第四章 蜃気楼 燃ゆ(5)
5
トグル・ディオ・バガトルが倒れたという報せを、隼たちが聞いたのは、その日の夕暮れだった。
タオから彼の病気のことを聴いていたレイと雉は、顔を見合わせた。
連絡に来た男に
ユルテの前には、鷲とオダとタオ、ジョルメとトクシン長老が居て、話をしていた。隼を迎えると、長老達は一礼して立ち去った。気を遣ったのだろう。
タオはよろめくように隼に近づくと、しがみつき、彼女の胸に顔を埋めた。
「ハヤブサ殿……」
「……トグルは?」
隼は、困惑顔で彼女の肩を支え、鷲に訊ねた。
「中だ。大丈夫、眠っている」
「斬られたのか?」
鷲は神妙にかぶりを振った。隼は、不審げに眉根を寄せた。
タオが泣きぬれた顔をあげ、嗚咽をのんで訴えた。
「兄上に会って下され、ハヤブサ殿。どうかもう一度、話をして頂きたい。……この通りだ」
深々と頭を下げる。
隼は、さらに困惑した。「どういうことだ?」 と、口だけを動かして鷲に問う。鷲は、ぶっきらぼうに顎をしゃくり、ユルテを示した。
タオだけでなく鷲と雉も事情を知っているらしいと察し、隼は
すっきりとした後ろ姿が扉の中へ消えると、雉が動きかけたので、鷲は声をかけた。
「雉。余計なことを、するなよ」
厳しい口調に驚いて、雉は彼を顧みた。レイも瞬きを繰り返す。
鳩は、鷲の腰にぎゅっとしがみついている。鷲は、胸の前で腕を組み、唸るように付け加えた。
「気休めにもならないことをして、
「鷲」
雉は、半ば茫然と囁いた。銀の睫毛にけぶる若葉色の瞳に、悲痛な陰が過ぎる。
「お前、知っていたんだな。だから――」
鷲は相棒から顔を背け、舌打ちした。タオの
「……そういう病気があるってことは、先代のシルカス族長に会って、知っていた。何となく、そうじゃないかと思ってたんだ。直接、聞いたわけじゃない」
「お兄ちゃん」
鷲は、か細い声で呼ぶ鳩の頭に掌をのせ、陰鬱に続けた。
「
鷲は首を振った。呟きが、苦悩に濁る。
「気づいてやれなかった……」
雉は
オダは、彼等から少し離れて立ち、赤ん坊をあやしながら会話を聴いていた。レイ王女の視線に気づき、項垂れる。
赤ん坊は、黒くうるんだ瞳で少年を見詰め、無心に一房の辮髪を振っていた。
ユルテの中へ足を踏み入れた隼は、数秒、扉を背に立ち止まった。目が暗さに
懐かしいトグルの部屋だった。記憶と変わらない灰色の絨毯と、家具、馬具に水桶、祭壇や椅子の配置など。どこへ移動しても、いつもそっくり同じに再現する。ここで、彼女は負傷していた数日間を、彼とともに過ごした。
中央の炉には火が燃え、部屋を暖めていた。柱に掲げられた灯火が、室内をやわらかく照らしている。金の光の輪の端がかかる寝台に、横たわる人影がいた。
男は、殆ど毛布に埋もれていた。憔悴した
美麗だった辮髪が切られていることに、彼女は気づいた。うっすら無精髭も生えている。こんな風にやつれた彼を見るのは、初めてだった。胸が僅かに上下しているのでなければ、死んでいると言われても疑えない。
このまま、二度と目覚めないのではないか。――不安に、隼は、身体の芯が凍えた。
「トグル?」
息だけで呼ぶ。
隼は、寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。おそらく、長老か誰かがここに居て、彼を診ていたのだろう。手を伸ばし、顔にかかる彼の前髪を掻きあげる。ほつれた黒髪を直していると、鋭い痛みが胸を走った。
『あたしは、ここに居て、いいのだろうか……』
何十回と繰り返した問いを、改めて胸の奥で呟く。
隼は、彼の寝顔をしげしげと眺めた。切なさが喉をふさぎ、彼女は項垂れた。自分の中の、彼の声を聴く。
「〈
「お前に、何が解る。俺達の
「法が無ければ、俺達は、ただの野盗の集団だ」
隼は、溜め息を呑んだ。
分かっていた。トグルの側に居れば、いずれ、必ず、衝突すると。それが嫌で、〈黒の山〉に残ったのではなかったか。彼もそれを望んでいたから、何も話さなかったのではないか。
だけど――
『あいつが、あたしにとって都合のいい人間で居る必要はない。……トグルも、全部で
――こんなお前を、見たくはなかった。
隼は、再び、トグルの髪を撫でた。蒼白い頬に、心の中で語りかける。『お前にとっては、迷惑なだけかもしれないな』
傷つけて、困らせて……。彼の行為を理解出来ないのではなく、理解したくないのだと、隼は気づいていた。彼の立場では他に成す術がないと、その苦悩を察することは出来るのに。
『何故だ? トグル。教えてくれ』
彼と同じ場所に立つ為に、鷲は人質をかって出なくてはならなかった。『そこまで、あたし達を拒むのか……?』
彼の右手が寝台からずり落ちている。毛布に入れなおそうとその手をとった隼は、己が目を疑った。
トグルは、食事と眠るとき以外は革の手袋をはめている。それが、脈を診るために今は外され、
すぐには、わけが判らない。
見かけは痩せていても無駄なく鍛え抜かれたトグルの体を、隼は知っていた。それなのに――。
改めて、彼の頬の白さが気に懸かった。僅かに開かれた唇が血の気を失っていることに気づき、隼は背筋が寒くなった。
「トグル?」
ようやく、事態の深刻さを理解した。
隼は、彼の右手をとり、骨ばった指に触れた。左手と比べるために身をのりだしていると、トグルが動いた。彼は眼を閉じたまま眉根を寄せ、ぐらりと頭を揺らした。深い息を吐き、ゆっくり瞼をもちあげる。闇を宿した双眸がぼんやり天井を映し、傍らの隼を見た。
隼は、彼の手を、静かに毛布の上に戻した。
トグルは、すぐには己の置かれた状況が判らなかった。徐々に霧が晴れるように、瞳に怜悧な光が宿った。乾いた声で囁く。
「……ハヤブサ? ここは、
「トグル」
「タオか……」
トグルは、突然、全てを理解した。舌打ち混じりに呟き、左手で眼をおおう。隼は、その仕草を、胆が冷える心地で見守った。左手は、見た目には正常だ。
トグルは早口に囁いた。疲れた、諦めを含んだ声だった。
「そんな顔を、するな。今日や明日、死ぬわけじゃない」
「……どういうことだ」
隼の声は震えをおびた。トグルは、指の隙間から彼女を見上げた。
「倒れたと聞いた。お前の身に、何が起きている? 右手は……いつからだ?」
トグルは、隼の動揺を憐れむように見詰めていたが、瞼を伏せ、己の右手を左手で掴むと、慎重に語った。
「俺達の……〈
「いつからだ?」
するどく息を吸い、隼は重ねて訊いた。
トグルは眼を閉じ、記憶をたどった。
「トゥードゥ(キイ帝国の城塞都市)から、帰った頃か、な……」
隼は黙っていた。声が出せなかった。
トグルは、黄金の
「あの頃から、時々、右手が
隼の蒼ざめてなお麗しい相貌を、トグルは直視できなかった。低く滑らかな声に、溜め息が混ざる。
「これは俺の親父と同じ病気だと、トクシン(最高長老)に聴いた。俺は知らなかったが、親父は足に症状が出た頃、毒殺されたらしい。動けていれば、やすやすと殺されることはなかったかもしれぬな。……幸か不幸か、親父の実の息子だと、これで判ったわけだ」
「治るのか?」
トグルが見ると、隼は、眉間に深い皺を刻んでいた。感情を抑えて問う。
「まさか、右手のせいで倒れたわけじゃないんだろ? 〈黒の山〉に居た頃に症状が出ていたなら、ルツが知らないはずがない」
「《星の子》には、治せない。
隼は耐えかね、喘ぐように息を継いだ。トグルは単調に続けた。
「俺の右手は、もう、使いものにならない。間もなく、左手もそうなるだろう。次に、右足……左足だ。完全に起き上がれなくなるまでには二年くらいかかるが、その頃には、呼吸が難しくなる。髪が抜け、女も抱けなくなる。そして、精神錯乱が始まる……。この病を持つ者は、発病から五年もたないと言われているが、俺は、既に心臓にきたから判らない。……おそらく、もっと早い」
「…………」
「つまり――そういうことだ」
残酷な事実をひと息に説明したトグルは、凍りついた隼の表情を見ていられなくなり、瞼を伏せた。
ゆるやかに上下する広い胸を、隼は観ていた。自分が何を考えているのか、判らない。頭の中が、真っ白になった。
「何故?」
隼は、息だけで囁いた。嵌め込まれた
「どうして、黙っていた」
トグルの声は、
「……教えれば、お前は、必ずここへ来ると言ったろう……?」
隼の切れ長の眼が、凝然とみひらかれた。衝撃のあまり、呼吸ができない。
トグルは、彼女から顔を背けた。柔らかな唇が震え始めるのを、気配で感じた。
「嘘だったのか。お前、あたしに嘘をついたのか。〈黒の山〉に迎えに来るつもりなんか、最初から、なかったんだな?」
「違う。あれは――」
言い返そうとしたトグルは、隼の瞳とまともに出会って、絶句した。湖の如く深い紺碧の瞳から、涙があふれそうになっている。
トグルは言葉を呑み、再び顔を背けた。
そして、
「出て行け」
呻くように、彼は言った。
「頼むから……出て行ってくれ。これ以上、俺を、惨めな気持ちにさせないでくれ」
隼は、唇をわななかせながら彼を見詰めた。ユルテの壁を睨み据えている、いとしい男を。
獲物を狙う狼のような野性と生気に溢れていた肌が、彼女が逢えずにいるうちに、白く透けていた。精悍さが、いつの間にか、剥き出しの刃のような危うさに変わっている。
隼は無言で立ち、寝台の側を離れた。
衣ずれの音を、トグルは身動き一つせずに聴いていた。扉が開き、彼女が出て、扉が閉まる。
トグルは、痩せた右手を、力任せに寝台に叩きつけた。衝撃が肩に伝わり、痛みが半身を駆け抜けたが、構わなかった。もう一度、投げつける乱暴さで木枠を叩く。
天を仰いだ彼の目に、天窓から射し込む冴えた星の光が映った。
*
紫の繻子のような夜が天をおおい、その上に撒かれた星ぼしが、白銀のきらめきを放つ。しんとした冷気が大地を冷やし、静寂をますます深く、透明にしていた。
タオたちは、トグルのユルテ(移動式住居)から離れたところに集まり、隼が出てくるのを待っていた。鷲は、
扉の軋む音にタオが振り返ると、隼が、硬い表情で出て来るところだった。夜のせいか、先刻より、さらに蒼ざめて見える。
隼は、仲間のところへ戻ると、一同を見渡した。タオが、おそるおそる呼びかける。
「ハヤブサ殿」
「タオ」
隼は、項垂れて応じた。声は掠れていたが、口調は優しかった。
「タオ、ごめん。今まで、辛かったろう」
「ハヤブサ殿……」
言いかけるタオを首を振って制し、隼は、レイを見た。雉、鷲、オダ、鳩の顔を、順に見遣る。
鷲は、真顔で訊ねた。
「隼。お前、大丈夫か?」
「ああ、何とかね……。ずるいよ、鷲」
隼は、一瞬、
「お前が言っていたのは、このことだったんだ。皆、タオに聴いていたのに、隠していたんだな……。あたしだけが知らなかったなんて、莫迦みたいじゃないか。挙句に、トグルに自分で言わせるなんて、
鷲は、辛そうに眼を細めた。
「隼」
「ハヤブサ殿。それは――」
雉とタオが庇って言いかけたが、隼は首を振った。分かっていると言う代わりに片手を挙げて二人を制し、唇を噛む。胸のなかみを全て吐き出すかのように、嘆息した。
「頭を冷やしてくる。大丈夫、ちゃんと戻るよ。しばらく、独りにさせてくれ……」
仲間たちの前を横切って、隼は歩き出した。
雉とオダと鳩は、黙って彼女を見送った。
鷲は腕組みをして、タオを促した。
「タオ」
「
タオは弾かれたように頷くと、兄のユルテへと駆けて行った。
雉は、しばらく迷っていたが、隼の去った方向へ歩き出した。夜風が彼の銀髪を撫で、脱ぎ落している
オダは、寝付いた赤ん坊を抱いたまま、鳩と顔を見合わせた。鳩は、鷲の
「お兄ちゃん」
「鷲さん」
少年と少女に指示を求められた鷲は、レイと目が会うと、弱々しく苦笑した。三人から視線を逸らし、前髪を掻きあげる。
「俺も駄目だ。気が立ってる……。結構、荒れるんだな。知らなかった……」
鷲はユルテを見遣り、舌打ちした。
雉は、
なだらかな丘の斜面に佇む彼女に、雉は、声をかけるのを躊躇した。濃紺の夜を背景にすらりと立つ姿が、消えてしまいそうで息を殺す。
少年のように毅然とした横顔は、他人を寄せ付けない。
雉には無視できなかった。トグル同様、彼もそこに惹き込まれ、彼女の拍動に合わせて生きる者の一人だった。
故に、
『隼……』
雉は、隼に近付いて声をかけることも、立ち去ることも出来なかった。あまりに静かな彼女の様子に、当惑する。成す術がなく、目を逸らした。離れていよう……ユルテに戻って待っていよう、と、決めた時。
隼がくずおれた。
彼女の細い肢体が折れ、地面に両手を着いた。雪の女神のつめたく頑なな相貌が、置き去りにされた少女のごとく頼りなくなった。涙があふれて頬を伝い、枯れた草原に吸い込まれてゆく。
そして、
隼の、声にならないこえを、雉は聞いた――
『トグル!』
それは彼の
雉は愕然とした。
張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れ、隼は呼びつづけた。
『トグル……!』
「……雉」
足音に気づいた隼は、急いで立ち上がった。顔をぬぐい、取りつくろう。無言で近づく彼におびえ、二、三歩、後退した。
雉は隼の前に立ち、黙って彼女を見下ろした。
「莫迦だよな、あいつ……鷲の言う通りだ」
「…………」
「頑固で、気位ばかり高くて。救いようのない莫迦だ。判っているのに。なのに、あたしは――」
皆まで言わせず、雉は隼を抱き寄せた。一瞬逃げようとした彼女を、力の限り抱きしめる。
背中を反らせて、隼は震えた。みひらいた瞳に、星が映った。
「……雉。離してくれ……」
隼は囁いたが、雉は、腕の力をゆるめなかった。彼女の顔を、自分の肩へ押し当てる。
ぬくもりと息遣いを間近に感じ、隼は眼を閉じた。諦めの吐息を呑み、力を抜いた。
雉は彼女を抱き締めながら、足元の地面を見詰めていた。引き裂かれ、それでも自由にならない胸の奥から、激しい苦痛が湧き起こる。己の想いに傷つく彼を、彼女のぬくもりが癒した。
もう一度力をこめてから、雉は腕をゆるめた。隼が、そっと彼の胸を押し戻す。雉は眼を閉じ、彼女が離れてから、溜め息とともに瞼を開けた。
隼は混乱していた。目を逸らし、口ごもる。
「雉……ごめん。あたしは――」
「落ち着いたか?」
「え?」
息だけで、雉は囁いた。隼が、ふちの紅くなった眼を向ける。
雉は、曖昧に苦笑した。
「なら、いいんだ。俺の方こそ、驚かせて悪かった。……あまり、独りで泣くなよ」
隼は、きょとんと瞬きを繰り返した。
我ながらあんまりな言い訳だと思った雉は、肩をすくめ、踵を返した。呆気にとられている彼女を残してその場を去りながら……いつか、眉間に皺を刻んでいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
タオ: 「何をしておられるのだ? 兄上。」
トグル:「…………。」(右腕を抱えてまるくなっている。)
タオ: 「はァ? 木枠にぶつけた? 愚かなことを。ハヤブサ殿とはどうなったのだ? 仲直りできたのか。」
トグル:「…………。」(涙目で首を振っている。)
タオ: 「この間抜け、
トグル:「タオ……痛い……。」
タオ: 「作者と私たちの努力をふいにしおって。この状況で
――という兄妹の遣り取りがあったかどうかは、不明です。でも、タオは言いたいだろうな……(スミマセン、書きたかったんです。作者)。
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