天上の花(2)
2
彼女を見つけた場所は、今は神殿になっています。岩の削れた部分を利用して、わたし達が造りました。
掘ってみると、本当に深くて巨大な穴でしたので、彼女を運んだものが、いかに凄い力でめりこんだのか、痛感させられました。
しかし、それはずっと後の話です。当時は恐ろしくて、当分の間、そこへ足を運ぶ者はおろか、手を加えようとする者などおりませんでした。
彼女が目覚めたのは、三日後のことです。
「眼をあけた。あの人、目覚めたよ」
寝かせておくだけというわけには参りませんので、湿らせた綿でそっと水を口に含ませたり、衣服を整えたりさせていた童女が、こう言って駆け込んだとき、わたし達は、昼のお勤めをしている最中でした。
巡礼の人々の手前、安易に席を立つわけにはいきませんでした。神官のお祈りが、いつもより大変ながく感じられたのは、言うまでもありません。
わたしは、神具の後片づけもそこそこに、彼女の部屋に向かいました。
入り口には、神官達をはじめとして、すでに多くの方が集まっておりました。赤毛の人の壁越しに中を覗いたわたしは、大丈夫だろうかと思いました。
案の定、彼女は、酷く怯えた様子で、膝を抱えておられました。
「貴女は、何者ですか? 何処からいらっしゃったのです?」
そう神官達が問うておりましたが、寝台の上の彼女は、青ざめて、追い詰められたうさぎさながら震えていらっしゃったので、子ども心に気の毒に感じました。
大人達もそう考えた様子で、わたし達を下がらせ、彼女が落ち着くのを待とうという話になりました。
後から伺ったのですが、彼女には、この世界のことはおろか、わたし達の話す言葉さえわからなかったのです。怯えるのは当然でした。
それから幾日も、暗い部屋の片隅でうずくまり、考え込んでおいででした。
「いったい、どういうことであろうの」
大人達の議論は、にわかに熱くなって参りました。息を殺していたものが、堰を切って流れだした勢いです。
「あんなところに突然現れるなど、尋常ではない」
そんなことは、みな分かっていたのですが、今まで言い出せなかったのです。
「噂に聞く、アヴァ・ターラ(化身)であろうか? 天の御使いか」
「いや、人に見えるぞ。亀や蛇のようではない」
「北方の遊牧民か?」
思いつく限りのことを挙げておりましたが、誰も、神官すら答えを知らないのですから、議論の終わるはずがありません。
わたし達子どもは、部屋の扉の周囲にはりつき、会話に耳をすませておりました。理解できない事柄に対する純粋な好奇心からですが、普段強気な大人達が困っている様子が、面白くもありました。
やがて、わたし達も気づいていることが話題に上りました。
「あれが、人であるものか。何日も飲まず食わずで平気でいられる人間など、聞いたことがない」
……そうなのです。気を失っておられた間を含め、目覚めてからも、彼女はわたし達の用意する食事を、ろくにお摂りになりませんでした。
わたし達を恐れ、警戒していたのでしょう。それ以上に、絶望が御心を蝕んで、生きる気力を失わせていたのです。
しかし、わたし達には、かの人が特別であることの証に思われて、かえって心が高揚するのでした。
『聖地に、天女が降臨なさった。神々が、われわれに、お遣わしになったのだ』
居ても立ってもおれない気持ちがして、わたしはその場を離れ、彼女の様子を伺いに向かいました。
大人達の、まして彼女の不安など、わたしには無縁のことでした。
「邪悪なものではなかろうの?」
「まさか。聖地だぞ、ここは。それに、あのように美しいものを」
「聖地だからこそ、古より、神と魔の戦いの場であったろう。美しいものが、すなわち善とは限らない」
「なるほど。よく衆を惑わし、堕落せしめるものこそ、美をまとうと言う」
「子どもは無防備だ。疑うということを知らぬ」
「うかつに、近づけてはならぬぞ……」
*
「また、召し上がらないのですか?」
勇気を振り絞って、わたしがはじめてかけた言葉は、そのようであったと思います。
壁際の暗いところで膝を抱いておられた方は、おもむろに顔を上げて、こちらをご覧になりました。
白い顔はますます血の気が薄く、灰色がかって見えました。黒い瞳はうつろな闇のようで、いくら食べなくても平気とはいえ、わたしは心配になったのです。
けれども
「あの……」
と言ったきり、わたしは、上手い言葉を見つけることが出来ませんでした。
卓子(テーブル)の上には、わたしと同じ見習いの童子が運んだチャパティ(薄焼きパン)とバター茶が、手をつけられないまま、ぽつんと残されています。
地の恵みのとぼしい土地です。一人分のチャパティを用意するのさえ、どれほどの苦労があるでしょう。
召し上がって欲しい。笑顔を見せ、声を聞かせて欲しい、と願っても。それが傲慢だと感じられるほど昏いまなざしを向けられては、押し黙るしかありません。
立ち尽くすわたしから、彼女は視線をそらし、また項垂れてしまわれました。
わたしは、半分困り果て、半分逃げ出したい気持ちで、そこに立っておりました。どこかで夢物語のようにあこがれていたことを、思い知らされたのです。
神官は、人々の為に祈り、神々の声を伝え、衆を導くのが仕事です。その教えを疑うなど、わたしは考えたこともありませんでした。
わたしがそうであるごとく、誰もが、その教えに従うことを……救おうとする手は応えられ感謝されることを、無邪気に期待していたのでしょう。
必ず。
わたしの前にいる人は、そんな浅はかな期待など、あずかり知らぬ方でした。ほんとうの苦しみや絶望の前では、わたし達は、まったく成す術がないのでした。
彼女に、わたしの神の御声は届きません。――わたしの声は。
迷った末、わたしは、挨拶なしに部屋を後にすると、神殿を出て、村はずれの野原へ歩いていきました。そこで、詰めていた息をほっと吐き、夏の花が咲きほこる草原を眺めました。
毎年、ここには、この土地にしかない花が咲きます。寒さと強風に耐えて咲く、背の低い草がほとんどです。
わたしの足元には、青空に染めたようなケシの花が咲いておりました。茎と葉の表面に、細かいとげがたくさんある、小さな花です。
思いついて、慎重に一輪折り取ったわたしは、来た道をひきかえし、彼女の部屋の卓子に、それを乗せました。
彼女は膝の間に顔を埋め、気づいておられないようでした。気づいていても、無視していらっしゃったのだと思います。
わたしは、仕事に戻りました。
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