天上の花(3)
3
それから、彼女は少し食べてくださるようになりましたが、わたし達子どもは、大人達に隔てられ、自由にお姿を拝見することが出来なくなりました。
理由は、すぐに分かりました。身ごもっておられたからです。
当時の大人達がなにを考えていたのか、わたしは知りません。しかし、彼女は実は人々の心の声を聞くことの出来る方でしたので、きっとお辛かったろうと思います。
冷たい秋風が、啼きながら谷間を吹き抜ける晩。眠れずにいたわたしは、人の声を聞いて起きだしました。
がたごとと木戸がきしむ音に、大人達の声が重なっています。女性の声も交じっていました。
年少の子ども達が不安げに瞳を瞬かせるのを、布団にくるみなおしてから、わたしは、長衣(チャパン)の襟を合わせて部屋を出ました。
勢いよく空を流れる雲が、月光をさえぎります。濃紺の闇の重なる向こうで、吹き消されそうに揺れる松明の間を、女達が、誰かを引っぱって歩いておりました。
紗幕に描き出されるように夜に浮かんだ人影が、お腹の大きくなった彼女だと気づいたわたしは、息を呑みました。
彼女を、連れ出そうとしているのです。神官達は触れようとせず、人々を止めるつもりがない様子でした。
身重の女性を、こんな夜中に、どこへ連れて行こうというのでしょう。
不吉な予感がして、わたしは、後をつけて行きました。
子ども達はみんな眠ってしまったと思っているのでしょう。村人達は、後ろを確認することもなく、彼女を先頭に、村はずれの急斜面へ向かいました。
天葬(鳥葬)のときにしか辿らない、くぼ地を抜ける細道です。
わたしは、ますます嫌な気持ちがして、岩陰に隠れながら、ついて行きました。
風はごうごう音を立て、雲はぼうぼう流れます。その隙間から、時折、金色の満月が顔を覗かせ、わたし達を見下ろしています。
うな垂れて歩く彼女を囲んで、人々の掲げる炎がゆらめくさまは、悪い夢のなかの風景のようでした。
村人達は、ずっと黙っておりました。彼女もです。現れなすった日から、一度も、お声を聴いた者はなかったと思います。
天葬の際に、遺族がご遺体を切り刻む岩の周辺には、衣服や骨の欠片が散らばっています。炎と月明かりに照らされてそれらが見える光景は、ぞっとするものがありました。
異変を察したのでしょう。どこかで、鳥達が鳴いています。警戒の声でした。
「…………!」
前方で、彼女を囲んでいた者の一人が、乱暴に彼女を突きとばしました。
穏やかな村には、滅多にない変事です。わたしは息を呑んで、近くの岩に両手でつかまりました。
誰かが、声高に叫んでいます。
風にまぎれてよく聞こえませんが、彼女を問いただしているようでした。夫のいない女性が身ごもることは、非常にけがらわしいことだと、聞いたことがあります。
『なに』が産まれてくるのかを、恐れている風でもありました。
彼女は黙って、地面に座っておられます。女達を、止めようとする者はおりません。
神官達でさえ、松明を手に眺めているだけなのです。
やがて、一人が手を振りかざし、何かをぶつけました。
一人、また一人と……。腰を曲げ、地面から石を拾い上げてはぶつけるさまを見て、わたしは、慌てて走り出しました。
枯れ草が、足を滑らせます。風が、わたしの身体を押し戻します。
何としてでも、こんなことは、止めなければなりません。
と。
うずくまっていた彼女が、立ち上がり、殴りかかってきた女性の一人と、もみ合いを始めました。これまでの彼女からは、思いもよらない行動でした。
お腹をかばい、両腕を突っぱって押しのける仕草を見て、わたしは驚きました。
村人達も、一瞬、ひるんだようでした。
そして
『やめて!』
言葉や声では、なかったと思います。強烈な思念……心の声というものでしょうか。
直接、わたし達の頭に響きました。
『やめて! ……たすけて!』
「…………!」
人々は恐れ、雷に打たれたようにおののき、後ずさりました。逃げ出す者にぶつかって転び、地に伏せた者もいます。
わたしは姿勢を低くし、這うようにそちらへ近づいて行きました。
まだ彼女と押し合いを続けていた女性の手に、光るものを見たのは、その時でした。つまずいて倒れた女は、彼女を払う勢いで腕を振り、衣を引き裂きました。
月にかかりそうなほど高く、ぱっとしぶきが散りました。
何が起きたのか、すぐには分かりませんでした……。血のにおいに気づいたわたしは、息を呑みました。
彼女が、首筋をおさえてよろめきます。転んだ女の方も、膝に怪我をしている様子でした。
わたし達が目にしたのは、今までで、最も信じられない出来事でした。
彼女が手で覆った傷口が、銀色に輝いたと思うと、流れ出ていた血がすうっと止まり、消えたのです。ほかの、石で打たれた身体のあちらこちらも、ぼんやり輝いています。
わたしは、目を瞠りました。
「…………」
彼女は、自分で自分に驚いて、両膝をついて座り込みました。おのが両掌を見下ろし、それで顔を覆うと、泣き出してしまわれました。
吐くような、叫ぶような啼き方でいらっしゃいました。あんな物悲しい声を、あとにもさきにも、わたしは聴いたことがありません。
わたし達はみな、逃げることも忘れて、茫然とその様子を見つめておりました。
しばらくして、泣き止んだ彼女は、転んだ女性に近寄ると、無言で脚に触れ、傷を癒しておやりになりました。彼女が他人を癒したのは、これが最初です。
なぜ、とお思いになられる方もいらっしゃるでしょう。自分を殺そうとした者を、なぜ癒すのかと。
わたしは、彼女はわかっておられたと思います……。ご自分を恐れていらっしゃったのと同様、わたし達の恐怖を、ご存知でいらしたのだと思います。
ただもう、わたし達は、言葉をうしなっておりました。
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