妻との永遠の別れ
アンディ・アンダーソン
第1話
私が妻と別れたのは激しく雨の降る日だった。去っていく梅雨を惜しんでいるかのように、雨は休まず全力で降っていた。別れといっても、夫婦仲が悪くなって離婚したのではない。交通事故だった。私たちが乗っていたビートルに突っ込んだトラックは、死を載せていた。永遠の別れである。妻は今、あの世にいる。
事故直後の妻の顔は歪んでいた。私は映画をたくさん観てきたが、映画の中でもあんな顔を見たことはなかった。あんな顔の妻はもう二度と見たくない。もう二度と見ることはできないのだが。
私がいうのもなんだが、妻は美しかった。私たちが出会った高校の時からすでに彼女は魅力的で、月並みな言い方をすると学校のマドンナだった。対して私は、エースで四番でもなければ、クォーターバックでもなかった。別段男前というわけでもないので(妻は「一般人代表」という表現を好んだ)、当時の妻が私を選んだことは、不思議である。というのも、ティーンエイジャーの恋なんていうものは、顔や能力という個人のスペックで決まるものだからだ。
同じクラスだったし、彼女は学校のマドンナだったのでもちろん存在は知っていたが、話したことはなかった。そんな私たちが仲を深め、結婚するまでに至るにはもちろんきっかけがある。
高校の屋上でのことだった。私は授業をサボってそこで煙草を吸うことを何度か経験し、その味を占めていた。サボって喫煙しているからといって別に不良ではなく、何人も集まっているわけでもなかった。一人でしれっと屋上に上がり、ドア付近で二本吸ってからギリギリまで眠り、最後に一本を味わい尽くして教室に戻るのが通例だった。もちろん口のにおいを消すためにコーヒーを飲んだり、キシリトールを噛むことをいつも忘れなかった。
いつもの場所で二本目を吸っているところに、扉が開いた。初めこそ屋上の扉には鍵を掛けていたのだが、何度も経験するうちに誰もやってこないと分かり、施錠しなくなっていたのだ。
驚いた一瞬後、私は凍りついた。全身を冷たい血が駆け巡るのを感じた。扉の向こうから出てくるのが教師なら停学は間違いないし、不良であっても自分だけの空間がこれで失われてしまうからだ。私は油断して施錠していなかったことを後悔した。
しかし扉がゆっくりと開き、恐る恐る現れたのは学校のマドンナだった。彼女は私の姿にというより、先客がいたことに驚いていたが、後ろ手に扉を閉めるとこう言った。
「なにやってんの」
その時私の右手に持っているものからは煙が立ち上っていて言い訳はできなかった。誰が見ても授業をサボって屋上で煙草を吹かしている校則違反を犯した生徒である。私は半ば開き直って何も答えずにそれを口に運びなおして煙をいっぱいに吐き出した。この時、無意識にそうしていたが、変に言い訳するよりもそうした方が格好がつくと思ったのだろう。
「マイルドセブンなんて色気ないタバコ吸ってるんだね」
「これだけはどこに行っても置いてあるから。売り切れることもほとんどないし」
彼女の口からそんな言葉が出てきたことに驚いたが、自分の妙に冷静な応対にも驚いていた。愛らしく整った顔を目の前にして、態度とは裏腹に心臓は暴れ回っていた。煙草を持つ手が少し震えていたかもしれない。彼女がおもむろに私の左隣に座るころには緊張はピークに達していたが、必死にそれを表に出すまいとした。
「ふーん。あたしにも一本くれない?」
彼女のその言葉にはやはり非常に驚かされたが、自然と左手はマイルドセブンのソフトパックを差し出していた。彼女のイメージが崩れ、少し落胆したがその分緊張はいくらか和らいだ。
しかし彼女は吸い込むなり、いきなり咳をして煙を吐き出した。
「吸ったことなかったのかよ。大丈夫?」
「よくこんなの吸えるね。あたしには無理だ」顔をしかめながら咳をしている。
「色気ないとか言うから喫煙者なのかと思った」
「あのね、知ってる? 未成年に喫煙者がいたらいけないんだよ」
私はそれには答えなかった。一連の出来事でほとんど緊張は解けていた。
「もういらない」と言うと彼女は火が点いたままの煙草を差し出し、仰向けに寝転がった。
膝下までのスカートが微かに揺れるのを見ながら、私は左手に持ったその日だけは四本吸うことになるであろう三本目の煙草を口に運んだ。鍵を閉めなかったことを後悔したことを後悔していた。間違いなく青春を感じていた瞬間だった。
そしてその日に限っては、喫煙した後に眠ることをしなかった。彼女が隣で寝ていることを意識してしまい寝転がることもしなかった。彼女は正確には寝ていなかったが、授業の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、会話はなかった。
そのまま同じ空間を共有していたかったが、チャイムが鳴り終わると彼女は起き上がった。
「次の時間もサボるつもり?」
「いや、最後に一本吸ったら戻るよ」最後の一本はここ一時間弱を思い出しながら堪能するつもりだった。
「そっか。じゃああたし先に教室戻ってるね」そう言って扉に手をかける。
特に考えて言ったわけではなかったのだが、彼女の去り際、なぜ授業をサボって屋上にきたのか質問していた。
「寝坊しちゃって、一人だけ遅れて教室に入るのが嫌だったの」彼女はそう言うといたずらっぽく笑って出て行った。
教室に戻るころ、私の顔には隠しきれないにやつきがあったに違いない。何しろ、学内で一、二を争うかわいい子と一緒に授業をサボるという秘密を共有してしまったのだ。友人たちに言うつもりはなかった。これから普通に男子の憧れの的と話せるという優越感に浸っていた。
しかし、なかなか彼女と話す機会はなかった。周りに友人がいる状態で話しかけていきなりどうしたと思われるのは嫌だったし、彼女の友人に変に思われるのも嫌だった。私のような(一般人代表のような)男が話しかけて、彼女に迷惑をかけるのはもっと嫌だった。彼女が一人の時を狙って話すのも違う気がしたし、そもそも彼女が一人になることはなかった。
私は、どこにでもいる、周りの目を気にする男子高校生だった。
そのうち彼女の方から話しかけてくれると思っていたのだが、放課後になってもバイバイという一言もなく彼女は帰っていった。それでも次の日には話せると思い、珍しく髪の毛を(気合を入れすぎないように)セットして登校したのだが、話すことはなかった。その次の日が終わるころには、学校のマドンナと恋愛関係になれるかもしれないという夢を抱いてしまっていたことを恥じ始めていた。
しかしその次の日、いつものようにあの屋上に行くと、彼女がいた。私を見るなり、彼女はまたいたずらっぽい顔で言った。
「また授業サボったんだね」
「寝坊して一人で教室に入るのが嫌だったんだ」
その日から、私が屋上に行く目的が変わった。
これが私たちの所謂なれそめで、それから何度か屋上で共に過ごした。いつの間にかお互いの周りに友人がいても気にせず話す仲になり、そのうちお互い屋上に通わなくなった(私は授業をサボりすぎたということもあったのだが)。その代わり一緒に登校したり下校したりした。しかしどちらかが言い出したわけではないので、私には恋人同士という確証がなかった。
世間がクリスマスの準備に忙しいころ、下校途中に思い切って私は訊いてみた。「なあ、俺たちって付き合ってる?」
「は?」彼女は何とも呆れた顔をした。なに言ってるの、という顔をしている。実際にその言葉が口から飛び出した。やってしまった、と思った。これで彼女との関係も終わった、と。しかし、同時にそりゃあないぜ、とも思った。俺は結局君の手のひらで泳がされてたってわけかい、一人だけ舞い上がって馬鹿みたいじゃないか、と思うと少し怒りも感じた。
しかし次に彼女の口から出たのは、「もしそうじゃなかったらあたし一人だけ舞い上がって馬鹿みたいじゃない」という言葉だった。
「だから二人でいる時も手を出してくれなかったのね。あたし、自分に全然色気がないか、あんたにそっちの気があるんじゃないかと思ってた」
そう言ってまたあのいたずらっぽい笑顔を見せるのだ。
高校を卒業して、大学は別々のところに行ったが関係は良好だった。大学時代にお互いの実家に遊びに行き、親とも顔を合わせていた。私は好青年だと言って気に入られた。その時彼女は「高校で授業サボって屋上でタバコ吸ってた不良だよ」と茶々を入れた。私の両親も彼女を気に入ってくれていた。うちの子で本当にいいの、何にも面白くないでしょうと言われたときは少し腹が立ったが、彼女の「高校で授業をサボってタバコを吸うくらいがちょうどいいんです」という言葉でそれもどうでもよくなった(どうやらそれが彼女のお気に入りの文句らしかった)。
大学を卒業後、彼女は教師になった。その四年後、私たちは結婚した。妻は自宅近くの中学校に勤め、気さくで美人な教師として人気があるらしかった。生徒のことも大事にしていて、クラスの子が勉強がてら遊びに来ることも多かった(今度は妻のお気に入りの文句を私が生徒に言ってやった)。
私たちには子供ができなかったが、私たちは旅行をしたり、映画やスポーツを観たりして、普通の夫婦として十分すぎるくらい幸せだった。それに、たまに家にやってくる妻の生徒は時にわが子のように可愛く思えたのだった。妻が生徒に接している時は本当に幸せそうに見えた。あんな顔の妻をもう見れないと思うと、私は絶望やら虚無やら陰鬱やらが奇妙に入り混じった渦に巻き込まれていく感覚に襲われる。実際巻き込まれているのだ、あの事故の瞬間から。
死が二人を別つ時、雨はそれを盛り上げるかのように激しく降り注いだ。流れ出る生温かい血を雨が洗い流した。真紅だと思っていた血は、雨に洗われて薄くなってはいるがどす黒かった。全身を突き抜けるような一種脱力感を伴う激痛、乾ききってざらついた舌に触る血、鼻を刺激する焼けつくような強烈な異臭、何キロも離れたところから響いているような周囲の喧騒、歪んだ妻の顔。五感全てが、世界の終わりを告げていた。
再会を求めるかと問われれば、私は迷わずにイエスと答える。ただし、私があの世に行く場合だけで、妻がこっちに来るのには賛成しない。
以前何かのドラマを観ていて、「生きてさえいれば、いつか会える」という台詞があった。
私は特に何も思わずに観ていたのだが、妻はこれに喰いついた。
「生きていれば、いつか会えるんじゃないのか」私は言った。
「男の人って意外とロマンチストよね。相手に会う気がないときは会えないに決まってるじゃない」もちろん死んでいたら論外だけど、と付け足した。
私はドラマの台詞には賛同していたし、その気になれば向こうに会う気がなくても会える、と反論しようとしたが、止めておいた。向こうに会う気がないのに会っても、会ったとは言えないのではないかと思ったのだ。それに、無理やり会ってしまったら、次に会うのは法廷になるかもしれない。
「それに、向こうに会う気がないのに会っても、それって会ったことになるの?」
「そう思ったけど、そう思ったから言わなかったんだよ」
しかし、顔は見れるのだ。例え法廷で会うことになったとしても。そう、生きてさえいれば。今の私はどうだろう。もう妻には会えないだろう、と思う。同じ世界でまたあの屋上のように巡り会うことができればいい、と思うが、永い時間を要するだろう。今すぐ会うことは困難だと思う。誰だって死ぬのは怖いのだ。それが愛する人のためとはいえ。それに妻は理解しているはずだ、私が今すぐ再会を望んでいないことを。私も無理に連れて行こうとは思わない。妻が出来るだけ永く生き、幸せに人生を全うしてくれることを望むばかりだ。いずれ彼女が来て、あの時のように恐る恐る扉を開けるのを夢見るだけだ。こっちの世界で。
妻との永遠の別れ アンディ・アンダーソン @andyanderson13
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