第五章 荒野の少年(5)


             5


「どうかなされたか? 兄上」

「いや」


 深夜。トグルは自分のユルテ(移動式住居)に戻り、ようやく一息ついたところだった。外套を脱ぎ、長い脚を小卓に載せ、腕を組んだ格好で。

 眼を閉じていた兄がふと哂ったことに気づき、タオは声をかけた。乳茶スーチーを卓に置く。

 トグルは眼を開けたが、妹を見ることはなかった。


「俺も、口数が増えたものだと思ってな……」


 タオは怪訝そうに首を傾げたが、トグルは頓着せず、茶を口に含んだ。ひとくち飲んで卓上に戻し、煙管キセルに火を入れる。細い吸い口を唇の端にくわえ、煙を追って視線を宙に彷徨わせた。薄紫の煙がゆうらり揺れて、天窓へ上ってゆく。

 彼は、再び、うすく嗤った。

『まったく――』今度は、声に出さず考える。『何を考えているんだ、俺は』


 あの少年を助けた理由が、トグルには判らなかった。無視して構わなかったものを、愛馬ジュべに乗せ、戦場に連れて行き、戦術を説いた。歴史を教え、天人テングリに対する己の感情を吐露し、要求を受け入れた。

 一連の行動のどれについても適当な説明を思いつけず、自嘲していた。『ワシに乗せられた』などと、下手な言い訳をしたことも。

『俺は、期待しているのか?』 思いつき、ますます嗤いたくなった。――あの小僧に?

 年端もゆかず、真っ正直なだけの……己の感情を制御する術も知らない。課せられた責務の大きさを自覚してはいるが、その為に何を成すべきか、まるで判っていない。

 ニーナイ国も酷なことをする。あんな子どもに使者をさせなければならぬほど、人材が枯渇しているわけではなかろう。――否。

 それだけ追い詰められているのか。子どもが危機を覚えるほど。

 トグルは、暗澹たる気持ちで煙草をんだ。――定住民がタァハル部族と同盟を結んだところで、信用できるはずがない。将来の不安を払拭できない砂漠の民の心情を、思い遣ったのだ。


『五千人もの人々が、全員、敵だったとでも言うんですか!』


 少年の若い声がよみがえる。曇りのない空を宿した瞳が……。煙を吐き、トグルは考えた。

 彼等をそこまで追い詰めたのは、自分なのだ。


『……そうとも。俺は人殺しだ』


 眼を閉じる。まなうらに現れたのは、友の黒曜石の瞳だった。今は亡き、シルカス・ジョク・ビルゲ。

 ジョクは、思い出のなかでは、いつまでも、元気な子どもの頃の姿だった。と言っても、他の子のようにはいかず、よたよたと身体を揺らして歩き、時に這い……長時間立っていることは不可能だったが。

 彼の心は、誰より自由だった。口が達者で、皮肉屋で……声を喪った後は、雄弁に瞳が語った。時に、トグルが戸惑う程。


『気をつけて……。終わったら、一緒に飲もう』


 トグルの知る、それが、最後の彼の『言葉』だった。忘れようのない、瞳の中の微笑……病に犯されてなお、輝くばかりに美しい。

 その輝きは、何故か、赤毛の少年の瞳にもあるようだった。

 無論、二人の違いは明らかだが、汚れの無い意志の光は、同様に彼の心に作用した。一方は、彼に対する敵意を、もう一方は、限りない理解を表している。


『僕は貴方を赦さない。いつか必ず、殺します』

『ディオに、頼む。クリルタイを……』


 トグルは溜め息を呑んだ。鷲の伝えたジョクの言葉が意味するところを、彼は充分知っていた。

『やはり、お前もそこへ行くのか、ジョク』

 友の黒い瞳が、頷いたようだった。それは、死の深淵のなかに永遠を見詰め、永遠のなかに生を見出す眼差しだった。

 少年の彼が微笑して、もう一度、彼自身の声で告げた。


『ディオ。クリルタイを……』


 今度こそ、トグルは嘆息した。深い息とともに煙を吐く。椅子が倒れそうなほど背にもたれかかり、首を反らして天井を仰いだ。

 タオが驚いているが、無視することにする。


『簡単に言うな、ジョク――シルカス族の賢者よシルカス・ビルゲ。お前は言いたいことを言っていれば良いが、実際に苦労するのは俺だぞ。俺が進退きわまったとき、お前は知恵を貸してくれるのか? いつだって、俺がを上げるのを笑って観ているのが、お前ではないか』


 シルカス・ジョク・ビルゲは答えない。ニーナイ国の少年も。二人の眼差しから、トグルは、逃れられないと感じた。

 答えが一つしかないことも。

 トグルは眼を閉じ、眉間に皺をきざみ、奥歯を強く噛み締めた。鋭い痛みが胸を走る。――その答えを実際に親友の口から聴くことは、もう出来ない。


『俺がここで音を上げれば、やはり、お前は笑うのだろうな……』

『ディオ』


 ささやかな、友情。ささやかな、永遠への希求。――それらが、いっときの気休めにすらならないことを、彼は承知していた。オダのように、他の人間にとっては苦痛になると。

 しかし、己がそれをのぞんでいることを、トグルは否定できなかった。どうしても、希望を消し去れない。流れに揺さぶられ、崩れて行こうとするものを、留めることは出来なかった。

『ハヤブサは、決して、許しはしないだろうな……』

 深い悲しみとともに考えたとき、タオの声が、彼の眼を開けさせた。


「ハヤブサ殿に――」


 タオは、申し訳なさそうに、兄の思索を遮った。


「ハヤブサ殿に、会わなくて良いのか? 兄上」

天人テングリのことは、お前に任せる」


 低く、トグルは答えた。


「お前とトクシン(最高長老)に、任せる。面倒をみてやってくれ」

「兄上……!」


 妹の口調に力がこもったので、トグルは彼女を振り向いた。相変わらずの無表情に戸惑い、タオは小声になった。


「ハヤブサ殿は、兄上に会いに来られたのではないのか?」

「……タカの記憶が、戻っているのだろう?」

「…………」

「俺が、ハヤブサなら――今、俺の顔など、見たくはないな」

「兄上」


 強く眉根を寄せた妹の表情で、タオが自分程にもその嘘を信じてはいないと、トグルは察した。しかし、言葉を重ねるつもりはない。妹に横顔を向け、再び瞑目した。

 巌のような無表情の奥で彼が何を考えているのか、タオには判らなかった。


 トグルは、隼を想った。一陣の風さながら、馬上から舞い降りて来た姿を。氷河から削りだしたように繊細で透徹なかんばせは、真っすぐこちらを向き、吸い込まれそうに深い紺碧ラピスラズリの双眸は、怯むことなく彼を見据えていた。凛と響く声は……。

 想い出すと、一瞬、命が枯れるような衝撃を身の内に感じた。


『偽善だからと言って、それを途中で投げ出す卑怯者には、なれない』

『国があるせいで戦争が起きるのなら、そんなものは滅びればいい。民族があるせいでいさかいが絶えないのなら、そんなもの、なくなればいいんだ』


『ハヤブサ』 胸の中で、トグルは呼びかけた。震えるような哀しみに、心を委ねる。――そうだ。

 おそらく、俺は、大きな思い違いをしているのだろう。


『トグル』


 紺碧の双眸が、まなうらに浮かぶ。白銀の睫毛にけぶる、冷たい冬の夜空のような瞳が。それは、彼方から彼を見詰め、決して消えることは無かった。咎めることはなく、近づくこともない。

 ただ気高く、何処までも美しかった。誇り高いその姿を、祈るように、彼は心に抱いていた。

 このままでは、二度と、触れ合うことはないかもしれない。身を斬られそうな気持ちで、そう覚悟していた。

『だが、ハヤブサ……』 呼吸を止め、そっと祈った。彼女の面影が消えてしまわぬよう、細心の注意を払いながら。

 ――それでも、夢を見ることが、許されるのなら。


『共存は、出来ないのでしょうか、我々は。理解し合うことは、不可能なのでしょうか』

『それはもう、俺の仕事ではない』


 ――俺の仕事は。ただ一つ、今の俺に出来ることは……。


「タオ」


 トグルは眼を開け、囁き声で呼んだ。心配そうに様子を窺っていた妹を、振り返る。


「長老達は、まだ起きているな?」

「はい。そう思います」

「ジョルメ(若長老)に伝えてくれ」


 煙管を卓上に置き、足を下ろして、トグルは言った。独り言のような口調も無感動なかおもいつも通りだが、その目がどこか遠くを見据え、揺るがない決意を宿していることに、タオは気づいた。


「至急、使者を出すように。コンユ、オーラト、ハル・クアラ……ロコンタ、ギリック、イエニセイ。とりあえず、この六氏族で良かろう。他へは、そこから伝令を」

「…………」

「それから、お前はその足で、アラルを呼んで来てくれ。オロスとオルクトには、テディンに行ってもらう。明後日には、全員到着するだろう。氏族長会議クリルタイを開く」

「…………!」

「俺は即位するぞ、タオ。タァハルに宣戦だ。忙しくなる……」


 茫然とする妹を見て、トグルは、少しだけ、面白がっているような表情を瞳に浮かべた。すぐ、真顔に戻る。立ち上がり、歩き出そうとした。


「呆けるな。ジョルメに、他の長老達にも伝えるよう言ってくれ。トクシンに――。?」


 兄が言葉を切り、急に表情を変えたので、タオは怪訝に思った。彼が黙り込むのはよくあることだが、その沈黙は異様だった。

 言いかけた口を閉じ、トグルは片手で喉元を押さえた――左手で。口を開け、鋭く息を吸い、かたく眼を閉じた。苦しげに。彼がそんな顔をするところを、タオは今まで見たことが無かった。


「……タオ」


 トグルの長身が、ぐらりと揺れた。彼は体勢を立て直そうと、卓に手を着いた。……脈が、とんだように感じた。恐ろしい力で胸を締めつけられ、呼吸が出来なくなった。心臓が早鐘を打っている……。

 頭から血の気が引き、絨毯に片膝を着いた。


「兄上?」

「……タオ。トクシンを呼んでくれ。早く――」

「兄上!」


『始まったか……』

 妹の悲鳴を遠くに聞き、成す術なくその場に頽れながら……トグルは、闇に墜ちてゆく意識の片隅で、そう思った。





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