14話 本物の課題
「はぁ……、まさかあんなに値段するとは、想像出来なかった……」
交渉の末、断腸の思いでオレンジ色のショルダーバッグを割り勘で払いすることに方針を固めた新藤弥彦は隠れてため息を吐いた。まさか中々の良い値段をする物を依頼人の茅月理世が直感で選んだことに相当の打撃を与えられてしまった。
ブランド物だったのかは分からない。
けれどバッグを肩に掛けた彼女の姿というのは案外悪いものではないと思う。
その金額分よりも価値があると判断する。
「ありがとう新藤くん。どう? 似合っているかな?」
あちこち振り向いてる理世は楽しそうにはしゃいでいた。
セミロングの薄い亜麻色の髪を揺らし連動するようにエプロンスカートは靡く。メガネの向こう側にある透き通った紫色の瞳はこちらの様子を伺う。
答えないと彼女が不機嫌そうになるので、とりあえず返事をしてみることに。
返す言葉を探して苦労する。
「とても似合っている。だからエスカレーターには少し気を付けろよ」
「うん。分かってるわ」
今回の依頼でもある模擬デートを満喫している。
いつかは結ばれる大切な人のために。理世は恋愛の基本となる原理を把握したいと恋路部に相談してきたが、その部長である弥彦の趣旨は違うものに。
恋愛撲滅部。
……もとい恋愛部の効率化。
この依頼を終えたらもう一度安息の地に帰る。拙い学校生活が始まる。
だが、何かしらの経緯で学生達に認知すれば興味本位のみで寄るかもしれない。
まるで客寄せパンダみたいに。
根本的な解決策を見出せない者に、手を差し伸ばす必要は皆無だ。本気で現実と向き合う人に迷惑であると。その些細な区別を付けるために、模擬デートを欠かせなかった弥彦は心の底から思案を巡らす。
螺旋のように繰り返すエスカレーターの乗り換え。
彼女の背中姿を追うだけの弥彦は、ただの後見人に過ぎなかった。
「……なんだか、……今の貴方は楽しそうに見えないわね」
ようやく叶ったフロアに辿り着いた理世は同時にエスカレーターを降りる弥彦に向けて、再びこちらの様子を伺いながら、細い言葉を告げた。
華奢な両手を腰に回し下から眺める彼女の視線。
それを答えるたけの弥彦は自然と目線を外した。そこから視界に映るものは迷路になった時に便利なフロアガイドは物事を正確に捉えているのみ。
何が正しいのか曖昧な時代だからこそ。
常識的な考え方は時によって厳しさを要求させる。それがこの瞬間にやってきた。
「別に。俺自身が楽しむ必要はないぞ。依頼を引き受けた関係者が他人と同じ世界を見ることは絶対に有り得ない。何せ、アンタと違うから無意味なんだ」
「……本当の恋人じゃないから?」
「その通り。俺はただの協力者だ。それ以上でも、それ以下でもない」
清々しいほどの解答。
自信の揺るぎない堂々とした姿勢は、弥彦にとって当たり前の感覚で。信念を貫いてきた方向性はどんな状況に転じても見据えた意識は変わらない、と。
彼女が欲していた理想は本物ではなく偽物。
これは単なる模擬デートなのだから、他人の弥彦が楽しむ理由は存在しない。
ただの、協力者なのだから。
「大体、これはアンタのための依頼だ。……遊びなんかじゃない」
「貴方にとって、その意味は、何かを変わるものかしら?」
猜疑心を抱かせたような鋭い眼差しが容赦なく突き刺してくる。
一体何を信用していたのだろうか。
彼女の笑みが消えてしまう。目の色を変えるものは敵意に。思慮深く警戒する姿勢は毅然としていて、どんなに結果に導こうとしても、自分の意思は折れないと必死に伝えていた。
けれど。
理世は根本的な勘違いをしているのを気付いていない。
目の前にいる少年は、本物ではない事を。
それを証明させる弥彦は、落胆と失望を含ませた、長いため息を吐いた。
哀れを催す視線はどこか冷えていた。
「……何を勘違いしているのか知らないが、俺は、アンタの恋人なんかじゃないぞ」
「……あれ?」
肩透かしを食らったような腑抜けた表情。頭上には疑問符が浮かんでいる。
それと、いい具合にメガネは傾けていた。
思考が回っていないのか理世は言葉を失う。硬直してはいるものの時間が経つにつれて、なんとなく状況が整理したのか、顔がほのかに赤色に染めていく。
目の前にいる後見人とは温度差が垣間見れる。
だが、それを無視して表情を曇らせる弥彦は淡々と答えてみせる。
呆れてしまうほど、頭痛がする。
「だから、あくまでも俺は茅月の恋愛の協力者だ。今日の視察はこの為にある。彼氏とデートする前に本気で遊んでいたら本末転倒だろ。……寝取る立場は嫌いだ。好きな人がいるアンタなのに。これは何のための依頼なんだ……」
散々協力者であると呼び掛けていた意味が明確にする。
いずれ彼氏になる人を無視して他の男とデートする感覚で軽視していた彼女。
本来は茅月理世とその彼氏のための依頼だ。初めてのデートで失敗はしたくないと恋路部に相談していたハズが、ちゃっかり夢を見ていたようで。
流石にこれは擁護できない。
「お前には好きな人がいるのに、オレショックダヨー」
「お父さんショックだよ、みたいな反応してんじゃないわよっ! それに無表情で言うな!」
感情の起伏すら消滅させた造作ない弥彦の冷めた態度。
それを理世は反旗を覆そうとして躍起に。
「これはデートじゃないって最初から気付いているわよ。私が提案したんだし」
「なるほど。罪深き前科があると。書き書き」
「ねぇ、貴方。もしかして怒られたいの? 本気で怒られたいの?」
「もう怒っているだろうに」
下らない茶番をとりあえず越して、今度は真面目に応答する弥彦。
腕を組んでは厳しい視線を投げ掛けながら、
「……要件を答えるとしたら、ハッキリ言って、楽しむ要素がこちらには無いぞ。実践を参考にしたシミュレーションに、はっ、何処が面白いんだが」
「バッグの値段が良かったから、……それで怒っているの?」
恐る恐ると弥彦に尋ねる理世の弱腰。注目すべき論点に辿り着いたのか、不安そうな表情が隠しきれていない様子。こちらの反応に怯えて見えた。
確かにあのショルダーバッグは鈍い一撃を食らわせた凶器だが、有り得ない。
怒られていると勘違いする彼女に弥彦は言葉を付け足す。
またしても、ため息を吐いてしまう。
「違う。俺は怒ってなんてない。茅月には彼氏の気持ちを考えて欲しくて、他人の心境を理解させる機会を与えただけ。怒っているのはアンタの方だ」
「……え、それって、貴方はこれまで、私の為にしていた……」
「全部与えられた課題だったワケさ」
これはただの模擬デートではない。
人の変化を知る特別な課題だ。大切な人の貴重な一面を見定める着眼点を極めるための依頼。数少ない大事な時間を無駄にする行動を改善させる処置。
信頼を確かめたり時間を共有するのが理想とする本来のデートなのだろう。
けれど、その意味を分からない人が現実にはいる。
感情に込められない言葉を繰り返して、躊躇いもなく他人を傷付けたり、他人を傷付けるのが得意な人間は、大切なデートでさえ遊び感覚で済ましてしまう。我が物の表情をして迷惑を掛けるだけの、一言が多い人間は、その人の秘めた気持ちでさえ気付くことも自分のワガママな執念で歪めてしまう。
そんな救いようのない。
残念な人になって欲しくないと、弥彦は願うだけだ。
「誰かの心を思い考える。それが茅月にとって一番必要とする課題だったんだ」
「私が必要とした本当の課題……。貴方は最初から、この事を考えて?」
「ああ」
腕を組ながら静かに頷く弥彦は一貫して冷静沈着に判断を見極めていた。
模範解答のような、当然の反応が焦点を当てる意味をしている。
「本来のデートなら何事にも楽しめば勝ちだが、これは依頼に過ぎないから勝ち負けは関係ない。バッグを購入した時に茅月はどのように雰囲気を覚えていたのか。それを探るための模擬デートを決行した。流石にそのバッグの値段に付いては全く予測出来なかったけど」
「ふぅん。じゃあ、このデートについて貴方の感想は?」
「正直言って苦難だった」
「あらやっぱり」
納得が行く反応だったのか弥彦の言葉を聞いた理世は少々呆れてはいたが、直ぐに微笑みを湛えてこちらを振り返る。
どこか晴れた様子は、昼休みで見掛けた時と同じ光景だった。
「……そうだと思っていたわよ。貴方は常に反応が冷静だった。同年代の男子とは全然違う雰囲気をしてるもの。新藤くんは、変わり者ね」
「返す言葉もない。大体デートしてる奴に限って、物凄く緊張してるからな」
「確かに。これはメモを取った方がいいの?」
「……しなくていいだろ」
指を差す方向に正真正銘のカップルがいた。リア充だ。
状態を伺うと雑貨店を見に来たようで、印象に残るものはお互いの反応を気にして緊張していた所。やけに桃色の景観が多いのはランジェリーショップが多く揃えているからか。
興味津々にメモを取る理世だったが、そこで閃き、あることに気付いた。
メガネを掛け直してみせて、弥彦はまじましと見つめる。
「何」
「新藤くんは女性物の下着を見ても、どうして平常心を保てられるのかしら?」
「は? あれはどう見てもただの商品だろ」
「ごめんなさい。尋ねた私が軽薄だったわ……」
明らかに怪訝そうにする弥彦の素の反応が返ってしまって、思わず謝ってしまう理世は自重して不意に目線を外した。
けれど自分なりの存在意義を見直すキッカケを掴んだ理世は何も後悔はしていなかった。立ち直りの早い理世は清々しく姿勢を正して、いつもの振る舞いを変わらずに貫いてみせる。
淡くほのかに灯す月光色を世界を照らすように。
理想の世界を描く彼女は微笑む。
「……そうね。誰かを思う心こそが、大切な人との信頼を確かめるものなのね。共通するものがあるから繋がれる。友達とか居ない私には、分からなかった問題だった。それを、貴方はこの機会で教えてくれた優しい人よ」
「たとえ俺が居なくても、きっと同じことをしていたハズだ」
「貴方の言う通りなのかもしれないわね」
肩を竦める理世は肯定する。
所詮代わりは沢山いる。必要しているのは信用ではなく成果をおける質量。一人欠けても世界は支障を来さない。人間の存在はそれほど透明なものだけど。
無色透明に染める人達は周囲の意見を委ねるつもりは無かった。
彼女の意思は自由のままに。自分らしく叛逆を決める。
「――だからね、私は、この依頼を放棄したいと思っているのっ!」
自信に満ち溢れた仁王立ち。
満面の笑顔とメガネの奥に込められた紫色の瞳は真っ直ぐと弥彦を見据えている。迷いの消えた貫き通す意思の強さは常識を揺るがすほどに。
「貴方には迷惑を掛けてしまったけれど、自分で成功しないとデートなんて意味はないと思う。だから本当の彼氏を連れて、もう一度この店に訪れたい。……人生を諦めたくないから」
「……そうか。それは、いいな」
異存は無かった。
むしろ彼女の冴え渡る磨かれた判断に弥彦は素直に感服する。
自分の人生は自分で決める。その言葉に相応しい決意が聞きたかった。他人を頼らないで挑戦する姿勢は強い印象を持つ。覚悟を決めた彼女の本心に何の躊躇いもなく、ありのままの事実を受け入れることが出来た。
彼女の課題が解決したのは、最大にして最高の解答であったから。
何も否定はしない。
「じゃあ、この依頼は白紙にしても構わないんだな?」
「ええ。お願いするわ」
暗黙の了解を経て茅月理世の依頼は白紙へと書き換えられる。
そしてこの場にいるのは、同じ学校の生徒である一人の女子高生に過ぎなかった。
清々しく言葉を告げる理世こそが、彼女らしいのかもしれない。
「あ、そうだ。バッグの件についてなんだけど、お金を返しておくわ」
「別にいい。女性から現金を巻き上げるのは気が引けるから」
「……優しいのね。貴方は」
これ以上は何も語らない。
彼女と居る理由が消えた弥彦は既に別の目的について思案を巡らせており、メモ帳を仕舞う弥彦は準備を整っている。移り変わる空気を読む理世は何処か寂しそうにしながらも、誰かに向ける微笑みは忘れない。
小さく手を振る理世とは違う道を進む。
「また、機会があれば学校で会いましょう。さようなら」
「じゃあな」
決して後ろを振り返ろうとはせず。
弥彦はエスカレーターを下り続ける。途中でメガネを掛けては視界を鮮明にさせる。他人から身を隠すためのカモフラージュを応用して気配を殺す。
そこから香水について脳裏から思い出すが、さっきの経験で活かされた。
絶対に良いお値段をするだろうと。
客のほとんどが女性中心のファッションデパートで平和に買い物をできるとは絶対に思えない。敵意剥き出しの視線はもはや台風の目のように。そんな強行する必要はないだろう。
(……とりあえず、東急ハンズで買うか)
あえて無難に買い物をしようとする弥彦は目的地へ向けて渋谷109を後にした。
もう、この場所に来ることはないと考えながら。
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