第二章 地獄の番犬(5)


             5



『どれくらい、走り続けたろう?』


 昼はとうに過ぎ、陽は西に傾いている。逞しい馬の背に身を預けた少年が問わずにいられなかったのは、疲労からではない。そろそろ、臀部でんぶが痛くなってきたからだ。

 行けども行けども、周囲には、同じような風景が広がっている。騎馬軍団は、ひたすら西に向かっていた。彼等の通過した草原は、馬蹄に蹴散らされ掘り起こされて、剥きだしの荒野と化していた。


 数万の軍勢を率い、トグル達は休むことなく駆け続けていたが、ある丘の上まで来ると馬を止めた。号令が発せられ、後続の騎馬が止まり始める。

 トグルは何も言わなかったが、彼の黒馬ジュベの左隣に葦毛ボルテをつけることを許されたオダは、ほっとして、鞍の按配あんばいを確かめた。


テュメン


 トグルの右に並んだシルカス・アラル・バガトルが、小声で呼び、後方を指し示す。トグルは頷いた。地平線に隠れる東の空に、煙がひとすじ昇っている。

 トグルは表情を変えず、アラルに答えた。


「*****、**。*****」

御意ラー

「小僧」


 丁寧に頭を下げるアラルから、トグルは、オダに視線を移した。お尻の下の脚衣ズボンと鞍のわずかな隙間をしきりに気にしている少年を見て、新緑色の瞳に、からかうような光が過ぎった。


「どうやら、知り始めているようだな、俺達のことを」


 『その格好で行く気か?』とトグルが言い、タオが呆れていた理由が判った。オダの薄手の衣では、長時間の乗馬に耐えられないのだ。

『だったら、教えてくれればいいのに……』


 今まで、こんな長時間、馬に騎ったことはなかった。皮膚が擦り切れたのではないかと思う痛みに、オダは閉口していた。

 トグルは、左手を軽く振って、少年に渡していた革袋を示した。


「その中に、長衣デールがある。俺のだが、着られないことはなかろう。今のうちに着た方が良いぞ。痔になっても、治してくれる天人テングリはいない」


 痔……。まさか、この男の口から、そんな単語が出るとは思わなかった。

 オダが鞍に提げていた袋を開けると、確かに、紺色の衣が入っていた。底の方には、小さな包みが幾つか入っている。トグルや他の男達にそんな荷物はないので、オダは怪訝に思った。

 トグルは、オルクトやオーラトの氏族長達と話をしている。

 オダは、自分の上着を脱いで、トグルの長衣に着替えた。足首をおおって余りある長衣は、なるほど生地が厚く、尻が痛くなることはなさそうだ。遊牧民の装束の理由が判った。

 しかし、自分で痛い目をみなければ、理解できないことだろうか……。

 その点だけは疑問が残ったが、話を終えて振り向いたトグルが、目を見開いたのは面白かった。この男でも、こんな表情をするのだ。

 トグルは笑いを噛み殺し、いつもの冷めた口調で言った。


「作戦を変更し、三手に分かれる。お前は、俺と来い。常に俺の左に付いて、離れるな」

「はい」

「アラル――」


 すぐに元の無表情に戻る、トグル。美しく編んだ黒髪を翻して仲間を見渡すと、滑らかな声で命じた。


「――シルカス・アラル。オロス。ギリック、イエニセイ、カフタン。***、*****」

御意ラー。***、*****!」


 アラルは、王の命令を後方へ向かって復唱すると、長剣を眼前にかざした。トグルも剣を抜き、答礼する。

 新しいシルカス族長の率いる軍勢は、土煙をあげ、一筋の黒い川のようにトグルとオダの前を横切り、南へ向かった。蹄の音が大地を揺らすのを、オダは感じた。何万騎いるのだろう? 

 トグルは、彼等が通り過ぎるのが終らぬうちに次の号令を下した。


「オーラト。テイレイ、コンユ、バシュミル。……ハル・クアラ。*****、**」

御意ラー

「オルクト――」


 一礼する、氏族長達。トグルに呼びかけられたオルクト氏族長は、たのしげに口髭をこすり、鉄製の鎧を鳴らした。


「行きますかな、テュメンよ」

「――トゥグス・バガトル。ウケイ、シャラ・ウグル。キズグス、ロウハン。クルズ、トグルート。……我が、トグルよ。行くぞ、小僧」


 トグルが、将軍と氏族長達に呼びかけるのと同じ調子で自分にも声をかけたので、オダは驚いた。

 トグルは手綱をさばき、北へと馬首を向け、駆けて行く。手に手に武器をかざす彼等に遅れまいと、オダは葦毛の腹を蹴った。


 軍団は三分し、それぞれ違う方角へ向かった。シルカス・アラルの軍は、南へ。オーラトの軍は、西へ。オルクト氏族長とトグルが率いる軍は、北へ向かっている。

 作戦が変わったそうだが、そもそもどんな作戦だったのか、何故変わったのか、少年に知る由はない。迂闊に訊ねることも出来ず、言われた通り、トグルの側にいた。


 他の軍勢の姿が見えなくなり、赤い夕陽が草原を染める頃になっても、敵らしき者の姿は見当たらなかった。辺りが薄暗くなり、なだらかな隆起の続く土地に入って、ようやくトグルは馬足を緩めた。

 この間、彼は一度も口を開かず、完璧な無表情を保っていた。それは、他の男達も同じだった。

 不気味に静かで荘厳な軍団は、ゆるい斜面が続くひらけた場所で立ち止まった。後続が追い着くのを待つ間に、あちらこちらで乾燥した牛糞を用いて火を熾し、男達は食事を始めた。

 彼等は、鞍と馬の背の間に干した肉片ボルツを挟んでいた。トグルがそれを齧りながら平然と辺りを歩き回る様子に、オダは目を丸くした。


「お前には、タオが用意してあるはずだ」


 氏族長達と作戦の打ち合わせをしに行く前に、トグルは、オダに教えてくれた。


「定住民は、手がかかる……。大事にしろ。あと二日は、本営オルドウへ戻れないからな」

「はい。ありがとうございます」


 それで、この作戦が長期に渡るものではないと判った。


 言い置いてさっさと出掛けて行くトグルの配慮に、オダは、本気で感謝し始めていた。肉を常食としない少年の為に、彼は、わざわざ八枚のナンと乳茶スーチーを用意してくれていたのだ。革袋の底の包みがそれだった。

 少年が一枚と半分のナンを噛み締めるように食べ、乳茶を飲み、黒馬ジュベ葦毛ボルテの傍らでぼんやり待っていると。夜が更けてから、トグルが帰って来た。

 焚き火の側で、だぶだぶの長衣を羽織って座っている少年を見て、トグルは、軽く眼を眇めた。無言で近づき、火を挟んだ向かい側に腰を下ろす。胡座を組み腰から長剣を外す彼の仕草を、見るともなく眺めていたオダは、思わず声をあげた。


「族長! 右手を、どうかされたんですか?」


 途端に、周囲が静まり返る。藍色の夜の帳の向こうからこちらに注がれる無数の視線を、オダは感じた。


「……声が大きい」


 トグルが、じろりと睨み据える。少年は両手で口を覆った。


「ここに居る者が、全員、俺の考えを尊重してくれるとは限らない。滅多なことは口にするな」

「はい」


 闇の中でうごめく人影をちらりと顧みて、トグルは、殆ど息だけで囁いた。緑柱石ベリルの瞳は炎を反射し、妖しい黄金色に輝いている。緊張して頷く少年に、その目は、かるく笑ったようだった。

 彼は、己の右手に視線を落した。革製の手袋をはめた手を左手で掴み、少し躊躇う。

 腰帯ベルトに提げた剣の紐を解く仕草を、トグルは、苦労しながら左手だけで行っていた。それは、どう見ても不自然で根気の要る作業だったので、少年の目に止まった。そのことに、彼は思いを巡らす様子だったが、逆に訊ね返した。


「ニーナイ国の女達を連れて帰ることは、出来そうか?」

「え」


 オダは当惑した。

 はぐらかされたということは理解できたが、草原の王の瞳の穏やかさに、瞬間、心を奪われた。魂を吸い込まれそうな気持ちがして、瞼を伏せる。

 捕虜となったニーナイ国の女性と子ども達を連れ戻すために、オダは草原へやって来た。トグルに許可をもらい、雉の協力も得て、本営オルドウでニーナイ国出身の人々に声をかけてきたが、効果は芳しくなかった。――戸惑い、食い下がるべきかと迷っていると、トグルがフッと嘲った。


「……そうだな。簡単に結論の出ることではなかろう」

「族長」


 オダは、息を呑んだ。

 何気ない口調で言いながら、トグルは、左手で右の手袋の留め金を外し、口に咥えて抜き取った。長衣デールの袖をたくし上げて、炎にかざす。彼の右腕は、肘から先が痩せ細っていた。今にも折れてしまいそうに、オダには見えた。


「帰りたくないわけでは、なかろうが――」


 袖を下ろし、手袋をはめ直すと、トグルは、何事も無かったように続けた。


「――奴等の身内が、生きている保障はない。逆に、故郷へ戻れば、生きる為に敵に身を売ったと罵られかねない。……察して遣れ。どこにいようと、奴等には、奴等なりの苦労がある」

「はい」


 まだ、衝撃が残っている。見てはならないものを見てしまった気持ちで、オダは奥歯を噛みしめた。何か慄ろしいことが、この男の身に起きているのだと感じる。

 自分を尊重して、彼は、それを見せてくれたのだ。

 トグルのそんな振る舞いは、少年を混乱させた。


「正直言って、判らなくなりました。何が、彼女達にとって良いことなのか……。故郷へ連れ帰っても、僕たちには、大したことは出来ません。今、貴方がたに受け入れられ、平穏に暮らしている様子を観ると――」

「……だが、状況は変わる」


 トグルの低い声に含まれた皮肉に、オダは面を上げた。彼と正面から目が会い、動揺する。

 嗤うように唇を歪め、トグルは続けた。


「すぐだ。明日になれば、お前にも判る。……女が幸せで居られるのは、平和な時だけだ。明日、俺達がタイウルト部族と戦いを始めれば、連中の立場は変わる」

「…………」

「女達の――大切な夫は傷つき、息子は殺されるだろう。タイウルトも、俺達も同じだ。子ども達は父親を、兄弟を喪うことになる。俺達が勝てばともかく、負ければ、奴等の自由も無い」

「…………」

「男はいい。男は、勝つか、死ぬだけだ。死ねば全てを失うが、勝てば、女も家畜も、それこそ願うだけ手に入る……。だが、女達にとっては、負ければ敵の慰みものにされ、勝てば勝ったで、敵の女達が本営オルドウへ入って来る」

「…………」

「今までここに居る方がマシだと思っていた者達も、気を変えるだろう。そうしたら、連れて行け。邪魔はしない。……俺が死んでも、天人テングリが手を貸すだろう」


 膝を立てて座り、その上に腕を預けて語るトグルを、オダは、毒気を抜かれて見ていた。少年の驚きに頓着せず、トグルは、燃える焔を眺めている。

 揺れる火影を映す瞳に魅せられながら、オダは、おずおずと訊ねた。


「戦うだけでは、いけないのですか?」


 囁くように問い掛けた少年を、トグルは顧みた。精悍なかおに嵌め込まれた緑柱石の瞳に、闇が宿っている。その静けさに、オダは恥じ入った。


「その……略奪を止めることは、出来ませんか。話し合いは無理でも……。戦って、勝敗を決するだけでは、駄目なのですか?」

「何の目的で?」


 トグルは、平板に問い返した。

 答えに窮する少年を、トグルは、暫く見守っていたが……やがて眼を細め、呆れたような、哀れんでいるような、不思議な声音で呟いた。


「そうか。お前は、あの茶番を観ていたのだったな」


 瞼を伏せ、トグルは表情を消した。抑揚のない声で囁く。


「戦場で。奪うことも、奪われることもなく、殺すことも、殺されることもなかったら……。憎しみも敵意も、一時で終るものならば。俺達は、それをだなどと、呼ぶようになるだろう。獣に堕ちた己を忘れ、本来獣である己を忘れて……正義の為に戦うのは、許されるなどと言い出すだろう。それが、己だけのものであることを、考えもせず」

「…………」

「『愛するものを守る為に戦うのは、許される』と……。家族を、国を、民族の誇りを……自由を守ることは、命より大切だと言うだろう。それは、言い訳だ。命より大切なものはないと言う連中をなだめる為の、方便だ。己が獣であることを否定する為に、そんなことをして何になる。戦場に、人間など居ない。言葉を棄て、剣を採った時点で、俺達は、ただの獣だ」


 オダは息を殺して、仮面のようなトグルのかおを見詰めた。トグルは、オダを見ていない。自嘲すらない乾いた口調に、オダは、背筋が凍る気持ちがした。


「お前のような考えは、危険だ。人間は、己の罪を直視して生きられる程、強くはない。己が血に飢えた獣だと思いながら生きて行ける程――。だから、ごまかそうとする。言い訳で身を固め、人殺しの現場にも、人間性を持ち込もうとする。そうして、現在の悪業が、未来の反省と善行によって償われるなどと思い込む。しかし、真実、人は許されることなどない。生きて行く為に、己を許しているだけだ。……俺達は、許してはならない。他の誰が忘れようと、獣になった自分を、忘れてはならない」


 瞼を上げ、トグルは、ふと嘲った。くらく果ての無い虚無を宿した眸と出会い、少年は気が遠くなった。


「お前、幾つだ? 小僧」

「十五です」

「そうか……まだ、解らないかもしれないな。まして、ニーナイ国の人間なら。今まで、人を殺したことなどなかろう?」


 オダは、急いで首を横に振った。


「俺の初陣は、八歳だった」


 わずかに牙のような歯を覗かせ、トグルは囁いた。その声は、オダには、とても優しく聞えた。


「覚えている……最初に人を斬ったのは、十二の時だ。以来、何人殺したのか判らない。敵も味方も。――これは、人殺しの戯言たわごとと思って、聞き流してくれ」

「…………」

「小僧。戦わなければどうしようもない時であっても、戦いを避けるのが、本当の正義だ。他を否定しなければ守れないものに、大した価値はない。俺達は、すぐ、そのことを忘れるが。忘れたふりをして、言い訳をするが」

「…………」

「どんな目的も、手段を正当化しない。それどころか、時として手段は、崇高な目的も、台無しにしてしまう……。取り返しがつくことなら、悔いも嘆きも、愚かと嘲っていられるが。取り返しのつかないことを悔いたり嘆いたりするのは、愚かである以前に、卑怯者だ」

「…………」

「たとえ、真実ほんとうの正義に手は届かなくとも……せめて、お前は、卑怯者になるな」


 酷く疲れた口調で説くトグルを、オダは、呼吸を止めて見詰めた。そっと、息を抜く。

 少年の目に、トグルは恐ろしい蛮族の長には見えなかった。むしろ、繊細で傷つき易い青年の素顔を垣間みて、動揺する。


『では、彼は、何なのだろう?』

 トグルは――この男のしていることは、いったい。


 彼が、己の行為の残忍さを自覚した上で、開き直ったり自嘲したりしているのなら、こちらも安心して憎めるのだ。敵でさえなければ、鷲のように、好くことも出来ただろう。

 最初はそう思っていた。だからこそ罵れ、彼の皮肉も嫌味も、聞き流せたのだ。だが、


『違う……』


 背中の毛がざわざわと逆立つ気配に、オダは、ぞっとした。初めて、鷲や隼とは全く違う、トグルという人間を観た気がしたのだ。

 慄ろしさに、少年は逃げ出したくなった。凍りそうな寒気を、焚き火の向こうの闇に沈む男に感じ、怯みそうになった。


『この人は、何を観ているんだ……?』


 黒衣に身を包み、項垂れているトグル。病に萎えた右腕を持ちながら、戦場に立つ男。族長として、王として、民族を守るという絶対的な使命を持ちながら、己の罪を自覚する公正さも持っている。その矛盾を、自嘲すら潔しとしない厳しさで、直視し続けている男。

 オダの目に、彼は、そのような姿で映り、少年を震撼しんかんさせた。その暗緑色の瞳に映るものを、オダは見たくないと思った。自分には、耐えられそうにない……。


 トグルが、彼を見た。硬い眸の表面で、焔が揺れている。

 呼吸を止めていた少年は、彼に己の全てを見透かされた気がした。同時に、気持ちがすっと鎮まるのを感じた。彼の眸の闇に――冷たい夜の湖に、恐怖が吸い込まれ、消えたように。


「……帰りたくなったか?」


 白い牙をちらりと覗かせ、トグルが訊いた。切れ長の眼を、わずかに、嘲うように細めている。――哂っている。

 長剣を抱え直し、居住まいを正しながら言う。彼の声に、オダは、思い遣りの響きを聴き取った。


「今なら引き返せるぞ。明日、お前だけ、ここに残っても良かろう。わざわざ地獄を観る必要は無い。俺も、お前に構ってはいられない。……どうだ。俺を理解するより、さっさと殺した方が早いとは思わないか」


 オダが黙っていたので、トグルは、膝の上に腕を組み、そこに頭を乗せて眼を閉じた。眠るつもりらしい。無防備で、少年に寝首を掻かれることなど、何とも思っていないようだった。

 否。

 もしかしたら。彼は、罪を犯さずにいられない自分を知っていて、少年に殺されることをすら、望んでいるのかもしれない。

 オダは、決意した。

 何が起ころうと、この男のすることを、最後まで見届けようと。




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