花言葉は「軽率」です
伊志田ぽた
花言葉は「軽率」です
ある日の二十三時半、彼の携帯から私の携帯に連絡があった。通知に応じて声をかけると、応えたのは彼の母。携帯を忘れてバイトに行ったそうなのだけれど、いつまで経っても帰ってこないのだと。
何かトラブルにあったのでは、なんて言い出すものだから、慌てて近くを探して回って――最後に向かったバイト先の本屋の駐輪場で、何事もなく座り込んでいる彼を見つけた。
頭を足に埋めている彼を見て、丁度合流した彼の母、
「どうやって家に帰るのか分からない」
そんなことを言った。
財布を忘れて電車代が払えないとか、自転車なのに雨が降ってたとか、そういうことでないことはすぐに分かった。俯いている所為で表情こそ分からないが、上着のポケットには確かな四角い膨らみがあり、路面は全く濡れていなかったから。
それは佳乃さんも例外ではなく、不安そうな様子で私も車に乗せて病院へ直行した。
道中、携帯から電話をかけて病院に無理を言って、急患で入れてもらえることになって、私は待合所にて二人が戻るのを待った。
時間にすればそう長くはない、体感的には何時間にも感じた二十分後、二人とも浮かない顔で私の前に現れた。
聞けば、彼は次第に記憶が失われていく病のようなものにかかっているらしかった。
ようなもの、と言うのも、こういった症状は『若年性アルツハイマー型認知症』と呼ばれるものに当てはまるのだが、どうやらそれではないらしいのだ。
その病気だと、臨床所見として”アミロイドベータ”という物質が蓄積することで起こる脳細胞の死があると言うのだが、それが起こっていないという点が一つ。そしてもう一つ、可能性的には起こらないこともないが、二十代での発症は前例があまりなく、はっきりとは分からないというのが現状らしい。
症状はまさにそのものなのだが、機序がはっきりせず当てはまらないだけに、確実とは言えないのだそうだ。
普段からあまり多くを語らない寡黙な人だったが、その瞬間限りは「くそ!」「記憶がなくなるってなんだよ!」「まだ若いのに…」と、言葉の限り悔しがっていた。
それが始まりでした。
冷静に何事も一人で卒なくこなしつつ、同期や後輩へのさりげない優しさに惚れたのだが、告白をしてきたのは意外にも彼の方からだったのだ。
私は二つ返事でそれを受け取って、めでたく。以降、大学が別になった今でも、ゆるく仲良く時間を過ごしていた。
必要以上の言葉を発さない人だったが、たまに私がヘマをした時、決まって百合子ゆりこという私の名前を出して『百合には”清純、無垢、純粋”といった花言葉があるけれど、”軽率”というものもあるのを覚えておいてね』と諭してきて、まぁ出来ることは俺がカバーするけど、と括った。
口癖のように毎度毎度言うものだから、何だか変わった人だなぁと思ったのを覚えている。
ひと月が経過した。
両親公認、将来的には結婚も視野に入れてお付き合いをさせてもらっている身として――というのももちろん理由の一つとしてあるが、単純に愛しい彼がどうなっていくのか心配で、怖くもあったけれど、平日は終講後、休日は昼間から通った。
両親共、よく来てくれたと迎え入れてくれるので、それだけで少し救われた。
そんな今日までに、少しずつではあったが字、それと言葉を失い始めていた。
二人の名前、そして私の名前を忘れていないだけまだマシだと思えたが、やはり症状が進行していることに変わりはなく、少し心が痛む。
なるべく、こちらのそんな気持ちは悟られないようにしているのだが、たまに我慢ならない時もある。これは何、という問いに対して「何だったかな…」と考え込む際に彼は笑うのだが、それは楽しい、嬉しいといった感情から来るものでないことは明らかだったからだ。
言葉を尽くされずとも、心は届くのです。
休日の今日、いつもなら日暮れまで上がらせてもらっているのだが、今日は午後から友人と約束があって、どうしても出なければいけなかった。
「本当ならもっと一緒に――って、どちらかと言えば毎日毎日迷惑をかけているのに、こんな言い方、すいません」
「迷惑なんてそんな。ユリちゃんいい子だから、遠慮なんてしなくていいのよ」
「佳乃さん……ありがとうございます。今日はこれで、また明日伺わせていただいても大丈夫でしょうか?」
「いつも言っているでしょう、そんな確認は不要よって。ねえ、お父さん?」
「ああ。それに、迷惑ってんなら、料理とか掃除とか手伝って貰って、こっちだって大助かりなんだ。インターホンだって押さないで入って来てもいいんだぞ」
そう言って肩を叩くのは、父親の隆たかしさんだ。
「それは流石に、倫理観といいますか……でも、ありがとうございます。それでは」
玄関先でそんなやり取りをした後、私は急いで待ち合わせ場所の喫茶店に向かった。
喫茶店に着くと、既にコーヒーを飲み進めていた旧友に謝って、私も同じものを頼んだ。
十分遅刻よ、と悪戯に笑って言うのは、小中学校とずっと仲の良かった吉田よしだ美結みゆ。医大に通っているということで、まだ修め途中の学生であることは重々承知なのだが、ちょっと相談をしたいと申し出たところ、快く引き受けてくれたのだ。
「と言っても、私が出来るのは話を聞くことくらいよ、前にも言ったけど。助言らしい助言なんて、一つも出来ないわよ?」
「うん…誰でもいいから、話を聞いてくれる人が……欲しくて…」
尻すぼみになっていく普段の私らしからぬ話し方に、美結は表情を変えて「話してみな」と優しく言ってくれた。
私は正直に全てを話した。彼のプライバシーを守る範囲で。
話している途中、美結は無駄な横槍なんて一つも入れずに、ただ黙って耳を傾けてくれていた。
「そういうことなの…」
「何と言うか――本当に何も言えないのが苦しいわね。ごめんね」
「いいよ、大丈夫」
強がりだ。
何か言って欲しかったわけでは決してないのだが、やっぱり堪えてしまうのは確かだから。
「でも、それがもし若年性だとしてよ、下手をすれば肺炎なんかも併発して、最悪死に向かっちゃうわけでしょ? そうなったら――」
「え…?」
耳を疑った。
疑うしかなかった。
なぜなら、医者からはそんなこと聞かされていなかったからだ。
「なに、それ……先輩、死んじゃうの…?」
「え、っと……知らなかったの?」
「うん、まったく――え、ねぇ美結、先輩死んじゃうの?」
「さ、最悪の場合ってだけよ。可能性がないわけじゃないってだけ――って、フォローも何もないよね」
そう言って美結が俯くことで、つい数秒前の自分の耳は間違っていなかったのだと悟った。
――先輩が、死ぬ…?――
対面で美結が何かを話しているけれど、頭の中はそれだけでいっぱいになった。
想像しなかった訳ではない。物理的に生命が途絶えずとも、このまま記憶を失っていって、最終行きつくところまで行ってしまえば――それはもう、生きていながら死んでいるようなものだ。
失礼な言い方をしているのは重々承知なのだが、私のことを覚えていない先輩なんて――
「そういえば講義で、アメリカのとある医師がさ、確かココナッツオイルだったかな、を使ったレシピで改善させたって聞いたことがあるよ」
「本当…!?」
「う、うん、確か。公式の記録だった筈よ。ココナッツオイルじゃなかったら恥ずかしいから、そこは一応ちゃんとネットで調べてみてね」
「うん、ありがと…!」
絶望の中に差し込んだ一条の光。
しかし正直、それだけのことで改善できるとはあまり思えなかった。が、今はそれにすがるしかない。
今こうしている間にも何かを忘れて過ごして苦しんでいるのだとしたら、出来ることは何でもやってあげたい。
とにかくも実行してみるしかない。
「ありがと、美結」
「何にも。結局、助言にもなってないしね」
「ううん、そんなことない。真面目に聞いてくれて……やっぱり美結に話してよかったよ」
「大袈裟。彼、良くなるといいね」
優しく向けられる旧友の笑顔で、一瞬失われかけていたやる気が再び芽生えた。
翌日。
予定通りの十一時半過ぎ、私はまた彼の家を訪れていた。
インターホンを押して待っていると、いつもより早く、慌ただしく佳乃さんがドアを開いて顔を出した。
「あ、ユリちゃん、良かった来てくれて」
「何かあったんですか?」
「昨日、ちょっと用があって話したかったんだけどね、長い付き合いなのに家の電話にユリちゃんの番号入れてなくて、仕方なくユウの携帯からかけようと思ったんだけど……ユウ、設定したパスワードを忘れたって……」
「そんなことが――すいません、私の方からも一報入れれば良かったんですけど…」
「あ、いえ、ごめんなさい、責めているわけじゃないのよ。この機会だから、教えてほしいの」
「分かりました」
そこで、玄関先で立ち話も何だから、と彼の父に促されて中に入った。
忘れない内に紙とペンを借りてメモに残して落ち着くと、昨日伝えたかったこととは何だったのか尋ねた。
「そう、それなんだけど……」
「また何か、お忘れに――?」
「いえ、そうじゃなくて……ユリちゃんが返ってすぐ、そう、十分くらい経った頃かしら。『百合はどこ? トイレ?』って、家の中を徘徊し始めて――終いには、買い物に行ったのだと勘違いして、ずっと玄関で貴女のことを待っていたのよ」
「……っ!」
昨日の別れ際、確かに彼にも「今日はこれで帰ります」と伝えたのに。
そんなに近い記憶まで、失ってしまう程になっていたとは――。
「部屋におられますか?」
「ええ。来て貰って早速で悪いんだけど、一緒にお昼も持って行ってくれないかしら?」
「全然問題ありません。それでよろしいですか?」
机の上に、ラップがかけてある、茶碗半分の白米に味噌汁といった質素な準備を見つけて聞くと、佳乃さんは「うん」と頷き、残す量が増えてきているのだと告白した。
「分かりました。それでは、ちょっと席を外しますね」
「よろしくお願いするわ」
二人に見送られて、私はリビングを出て二階を目指した。
見慣れた木の扉の前に立つと、何だかいつもより重い存在感がして、つい立ち止まってしまった。
不安――これから起こる『何か』に対する、明確な不安があった。
しかし、請け負って受け取ってしまったものもあるからと、意を決してノックを二度してみると、すぐに「誰?」と中から返事があった。
「私、百合子です」
「百合…!?」
半ば叫ぶような声に次いで、大きな足音でこちらに近付いて来る様子が分かった。
彼は勢いよく扉を開けると、
「随分と長い買い物だったね。歩いて隣町にでも行っていたのかい?」
と、不思議そうな目で言った。
瞬間、眼尻が熱くなるのを感じたけれど、何とか踏ん張って「実はそうなんですよ、ごめんなさい心配かけて」と、出来る限り明るく、嘘を吐いた。
彼は心底ほっとした様子で「良かった」と胸を撫でおろす。
胸がチクリとした。
「あの、お昼ご飯も預かってきてるのですけど」
「いいよ、大丈夫。入って」
「失礼します」
徘徊が始まっている、と聞かされた時には、どんな悲惨な部屋になっているのかと心配したけれど、存外というか、とても綺麗に片付いていて正直驚いた。
彼が準備してくれた小さな机の上に運んできた昼食を置いて、それを囲んで二人座った。
佳乃さんの言うことと反して今は余程お腹が空いていたのか、そのまま「いただきます」と箸をとった。
そして頬張るのは、白米、白米、白米。
たまに味噌汁の椀も手に取ってはいるのだが、何故かそこには箸をつけないで、また白米へと戻ってしまう。
「あの、先輩?」
「何?」
「お味噌汁は食べないんですか?」
「食べるよ」
そう言って持ち上げるのは、茶碗だ。
そして再びそこに箸をつけるのだが――何だか、箸を握る手に力が入っていないというか、とても食べ辛そうに見える。
「先輩、違いますよ。お箸はこうやって持つんです」
彼の手を上から握って、正しいフォームへと直す。
それを受け入れて「こう?」と聞いて来る際にはちゃんと持てているのに、いざまた食べ物へと近づくと、
「違いますよ、こうです」
二度目の修正だ。
よもや、今この瞬間に『箸の使い方』を忘れつつあるなんて――そんな。
せっかく彼のことを考えておかずも無くしてくれてるのに、味噌汁にすら手を付けないとは。
「先輩、お味噌汁……温まりますよ」
「うん、食べる。食べるよ」
白米。
ゆっくりと少量ずつ口へと運ぶ。
「あの、先輩……お味噌汁は…?」
三度目。
ようやく椀を手に取って中身を掴もうとするのだが、箸の先はなぜか空を掴んだ。
「先輩、違いますよ。お味噌汁はこっちに――」
彼の手を取り、正しい位置へと運ぼうとする。
その時だった。
「もう、いい」
「もう良いって――先輩、ちゃんと食べないと栄養が…!」
「いい、下げて。もういい…!」
「……すいません。ちょっと持って行ってきますね……」
珍しく不満そうに言う彼の圧に押されてか、私は言われるがまま、食器をトレイに乗せなおして部屋を出た。
リビングに戻ると、「早かったのね」とこちらに向かって歩いて来る佳乃さん。
私の手に持たれた物を見る度、また減らさなきゃダメかしらね、と。
「違うんです……佳乃さん、ちが……私が怒らせちゃったから……」
「怒らせたって、百合ちゃん? どうしたの?」
「どうしよう佳乃さん…! 先輩に無理やりお味噌汁を押し付けちゃって…どうしよう」
なぜだろう。
なぜかは分からないけれど、堪え切れずに涙が溢れた。
「ユリちゃん……いいのよ、貴女のせいじゃないわ」
「でも……でも、先輩怒っちゃって、もう食べたくないから下げてくれって…!」
「ごめんなさいね、無理なことお願いしちゃって。ごめんなさいユリちゃん」
佳乃さんは私を抱擁してくれた。
それに続いてお父さまも「すまない」と肩に手をやってくれるのだが――。
私はその時、どうしても自分が許せなかった。
結局、ココナツミルクの話は出来なかったな。
一年も経つ頃には、若年性アルツハイマー型認知症というものよりも早く、症状は随分と進んでいた。
彼は大学を中退し、今は療養に力を入れている。
土曜。
私は今日も、彼の家を訪れていた。
簡単な脳のストレッチにと医師から教えられていたことを継続して毎日行っている。
基本的には佳乃さんが行うのだが、忙しい時には私と隆さんが代わりになっていた。
「先輩、今から言う三つの言葉を覚えてくださいね」
「三つね。いいよ」
「そうですね……お父さま、どうしましょう?」
「そうだな。たまには、とびきりイージーなものにしてみてもいいかもな。確実に思い出せるのを敢えて挟んで、緩やかに刺激していく――みたいな。考えすぎか?」
「いえ、良いと思います」
「そうか。それじゃあ――祐輔、佳乃、隆だ。簡単だろう?」
彼は力強く「うん」と頷くと、
「ゆうすけ、たか、し……あれ、もう一つは何だった?」
二つだけ正解した。
いや、一つも間違えた。
よりにもよって、名前を。何より親しい人の名前を。
私は絶望した。
ただのど忘れ、間違いならいいのだけれど、『もうひとつ』と持ってくる辺り、もしかしたら彼の中ではそれが『誰か』ではなく、一つの言葉としての『何か』になってしまっているのでは――。
そう考えると、言葉が出てこなかった。
こういう時に頼りになるのは、やはり流石の父親。
優しく微笑んで「よしのだ。よ、し、の。もう一回言ってみろ」と再びの返答を促す。
「ゆうすけ、たかし……よ、しの?」
「そうだ、ちゃんと言えたじゃないか」
そう言って、ぐしゃぐしゃと頭を撫でると、今日はここまでだと言って、私の腕を引いて彼の部屋を後にした。
そのまま階段を駆け下り、リビングへ。
忙しそうに洗濯物を干す佳乃さんの姿が視界に入って、喉の奥が変な音を鳴らした。
緊張し、退き、俯く私を横に、
「今日もだ」
と、隆さんが言った。
今日”も”。
今日も?
今のが初めてではなかったのか。
嫌な気持ちがして、慌てて顔を上げて佳乃さんの方を見た。
変わらず衣類を竿にかけていて、動作も落ち着いている。
「すまんな、ユリちゃん。実はというか――」
「今に始まったことではなかったんですね……」
隆さんは首を縦に振った。
そんな。
思わず言葉を失った。
何度やったのか、と聞こうとして、やめた。意味がないからだ。
一度でも百度でも、先程のように今も忘れているとなると、それが何よりの答えだからだ。
佳乃さんは仕事をする手を止めない。
が、その速度はみるみる上がっていく。
悲しみ、悔しさ、そういったものを無理矢理振り払おうとしているように見えて。しかし、私にはどうすることも出来ない。
黙ってその様子をただ眺めていると、佳乃さんはやがて手を止めて、溜息を吐いて笑った。
「そっか、今回もか。まあ、仕方がないことだものね」
最初にそんなことを言って、
「でも、ちょっと……辛いかな」
決壊した。
無理矢理に作り上げた堤防など、現実という確固たるものの前には何と非力なことか。
溢れた涙は止まることなく、洗いたての服を濡らしていく。
嗚咽が交じり、声を出して泣き始めると、隆さんはそっと私を隣の部屋へと連れ出した。
釣られて静かに涙を流していた隆さんを見て、つんと鼻の奥が痛むのが分かった。
三択、佳乃さんの名前を忘れていた。その隣には隆さんの名前、更に隣には――
やがては隆さんのことも忘れ、おそらくは自分のことさえも分からなくなってしまうのだろう。
そして、私のことも。
あそこで私の名前を出さなかったのは、せめてもの安心感を与える為か、あるいは少しでも現実を目の当たりにさせるためか。
ともすれば、そのどちらともなのだろうと思えてしまうことが、分かってしまうことが辛い。
隆さんの優しさだと気付いてはいるものの、そう遠くないであろう未来を想像するだけで、また涙が溢れそうになる。
その日、私はそのまま家を後にした。
隆さんが、今日はもう帰ってゆっくり休んでもいいと言ってくれたからだ。
一年もこうして付き添っていると、いい加減家族のような気さえしてきて帰ろうにも帰れない心地だったのだが、それを断るのも無粋だろうと、私は渋々と帰路に立った。
三年目。
彼はついに、誰の区別もつかなくなっていた。
一年前、私も誘われて行った植物園で撮った写真を見せて、そこに並んでいる人を順に追ってもらうと、隆さんは高校の先生、佳乃さんはお隣のおばさん、私は『知らん』ということになっていた。
慣れ、と言っていいものやら分からないけれど、私たちはそれに対して「違うよ、お父さんだぞ」「違うわよ、お母さんよ」「違いますよ、百合子ですよ」と、冷静なふりをして答えていた。
その時に見せる相も変わらない嘘の笑いに痛みを覚えながらも、表面上で平静を装うことは段々と得意になっていった。
忘れたと言われれば正解を教え、これは何かと問われても正解を答える。
彼との関係に冷めたわけではない。
彼のことを面倒などとはひと欠片も思ってはいない。
ただ、そうして少しでも自分を騙していないと、私も、隆さんも、佳乃さんも、誰ももう二度と立ち上がれなくなる予感がある。
その度にいちいち泣いていては、何も進まない。
彼が自分たちのことを忘れてしまったのだと受け入れてしまうと、もうどこにも居場所がないのだと、何より彼を一人にしてしまうのだと――そう思うと、せめて彼の発言を訂正しないという結論にだけは至らなかった。
なるべく上手に。
けれど、出来るだけ正直に。
ただ本心だけは偽らないように、私は彼に寄り添った。
願わくば、また笑顔で『百合は軽率だから』と、男らしいことを言って欲しくて。
そんな願いとは裏腹に。
その年の十二月、クリスマス・イヴ。
誕生日である翌日二十五日を目前に、彼は病室のベッドの上で息を引き取った。
最後の表情は、きっと穏やかだったと思う。
何も考えられなくて、涙で視界がぼやけて、隆さんと佳乃さんが大きく泣く声以外、何も聞こえなくて。
ただ、その最期で彼は、私が握った右手を、弱々しくも握り返してくれたような気がする。
震えていたし、感覚も曖昧だったろうからはっきりとはしない。
そう。ただ、そんな気がしただけだ。
葬式、通夜に納骨と済ませた後、彼の部屋の手入れや片付けを手伝って欲しいと頼まれ、私は喪服のまま車に乗せてもらい、家に来ていた。相も変わらず綺麗に整えられている室内は、たった一人いないだけで何倍にも広く感じる。
衣服、使っていた教材などを整え直し、埃をはらって、濡らしたタオルで拭けるところを拭いていく。
ふと視界の端に入った、壁掛けのコルクボードには、大学の合格発表の際に両親と私とで撮った写真や、二人で撮ったプリクラなどが所せましと貼ってあった。
二人も呼んでそれを眺めるのだが、その時は不思議と涙は流れず、懐かしいな、楽しかったな、という話になった。
そう言えばあの時、それはお前が、落ち着いてくださいお二人とも――そんな会話で、随分と久方ぶりに笑うことが出来た。
その中心にいたのは彼だ。
彼と残した思い出があったから、今こうして笑えている。
ひとしきりの雑談を終えると、今度は三人で部屋の掃除を再開した。
隆さんはクローゼット、佳乃さんは窓やそのレール、床なんかを担当していた。
私はと言うと。
机の下にあった、落ち着いた室内には似つかわしくない段ボール箱を見つけて、それを引き出していた。
勝手に開けるのもあれだろうと二人に相談したところ、じゃあ私たちが見ていれば問題ないでしょうということで、厳重に巻かれていたセロテープを剥がし、中身を確認した。
「親に見せられんいやらしいもんでも隠してあったんじゃないのか」
「もう、やめてくださいよ。先輩はそんな人じゃありません」
「そうよお父さん。ねぇユリちゃん、まったく」
そんな心持ちで迎えていたからだろうか。
中から出て来た意外なものに、私たちは三人揃って押し黙った。
やけに軽い箱の中から出て来たのは、表題はない一冊の大学ノート。
角や端っこはぼろぼろで、しわくちゃになっていたノートだった。
「何でしょう……?」
「さぁ、何だろうな。中身、見てみてくれ」
「は、はい…」
言われて、最初の頁を開いてみた。
「……っ!」
「こ、これ――」
「こんなもの、いつの間に…」
そこに綴られた夥しい量の文字に圧倒されて、重ねて言葉を失った。
彼は、普段からあまり多くを語らない人だった。
しかし、それは『声』での話。
こんなに身近にあった彼の叫びに、気付いてあげられなかったなんて。
『記憶がなくなっていくと医者から言われた。実感はない。でも、これからのことを考えると、親にも百合にも迷惑をかけてしまうことになる。何とか、自分で出来ることはしないと』
『今日は、間違いを直された数は三回だった。昨日は五回、その前は十二回、少し良くなっているのではないか? 希望が湧いて来た』
『どうしてだろう、周りがとても気を遣っている。俺はなんともないのに、何故だか皆がよそよそしい。言えないことでもあるのだろうか?』
『百合が買い物に行ったきり戻ってこない。近くのスーパーには欲しいものが売っていないのかな?』
『言いたいことが伝わらない。頭の中では纏まっているのに、言葉が追い付かない。百合を怒らせてしまった。今すぐ謝りたい』
『家に知らない人がいる。両親はどこへ行ったのだろうか。お手伝いさんでも雇ったのかな?』
『寒い。八月だっていうのに。今日は長袖を着て眠ろう』
最後の頁に至るまで、びっしりと埋め尽くされた毎日の日記。
その日の思いや出来事なんかが事細かにまとめてあった。
「先、ぱい……」
忘れていきながらも、両親を、そして私のことを気にかけているような文章。
自分がどう、自分が何、そういったものだけではなかったのだ。
「最後の頁、折り目がついてるみたいだ」
隆さんが言った。
見ると、確かに小さく、角が内側に折られた痕があった。
開くと。
『百合。花言葉は純潔、純粋、無垢、華麗、甘美。あと、軽率。大切な人の名前』
私の名前が、幾つも幾つも並んでいた。
たまに漢字が間違っているけれど、読めば『ゆり』だと分かる。
『考えることは出来るし、動くことも出来るのに』
そんなことが書かれていた。
強く胸に抱き寄せて、私は声を出して泣き崩れた。
話せなくても、言葉はちゃんと残せていたのに。
「せんぱい……せんぱい…!」
叫ぶように名前を呼んだ。
何度も何度も、ただ彼のことだけを叫び続けた。
開け放たれた窓から入って来た雪の一片が、まるでそれに応えてくれているようで。
ひらひら揺れて舞い降りて、涙で濡れた床に混ざって溶け込んだ。
花言葉は「軽率」です 伊志田ぽた @potadora
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