第一章 氏族長会議(4)
4
「動くな」
レイは、どきっとして立ち止まった。
彼女は、隼に言われた丘の上に辿り着いたところだった。黄金の草の葉が揺れる地平を、かるく息を弾ませながら眺める。数頭の羊と馬が、のんびり草を
昼下がりの陽光がうらうらと降り注ぐ斜面に、半ば寝そべっている鷲がいた。鳩の姿もある。先刻の台詞は、彼が少女に言ったものらしい。
「動くなよ。また
「だあって、飽きちゃったんだもん」
草原に腹這いに寝そべった少女が、ぷくっと頬を膨らませる。鷲は苦笑した。そうしながら、しきりに手を動かしている。立てた片方の膝の上に板をのせ、その上に、彼は少女を描いていた。
「描けっつったのは、お前だぜ」
「すぐ終るって言ったじゃない」
「じっとしていないから、描き直さなきゃならないんだろうが。てきとーなのでいいんなら、すぐ出来るけど」
「いや。ちゃんと描いて」
「わがままもん」
レイは、近付くのを躊躇った。鳩が居るからというのではない。こんなに穏やかな表情でくつろいでいる鷲を見るのは、初めてだったのだ。無精髭を剃り落とした素顔も。
長い銀髪を一つにまとめ、稀にみる長身を悠然と横たえた彼は、最初に会った時より数歳若返って見えた。軽口を叩きながらも、手元に注ぐ眼差しは真剣だ。
「もういいぞ、動いても」
「描けたの?」
「まだだ。もう少し、待ってろ」
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
普段の彼等の会話も、こんな風だったのだろうか――『ワシさんと、タカも』 と、レイは思った。
少女は、足をぶらぶら揺らして、鷲に話し掛けた。
「トグルの顔、描ける?」
「描けるけど……何故だ?」
「だって。格好いいじゃない。ぼーっとしてるけど」
「まあ、描き甲斐のありそうな顔では、あるけどな……」
「あたし、トグルのこと好きよ、お兄ちゃん」
鳩にかかると、草原の《黒い狼》も、単に『ぼーっとしてる』男になるらしい。鷲は唇を歪めたが、手は止めなかった。
少女は頬杖を突き、無邪気に微笑んだ。
「いい人だもの。タオもいい人だけど、やっぱりトグルがいい。どうして会いに来てくれないのかな。隼お姉ちゃんも待ってるのに」
「…………」
「ねえ。トグルって、隼お姉ちゃんが好きなんでしょう? お姉ちゃんも、トグルを。なのに、どうして避けてるの? 喧嘩しているわけでもないのに」
「トグルには、トグルの考えがあるんだろ」
「嫌だな。そういうの」
『ハヤブサさんと、トグリーニの族長が?』
レイは少し驚き、同時に納得した。そう考えると、腑に落ちることがあった。
唇をつんと尖らせる、鳩。鷲は、ずっと苦嘲いしている。
「考えがあっても、黙っていたら判らないじゃない。隼お姉ちゃんが可哀想よ。雉お兄ちゃんも、何だか暗いし」
「…………」
「せっかく皆そろったのに、どうしてこうなっちゃうの? 嫌よ、あたし。いつもの皆に……戻れないのかなあ」
「ほら。こんなもんだろ」
絵を描きあげた鷲は、板を差し出すと、少女をやんわりとたしなめた。
「そんな顔していると、本当に、そんな顔になっちまうぞ」
「だってぇ……」
ふくれながらも、少女の瞳は嬉しげにきらめいていた。レイの場所からは絵は観えなかったが、きっと上手く描けたのだろう。
鷲は、自分の腕を枕に横臥する。草の絨毯のうえで豪快に伸びをするさまは、やんちゃな少年のようだ。顔じゅうを口にして欠伸をする彼に、鳩が注文した。
「ね。今度は、トグルの顔描いて、お兄ちゃん」
「やだ」
「……そんな、一言で断ることないじゃない」
「やだもん」
「繰り返すことないと思うな。描き甲斐がありそうって言ったじゃない」
「描き甲斐がありそうでも、やなの。野郎なんざ描きたくねーよ」
「隼お姉ちゃんに、あげようと思ったのに」
「はあ?」
鳩がぽそっと呟き、鷲は、口をぽかんと開けた。
「……お前、ばかか?」
「そこまで言わなくたって、いいじゃない」
「じゃなかったら、あほ。お前なあ、いくら隼だって――」
「ちょっと口が滑っただけなんだから、言わないでよ。……はい、判ってます。莫迦なんです、あたしが。トグルに会えなくて淋しがってるのは、隼お姉ちゃんじゃなくて、あたしなの。ちゃんと判ってるわよ」
「…………」
「だって、悔しいんだもん。あたしには、何もできないの。本当は、自分の為なんだって判ってる。余計なことなんだろうけど、でも」
レイが窺うと、鷲の片方の眉が持ち上がっていた。じっと少女を見詰めている。
鳩は、悲しげに溜め息をついた。
「
「……鳩」
鷲は眼を細め、低く囁いた。少女は項垂れた。
「鷹を避けているのは、お前の方だろうが」
「うん。だけど、嫌なんだもん」
「…………」
「あのひとは、鷹お姉ちゃんじゃない。わかっていて、お姉ちゃんの顔を見るのが辛いの。『どうして?』って言いたくなる。どうして……お姉ちゃん、あたし達を忘れてしまったの? って」
「…………」
「鷹お姉ちゃんはどこへ行ったのって、訊きたくなる。あの人に。『返して』って、今にも責めてしまいそうになるから――」
「……そういう考え方は、俺は好きじゃないな」
レイは、面を伏せているしかなかった。鷲の声に視線を戻す。彼は、寝そべったまま真顔になっていた。
少女が顔を上げる。
「お兄ちゃん」
「鳩。鷹に会えなくて淋しい気持ちと、あの
「…………」
「違う問題を混ぜて考える奴は、俺は嫌いだ。雉やオダが、あの娘にそんな風に接しているか? 隼が――あいつは少し混乱しているが、自分の問題と鷹のことを混同して、するべきことを見失ってはいない。鷹を言い訳に使うんじゃない。それはそれ、これはこれだ」
「うん……」
「もっとも、」
鷲が少女に向けた苦笑は、とても、とても、優しかった。
「……俺も、時々一緒にしちまって、眠れなくなるけどな」
「お兄ちゃん」
「さてと」
ほっとする少女に哂い返し、鷲はひょいと上体を起こした。ゆたかな銀髪が背中を流れる。
「戻るか、鳩。腹がへった。そろそろ隼が――」
「うん。お兄ちゃん?」
丘の方へ向き直った鷲の言葉が、途中で止まった。佇んでいたレイと、目が会ったからだ。鳩も気づき、息を呑んだ。
鷲は、若葉色の眸をこころもち見開くと、呟いた。
「驚いたな」
「お姉ちゃん」
鳩も呆然としている。レイは、表情の選択に困った。
レイ王女が、二人にかける言葉を探しながら会釈すると、鷲は挨拶を返した。しかし、二人とも黙っている。
レイは躊躇していたが、ナンを持って来ていたことを思い出し、近づいて行った。
「よお、お姫様。大丈夫か?」
鳩は決まり悪そうにしていた。レイが困っていると、鷲の方から声をかけた。穏やかな口調と表情に、レイは安堵した。
「これ……ハヤブサさんと私で、作ったんですけど」
「お。ありがとう」
途端に、鷲が嬉しそうに立ち上がったので、レイはひるんだ。――改めて、大柄だと感じる。雉より、シジンよりも。彼の腰が自分の胸の高さにあると気づいた。
鷲は彼女から包みを受け取ると、片手の上に広げた。
「へえ。珍しく、上手に焼けているじゃない。良かった。俺、いい加減、俺が作った方がいいんじゃないかと思い始めてたんだ」
「…………」
言い返せる言葉がない。
鷲は、低い声を喉の奥で転がすように笑った。若葉色の瞳は、明るく澄んでいる。
彼女の動揺に気づく風なく、鷲は、鳩の向かいに胡座を組んだ。
「ちょうど良かった。腹へったなって思っていたところだったんだ。ありがたく頂くよ」
「では、私は、これで――」
「へ? 何で」
元来た道を戻ろうとしたレイは、のほほんとした鷲の声に呼び止められた。彼は、邪気のない少年のような眼差しで、彼女を見た。
「せっかく来たのに。一緒に喰っていけばいいじゃないか。面倒だろ? 行ったり来たり」
「…………」
「座れよ、お姫様。一緒に食べよう。話もしたいし、な?」
鳩が頷いた。少女は上目遣いに彼女をみて、照れたように微笑んだ。
それで、レイもぎこちなく微笑んだ。気持ちが緩むのを感じ、そっと腰を下ろす。
鷲は片目を閉じて笑った。――レイは、少しだけ、タカがこの人を好きになった理由が判る気がした。
「ほれ、鳩。ほい、お姫様」
「はい。ありがと」
「あ……有難うございます」
王女と隼が苦労して焼き上げたナンを、二枚ずつ、鷲は配った。大きめに作っておいて良かったと、レイは思った。自分と鳩はともかく、彼は絶対足りなかったろう。
革袋に入れた乳茶は、それぞれの椀に入れて飲む。
草原にぺたんと腰を下ろして、ふう、と息をつくレイを、鷲は、思い遣りをこめて眺めた。
「重いか?」
「いえ……重さは、そんなに。ただ、下から押しあげられているみたいなんです」
「うーん……」
鷲は、困って頭を掻いた。鷹と自分の子どもなのだが、実際に産むのはレイなので、複雑なのだろう。
「動いてる?」
鳩が、窺うようにレイの顔を見る。ひそめた声は期待に満ちていた。
レイは、少女にふふと哂い返した。
「ええ。ときどきね」
「本当か?」
鷲はにわかに面を輝かせた。大袈裟ではないが表情の豊かな人だな、とレイは思う。
鳩は両手を地面につき、彼女のお腹を覗き込んだ。
「男かな、女かな」
「女」
鳩が歌うように言うと、間髪入れずに鷲が答えた。少女は彼を振り向いた。
「どうして判るの」
「判るから」
「嘘。そんなの、判るわけないじゃない。勝手に決めないでよ、お兄ちゃん」
「どうして決めちゃいけないんだ、俺の子なのに。俺は、女の子がいい。だから、俺の子は女なの」
「そんなこと言って……男の子だったら、どうするのよ」
「女だもーん!」
えっへん、と胸を張って言い張る、鷲。鳩が呆れているのを見て、にやっと白い歯を覗かせた。
レイが思わず笑い出す。気を取り直して鳩も笑い、場は、ひとしきり優しい笑声に包まれた。
鳩は瞳を煌めかせ、そうっと手を伸ばした。
「ね。触ってもいい? お姉ちゃん」
「どうぞ」
「鳩。ずるいぞ、お前」
「ワシさんも、どうぞ」
レイが促すと、鷲は弱ってぼりぼり頭を掻いた。せっかく綺麗に纏めていた銀髪が、ほつれてしまう。しかし、鳩が彼女のお腹に掌を当てるのを、気になるらしく、横目で見ていた。
「……わあ、動いてる。凄い。お兄ちゃん、本当に動いているわよ」
「…………」
「ワシさん」
再度促すと、鷲は、さらに自分の頭を掻き回した。途方に暮れた少年のようにレイの顔を見て、お腹を見て、もう一度、彼女の顔を見る。また顔を背けてしまった。
「お兄ちゃん」
鳩の声に背中を押され、ようやく、鷲はレイに向き直った。
「……それじゃ。お言葉に甘えて――」
レイは黙って微笑みながら、鷲がおずおずと――本当に
彼の手は大きく、片手だけで、彼女の腹部はすっぽり包まれた。ふわりと服の上から当てるだけの掌から、ぬくもりが伝わる。
鷲は、神妙な表情でそうしていたが、やがて、当惑気味に呟いた。
「……なんか、落ち着きのない子だなー。いつも、こうなのか?」
「今日は特別。多分、喜んでいるんだと思う」
レイは、ふふっと哂って囁いた。
「久しぶりに会えて……『お父さん』が、そうしてくれてるから」
「大丈夫か?」
腹部に鈍い痛みが走り、レイが思わず顔をしかめたので、鷲は、大仰に狼狽えて手を離した。
「ごめん。何か、悪いことを」
「ううん、大丈夫」
鳩が目をまるくしている。レイは、そろそろと息を吐き、二人を安心させるべく微笑んだ。
「ちょっと、蹴られたの。びっくりしただけだから……。そんなに心配しないで下さい」
しかし、鷲の表情は冴えなかった。眉根を寄せて黙り込む。彫像のように端整な顔の中、切れ長の眼が真剣なのが印象的だった。
鳩が、不思議そうに首を傾げる。
鷲は、真っすぐにレイを見た。
「済まない。あんたには……。俺が謝っても仕方がないんだが」
レイは、ドキリとした。正面から見詰める彼の、真摯さに。
鳩も息を呑んでいた。少女には構わず、彼は続けた。
「子どもを産むのは大変だと、俺は知っているつもりだ。あんたをそんな危険に晒して、申し訳ない……。出来ることがあったら、言ってくれ」
「有難うございます」
レイは俯いた。彼にそう言ってもらえることを、素直に喜んでいた。
「タカが聴いたら、きっと、嬉しいと思います。タカを救けてくれたワシさんに、私が出来るのはこれくらいですから、気にしないで下さい。……自分とタカの為に。そう、思えるようにしてくれたのは、ワシさんです。だから、お礼を言うのは、私の方です」
「いや、俺は、何もしていない」
鷲は、彼女に横顔を向けた。片手で前髪を掻き上げる。
「俺達が見ているのは、鷹なんだ。あんたじゃない。残酷な言い方だが。――雉も隼も、俺も……あんたに、鷹であることを期待している。それが申し訳ないんだ」
鳩が、目を丸くする。
沈黙しているレイの前で、鷲は、独語のように話し続けた。懸命に言葉を探して。
「鷹なら、そう言うだろう。逆に、相手が鷹なら、俺は、こんなことは言わない……。俺達は、
「……何となく」
「俺達は、
鷲は、乱暴に頭を掻いた。長髪がすっかりほつれてしまっている。ナンを持っていない方の手で纏めていた紐を解くと、銀髪は風にあおられ、光に透けて輝いた。
「上手く言えないが……こんなことになった愚痴を、あんたは言っていいと思う。その方が気楽だ。あんたに鷹を重ねなくて済む……」
鳩は眼を瞠ったまま、二人を交互に眺めている。
レイは頷いた。鷲が何故こういうことを言うのか、彼女は理解していた。
「心配して下さらなくても、私、我慢できなくなったら、そう言います」
鷲は、窺うような眼差しを彼女に当てている。王女が
レイは、改めて二人に微笑みかけた。
「大丈夫。無理しているわけじゃありません。一つだけ、お願いします。シジンに会えるまで、私を守ってくださいね」
「……約束しよう」
鷲は、ちらりと鳩と顔を見合わせると、まだ戸惑っている表情で頷いた。レイの差し出した手を、握り返す。
レイは、ほっと息をついた。
「冷めないうちにと言われたのに、ハヤブサさんに怒られます。珍しく上手に出来たんですよ。私が作ったナンを、食べてみて下さい」
「ああ。そうだな」
「いただきまあす」
緊張の解けた鳩が、元気に言ってナンに齧りついた。鷲は少女を眺め、くすりと哂った。
そうして、彼があんぐり口を開け――ばくばくばく、と三口でナンを食べてしまったので、今度はレイが眼を瞠った。
「は、早いですね、食べるの」
「そうか? ……うん、美味いよ、今回は。お姫様にしちゃ、上出来だ」
「そんな食べ方で、味なんて判るの? お兄ちゃん」
呆れる鳩に、鷲は親指を立てて見せると、あっという間に二枚目のナンも平らげた。「ちょっと薄い」などと言いながら。
レイは、心から笑った。
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