもつということ以外を知らない人々が、誤解するのも無理はない。――シジンが訂正する前に、トグルが説明した。


「ムティワ族ではない。俺は、トグルート族のディオ・バガトルだ。こちらはキイ帝国のリー将軍の麾下きかで、セム・サートル。ニーナイ国のオダ、〈黒の山カラ・ケルカン〉の天人テングリ……。シジン=ティーマとは面識がある」


 シジンが首肯し、エセル達は静まった。草原もキイ帝国も彼等にとっては遙か遠い国々だが、育ちのよい男たちらしく賓客に礼を示した。

 トグルは坐ったまま答礼し、嘆息した。


「悪いが、馬たちが弱っている。場所をかえて貰ってよいか?」



            *



 紫の夕闇を揺らして、炎が燃える。パチパチと薪がはぜる度、緋色の粉が周囲に散った。

 シジン達は一行を近隣の地主の屋敷に招待しようとしたが、トグルが難色を示した。馬たちに負担をかけたくなかったのだ。それで、彼等は木々が少し開けたところに火をおこし、それを囲んだ。セム・サートルが神矢ジュベたちの護衛に立った。

 雉が香草茶を淹れて一同にふるまい、オダとシジン達は互いの近況を報告した。

 ミナスティア国ではラージャンたおれ、レイ王女をのぞく王族の血は絶えた。貴族の一部と奴隷達が叛乱を起こし、王都は壊滅した。熱病が流行し、逃亡した奴隷が盗賊タゴイットとなって村々を襲い、地主達は治安を維持できなくなっている。――ナカツイ王国を通じて得ていた情報がほぼ正しかったことを、オダ達は確認した。


 トグルは黙って話を聴いたのち、焚き火をはさんで地主たちと対峙した。


「ナカツイ王国とニーナイ国は、難民の流入と熱病の蔓延まんえんおそれている。〈黒の山カラ・ケルカン〉の《星の子》の提案により、各国から食料と薬品、日用品などの支援がこちらへ向かっている」


 エセル達は顔を見合わせ、一様に安堵の息を吐いた。シジンが代表して言う。


「かたじけない。心よりお礼を申し上げる……。御覧のとおり、我が国は、内乱と疫病で荒れているのです」


 トグルはかるく相槌をうった。


「そのようだな。国境を越えて戦乱が拡大し、犠牲の増えることを、我らは憂いている。早急に、元奴隷民との和解を要求する」


 ミナスティア国の男達は、縦に揺らしていた頭の動きを止めた。壮年の男が、慎重に繰り返す。


「和解、ですか?」

「そうだ」


 オダは先刻から背筋を伸ばして口を開け、躊躇っては坐り直していた。トグルは目顔で彼を制し、平静に続けた。


飢饉ききんと熱病によって困窮し、身分の解放を求めて逃亡した奴隷民たちだ……。罪をゆるし、自由民たるを保障して帰還をうながすがよい。さすれば、国外に逃れた難民も、賊徒ぞくとと化した者たちも、戻ってくるだろう」


 オダが「うん、うん」と肯いている。雉はいささか性急ではないかと思ったが、案の定、エセルと呼ばれた若い男が声をあげた。


「お待ちください」


 男の片頬には大きな火傷の痕があり、雉は目をすがめた。


「奴隷が農地を棄てて逃亡することも、盗賊行為をはたらくことも、この国では犯罪です。それを咎めず、赦免せよと?」

「待遇に不満があったからだろう」


 トグルはさらりと言い返した。シジンは、じっと彼の顔を凝視みつめている。


「考えてみろ。罪を許されず、戻れば罰せられると承知して、帰って来る者がいるか? それでは争いはいつまで経ってもおさまらず、病もとどまることはない。それに、」


 トグルは横目でシジンをみた。


「――身分制度は、ムティワナ王家がこの地の民を支配するために設けたものと聞いている。王族が絶えた現在、維持する根拠はなかろう」


 シジンは藍色の眸をみひらいた。他国の者にはそう受け止められているのかと。トグルは彼に、微かに顎を引いてみせた。

 エセル=ナアヤは決然と面を上げた。


「王はおられる!」


 トグルは眼を細め、やや厳しい口調で言った。


「……レイ=ムティワナに帰国の意思はないぞ」

「王配がいらっしゃる。ルドガー神の加護をうけ、新しいラージャンになられる方だ」


 雉は、『あ……』と思った。シジンは頻りにエセルの袖を引いている。


「鷲に会ったのか? 王配って。まさか、あいつを王にするつもりか?」


 シジンは苦虫を噛み潰したような顔をして肯いた。雉は、ぽかんと口を開けた。

 数秒間、沈黙が場を支配した。

 それから、低く、地を叩くような音がした。トグルが笑いだしたのだ。草原の男は、呆気にとられる一同の前で脇腹をおさえ、肩をゆらして耐えようとした。


「失礼……」


 我慢できず、なめらかな声をあげて笑いだす。いったい何を想像したのか、雉も苦笑するしかなかった。

 エセル=ナアヤは赤面して抗議した。


「そんなに可笑しなことか?」

「いや、スマナイ。真面目な話なのだな……。だが、これほど似合わぬものはなかろう、キジ」


 トグルはもはや眼尻に涙まで浮かべている。雉は表情の選択に困った。


「鷲は貴方がたのところにいるのか? これは、あいつも承知した話なのかい?」


 シジンはかぶりを振った。


「いや――会ったが、はぐれてしまった。今は何処にいるか分からない。王位の話も、していない」

「本人に訊いてみないと分からないけどさ。無理じゃないかなぁ、と、おれも思うよ」

「そうか?」


 シジンが静かに訊ね返す。雉は、優雅に肩をすくめた。


あいつは自分の目的にしか興味のない奴だからね……。国王なんて面倒な仕事、頼まれても引き受けないと思う。鷹ちゃん――おれ達は、レイ王女をそう呼んでいるんだ。――ととびを背負って王宮の窓から逃げ出すくらい、やりかねないよ。前例があるんだ」


 エセル=ナアヤと数人の男達は、こぼれ落ちんばかりに眼を見開いた。シジンは神妙にうなずいた。

 トグルが、くつくつ笑って言った。


「やったのか?」

「キイ帝国のカザ砦でね。お前に会いに行ったときだよ」

「ああ、あれか」


 トグルは愉快気に、ハッと息を吐いて笑い続けた。彼の体調を心配していた雉は、その様子に安堵した。


「待ってください。今、そんなことを言っている場合ですか」


 ニーナイ国の青年が、業を煮やして言った。


「病気の人がいるんでしょう? 亡くなっている人が。誰を王にするかなんて話している場合ではないでしょう」


 シジンとエセルは顔を見合わせた。シジンが眼を伏せ、自信のない口調で応えた。


「オダ。我われは、集団としてまとまっていないのだ。盗賊たちタゴイットは、熱病に罹った者も連れ出している。何とかしたくても、我われを率いてくれる者がいない」


『だから、王が必要なのだ』 というエセル達の主張を再認識して、シジンは項垂れた。青年の自由が羨ましい。『俺達は、まだ奴隷だ……』


「だったら――」

「オダ」


『あなたが率いればいいじゃないですか』言いかけたオダの腕を雉が引き、青年は唇を噛んだ。確かに、これでは言い掛かりだ。それが出来ていれば、こんな事態に陥ってはいない。

 笑いを収めたトグルが、胸の前で腕組みをして、ぼそりと問うた。


「来るのが早すぎた、か……?」


 シジンは彼に弱々しく微笑み、雉とオダに頭を下げた。


「〈黒の山〉にまで心配をおかけし、申し訳ない。支援の申し出は、本当にありがたい」

「おれ達は好きでやっていることだから、謝ってもらわなくてもいいけど……。オダの意見に、おれも賛成だ。こうしている間にも、死んでいる人がいるんだろう」

「それは承知している」


 オダは感情を抑えるために深呼吸をしたが、声には怒りが混じっていた。


「変ですよ。民の命より、王の方が大事ですか? 叛乱を起こした人々のところに病気の人がいるなら、何故、行って助けないんですか」

「奴等は奴隷ネガヤーだ」


 シジンや雉より早く、エセルが言い返した。藍色の瞳が、炎を反射して煌めいた。

 雉はオダの腕を掴む手に力をこめたが、青年を止めることは出来なかった。


「だから、何だと言うんです?」

「盗賊に手を貸せと言うのか。人殺しに? 奴等が国を壊したのだぞ」

「貴方たちが追い詰めた所為じゃないですか。自分達は全く悪くないとでも? 僕に言わせれば、人が人を奴隷にするなんて間違っている!」

「貴様に何がわかる!」


 エセルの瞳が殺気を帯びた。片手が剣把に触れる。

 シジンは相棒の肩に手を置いた。


「よせ。エセル……」

「小僧。生まれながら人生を定められた者の気持ちが、貴様に解るのか。歯をくいしばって土を耕し、水を運び、育てた食糧を奪われた者の気持ちが。家族を殺された者がその台詞を聞いたら、どう思うだろうな」

「何ですって?」

「オダ」


『何とかしてくれよ』 雉は、助けを求めてトグルを見た。愛想なく無関心を決めこんでいると思った男は、何故か苦笑していた。『感化したのは、お前達だろう』と、その眼は語っていた。

 トグルは悠然と青年を呼んだ。


「オダ」


『どこかで聴いたような問答だ……』 呼びながら、トグルは自嘲気味に考えた。


「控えよ。援助をするために来たのではないのか、お前は。非難してどうする」

「ですが、トグル」

「言いたいことは解る。が、間違えるな。ここは、お前の国ではない」


 短い言葉は、青年の胸に、ずしり、と響いた。

 エセルは真っすぐ彼を睨んでいる。

 鳩はハラハラと、セム・サートルは興味ぶかく成り行きを見守っていた。やがて、オダは視線を下げ、項垂れ、こうべを垂れた。


「スミマセン……。使者の立場を超えた発言でした。お許し下さい」


 エセルはフンと鼻を鳴らし、剣から手を離した。

 シジンと雉は、思わず同時に嘆息し、顔を見合わせて苦笑した。オダの気性は知っている。悪気は全くないのだが、熱心さのあまり、いつもちょっとだけ出過ぎるのだ。

 トグルは淡々と告げた。


「話を戻そう。……内乱の結果がどうなろうと、ニーナイ国と〈黒の山〉の、援助の意志は変わらぬ。〈草原〉も」


 雉はうなずき、シジンは草原の王に一礼した。エセルは、彼等を怪訝そうに眺めた。

 トグルは普段の無表情に戻り、他人事のように続けた。


「くりかえすが、ここは実利をった方がよいぞ。間もなく、ニーナイ国とキイ帝国の支援部隊が到着する。ナカツイ王国からも、物資を運ぶ隊商カールヴァーンが来るだろう。――見ての通り、ニーナイの民は、こちらの奴隷民の容姿に似る。同族が虐げられているさまを観て、快く思う者はなかろう。ナカツイ王国から戻る難民もだ。……そして、〈草原〉はニーナイ国を支持する」


 オダがぱっと顔を上げた。一方、エセルはやや口惜し気に目線を下げた。彼等の反応には構わず、トグルは続けた。


「王権の復活に固執して内乱の終結を遅らせれば、熱病の犠牲者が増える。周辺国の心証は悪化し、よしんば再統一を成し遂げても、良好な関係は結べなくなるだろう……。どちらが貴国の将来にとって益か、よく考えて欲しい」

「わかりました」


 シジンは頷き、再びそっと訊ねた。


「貴方は、どう思われますか?」


 先刻とは異なる質問の意図を察し、トグルは眼を閉じた。しばらく考えてから、呟いた。


「俺は、キジほど長く奴と付き合って来たわけではないがな。俺の知る、ワシという男は……上にびず、下にへつらわず。群れず、率いず、徒党を組まぬ。――いわば、己ひとりをべる王だ。誰も支配せず、誰にも支配されない」


 眼を開け、怜悧なまなざしを彼に当てると、フッとわらって付け加えた。


「お前も、解っているのではないか……?」





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