第四章 古老の凱旋(5)


         5


 タァハル部族の男達が去ると、天幕の中はまた静かになった。緊張は消え、ひと仕事終えた安堵感が場をひたす。やがて、オロス氏族長が、ゆたかな顎鬚を撫でて呟いた。


「《星の子》は、スーの砦におわすのだな?」


 訊くというより確かめる口調に、一同の視線が集中した。


「砦に迫っているオン大公の軍をどうする。《星の子》をお救けしなくてよいのか?」

「あの方を傷付けることは、何人なんぴとにも出来ない……」


 ぼそりと答えるトグルの唇に、憂鬱な気配がただよった。


「救けるも何も。我々が滅びようが、リー女将軍が殺されようが。《星の子あの方》は、痛くも痒くもなかろう」


『どういう意味だ?』 隼は柳眉をくもらせ、トグルの横顔を見詰めた。先日来、彼は似た言葉を繰り返している。その意味を問いただせないまま、時間だけが過ぎている。


「オン大公を、どうなさるおつもりか?」


 オロス氏族長に代わって、オルクト氏族長が訊ねた。不遜に笑う従兄を、トグルは眼をすがめて顧みた。


の国を奴の手に任せるのか? 国境際のハル・クアラ(部族)だけで防ぎ切れるとお思いか」


 トグルが珍しく困っているように、隼には観えた。彼は、唇を歪めて言い返した。


「もってまわった言い方をするな、安達アンダ。貴公は俺に、キイ帝国に攻め入れと言うのか。長城チャンチェンを越え、皇帝の親衛軍と戦えと?」

御意ラー


『御意、ではない……』 満足げに嗤う従兄にトグルは絶句した。オダが眼をみはっている。背後で隼が息を呑む気配がした。

 男達の表情は変わらない。トグルは、氏族長会議クリルタイがしめし合わせていたと察し、苦虫を噛み潰した。従兄オルクトに横顔を向け、反論を試みる。


「そんなことが、出来ると思うのか?」

「無論です」

「《星の子》が許可すると?」


 トグルは、仲間のうちに居て、初めて息苦しさを覚えた。

 隼は戸惑いつつ、トグルからオルクト氏族長へと視線を移した。いつもはトグルの頼もしき味方である彼は、運命を承知するかのごとく嗤っていた。


「王よ。今の我々なら可能だ。タァハルとタイウルトを征し、後顧の憂いは取り除いた。今こそ、全軍をもってキイ帝国に侵攻し、大公と皇帝を倒す時だ。フェルガナからブルカン嶽におよぶ我らの草原の平和を手に入れるのだ。――ディオ」


 名を呼ばれて、トグルは彼をみた。そうして、従兄のふてぶてしい風貌に似合わない真摯な眼差しに気付いた。


「お前は知っているはずだ。生きている限り、大公あの男は同じことを繰り返す。我らを地上から消す為なら、どんなことでもするだろう。ディオ。昨年お前が援けたリー女将軍と大公の均衡は、既に崩れた。大公が帝国を完全に掌握する前に、お前が奴を倒せ」

「…………」

「待って下さい。貴方がたは、一体――」

「オダ」


 焦るオダを、雉が小声で遮った。抗議の目を向ける少年に、頷いてみせる。

 トグルは眉間に皺を刻み、項垂れている。その横顔があまりに真剣だったので、オダは言葉を呑んだ。


 トグルは革の手袋をはめた手で口元をおおい、呟いた。


「俺には、権限が無い」

「否、テュメン(王)」


 オルクト氏族長に代わり、〈森林の民〉の長が重々しく答えた。

「我々ノ盟約ハ、生キテオリマス。クリルタイ(氏族長会議)デ貴公ガ述ベラレタ口上ヲ、忘レテハイマセン。――我等ノヲ駆逐シ、民族ノ存続ヲ図ラント。ソノ為ニ、同ジ血ニ連ナル我等、盟約ヲ結バント」


「全軍のおよそ四割の力で、タァハル軍を倒したのだ」

 オロス氏族長が、白いものの混ざる髭を撫で、鷹揚に告げた。

「少しは、われら北方諸族にも功を立てさせてくれ」


 オルクト氏族長は、大袈裟な身振りで両腕をひろげ、荘重な物語のごとくうたった。


「我等トグリーニ、九百年に渡る歴史で、これほど多くの氏族をまとめあげ、大軍を指揮し得た盟主トグルは存在しない。これからも現れぬだろう。……ディオ。お前は、最初で最後のテュメンとして、やらねばならぬことがあるのではないか」

「……………」


『トグル……』 隼は胸が痛んだ。彼が苦しんでいるように見えたのだ。草原を平和にするため、自他を傷つけながら戦い終えたのに、今度は大公と戦え、とは――。

 トグルは、ふいに視線を上げた。


「待て、トゥグス。……出産が始まるぞ」


 彼がこう言った途端、天幕にいた男達(つまり全員。オダと雉も)の視線が自分に集中したので、隼は大いに動揺した。思わず、トグルの背から掌を離す。火を点けられたように身体が熱くなった。

 トグルは舌打ちした。


「違う。のだ……。イリ(トグリーニ部族の縄張りの草原)でも、ハル・クアラ部族の庭でも、そろそろ五畜(馬・羊・山羊・駱駝・牛)の出産が始まる。戦さどころではないぞ」

「家畜……」


 オルクト・トゥグス・バガトルは、黒い目を大きくみひらき、やや呆然と呟いた。

 家畜とともに生き、移動するのが遊牧民だ。春は、一斉に仔が産まれる。羊や馬の出産をたすけ、搾乳する。若い牡馬の去勢を行い、一歳馬には焼き印をおす。羊の毛を刈り、新しい毛氈フェルトを作り――自由民アラド隷民ハランも、一年で最も忙しく働くのだ。

 トグルは、思い出してくれてほっとしたと言わんばかりに続けた。


「兵士たちは気もそぞろだろう。とにかく、一度は還らねば話にならぬ。キイ帝国を攻めるとしても、秋以降だ。」


 氏族長たちは顔を見合わせ、仕方がないと言う風に頷いた。オルクト氏族長は椅子の上で胡坐を組み、苦笑して肩をすくめた。


御意ラー

「《星の子》に目通りを願おう。我らの身の振り方を考えるのは、それからだ。……貴公らの考えは判った。今日は下がってくれ」


 王の言葉に、氏族長達は口々に挨拶をして席を立った。最高長老トクシンとジョルメ若長老も、一礼して部屋を出る。

 シジン=ティーマは、シルカス・アラル氏族長の案内に従った。オダ少年はトグルと話したそうな素振りをみせたが、雉に促されて諦めた。

 そうして、天幕には、トグルと隼が残った。



 トグルは肩を落とし、足下の絨毯を見詰めていた。隼は、彼にかける言葉を探したが思いつかず、ひどく疲れている彼の背に触れようとした。


「済まない……」


 トグルは彼女を振りかえらず、濁った声で囁いた。隼は胸をかれる心地がして、手を止めた。


「奴らがあんなことを言い出すとは、予想していなかった。……お前にも、失礼なことを」

「直接言われたわけじゃない。気にしないよ」


 トグルは左手で顔をおおい、「ゆるしてくれ」と呟きながら、かすかに首を横に振った。隼は、そっと彼の肩に手を載せた。


 オダも不安がっていたのだ、オルクト氏族長達の懸念は理解できる。オン大公は、いつまた揺さぶりをかけてくるか分からない。

 トグルが、いつまで王としてやっていけるかも……。

 自分は彼等から期待される立場にいると、隼は承知していた。トグルはそのために、タイウルト部族の娘をめとっていたのだから。――彼女が死に、彼が他の女性に関心を示さない以上、そういう話になるのは仕方がない。

 隼に拒否感はなかった。トグルの傍にいられる現在の状況に、不満はない。けれども、彼の気持ちは解らない。

『望んでいるのだろうか?』

 隼は、狼を思わせる精悍な横顔を見詰めた。「この地を平和にしてから、迎えに行きたかった」と言っていた。目標は達成したが、彼が今後も彼女と一緒に生きていこうと思ってくれているのか、隼には判らなかった。……むしろ、未だに彼女を〈黒の山〉へ帰そうと考えているのではないかと、感じるときがある。

 自分は、鷹やミトラほど女性として成熟した身体をしていない。月のものは不規則で、最近は戦場にいるせいか、さらに間遠くなっている。だから、簡単だとは思わないが、もし――。

 彼が喜んでくれるのか、不安だった。


 ふと、隼は右手が温かくなったことに気づいた。トグルが彼女の手に片手を重ねたのだ。剣胼胝のある小さな手をいたわりをこめて撫で、囁いた。


「大丈夫だ……。こちらからキイ帝国に攻め入るつもりはない。氏族長会議クリルタイは、俺がきちんと説得する」

「うん……」


 隼は、泣きたいように感じた。

 トグルは身体ごと振り向くと、立ったままの彼女を抱き寄せた。ほそい背に腕をまわし、決して豊かではない胸に顔を埋める。隼は、短くなった彼の黒髪を指で梳き、かき撫でた。唇を寄せ、『いまはこれで充分だ』と思う。

 優しくなった、トグルは。否、もともと優しい男だが、それを彼女に見せてくれるようになった。仮面のような無表情でおおい隠し、凍らせていた感情を――迷いや悲しみも、喜びや信頼とともに。

 かつてはタオやジョクといった限られた相手にしか示さなかった、彼のもろく柔らかな部分だ。隼は、今なら理解できた。トグルは、そうならなければ生きて来られなかったのだ。過酷な戦場で、民を率いる重責のなかで。

 今では、氏族は勿論、平和を望む彼女のため、共存を望むオダ少年のために、努力してくれている。

 これ以上、望むことはない……。


「……ハヤブサ」


 トグルは顔を上げると、吐息で彼女を呼んだ。頭の後ろに手をまわし、唇を重ねる。次第に深くなる口づけと抱き寄せる腕の熱に応えながら、隼は、己の得たものの大きさに震えた。

 自分は、確かにトグルを得た。けれども、自分達が得たものは、なんと貴重でかけがえのないものだったろう――。





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