天上の花 ―『飛鳥』外伝

石燈 梓

天上の花(1)


              1


   『メコノプシス・ホリドゥラ』

   彼女は、そう呼びました。

   天上に咲く、青いケシの花よ――



 当時、〈黒の山〉には、今のような立派な神殿は、まだありませんでした。

 マハ・カーラにお仕えする神官と、わたし達、見習いの子ども達は、村を見下ろせる場所に建てられた、木造の神殿に住まっていたのです。

 高地では、大きな木は育ちません。麓の村人や巡礼の人々が、少しずつ少しずつ、大切に運んだ木材で建てられた神殿は、粗末ではありましたが、訪れた人をほっと包み込む、威厳とやさしさに満ちていました。


 わたしは、神殿の片隅で暮らす、見習いの一人でありました。両親は、ナカツイ国の人間です。

 小さい頃、村に飢饉があり、兄弟を飢えから守るために、父母は、わたしを神様へお預けすることにしたのです。

 以来、ずっとここに住んでおりました。

 毎朝、日の出前に水をくみ、神官達と自分達の食事をつくり、神像を磨き、柱や窓枠を拭き、床を掃き清めるのが、わたし達のお役目でした。おおぜいでするのです。

 その日、わたしは水くみ当番でした。

 夏でも、この辺りの朝はかなり冷えます。夜明け前、わたしは、ヤクの毛の長衣(チャパン)をきっちり着込んで、えっちら井戸へ向かいました。

 東の山際が蒼白く燃えあがり、反対側にそびえるカイラス山の頂きは、その光を反射して、紫の空にぼんやり輝いて見えました。いつもながら、たいへん気高いお姿です。

 わたしは、井戸の傍らにひざまずき、手を合わせて拝んでから、仕事にとりかかりました。

 消えかかった満月と、小さな星が、ふたつみっつ瞬いていたことを覚えています。

 冷たい水をくんで、さあ帰ろうと桶を持ち上げた時でした。

 神殿の向こうで、何かが、ぴかりと光りました。

 なんだろうと思うまもなく、山ぜんたいがぐらりと揺れ、わたしは尻餅をついてしまいました。本当に、山が動き出したと思ったのです。

 驚いて、神殿の中にいた子どもも神官達も、一斉にとび出してきました。「危ない。散らばってはならない」と、叫ぶ神官の声を聞きながら、わたし達は、みんな地面に這いつくばり、頭を抱え、ゆれが終わるのを待ちました。

 少ない木々の梢から飛び立った鳥たちが、ぎあぎあと不吉な声をあげて、紫の空を舞うさまは、嵐の雲を思わせました。

 揺れがおさまった頃、わたしは、ぱちぱちと火のはぜる音に気がつきました。風に乗って運ばれて来た匂いで、錯覚ではないと分かります。

 燃えている……火事だ!


「シュラ! 待ちなさい。一人で行っては駄目だ」


 叫ぶ声を聞きながら、わたしは、音のする方へ駆け出しました。手に、もう半分こぼれてしまった桶を持ってです。

 夏の山火事は、大変なことになります。短い夏の間に成長する木々から木の実を得られなければ、刈り入れ前の麦が燃えてしまったら、わたし達は、みな餓えてしまいます。

 けもの達が住処すみかを失い、わたし達も、焼け出されてしまうことになりかねません。

 咄嗟にそれだけのことを、考えたとは思いません。ただ、火はこわいということは、繰り返し教えられておりました。

 わたしは、急な斜面に滑ったりつまずいたりしながら、神殿を目指して走りました。

 走りながら、先刻のあれは、もしかして星が落ちたのだろうかと、考えました。

 火は、ずっと上の方で燃えているようでした。建物の裏にまわったわたしは、麦畑が無事だったので、ひと安心しました。

 身の丈を超える大きな岩が転がる坂を、岩の間に身を捻じ込むようにして、わたしは登って行きました。振り返ると、後から神官達が、松明を持ってついて来てくれています。

 みんな、ひあひあ息をあげています。

 ちらちら輝く黄金の炎に勇気づけられたわたしは、さらに登って行きました。

 火のはぜる音は、すぐそこです。焦げた匂いもします。

 一体、何が燃えているのでしょう?


「…………」


 たどり着いたわたしは、驚いて立ち止まりました。

 昨日までなんでもなかった山肌が、ぼっかりと削れ、むき出しの黒い岩の表面で、見たことのない青や黄色の炎が、ちろちろ燃えておりました。

 煙が辺りに立ち込めていて、咳きながら、わたしは腕を振って払わなければなりませんでした。

 それは、半分土砂に埋もれて在りました。黒く硬い、岩の固まりに見えます。

 大人達が、追いついて来ました。

 これは、何だろう?

 わたし達は、しばらく、火を消すことも忘れて、茫然とそこに立っておりました。

 最初に思いついたのは、岩が燃えているということです。この辺りでは、時々、地層から燃える石が出てくることがあります。巨きなものが燃え上がって、山を崩したのでしょうか?

 そうではありませんでした。……わたし達の、想像を超えるものでした。


「人だ!」


 炎が消えた後で、ひいひいと、汗をかきかき、土砂をどかしたわたし達は、気がつきました。

 それは、一部が欠けていて、中が空洞になっていました。そこに、生まれて間もない赤ん坊さながら膝を抱えて、人がはまっていたのです。

 みっしりと押し包まれ、身動きが出来ないようでした。

 表面は焦げていましたが、中は大丈夫のようです。熱は未だ冷めていませんでしたが、彼女は、無傷でそこにいらっしゃいました。

 女性だと気づいた時、大人達は、わたし達子どもを、少し下がらせました。

 彼女は、そのように現れたのです。




「そっと運べ! そうっと」

「こら、邪魔するな」


 もう、夜はすっかり明けておりました。東の山際をふちどっていた白い光は、桃色に色づいて、空いっぱいに指をひろげておりました。

 物見遊山な人々をかきわけかきわけして、大人達は、彼女を神殿へ運び込みました。結局、それしか思いつかなかったのです。

 巡礼の人々も、遠巻きに観ていました。

 わたし達見習いは、大人達を手伝いながら、彼女を間近に見ることが出来ました。

 今まで、わたしの見た事のない格好をしていらっしゃいました。ほかの人にとってもそうでしょう。

 すみれ色の薄い着物は、どうやって織り上げたのか不思議なくらい、布目が細かくすべらかでした。身体の線が浮き上がっておりましたので、神官達は、上から長衣(チャパン)を着せかけて差しあげました。

 寒かろうというだけでなく、わたし達は、女性のそうした姿を目にし、まして触れることは出来ないからです。

 衣服よりもっと肌理きめの細かい肌は、新雪のようで、指先まで滑らかに整っておられます。生まれてから一度も日に当たらず、野良仕事をしたことがないようでした。これも、わたし達の知るどの民とも違います。

 真っ黒な髪が背中でゆわえられて腰まで達しているところは、北方の遊牧民のようでしたが、〈草原の民〉にしては、彼女はたおやかに過ぎると見えました。


 気を失っている彼女を、神殿の一室に運び入れたものの、わたし達は、途方に暮れておりました。ただごとではないと分かるのですが。

 『彼女は、何者だろう』、『何処から来たのだろう』、『あの燃えていた岩は、何だったのだろう』……。

 疑問は数限りなく湧いて来ましたが、どれもすぐに答えが得られないものでした。そんなことを口にするのが憚られるほど、みな、畏れておりました。

 神殿の一室に彼女を安置したわたし達は、息をひそめて、普段の生活に戻りました。

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