第四部 蜃気楼 燃ゆ

第一章 氏族長会議

第一章 氏族長会議(1)


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 北の草原にも、季節は巡って来る。

 日差しは日ごとに明るさを増し、凍った雪の間から流れ出す水音が聞こえるようになった。透明な雪解け水は、細い流れを集めて小川となり、まだ土色の勝る荒野へと流れていく。人の手の加えられていない川は、うねうねと自由に曲がり、より低い大地を求め、北へと下っていた。

 遊牧民の家畜小屋からは、この春産まれた仔羊の声が響いていた。


 牧民たちがありふれた暮らしを送る一方、部族をまとめる天幕の周囲では、血なまぐさい噂話が流れていた。東の部族のものとはやや形の異なるユルテ(移動式住居)の屋根は高い。風に飛ばされぬよう、固定された羊毛布デーブルの色は褐色だ。

 部族長の天幕の周りに建てられた複数のユルテのなかに、ひときわ小さく古びたユルテがあった。扉には外から閂が挿してある。槍を手にした見張りもいた。戦で得た囚人を幽閉しているのだが、そういう待遇は珍しい。


 ユルテの中では、男が一人、臥せっていた。

 粗末な寝台に横たわる男の髪は、冬の日差しを集めたように薄黄色い。キイ帝国人に似た金赤毛だ。肌は南方の者らしい褐色をしている。擦り切れた羊毛の長衣デールを着て、若いが痩せた身体は熱を帯び、呼吸は浅くあらかった。

 かれの傍らに坐る男も、若かった。臥床している仲間と同じ褐色の肌に、蜂蜜色の金髪。あおい瞳は南方の海のように鮮やかだが、深い悲嘆に縁どられていた。右手に、麦粉粥バンタンの入った木の器を持っている。火の気のないユルテの中で、器から昇る湯気だけが、温かい。男の長衣デールの左の袖は、不自然に垂れていた。中にあるはずの腕が失われているからだ。故に、彼は、相棒に食事をさせたくても匙を使えず、器の縁をそっと口にあてがってやるしか出来なかった。


 臥床する男の右脚は、膝の上で断ち切られていた。傷口は化膿し、じくじくと滲み出た膿が長衣に染みて、青年の生命を蝕んでいる。

 右脚のない男は、堰きこんだ。左腕のない相棒は眉を曇らせたが、出来ることは何もなかった。


「シジン、もういいよ。お前が食ってくれ」


 臥せる仲間は弱々しく言ったが、相棒は首を横に振った。囚われて一年以上、二人きりでこの境遇に耐えて来たのだ。一方がもう一方を喪うなど、耐えられなかった。


「食べてくれ、ナアヤ。もう一口」


 シジンは懇願したが、ナアヤは、熱のこもる息を吐くだけだった。シジンは、器を持つ手を膝に下ろした。麦粉粥からも友からも、温もりが次第に失われていく――。


 ガタゴトと音を立てて、扉の閂が外された。

 錆びた蝶番を軋ませて、革鎧を身に着けた兵士が二人、入って来た。天窓から射しこむわずかな光の中で眼を細め、囚人たちを一瞥する。

 黒目黒髪の遊牧民の男達は、赤茶けた戦闘用の長衣デールを着ていた。部族をあらわす特徴的な色柄いろがらは、〈草原の民〉でも西方に縄張りをもつ、タァハル部族のものだ。

 一方が、短く声をかけた。たどたどしい交易語だ。


「出ろ、腕のナイ方」


 シジンとナアヤは、顔を見合わせた。シジンは、落ち着いて答えた。


「何の用だ」

「通訳ガ要る」


 異国人の彼等が生かされているのは、利用価値があるからだ。これまでも、たびたびシジンは連れ出され、部族長の天幕で、キイ帝国やニーナイ国から来た使者の通訳をさせられていた。彼等は交易語を用いるが、こみいった内容や話の真偽を確認するため、ミナスティア国の元神官の知識は重宝されている。

 シジンは、ぶっきらぼうに応じた。


「ナアヤの食事と、傷の手当てがまだだ」

「スグ終わる」


 兵士は、唸るように言った。

 シジンは、仲間の枕許に器を置き、安心させるように微笑んだ。


「行ってくる。俺に構わず、食べていてくれ」

「シジン」


 病者は気遣わし気に呼んだが、彼を留めることは出来なかった。シジンは静かに立ち上がると――薄汚れた姿なりをしていても、訓練された身のこなしは優雅だ。――抗うことなく、兵士について行った。



 薄暗いユルテのなかから急に明るい陽光の下へ連れ出されたシジンは、一瞬、眼を細めた。軋むような痛みがこめかみに走る。踏みつぶされた草と、ぬかるんだ土と皮革と、馬と羊の糞のにおいが押し寄せて、息を詰まらせた。

 草原には、タァハル部族のほかに、小柄で緋色の髪をもつ男が数人集まっていた。麻と綿の衣を重ねて着ぶくれたその姿は、一見して、砂漠から来たのだと判る。

 蒼天の下、男達は、何やら言い争っていた。革鎧を着けて長剣や弓矢で武装した牧民に、武器をもたないニーナイ国の男達が囲まれている。威圧されているのは明らかだ。

 シジンは、訛りのつよい交易語に耳を澄ませた。


「シェル城を奪還したら、我々に引き渡してくれるという約束だったではないですか。地下灌漑カレーズを修繕して」

「知ラんな」

「冬までに城壁の修復を行わなければ、とても住むことは出来ません。我らに、凍死せよと仰るのか」

「騎兵タル我ラに、城を築く手伝いをセヨと? 貴様ラの如く、地を這エと言うのか」

「手を貸して下さるのではなかったのですか――」


 どうやら、タサム山脈とエルゾ山脈の間の土地の所有をめぐり、ニーナイ国とタァハル部族の間で齟齬が生じているらしい。と、シジンは判断した。かの地は、何代にもわたり、定住民と遊牧民が所属を争って来た。トグリーニ部族の前はタァハル部族が、その前はニーナイ国が、支配していたはずだ……。

 記憶をたどるシジンの肩を、タァハル部族の兵士が小突いた。


「食糧が不足シテいる。麦を寄越セと言エ」


 シジンは振り返り、兵士の顔をじっと観た。指導階級とは思えない、一介の兵士がこんなことを要求してよいのかと、不審を覚えたのだ。

 いかつい風貌の男は、ぎろりと黒目を動かして彼を見据えた。

 シジンは軽く嘆息すると、男たちの環に歩み寄り、声をかけた。


「話してもよいか?」


 たどたどしい交易語で交渉していたタァハル部族の男たちは、面倒を押し付けられる人物が現れて安堵した様子で、数歩下がった。代わりに、ニーナイ国の男達は、不安げな視線を彼に向けた。これまでにここを訪れた使者とは違う、初めて観る面々だ。

 シジンは少し考え、代表らしき男に向き直った。


「俺は、ミナスティア国から来た者だ。力になれることがあるか?」


 この言葉に、彼等は顔を見合わせた。典型的な南方民の容姿を信用する気になったのだろう、代表者が進み出て一礼した。


「私は、ニーナイ国の神官ラーダです(注*)。信奉する神はウィシュヌ(慈悲と平和の神)です。ミナスティアの御仁、彼等の言葉が分かりますか?」


 神官と聴き、シジンの藍色の眸の底がきらめいた。

 またとない機会だった。彼等は正式の使者ではなく、部族長付きの通訳者はここにいない。この隙に、自分達のことを伝えられるかもしれない。

 彼は、男達をぐるり見渡すと、交易語に神官の用いる言語を雑ぜて答えた。


「ああ。俺も、昔は神官ティーマだった。主神はルドガー(暴風神)だ……[ここへ来て二年、片言だが、草原の民の言葉は理解出来る]。奴らは、麦を寄越せと言っている。[足りないのか?]」


 ラーダは、心持ち眼をみひらき、彼を見詰めた。それから、同様に、祈祷の際にもちいる神聖語を交えて答えた。


「[既に、約定通りの麦は支払いました。それ以上にとは]、如何に? ……トグリーニ部族を追い払ってシェル城を奪還し、かの地を復興させるために、我々は協定を結んだのです。[しかし、彼等は約束を果たしてくれてはいません]」

「…………」


 シジンは口を閉じ、相手の言葉について考えた。自分達が囚われている間に、外の世界で起きていたであろうことに思いを巡らす。


「抗議はやめた方がいい。[奴らは、貴方がたを対等だと考えていない。……タァハル部族長の後宮には、キイ帝国の大公家の息女むすめが入っている]」


 早口に囁くと、ニーナイ国の神官ラーダは、日焼けした頬をこわばらせた。以前、タァハル部族とトグリーニ部族が相次いでシェル城を攻めた際、キイ帝国は彼等に手を差し伸べなかった。常に他国の思惑に翻弄されている自分達の立場に、思い至ったのだ。


「[キイ帝国の策略だというのですか? この戦い、自体が] 我々は、どうすれば――」

「オイ」


 奇妙な言葉を話していると警戒したのだろう、兵士の一人が、馬用の鞭の柄でシジンの肩を突いた。


「何ヲ話してイル? サッサと済ませろ」

「取り急ぎ、出せる物はないか?」


 シジンは怪しまれない風を装うことにした。ニーナイ国の神官は、意図を察して頷いた。


「麦を運んで来るには時間がかかります。瓜と葡萄酒なら、余裕があります」

「それでいい」


 酒という単語を耳にして、タァハル族の男達の相好が崩れた。シジンは、内心で胸をなでおろした。

 王をもたぬ、民主の国。軍をもたぬ、平和の国。――かつて、ニーナイ国を理想視していたことを思い出す。今でもそれは変わらないはずだが、平和を維持するには代償が必要だった。他国の軍事力に振り回される彼らを、気の毒に思う。

 シジンは、乾いた唇を舐め、慎重に言った。


「……俺は、シジン=ティーマという。協力に感謝する。[仲間が傷つき、囚われている。救けてくれるなら、俺も、情報を渡そう]」


 ウィシュヌ神の神官は、改めて彼を観た。無精髭のはえた頬はこけ、不揃いに伸びた金髪は首の後ろで無造作に束ねられている。全体に修行者サドゥさながら薄汚れているが、窪んだ眼窩からこちらを見詰める眼光は炯々けいけいとして怜悧だ。――まだ若く、囚われの身であっても、絶望しきってはいない。

 神官ラーダは、力をこめて頷いた。






―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(注*)ニーナイ国の神官ラーダ: オアシスの村ひとつに最低一人はいる設定ですが……ここで登場しているのは、勿論、オダの父です。

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