第二章 地獄の番犬(2)


            2



 本営オルドゥでは無数の篝り火が焚かれ、深夜になっても男達は飲み続け、踊り続けていた。

 草原は、騒然としていた。新王戴冠のよろこびと、戦闘を控えた興奮は、夜明けまで続くかと思われた。


 鷲たちはユルテ(移動式住居)に帰ったものの、全員口数が減っていた。タオは自分のユルテに戻らず、隼の傍らにいた。比較的冷静な雉とレイも、隼を気遣っていたが……そんな心配さえ、彼女には煩わしかった。

 隼は、己の動揺を自覚していた。鷲とタオが隠し事をしていると察したが、訊ねなかった。――訊いても、鷲は話さないだろう。タオは打ちひしがれていて、余裕がない。

 そう判断した隼は、独りユルテを出た。自分にはそれが必要だと、漠然と理解していた。雉が何も言わずにいてくれることを、心の底で感謝した。


 隼は葦毛の馬にり、トグルのユルテを目指した。リー女将軍との戦いの頃、彼がくれた馬だ。ユルテがどこにあるかは知っていたが、今まで訪ねなかった。

 きっとおそれていたのだ……押しかけることも出来たはずなのに。トグルの本心を知りたいと思いながら、そうしなかったのは……。その気持ちを、鷲に見透かされたように思った。

 タオのユルテの前に馬を繋ぎ、少し離れたトグルのユルテへ、徒歩で向かう。

 他の自由民アラドのものと区別がつかない質素な住居の前に、神矢ジュべが繋がれていないところを見ると、彼は、まだ帰っていないのだろう。見張りも、護衛らしき者もいなかった。


 扉を開け、暗い室内を覗き込んだ隼は、躊躇いながら中に入った。天窓から、青白い星の光が射し込んでいる。見上げて、彼女は軽く嘆息した。

 きちんと整頓された部屋を横切り、椅子へ向かう。天幕で仕事をしているトグルが帰って来る可能性は低かったが、待ってみようと思った。待って、会えたら――。

 何を、話す?


 隼は椅子に腰掛け、ぼんやりと考えた。

 〈黒の山カーラ〉で別れてから随分時間が経っているので、ここへ来た目的を忘れかけていた。自分がどう感じているのか、麻痺したように、判らない。怒っているのか、哀しんでいるのか。ただ、会いたいだけなのか……。

 彼女が自分の靴の先を見下ろしていると、扉の外で、物音がした。


 蹄の音と馬が鼻を鳴らす音がして、やがて靴音が聞えた。引き摺るように、扉の前を行ったり来たりしている。隼は、怪訝に思った。

 扉を開け、夜をまとった人影が入って来る。

 隼は、ユルテを間違えたかと思いかけ、息を殺した。乱暴な仕草で外套を剥ぎ取り、帽子を脱ぎ、辮髪を無造作にとく男の溜め息が、聞き慣れたものだったので。

 しかし、その息は深く、あらかった。トグルのそんな様子を見た事のなかった隼は、眉根を寄せた。

 石と金属を打ち合わせる音がして、炉に灯が点る。やわらかな橙色の光に、彼の横顔が照らし出された。精悍な狼を思わせる風貌も、漆黒の髪も、懐かしい草原の男のそれだ。

 だが、何かが違う。

 闇の底を見据える緑柱石の瞳に、肩に、疲労を見つけ、隼は眉を曇らせた。都合を考えずに侵入したことを後悔しかけたが、意を決して立ち上がった。


「…………?」


 物音に息を呑んで、トグルが振り返る。そんな反応も、普段の彼にはないものだ。――彼女をみつけ、眸に怪訝そうな、不思議そうな、それから、呆れたような表情が過った。

 その変化を、隼は、じっと見詰めていた。

 トグルの眼差しに、いつもの穏やかさが戻る。うすい唇を動かし、茫然とした、それでいて懐かしさを含む声で呟いた。


「ハヤブサ……」 


『トグル』――言いかけて、言い出せず。隼は、黙って彼を見返した。



「……お前は、いつも、やることが突然だな」


 わらっているような囁きに、隼は項垂れた。トグルのかおに、先刻の険しさはない。幽かに微笑んで首を振ると、黒髪が胸へと滑り落ちた。

 隼は、申し訳ない気持ちになった。


「ごめん。勝手に押しかけて」

「いや、いい。謝るな……。俺に、話したいことがあるのだろう?」


 隼は眼を伏せた。静かな夜の森のような彼の瞳を、真っすぐ見られない。――トグルは、いつも、優しい。その優しさが、彼女を惹きつけもし、不安に陥れもする。

 トグルはそんな隼を、曖昧に哂って見下ろした。


「どうした。こんな夜更けに押しかけて来るからには、差し迫った用事があるのだろう? ……それとも、俺を怒鳴りに来たか? 顔を見たら情けなくて、言う気力をなくしたか」

「…………」

「座れ。茶でも煎れよう。飲むか?」


 隼は、一人で椅子に座るトグルを観ていた。

 トグルは、昼間の群青色の外套を肩に掛け、彼女に横顔を向けている。感情の窺えない眸に、暗い陰が差していた。

 隼は、掠れ声で訊ねた。


「お前……あたしが腹を立てると、判ってしていることなのか?」


 トグルの沈黙は、言葉より雄弁に彼女の問を肯定していた。仮面のような表情は、動かない。

 隼は、自分を抑える為に、一度、深く息を吸い込まなくてはならなかった。動揺する心を捻じ伏せ、平静な口調を保った。


「オダが知りたがっている、お前のことを。どんなつもりで、ここに置くのか。何を、しようとしているのか」

「……小僧が?」

「あたしも、知りたい」


 トグルが、隼を観た。深い森を宿した瞳で。凍りついたその森に星の光が射すのを、隼は見ていた。ソウク・カンル(冷酷な血を持つ者)――透徹な眼差しは、ハル・クアラ部族長の言葉を思い起こさせた。


「トグル、何を考えている? 遊牧民と〈森林の民〉まで統合して、お前が王になるなんて」

「…………」

「あたし達とたもとを分かつようなことを、敢えてする理由は何だ? 嘘をついてまで、あたし達を〈黒の山〉に閉じ込めておこうとした目的は?」


 トグルは再び彼女から顔を背けた。伏せた睫毛の影が、頬に落ちる。優雅ではあるが頑ななその態度に、隼は嘆息した。


「タァハル部族を滅ぼす為に、遊牧民を統一したのか。タイウルト部族を……?」

「……そうだ」


 トグルが、初めて声を出して答えた。相変わらず、感情を含まない口調だ。両膝の上に肘を預け、くらい視線を彼女に当てた。


「タァハルとタイウルトは、部族規模で兵を動かしている。俺達が五氏族だけで対抗して、敵うものではない。統合は、盟約を結んでいる氏族を対象にしたものだ。ハル・クアラ部族と〈森林の民〉は、助勢してくれた」

「…………」

「部族をまとめれば、俺達の兵力は、今までの五倍となる。敵の数を、優に上回る。問題は、その力を――」

「トグル」


 隼が呼び、トグルは口を閉じた。

 トグルには、彼女の細い肢体が、薄闇に射し込む銀の月光のように見えた。今にも消えてしまいそうに儚い。しかし、低い声は凛として、紺碧の瞳は煌いていた。その輝きを見続けることが出来ず、トグルは眼を伏せた。

 隼は柳眉を曇らせ、囁いた。


「お前達の窮状は、判ったよ。奴等に対抗するには、力が必要だということも……。だけど、何故、話し合おうとしないんだ? ニーナイ国を説得して、手を退かせることは考えないのか? 後ろ盾を失えば、タァハル部族とて戦わないだろう」


 トグルは、かぶりを振った。隼は、情けない気持ちになりながら続けた。


「それは、ニーナイ国からお前達への敵意を除くことは、難しいだろうが……。オダが居る。あたし達と《星の子》も、協力できる。話し合って、その間に――」

「ニーナイ国を説得しても、問題の解決にはならない」


 トグルが遮った。静かだが厳しい言葉に、隼はおし黙った。


「ハヤブサ。これは、〈草原の民〉の問題だ。ニーナイ国が手を退いても、タァハル部族は戦うだろう。タイウルト部族と俺達も……。いま戦争を回避したところで、数年後……そう遠くない未来に、衝突する」

「それは、お前達が、平和を維持しようとしないからだ。トグル……現在いまの平和を守ってくれ。戦う以外の方法を、探してくれ」

「それをしていては、俺達は滅亡する」


 トグルは小さく溜息をつき、一息に話し始めた。


「ハヤブサ。俺達の戦いの根本的な原因は、俺達が、この地に住んでいることにある。遊牧しかできない草原で、奪い合わなければ、俺達は生き残れなかった。かと言って、『穢れた血』をもつ〈ふるき民〉の俺達は、ここを出て、他と融け合うことも出来ない。……そうして、ここまで追い詰められた」

「…………」

「俺達が真に欲しているのは、草原の交易路ではなく、人間だ。生き残るため、浄化されるために、〈新しき血〉を求めている……。それを知る故、キイ帝国は、俺達とタァハル部族を噛み合わせ、滅ぼそうとしているのだ」


 隼は凝然と、彼を観ていた。トグルは、眉間に深い皺を刻んでいる。苦悩と哀しみに濁る声を、隼は、初めて聞いたように思った。


「オン大公とニーナイ国と手を結んだタァハルを、許すわけにはいかない。草原の中で、争いの根は断たなければならない。だから、俺は――」

「殺すのか?」


 隼が囁き、トグルは、彼女を見詰めた。残酷なほど冷めてゆく己の感情を意識しながら、答えた。

「……そうだ」


 隼は、鋭く息を吸い込んだ。やりきれないと言うように頭を振り、徐々にその動きを速くしながら続けた。


「だから、滅ぼすのか、トグル。まるで共喰いじゃないか……。お前達もタァハル族も、抱えている問題は同じなのに。何故、共存することを考えない? ニーナイ国も――」

「それには、歴史というものがある」


 トグルは眼を伏せ、穏やかに応じた。嘆く隼を、彼は正視できなかった。


「タァハル部族は俺の祖父を裏切り、父を毒殺した。タイウルト部族は母を奪い、凌辱した。奴等にとっては、俺達も仇だ……。数百年間、俺達はいがみ合い、殺し合って来た。何度も同盟を結び、その度に裏切り、裏切られて来た。溝は、容易には埋められない。天人テングリや《星の子》と言えど、俺達の運命を変えることは出来ない」

「戦えば、同じ事の繰り返しだろうが……!」


 必死に訴えるあまり大声を出しかけて、隼は息を呑んだ。眼を閉じ、天を仰ぐ。拳をかたく握って自分を落ち着かせようとするその姿を、トグルは観ていた。彼女の身体が今にも折れてしまいそうで、痛ましさに眼を細める。

 隼は喘ぎ、掠れた声で続けた。


「……トグル。お前ほどの男が、何故、他の方法を考えないんだ。あれだけの数の氏族長がいて、長老たちがいて、揃って戦うことしか考えられないのか」


 月の女神もかくやという美しいかんばせが、泣きそうに歪んだ。


「憎しみは憎しみで、怒りは怒りで、裁かれる。復讐は、復讐を生む。――そう言って、リー女将軍を救けてくれたのは、お前ではないか。あたし達を……。そのお前が、タァハルとタイウルトを、滅ぼそうと言うのか。自分達が生き残るために他国を犠牲にしてよい理由はないと言っていたお前が、部族ぐるみで人殺しをするのか」


 懸命に訴える隼を、トグルは、無表情に観ていた。


「人を殺して得るものに、どれだけの価値がある? その値打ちを、誰よりも自分に問うていたのは、お前ではないか。殺して、殺されて……残された家族の悲しみは、誰が償う? 略奪された女達の悲しみは……お前が、一番知っているだろう」

「…………」 

「……ごめん」


 一瞬、トグルが気色ばんだので、隼は、急いで囁いた。トグルは舌打ちすると、彼女から顔を背けた。

 滅多に感情を表さない彼が、怒りをあらわにした己自身に当惑しているのを見て……隼は、消え入りたくなった。


「ごめん。言い過ぎた」

「……いや」

「悪かった。言ってはならないことを言った。……許してくれ」


 トグルはすぐに元の無表情に戻ったが、眼差しは沈鬱だった。長い前髪を掻き上げる。骨張った指の間を、黒髪がすり抜ける。

 隼は、項垂れた。


『違う。こんなはずじゃない』 隼は、そう思った。締めつけられるような胸苦しさに、呼吸が止まる。

『トグル。こんな話をする為に、あたしは、お前に会いに来たんじゃない。それなのに……』


「……お前は、間違ってはいない」


 トグルは、溜め息混じりに囁いた。隼を見てはいない。瞼の影におおわれた暗緑色の瞳が、闇の彼方をているのを、隼は、呼び戻せなかった。


「お前の言う通りだ、ハヤブサ。だから、終らせるのだ」


 立ち上がるトグルを、隼は、呆然と観ていた。

 途方に暮れた少女のような顔を眺め、トグルは、わずかに眉を曇らせた。不動の面に悲哀が過ぎったが、彼はそれを抑制した。


「追い詰められた今の状況で、どうどう巡りを繰り返していては、俺達は滅亡する。悪循環を構成する全ての原因を、断たなければならない。これは、その為の戦いだ」


 隼は口を開きかけ、言葉を呑んだ。

 トグルは、また彼女から顔を背けた。


「お前の言いたいことは解る。戦争ではなく、話し合いでそれが出来ればどんなに良かろうと、俺も思う……。だが、俺達には、時間がない」


 隼の唇が動いて、溜め息とも、うしなわれた言葉ともつかない息を吐いた。紺碧の瞳が翳る。

 トグルは、単調に続けた。


「お前には、判らないだろう。俺達の憎しみの溝が、どれほど深いのか。――言葉で理解し合えるなら、追い詰め合うことはなかった。既に、話し合う段階は過ぎている。殺さねば、殺される。滅亡を避ける為には、力で溝を潰すしかない」

「……潰される者達は、どうなる」


 やっと、声が出た。すばやく息を継ぎ、隼は反論した。


「その為に殺される者達は、どうでもいいのか? そうまでして守らなければならない民族なのか。お前が、そう思っているだけではないか?」


 言いかけたトグルを、隼は遮った。一語一語を相手の心に植えるように。


「国がなくても、民族を失っても、人は生きて行ける。あたし達がそうだ……。人は、他人に守られなくても、自分の人生を生きられる。トグル……お前たち為政者が国を守ろうなどとするから、争いが起こる。民族を――。民は、巻き込まれているだけだ」

「俺は、そうは思わない」


 今度は、隼は、言葉を探す余裕がなかった。厳格な彼の口調に、息を呑んだ。


「ハヤブサ。それは、他所者よそものの理屈だ。第三者の理想だ。俺達は、古来、戦うことで問題を解決して来た。そのように頭から戦争を否定されたら、これまで部族の為に命を落して来た兵士達は、浮かばれない」

「…………」

「俺は、お前とは違う人間だ。違う考え方をする」


 隼は口を開けたが、何も言えなかった。もはや何を言っても無駄であることを、ぼんやりと理解した。絶望が心を浸し始める。

 切り裂かれるような痛みを胸に感じ、隼は眉をひそめたが、トグルの表情は変わらなかった。凍りついた無表情は、相手の心も凍らせる。――と、その眸が揺れた。

 冷静だったトグルの視線が揺れ、内心の苦悩を表した。横を向き、舌打ちをする。額に片手を当て、そっとぼやいた。


「何故、戻って来た」

「…………」

「どうして、〈黒の山ケルカン〉に居てくれなかった。ここは、お前の居るべき処ではない……」

「何故、教えてくれなかった?」


 隼の声が震えた。優しさに。――草原の男の優しさに、心が震えた。


「ニーナイ国が、タァハル部族の味方についたことを。お前達が、そこまで追い詰められていたことを。何故? ……あたし達では力になれないのか、トグル。こんな事態を招いた責任は、あたし達にもあるはずだ」


 しかし、トグルはかぶりを振るばかりだった。彼女を見ようとしない。

 寂しさに、隼は溜め息を呑んだ。


「お前達とニーナイ国の問題に手を出したのは、あたし達だ。オダを助け、リー将軍を援けることを考えて、その後の、お前達のことを考えていなかった。あたしは――」

「自惚れるな」


 峻烈に、トグルは遮った。凄みのある声に、隼は絶句した。


「思い上がるな。お前のそういう考え方が、俺は嫌いだ。お前の為ではない……。他人が思惑どおりに動いたと思うな。何が解る――〈草原の民〉ではないお前に。俺達のいかりの、苦しみの、いったい何が解ると言うのだ」


 くらい瞳が隼を映し、すぐ、伏せられた。口調を和らげて、トグルは続けた。


「俺が間違っていると思うなら、そう思うがいい。しかし、お前は部外者だ。……ここは、お前達のやり方が通用する処ではない。そんな……優しいものではない」


『トグル……』 呼びかけたくて、けれども、隼は声を失っていた。物思いに沈む彼の眸を――まるで、焦がれているような。――ただ見詰めていた。


「お前の居場所は、俺達には遠い、蜃気楼ガンダルヴァのような国だ。〈黒の山ケルカン〉やニーナイ国のように――平和な世界に住んでいるお前達だから、そんな考えを持つことが出来る。俺達は、下界で生きて行かなければならない。憎んで、戦って、血を流して。俺達自身のやり方で、進むしかない」

「…………」

「それは、お前には、関わりのないことだ」


 隼は、眼を閉じた。彼の思い遣りを理解しながら、それでも――『トグル』

『あたしは……ただ、お前を放っておけない。お前達を。……それだけなんだ』


「〈黒の山ケルカン〉に帰ってくれ、ハヤブサ」


 眼を開けて、隼は、トグルを観た。苦痛に濁る囁きを聞いた。


「ここは、お前の居るべきところではない。もう、俺達を、放っておいてくれ」

「帰らない」

「…………」

「お前の考えを変えるまでは……帰れない、あたしは」


 紺碧の瞳に宿る星を見詰め、トグルは黙った。隼は、そっと繰り返した。


「トグル。あたし達は、天人テングリじゃない。判っていて、お前がそう言うのなら。……どんな理由があろうと、目的があろうと、人を殺せば、それはただの人殺しだ。そうと知っていて、なお、戦うと言うのなら」

「…………」

「あたしは、お前を理解できないよ……」


 トグルは彼女から顔を背けた。隼も。そうして逸れた二人の視線は、出会うことはなかった。

 隼は、面を上げて歩き出した。トグルの傍らをすり抜けて行こうとすると、彼が声をかけた。


「オダと言ったな」


 隼は足を止めて振り向いたが、トグルは、彼女を見てはいなかった。表情のない横顔に嵌め込まれた瞳は、遥か遠くを見据えていた。


「あの小僧の面倒は、俺がみよう。連れて来い。ニーナイ国のことは気にしなくて良いから、お前達は、〈黒の山ケルカン〉へ帰れ……」


 隼は、黙って踵を返した。



 彼女がユルテを出て、扉が閉まる音を聞くまで、トグルは動かなかった。足音が去ってから、椅子に腰を下ろす。背もたれに沈み込むように身を預けると、天井を仰ぎ、深く嘆息した。身体の中の全てを吐き出そうとするかのように。

 天窓は半ば開かれていた。トグルの瞳に、星の光は真っすぐ射し込んで、底を照らした。冷たく汚れない銀の光に向かい、声を立てずに嗤った。


「タオ」


 応えはない。陰鬱に、彼は続けた。


「返事をしろ。お前に黙られると、気味が悪い……。言いたいことがあるのなら、さっさと言え」

「ハヤブサ殿を引きめないのか? 兄上」


 わずかに扉を開けて、タオが顔を覗かせた。トグルは唇を歪める。

 タオは、戸惑いと苛立ちのこもる口調で問い掛けた。


「ハヤブサ殿は、話せば解って下さる御方だ。兄上なら、説得できるであろう」

「愚かな」


 低い声は疲れ、怒っているように素っ気無かった。


ハヤブサあいつがああいう人間であることは、最初から解っていることだ。奴等が、奴等である所以ゆえんだ」

「…………」

「あいつは、あれでいい。くだらんことを言うな」


 唸るように呟く兄を、タオは、言葉を無くして見詰めた。厳しさと優しさの混合した横顔を。


「タオ。余計なことをするなよ」


 妹をじろりと一瞥して、トグルは言った。


「しかし――」

「すれば、お前とは縁を切る」


 タオは、強く眉根を寄せた。兄が今、どれだけ危うい場所に立っているのかを、理解したのだ。

 彼は、ふいに口調を緩めた。


「判ったら、もう休め。明日も早い。……大丈夫だ」


 タオは、兄が己自身に言い聞かせているように聞えた。


「大丈夫だ。そう、何度も倒れはしない……。俺も寝る」

「……おやすみなさい、兄上」

「ああ。おやすみ」


 椅子の背にもたれる兄を、タオは、不安げに見下ろした。独りにするのは気が退けたが、彼がそう望んでいることは解った。力になれないことが、もどかしい。

『兄上……』

 ユルテを出ながら、タオが振り向くと……部屋を浸す蒼い闇に、トグルの姿は融け込もうとしていた。





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