天上の花(4)
4
彼女は、人ではないのでしょう……。わたし達と同じだと言うことは、憚られます。
しかし、はたして、邪悪なものでしょうか。
わたしには、わかりません。
子を守ろうとして抵抗する母が、悪でしょうか。
人を惑わそうとするものが、あんなに悲しく啼くのでしょうか。
むしろわたしには、素性が知れないというだけで、身重の女性を夜中に連れ出し、石もて殺そうとした村人達の方が。それを止めなかった神官達の方が、恐ろしく思われました。
わたしがそれまで信じ続けていたものが、音を立てて崩れ落ちたのです。
邪悪とは、なんでしょうか。
未だに、わたしには、わかりません……。
とまれ。
翌日から、神官達は、彼女を神殿の奥の部屋へ移し、人々を遠ざけました。
誰にも彼女を傷つけることは出来ませんでしたので、そうするよりほかなかったのです。
いよいよ身が重くなった彼女も、滅多に外に出ることはなくなりました。わたしは相変わらず、食事や水を運ぶことを許されましたので、お目にかかることが出来ましたが。
時折、サクラソウやナデシコの花を、一緒に届けました。彼女は、わたしには、微笑みかけてくださるようになりました。
そして、村人達は、時々傷ついた者や病の者を連れてきて、彼女に癒してもらうようになりました。
神官達は叩頭して非礼を詫び、彼女に情けを求めました。
……どうぞ、わたし達をお嘲いください。昨日まで未知の存在を恐れ、悪と決めつけた者が、掌を返して、そのちからを利用しようというのです。
浅薄で厚顔なことは承知しておりますが、わたし達の村では、毎日、いとも容易く、人は死に至ります。
狩に出て崖から落ち、脚を折った者……野狐に噛まれた傷が化膿して、高熱を発した者。養う親や子どものいるそうした者達を助けることが出来るなら、わたし達は、何でもしたことでしょう。
まだ三歳の幼さでけいれんを繰り返し、唇の真っ青になった我が子を、泣きながら運んで来た母親を、神官達は、引き留めることは出来ませんでした。
彼女の能力は無限ではなく、日に五人も癒せば疲れてしまわれましたが、何も言わずに、そうした者をお救いになりました。中には、手遅れな者もおりましたが。
生きていく為に、彼女の方も、仕方がなかったのだと思います。
傷つけられず、食を断っても衰えず、彼女の身のうちでなにが起きているのか、わたし達は、知る由もないことでしたが……。生まれてきた子どもは、そうではなかったからです。
彼女は他にも……たとえば、雪崩や雪嵐の到来を予知したり、手を触れずに物を動かしたりすることが出来ました。
噂を聞きつけて、麓の村から、彼女に会うために訪れる者が増えました。キイ国の大公から、使者がいらしたこともあります。
いつからか、彼女は、星から来た者――《星の子》と、呼ばれるようになりました。
*
「シュラ」
子どもが生まれて、数年が経った頃でしょうか。ある日、彼女はわたしに声をかけました。
「あの場所に、連れて行ってくれる?」
わたしが彼女を最初にみつけたことを、彼女はご存知でした。
わたしは、黙って頷きました。彼女は、幼子を抱いて、ついて来ました。
急な斜面を登るときには、子どもを下ろさなければなりませんでしたが、それでもわたし達は、ゆっくりあの場所へ近づくことが出来ました。二人の神官見習いが、護衛のつもりか、後をついてきました。
余談ですが、その後、わたしは神官になることを諦めました。他にやりたいことをみつけたからです。
この日は、わたしにとっても特別な日となりました。
削れた山肌は、岩と土砂がむき出しになっております。人の手で埋め戻されることはありませんでしたが、凍った雪が残り、小さな水溜りも出来ておりました。
草が生い茂る間には、あの青いケシも咲いておりました。
「…………」
足元に娘をおろし、手を引いて、彼女はぐるりと洞窟の中を眺めました。相変わらず傷一つないしなやかな指で、焦げた岩肌をなで、溜息をつきました。
長年胸の奥に溜めていたものを、そっと吐き出したようでした。
それから彼女は、わたしにだけ分かる声で、話し始めました。わたしは、念話と呼んでいます。
特別な能力のないわたしの声も、聞き取って下さるのです。
『これは、船だったのよ』
自らが押し込められていた岩の破片に掌を当てて、教えてくださいました。
『
「…………」
『向かうはずだったの、私は……。大切な人と、一緒に』
この子の父親のことだろうか?
幼子を見下ろすわたしの心を読み取って、彼女は、さびしげに微笑みました。
わたしは、ごくんと唾を飲み、言葉も一緒に呑みました。貴女は、何処から来たのですか? ……何度となく、胸の中で繰り返した問いを。
遠い記憶を辿るごとく瞼を伏せ、それから、頭上を覆い天を隠す岩を仰いで、彼女はまた、溜息をつかれました。
長衣(チャパン)の裾にしがみついて、幼子は無邪気に笑っています。
『随分、遠くへ来てしまったわ。もう、戻ることは出来ないのでしょうね』
「出来ますよ」
思わず、わたしは声に出して応えました。
彼女は、まっすぐ私を見つめました。
「出来ますよ……。いつか、きっと」
磨いた黒曜石のような瞳にじっと見据えられて、わたしは、どきどきしながら応えました。尻すぼみな囁きを聞き取った彼女は、眼を閉じ、ゆっくり首を横に振りました。
わたしは、ふいに悲しくなりました。胸の奥で、幼い頃大切にしていた何かが引き破られるのを見た、せつなさでした。
彼女はまた、見えない空を見上げました。夜に染めた黒髪が、細い肩を流れ落ちます。
『私だけで、壁を超えることは出来ないわ。こちらに、彼等が居るかどうか分からない』
「…………」
『戻っても、あの人が、生きているかどうか……』
わたしは、あらためて、洞窟の中を見渡しました。
星を渡る船、と言われても、まったくわたしの想像を超えています。
けれども、彼女が目の前にいらっしゃることが、既に夢の一部ですのに、言葉を疑う理由があるでしょうか。
ゆっくりと、頭の中で、岩の削れた輪郭をたどりました。
それは、見たことのない船のようであり、割れた卵のようでもありました。いずれにせよ、彼女はたった独りでここにいたのです。お腹の中にいた子どもの他に、仲間となる者はいませんでした。
後にわたしは、その子も彼女の仲間とはなり得ないことを知りました。でも、この時は、言い表せない想いが、胸に宿るのを感じただけでした。
小さな種がほころんで、そっと芽を出すのを。
「帰らせて差しあげますよ」
「え?」
岩穴を出ながら、わたしが言った言葉に、彼女は、ぱちんと瞬きをなさいました。
わたしは、恐れ気もなく、こう言いました。
「貴女の仲間を、わたしが見つけて、いつか、帰してさしあげます」
「…………」
「その代わり、わたしも一緒に連れて行って下さい。星を渡る船に、乗ってみたいのです」
よくあんなことが言えたと思います。その時は、いい考えだと思いましたが。
彼女も、少し呆れたようでした。まじまじとわたしを見つめ……けれども、穏やかに微笑んでくださいました。
「ええ。いつか、きっとね……」
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