第四章 蜃気楼 燃ゆ(3)
3
しとしとと、霧のような雨が降り続いている。
「あの。トグル、鷲さん……」
「オムツじゃないか?」
沈黙に耐えかねたオダが言うと、鷲も口を開いた。鷲は胸の前で腕組みをして、赤ん坊を眺めている。
「オムツ? 何だ、それは?」
トグルは、一向に泣き止む気配のない子どもから視線を上げ、訊き返した。
説明するより早いと思ったのだろう、鷲は、赤ん坊の腹を指差した。トグルは得心して頷くと、彼等の言葉で言い替えた。
「***」
「んなことは、どーでもいいよ。さっさと替えてやろうぜ」
「あのう……」
オダは、おずおずと呼んだが、相手にされなかった。
トグルは、ぐずる赤ん坊をそっと膝から降ろした。鷲は、彼の荷物の中をごそごそ探し、目当ての物をみつけると、無造作にさし出した。トグルは受け取ろうとしたが、赤ん坊が辮髪を掴んでいるので、思うように動けなかった。
オダは、彼等に近付いて、一緒に赤ん坊を囲んだ。
「……小僧」
凄みのある声にぎくりとして振り向くと、トグルは珍しく、歯を喰いしばっていた。濁った声で囁く。
「悪いが。こいつを切ってくれ」
この間も、赤ん坊は
「いいんですか?」
「構わん。どうせ、切らなければならないのだ。早くしてくれ。……痛い」
そういうわけで、以前トグルに借りた
奇妙な成り行きに内心首を傾げながら、オダは、彼の髪に手を触れた。トグルは、心配そうに赤ん坊を見下ろしている。彼の意図を察したオダは、赤ん坊が驚かないように、辮髪を少し弛ませた。
トグルの髪は真っすぐで太く、藍色がかった艶は、刃を当てるのが空恐ろしいほどだった。鷹や鳩より黒々として、《星の子》のそれに似ていた。豊かなその一束を、オダは震える思いで切断した。
「
トグルがほっとしたように呟いて首を振るのを、オダは、ちょっと呆れて見守った。これで、彼の辮髪は、たった一本になってしまった。無残な断端を、トグルは気にする風もない。痛みを取るかのように項に掌を当て、怜悧な眼差しを少年に向けた。
「いつまで持っているのだ?」
「え? あ」
切った髪を握り締めていたオダは、はっとして手を離した。途端に
鷲は、赤ん坊の服を脱がせにかかっていた。トグルは手を伸ばすと、オムツ代わりの端切れを取り、その子を衣ごと引き寄せた。
「あ」
目の前から赤ん坊を取り去られたので、鷲は、不満げに呟いた。構わず、トグルはオムツをほどく。泣き声が小さくなる。
片手だけで器用に布を交換する作業を、鷲は、感心して見守った。
「へえ。上手いもんだな」
「昔、妹の世話をした。母親が、当てにならなかったのだ。父は、乳母を置くのを嫌がったし……。タオは、手のかかる赤ん坊だった」
ひとりごとのように説明した後で、トグルはオダに視線をあて、悪戯っぽく付け加えた。
「……タオには言うなよ」
「あ。はい」
トグルは、赤ん坊を軽く撫でると、元のように布に包んだ。再び膝の上に抱き上げる。雨音はほぼ止んでいたが、辺りはすっかり暗くなり、じんとくる冷気が絨毯から足へ伝わっていた。
赤ん坊がいつまでもぐずっているので、鷲は首を傾げた。
「泣き止まねえなあ」
トグルも眉根を寄せる。
「腹が空いているのだろうか? 小僧、その荷をとってくれ」
「はい」
オダは、トグルがあの母親から押し付けられた荷物をそのまま持ってきていることに気づいた。中には、焼きしめたナンが数枚入っていた。子どもの為に用意したらしい。
トグルは、椀に入れた
オダは安堵したが、同時に、不信感がこみ上げてきた。
「こんな小さな子どもを、戦場に送るなんて……」
母親は、何を考えていたのか。少年は苛立ちをこめて呟いたが、トグルは黙っていた。
鷲は、いたわりとからかいをこめて
「隠し子を押し付けられたみたいだな」
「身に覚えはないぞ」
すかさずトグルが言い返し、男達はゆるやかに笑い合った。赤ん坊の食事を見守りながら、トグルは訊ねた。
「タカは、どうしている?」
「……元気だ」
まさか、その名が出るとは思っていなかったらしい。鷲は、心もち目を見開いた。意外そうな響きが低い声に混じった。
「お陰さまで、腹の子も元気だぜ」
「まだ、思い出せないのか?」
「ああ」
「そうか……」
オダは、自分達より先に鷲が草原に来ていたことを思い出した。久しぶりに会った友人同士が以前の調子を取り戻そうとするぎこちなさで、鷲は続けた。
「当分かかるだろう。ルツは、記憶をなくした時と同じような目に遭わない限り、無理だと言っている」
「《星の子》は、いつも、最悪のことを言ってのける」
トグルは
「あの御方の欠点だ。
「――だと、いいんだがな」
「大丈夫だ」
トグルの口調には、慰めではない力があった。
「《星の子》は、警告者だ。諦めて絶望する者に訪れる未来を、警告する。お前達には、それを変える力があるだろう。リー女将軍の時のように」
「あれは、お前の力だよ」
鷲の言葉に、トグルは黙って唇を歪めた。
赤ん坊が食事を終えたので、鷲は腕を伸ばし、トグルの膝から彼を抱き上げた。縦抱きにして、あやし始める。トグルは、今度は素直に彼に任せた。
「お前は、大丈夫なのか?」
トグルに声をかけられ、オダはびくんと背筋を伸ばした。
「うなされていただろう。懲りたのでは、なかったのか?」
「あれは……」
オダは、耳を赤く染めて俯いた。
前回の戦闘の後、少年は吐いて食べられず、夜は悪夢にうなされた。それを、本営に戻るまで、トグルは介抱してくれたのだ。
今も、夜中にとび起きることがある……。言葉を濁す少年を、トグルは胡散臭そうに眺めた。
「武勇は誇るべきものではなく、戦場は人のいる場所ではない。と、言ったろう。どういうつもりだ?」
少年は、上手く答えられなかった。トグルは鷲に向き直った。
「お前もだ、ワシ」
「俺?」
「〈
鷲は、仕様のない、という風にかるく息をついた。
「お前達が、俺のことをどう考えようと勝手だが……。俺は、そんな大層な野郎じゃない。俺の母親は娼婦だった。親父は顔も知らない」
トグルは表情を変えなかったが、オダは息を呑んだ。
鷲は、抱き上げた赤子の背を軽く叩きながら、平然と続けた。
「俺は
「…………」
「
オダは、ぎょっとして鷲を
トグルの精悍な頬は、ぴくとも動かない。
鷲は、肩をすくめた。
「勿論、やりたいわけじゃないが……それがどんなに簡単なことか、俺は知っている。喰うものがなくなれば、鳩のために、俺は盗むだろう。オダや鷹のために、人殺しだってするだろう。いや、こういう言い方はずるいな。俺のため、だよな」
「…………」
「所詮、俺はこの程度の人間だ。草原に来てからこっち、俺達は飢えていない。盗む必要もない。お前達が、そいつを守るために戦っていることは解る。なら、俺の
トグルは、鷲の言葉について考えたのち、首を一方へ傾けた。
「お前の
「やり過ぎると、死ぬぜ」
鷲は、眠りについた赤ん坊を抱き直し、さらりと言った。トグルのややつり上がった
「……そうなのか?」
「ルツと俺達の能力は、
鷲は、ふかく、ふかく嘆息した。
「毎回、すんげーしんどい。最初の時は、三日くらい動けなかった。この前も。……今日まで、雨が降らなかっただろ?」
トグルとオダは、そろって天幕の天井を見上げた。そう言えば、と思ったのだ。
鷲は頷くと、赤ん坊を抱いたまま、右手をくいとひねって渦巻く風を表現した。
「空気を熱して風を起こし、雨を降らせるやり方は、近くに雲がないと出来ない。周りの雲を集めて使っちまうと、当分、雨が降らなくなる……。『本来そこに在る』以上のことは、俺達には出来ないんだよ。まあ、昔は、津波を消した奴がいたそうだが――」
「待て。お前達以外にも、
トグルの問いに、鷲は首を横に振った。
「いたらしいが、俺は知らない。先祖なのか、血縁なのか、どこの国か……。《古老》が現れる条件は、ルツにも分からないんだ。噂や伝説なら残っている。津波を消した奴は、そのせいで死んだ」
トグルは、自分の口に左手の拳をあてて考え込んだ。緑の眸は、鷲を見詰めている。
「ひとり分の生命力を使い切れば、死ぬんだよ、俺達も。周りの生き物の力を集めて大きくするやり方があるらしいが、俺はやったことがない。……俺に言わせれば、生きている人間を何十万と集めるお前の方が、よほど力がある。それでもお前は、俺を
鷲の問いをうけて、オダはトグルを顧みた。トグルは真摯に考えていたが、ぼそりと答えた。
「
「言ったな……!」
鷲は吹きだし、赤ん坊を抱いていない方の腕を伸ばして彼につかみかかった。トグルは、ひょいと身をかわす。胡坐を組んだ姿勢で、男達は、肩を揺らして笑った。
「……ワシ」
やがて、トグルは、未だ笑いを収めきれない声で言った。
「今の内に、伝えておこう。明日、ハル・クアラ族は戦線を離れる。東へ戻り、
オダは固唾をのみ、鷲は頬をひきしめた。炎を反射して煌めく二対の瞳に、トグルは頷いた。
「あの二人は、狼煙をあげてタイウルト部族に我々の出撃を報せ、同時にキイ帝国にも報せたのだ。リー女将軍も、こちらの動きを察したろう。皇帝を擁するオン・デリク(大公)が、親征を開始した」
鷲の眼が、すっと細くなる。オダは愕然とした。
「待って下さい。それって――」
緑柱石の瞳が、冷静に少年を映した。
「そうだ。裏切り者はタイウルト部族に通じ、タイウルトは、タァハル部族とオン大公に通じている。あの二人を生かしておけないと言ったのは、そういうわけだ……。オン大公がリー女将軍を倒してルーズトリア(キイ帝国の首都)を奪還するのが先か、俺達がタァハル部族を倒して草原を統一するのが先か、という問題だ」
鷲は、ぽかんと口を開ける少年に、苦い声で説明した。
「自分達の意志でタァハルと手を組んだつもりのニーナイ国は、実は、大公の思惑に乗せられていたわけだ。そうだな? トグル。……しつこい野郎だぜ」
オダは言葉がない。舌打ちする鷲に、トグルは感情を含まぬ声で答えた。
「為政者とは、そういうものだ。己が生き残る為なら、どんな策でも打つ。俺でも、その程度のことは考える」
「いつから、それに気付いていた?」
鷲は、赤ん坊を膝の上に乗せ、鋭い視線をトグルにあてた。トグルは、軽く溜息した。
「お前は、スー(キイ帝国の砦)で俺がリー女将軍から手を退いた頃に、タァハル部族の攻撃が始まったと読んでいたな……。ニーナイ国が関わったのは、もっと後だ」
「…………」
「昔から、俺達が部族を統一しようとする度に、キイ帝国はタァハル部族を使い、邪魔をしてきた。当時も、オン大公は俺を懐柔しようとしながら、一方でタァハル部族に俺達を攻撃させようとしていた。俺がリー女将軍を見逃したせいで、多少計画は狂ったが……。そこへ、ニーナイ国が自ら首を突っ込んで来た。奴はルーズトリアを追われたが、代わりにニーナイ国を手に入れることに成功したのだ」
鷲は、うんざりしたように首を振った。
状況を理解したオダは、蒼ざめながら呟いた。
「そうか。タァハル部族とタイウルト部族が貴方がたと戦っている間に、大公はリー将軍を倒して、首都を奪還するつもりなんですね。そうして、次に貴方がたを挟撃する……。トグリーニ部族がいなくなれば、タァハル部族と一緒に、ニーナイ国を手に入れる。何てことだ。僕達は、再建の為に後顧の憂いを除くどころか、自分達の盾になってくれる存在を、消そうとしていたんですね」
「……盾になるつもりはないぞ」
トグルは、
「勘違いするな。『敵の敵は味方』などという理屈は、通用しない」
「でも、僕らは、もっと広い視野で物事を観なければならなかった。教えて頂かなければ、いつまでも気付かなかったでしょう」
「……思い上がるな、小僧」
トグルの双眸に、冷たい炎のような光が閃いた。息を呑む少年に、地を這うような声で言い捨てる。
「貴様に教えたのではない。ワシに報せたのだ。
オダは絶句した。心の底の方で、凍えるような寂しさを感じる。トグルの眸に宿る陰が、かすかに揺れた。
鷲は、面倒そうに肩をすくめた。
「話を元に戻そうぜ。それで? 具体的に、俺は何をすればいいんだ?」
「……何も」
トグルの眼差しに静けさが戻り、唇の端にうすい嗤いが浮かんだ。
「近日中に、タイウルト部族と片をつける。お前が手を出す程のことはない。
オダが初めて聴く、頭ごなしではないトグルの忠告だった。
鷲は苦笑し、穏やかに囁いた。
「判った。ゆっくり考えさせてもらう。ありがとさん」
鷲は、トグルの腕に、眠っている赤ん坊を返した。小さな顔を覗き込む彼の横顔を、しばらく眺めていたが……振り返り、オダを促した。
「さて。そろそろ休むとするか」
「え? あ、はい」
てっきりトグルの側に居るつもりだと思っていたオダは、鷲が立ち上がったので、驚いた。
トグルは鷲を見上げ、小声で言った。
「……世話をかけたな」
「なに」
鷲は
「俺の方も、いい練習になった。久しぶりに、莫迦も言えたし。……お前と話が出来て、楽しかった。世辞じゃないぜ」
トグルの
「無理をするなよ。子守りくらい、いつでも代わってやるから。じゃあな」
「ああ。おやすみ」
鷲は踵を返し、肩越しにひらひらと手を振って歩き出した。オダはトグルに一礼したが、彼は赤ん坊を観ていた。
オダが並んで歩きながら仰ぐと、鷲は
少年は、もう一度、振り向いた。赤ん坊と焚き火を守って坐すトグルは、闇に融けて消えそうだった。
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