第四章 蜃気楼 燃ゆ(6)
6
「で。どうするつもりなんだ?」
二日後。
いぶかしむ鷲に、前後左右の大きな氏族長は、ゆさゆさ腹を揺らして笑った。
「
鷲は彼の意図が判らず、片方の眉を持ち上げた。
捕虜の二人は、顔を見合わせた。不安げな顔に、わずか、血の気が戻る。
オルクト氏族長は、牽制するように彼等をねめつけた。
「身内から密通者を出したハル・クアラ部族は、肩身の狭い思いをしている。オン・デリク(キイ国の大公)が親征を開始した今、アルタイ(山脈の名)の東で待機している
「
呆れ声の鷲に、オルクト氏族長は、ふさふさの口髭を動かして答えた。
「
「そうか……」
鷲の眼に穏やかさが戻る。安堵したのだ。
話を聴いていた雉と鳩、赤ん坊を抱いたオダ少年、レイと並んで座っている隼の表情も、和らいだ。
雉が、優美な
「キイ帝国の大公が?」
「
隼は頬をひきしめ、冴えた眼差しを氏族長へ向けた。
オルクト氏族長は、一同の顔を順に眺めてから、隼に説明した。
「言う必要のないことと考え、黙っていたが。――
「…………」
「タァハル部族は、キイ帝国と通じている。連中を使って我々の邪魔をするのが、キイ帝国の
「…………」
「我々を倒し、最終的にはタァハル部族をも滅ぼして、ニーナイ国を手に入れるのが目的だ。それを察して、
隼は真顔で話を聴いたのち、かすかに眼を
鷲が、顎をしゃくって訊ねる。
「それじゃ、いいのかよ? こいつらを返しちまって」
オルクト氏族長は苦笑した。
「何を言う。そうさせたのは、お前ではないか。
「俺?」
鷲は、瞬きを繰り返した。氏族長は厚い胸をふるわせ、笑声をころがした。
「
ちなみに。鷲が『運んだ』タイウルト族の女性と子ども達は、
「……成る程」
しばらく言葉の意味を考えた後で、鷲は
「
「トゥグス
ユルテの扉を開けて、タオが顔をのぞかせた。レイ達に会釈をする。
「
「おっと、俺も行かせて貰うぜ」
ゆらりと足を踏みだす鷲を、オルクト氏族長は頼もしげに見遣った。黒い瞳に不敵な微笑が宿る。――この二人、いつの間に親しくなったのだろう? と、レイは考えた。
「小僧」
タオは、やや硬い声でオダを呼んだ。ニーナイ国の少年が、視線を上げる。
「兄上が呼んでいる。その子を連れて、ユルテへ来い」
「はい。あ、でも――」
捕虜の男達を除く、その場にいた全員の視線が、隼に集中する。隼は、疲れた苦笑を浮かべた。
「あたしは、いいよ。今は……遠慮する」
オダは鷲を不安そうに見上げたが、彼は無言で
オダ少年は赤ん坊を抱きなおし、タオに従った。ちょっと迷ってから、鳩がその後を追いかける。
雉は、レイと顔を見合わせた。隼が己の考えに沈んでいるのを観て、肩をすくめる。そうして、彼も、負傷兵を迎える為に出掛けて行った。
*
冬の澄んだ蒼天の下。トグルは、ユルテの外に椅子を置き、座ってオダを待っていた。今日はゆったりとした濃緑の
彼の隣には、あの、赤ん坊を預けたニーナイ国の女性がいて、空色の瞳で少年を迎えた。トグルを護衛しているのだろう、ジョルメ若長老と数人の男達が、やや離れたところに立っている。
オダから少し遅れて、鳩もやって来た。
「*****。小僧」
タオは、日向でくつろいでいるトグルとふたこと、みこと言葉を交わしたのち、少年を促した。オダは、ごくりと唾を飲んで彼の前にすすみ出た。
トグルは、相変わらず感情の窺えない静かな眼差しを少年にあてた。
「その子を、返してやってくれ」
「はい」
まだ体調が良くないのか、トグルの声は物憂い。赤毛の母親がオダから赤ん坊を受けとる様子を、半ば眼を閉じて眺めている。
オダが観ると、トグルの髪は綺麗に切り揃えられていた。タオが整えたのだろうか。
少年の視線に気づいたトグルが、胡散臭そうに見返す。オダは慌てて面を伏せた。
「申し訳ありませんでした、本当に」
涙ながらに謝罪する女性の声に、トグルは彼女を顧みた。その頬が憔悴しているように、オダには見えた。
ニーナイ国出身の母親は、我が子をしっかりと抱え、頭を下げた。
「お許し下さい。興奮していたとは言え、
「いや……。言わせたのは、俺だからな」
トグルは、首を横に振った。溜め息をつき、左手で前髪を掻きあげる。
「謝るなら、その子にしてやれ。知らぬ者の間で、淋しい思いをしただろう……。戻って来てくれて安心した。死ぬつもりだったのだろう?」
はっとして、オダは彼女を振り向いた。母親は赤ん坊にしがみつき、声もなく泣き崩れた
トグルは、そのさまをだるそうに眺めたのち、低く訊いた。
「息子達の葬儀は済んだか?」
「はい」
濡れた声だったが、彼女はしっかりと応えた。目元を拭い、毅然と面を上げる。
「お陰さまで……無事、〈
「何だ」
トグルは、淡々と応じた。既に、彼女の希望を察しているらしい。
「私は故国で家族を喪い、今また夫を喪いました。新しい夫に嫁ぐ気持ちには、もうなれません。ニーナイ国であれば、私達は何とかやっていけます。私のように、故郷へ戻ってやり直したいと考えている者がおります。戦が終わり国境を自由に行き来できるようになりましたら、私達が帰るのを許して下さいませんか」
オダは、息を呑んで彼女を見詰めた。
トグルは、ゆっくり頷いた。すんなり許可が貰えるとは予想していなかった母親は、やや驚いて瞬きをした。
「よろしいのですか?」
「許可しよう」
トグルは、独り言のように答えた。
「
「
『故郷へ帰れば、生きる為に敵に身を売ったと罵られかねない』――オダは、トグルの言葉を思い出した。彼女達の生きる為の苦労を、トグルはよく知っていた。そして、彼女もそれを承知しているのだ。
トグルは少年に、ふかく響く印象的な声音で言った。
「連れて帰ってやってくれ」
「はい」
鮮やかな緑柱石の瞳に魅入られる気持ちになりながら、オダは頷いた。
「ミトラと申します。この子はエイル。宜しくお願いします」
母親は、赤ん坊を抱きなおして言った。どちらもニーナイ風の名だ。晴れた空色の瞳を見詰め、オダは唇を結んだ。何か、不思議な力が胸の奥から湧いてくる。
少年は、決意をこめて頷いた。
「オダと言います。
「お前の仲間に会わせてやれ」
「
彼女が微笑んだのを確認すると、トグルは、吐息をついて椅子に身を沈めた。瞼を伏せ、片手を振る。
「俺の用事は終わりだ。行くがいい」
「
「あ、あの。トグル――」
ミトラに待ってくれと合図して、オダは声をかけた。トグルは面倒そうに瞼を持ち上げる。
オダは腰に提げていた
「何の真似だ?」
「お返しします。僕は、貴方を誤解していました」
トグルの眸の奥に冷たい光を見つけ、オダは息を殺した。刃を突きつけられるような気持ちがしたが、怯まなかった。
トグルは黙って左手を伸ばし、短剣を受け取った。一礼して立ち去ろうとするオダを、呼び止める。
「待て。お前にやる」
剣の柄を突きだす。「受け取れ」と、軽く揺らした。
「え?」
オダは、意外な気持ちで手に取った。
トグルの眉間には深い皺が刻まれていた。困惑しているらしい。足下を睨み、怒ったように言った。
「女」
「
「俺は、謝るわけにいかない」
ミトラの透明な水色の瞳が、まるく見開かれた。オダも、息を呑む。
トグルは二人に横顔を向け、苦悩の滲む声で続けた。
「フェルガナで、お前の家族を殺したことも……氏族の者に犠牲を出したことも。
「
赤ん坊を抱き締め、ミトラは、こわばった顔で頷いた。
ぶっきらぼうで、どうしようもなく逆説的だが、オダは、これはトグル流の謝罪なのだと理解した。王として安易に謝るわけにいかない彼の、せいいっぱいの。――故に、
「小僧」
トグルが呼ぶ。少年は、ごくりと唾を飲んだ。
「はい」
「その剣は、お前にやる。持って行け」
トグルは、オダを見ていなかった。
「俺を殺すと言っていたことを、撤回する気があるのなら……剣は、その子に返してやってくれ」
オダは、母親の腕の中の赤ん坊を見た。彼女も見下ろす。
トグルは、ぎりりと奥歯を噛み鳴らし、唸るように続けた。
「俺達は、どうせ滅びる運命だ。その前に、この地の争いは片をつける……。
オダは、呼吸を止めてトグルを観ていた。彼が言わんとしていることを察したのだ。
「――もしも、お前に、俺達を憐れむ気持ちがあるのなら……。許してくれとは言わない。子ども達に、その気持ちを向けてくれ。次の世代には、俺達と同じ道を歩ませないで欲しい。親世代の犯した罪を着せない寛大さを持って欲しい。……頼む」
「分かりました」
苦しむことに疲れた様子のトグルに、オダは、頷いて応えた。トグルは溜め息をつき、そっと、言い表すことの出来ない想いを
少年は、最上の誠実さをこめて囁いた。
「約束します。僕に、どれ程のことが出来るか分かりませんが……。出来る限りのことをすると、お約束します」
「
トグルはほっとしたように呟くと、椅子の背に寄りかかり、眼を閉じた。タオが、心配そうに兄の様子を見守っている。蒼ざめたうすい瞼に、オダは問い掛けた。
「これから、どうなさるおつもりですか?」
トグルは瞼をもち上げた。衰弱しているとはいえ、新緑色の眸に宿る光は澄んで怜悧だ。オダは、今更のように感嘆を禁じ得なかった。
「タァハル(部族)の出方による。奴等は、オン大公との挟撃を図り、時間を稼ごうとするだろう。リー女将軍が敗れる前に決着をつけたいが、タァハルの方は、一旦、兵を退くだろう。リタ(ニーナイ国の首都)辺りまで南下するかもしれぬ」
「そうですか」
「お前の国に被害が及ぶことはないと思うが――」
少年の神妙な表情を見遣り、トグルは口調を和らげた。
「奴等がニーナイ国の領内に入ると、こちらが不利になる。奴等の方が、砂の扱いに慣れているからだ。リタを占拠してニーナイ国の人間を盾に取られるというのも、ぞっとしない……。それくらいのことを、しかねないが」
以前ニーナイ国を攻めた時のことを思い出し、トグルは苦笑した。
「砂漠は、懲り懲りだ。よく、あんな処で暮らせるな。お前達は、逆のことを言うだろうが……。オロスやイェニセイ族は、駱駝を扱えない。ニーナイとミナスティアとは、戦いたくない。やはり、タァハルをおびき出す策を考えるか――」
トグルの台詞の後半は、独り言になっていた。眼を閉じ、作戦を考えている。
オダは理解した。この男は、常に
「もう、下がれ」
トグルは、投げやりに呟いた。
「疲れた、俺は……。少し、休ませてくれ」
「はい。失礼します」
トグルがこんな言葉を口にするのも、初めてのように思った。それで、オダはミトラとともに一礼した。タオが彼等を案内する。去り際に、後方で遠慮気味に佇んでいた鳩に声をかけたが、少女はついて来なかった。
トグルは眼を閉じ、オダ達を見送らなかった。
鳩の目に、トグルは疲れ、哀しげに観えた。長身が今にもほろほろと崩れそうで、少女は声をかけられなかった。
トグルの方が少女を見つけ、瞬きをした。
「ハトか……。いつから、そこに居た? 俺に、何か用か」
トグルの声は、以前と同様に優しかった。穏やかな眼差しも、会えない間に変わってはいなかった。
それで、鳩はおずおずと彼に近寄り、長い脚を包む大きな
鳩は、自分の胸の前で両手を組み、きり出した。
「あたし、トグルに、あやまらなくっちゃ、って思って」
唇を噛む少女を、トグルは不思議そうに眺めた。
「ごめんなさい。あたし、勝手なこと言っちゃった。『一緒に居ても、不幸にならずに済む方法』――」
「…………」
「トグルも、考えてたんだよね。隼お姉ちゃんを、幸せにする方法。なのに、勝手なこと言って、ごめんなさい」
「ハト」
トグルは囁き、眉尻を下げた。鳩は、真剣に彼を見詰めた。
「トグル。隼お姉ちゃんに、会ってあげて」
トグルは、わずかに眼を細めた。
鳩は項垂れ、小さな声を搾り出すように続けた。
「お姉ちゃん、落ちこんでる。何も食べなくなっちゃった……。トグルのことを、心配してる。だから、お願い」
鳩は、改めてトグルを見た。亡き友を想い出させる黒曜石の瞳を、トグルは見返した。
少女は怯まず、重ねて懇願した。
「ちゃんと、話をして……。このままじゃ、お姉ちゃんが可哀想。トグルが可哀想よ」
澄んだ声が嗚咽を含み、ふるえた。
「ねえ、知ってる? 誰かを幸せにすることは、自分も幸せにすることなんだよ。自分が幸せじゃないのに、ひとを幸せになんて、出来ないよ。……お姉ちゃんと会えなくて、トグルは平気なの? 会いたくないの?」
「ハト」
トグルは囁いた。この少女に嘘をつくつもりはなかった。
「会いたくは、ない……。俺は、あいつを、泣かせたくないんだ」
「どうして」
鳩の声が高くなった。瞳がうるみかける。
『逢いたいからだ』 胸のなかで、トグルは答えた。解っている――誰よりも、逢いたいから。会うわけにはいかない……。
少女は瞬きで涙を消し、懸命に言い返した。
「泣いてるよ、隼お姉ちゃん。涙は流していないけれど……。どうして? 好きな人と会えない方が、会って辛いより、ずっと辛いに決まってるじゃない。何で、それくらいのことが判んないの」
耐えかねて、鳩はしゃくりあげた。唇がわななき、大きな瞳が、みるみる涙に包まれる。
「あたし、泣いちゃうからね」
トグルは、少女を途方に暮れて眺めた。
「トグルに会えなくなったら泣いちゃうよ、あたし。トグルがそれで良くっても。あたしなんかが泣いたって、みっともないだけだって分かってるけど」
「…………」
「こんなのってないよ。やだ、トグル。死んじゃ、やだ……」
「わかった、ハト。わかったから……」
ぽろぽろぽろぽろ。大粒の涙をこぼし始めた少女に、トグルは降参した。左手を伸ばして柔らかな黒髪を撫でると、鳩はしがみついて来た。彼の首に腕を回し、胸に顔をうずめる。
『死ぬなと言われても困るが……。俺には、もう一人、妹が居たんだな』
トグルは、高い空を仰いだ。
~第五章へ つづく~
(注*)〈
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