8話  感謝

 放課後を告げるチャイムが鳴り終えた。


 権限に解放された事で、ある学生達は待望の部活を勤しみ感じながら教室を出ていく。ある学生達は既に予定にしていた娯楽に期待を抱きながら下校していく。疎らなタイミングで目的へ進んでいく中、孤立した一つの高校生は人気が完全に欠けた所で椅子から立ち上がる。


 メガネを掛けた転校生、新藤弥彦は相変わらず孤独を貫いていた。


 恋に悩める子羊に手を差し伸ばすためのボランティア、恋路部の部長に就任しても最悪な地位は変わらない。誰かに声を掛けられる行動も、他人に声を掛ける意味も皆無の弥彦は消えてしまいそうな幽霊と同じ。


 名前も知らないクラスメイトの恋愛を解決に導いて一日が過ぎようとも。

 残酷で美しい世界はちっぽけな高校生に何かしらの恩恵を授かる事は叶わない。


 それが、当たり前の認識なのだから。


 一様恋路部の部長を勤めているため、弥彦は部活へ静かに歩く。自身の姿を映すリノリウムの床を進みながら刻々と過ぎてしまう時間と共に向かう。

 片手に部室の鍵を携えて、目的地に近付いていく。


 物静かな空間。

 誰もいない居場所。


 ガラス越しの先にある外の世界とは切り離された学校はどこか特別な雰囲気を感じさせる。不気味というか不思議に溢れた神秘な部分が外せない。それが顕著する真夜中の時間帯は、謎に満ちた超常現象として姿を変えながら。


 今も、これからも、同じような環境だろうと。

 黄昏色の日差しが傾き冷えつつある澄んだ空気を吸う弥彦は目を見開いた。


 恋路部。


 新品なプレートに取り付けられたゴシック体の文字が学生を迎えている。聞き覚えのない信憑性の欠けたボランティア活動部は普段から人が立ち寄らない位置に健在するため、病棟か物置小屋のような扱い方に差し当たりない。


 そんな甘ったるいポップコーンを多めに詰め込んだ地雷を放置させた無法地帯に特効する弥彦は開錠して戸を開けた。


 視界に映る辺鄙な教室。


 中央に佇む机と二つの椅子。的確に聳え立つ机の摩天楼があるだけの印象。日が暮れた景色を一望する部室は手入れが整っているため余計な埃が一切無い。


 暇があれば用事がなくても部室に来る。


 もはやテリトリーと過言ではないくらいに、閑散とした教室は弥彦が占拠する。人の目が集まる昼休みは最適で昼食を済ませるのに都合の良い逃げ場だ。


 未だに読んでいない複数ある文庫本を黒バックに忍ばせながら。

 束縛する学校生活を忘れるブレイクタイムが始まる。


 もし言葉に出すとしたら。

 人生最大の汚点の中で、最高であると空を見据えながら呟いていることだろう。


 最高であると。


 顧問である先生には特に何も言われず、恋愛相談一号のクラスメイトは無反応。やはり自分は影が薄いとか透明人間が似合う。予防線を張れば尚更だ。最前列の席ではほぼ机に踞る学生は滅多に居ない。


 改めて自身がモブキャラに演じる事実をさらに熱を籠らせる弥彦だが。

 自由時間は早々と誰かの為に流されてしまう。

 客人が来た。


「……どうぞ」


 扉にコンコンと軽やかに音を奏でる来客に弥彦は心底幻滅する。決して表情を外に出すことはないが、本心は鬱陶しさが勝っていた。

 安定した弥彦の声に応じて、訪問者はゆっくりと戸を開ける。


「また何か、往生際の悪い問題でも起こしたのか?」

「ううん。全然違うよ」


 部室にやって来た人物というのはクラスメイトの相澤契だった。

 ボブカットの髪型をした黒髪の少女。相変わらず着崩れのない制服と身嗜みの良さを際立つ派手めのない様子。青春を謳歌するトップカーストの煌びやかな印象と大分掛け離れてある彼女は一見して普通の女子高生なのだろう。


 あくまでもその感想は、彼女の完璧な外側に見惚れた学生達に過ぎない。

 対して新藤弥彦は違っていた。


「もしかして、彼氏が出来たと報告しにやって来たのか?」


 不満そうにして文庫本をパタンと閉じる。面倒な態度を表した荒々しい視線によって、何か勘違いされたのか契は全力で否定しようと手を振った。


「あ、そういう事じゃないよ。彦くんに感謝を言おうと部室に寄っただけ」

「……」


 なんだその呼び方は……。

 宝石箱を言う食レポの人や半濁点を付けるとリンゴとペンの人を連想した。途端になぜか背筋を凍るような悪寒がどうしても止まらない。


「あれ? 彦くんどうかしたの?」

「その馴れ馴れしい呼び方止めろ。ネタネームにされるから」

「声震えてる」


 何気なくこちらに近付く契は空いている椅子に座る。それから弥彦の様子を伺う。隔てた机が心の壁の役割を発揮せず、彼女との距離が曖昧になってしまうため、とりあえず器用に机を契の方へ匙を投げるように押す。


「……えーっと、何かな?」


 しかし華奢な手で受け止めた契は不思議そうにして首を傾げるだけだった。

 まるでこちらが相談しに来たように見えるのは何故だろう。

 一様彼女の話を聞いてみることに。


「別に感謝される筋合いはないが」

「私にはあるよ。同じクラスメイトとして、悩みを聞いてくれた彦くんは感謝する資格があると思う。だから、もう一度、改めてお礼を言おうと来たの」


 ハッキリとした力強い言葉と、真っ直ぐに前を見据えた瞳。

 あの相談以降の彼女は何処か落ち着いているような気がして、躊躇いのない表情は晴天みたいに透き通っている。以前と見違える契は清々しく笑みを湛えていた。


「昨日の件でとうに収拾は付いたハズだ」

「うん。それはそうなんだけど、昨日の相談で少しは変わったかなーって思っていたら、正門に多くの学生さんが私の事を待ってたみたいで。効果はあまり見られなかったんだよね」


 昨日今日の問題をそう簡単に周辺が影響するとは、普通思わないだろ。

 一体何を間違っていたんだろう? 不思議そうに考える契。


「……じゃあ、奴等は相澤のために今も正門の前で占拠している。という訳だな」

「むしろ増えているからみんなに迷惑掛けているんだ」


 もはや不審者にしか思えない学生の行動力。

 何を抱いて正門の前で意地を張り続けているのか分からない。目先にあるホラーが契に経由して身近になるのは避けたい。

 というか避けるべきだ。


「断ろうとしても学生さんは話を聞いてくれないから、放課後が終わるまで学校にいる事を決めたの。それでなんとなくだけど、彦くんがいる部室に来たの」

「暇か」


 物凄い無駄な時間を送る彼女に対して軽蔑するしかない弥彦。

 もっと効率の良い過ごし方がきっと彼女にはあるのに、勿体無い青春を送っていた。既に学校生活を捨てている弥彦とは違ってトップカーストの彼女が台無しにする日常に受け入れがたいものがあった。


 たとえそれが印象の押し付けであっても彼女では相応しいというのに。


「大体放課後まで学校に居ても結果は変わるものでないだろ。仲の良い連中と下校すれば問題なかったと思う。どうしてそんな選択を決めたんだ」

「話してくれる人はいるけれど、本当に友達なのかなって考えたら、そうなった」


 別に単独行動でも違和感を浮かばなかった彼女。

 やがて沈んでいく黄昏色の世界は静かに見据える契の真面目な表情。それは冷静に現実を見ており大人びた判断は覆りそうにない。


 真っ直ぐと見詰めた透き通る瞳は、更なる景色に向けて覗いていた。

 自分が出来る覚悟というものを。


「彦くんにガツンと言われて私分かったんだ。何事にも本気で取り組まない人は必ず後悔するって。一度っきりの高校生活を、あの頃はとても楽しかったねって思えるように、自分は自分らしく過ごすと決めたの」


 こちらの振り返る微笑みは眩しく見えていて。

 改めて視界に入る契の姿が遠い場所に存在していて。決して届かない道へ順調に進んでいる事を理解した弥彦は、決して表情を変えずに彼女の熱意を受け止める。


 彼女自身が選択した未来に、誰かが口出しする権利は毛頭ない。

 相澤契は自由に生きているから。


「その大切な意味を教えてくれて、彦くんありがとう」

「……俺は部外者だ。何もしていない」


 話題を終えるために弥彦は手元に持っていた文庫本を開く。

 そこで挟んでいた栞が床に落ちてしまい、咄嗟に掴んだものの拍子で開いたページが閉じてしまう。瞬時に苦いものを口に含んだような厳しい表情を浮かべると、細やかに契はふふっと口を押さえては笑っていた。


 無視して弥彦は読んでいたページを捲らせる。

 他愛のない時間だけが進んでいく。ひたすら読書をしているのに契は飽きずに読書する弥彦を観察する。常に反応が新鮮なため気になって仕方ない。


 なので弥彦はとある質問をしてみる事にした。


「いつまでも部室にいるつもりなんだ。暗くなる前に帰った方が身のため……」

「あ、そうだ。放課後が終わるまで、ここに居てもいいかな?」


 それだけは止めてください。

 と言う前には既に遅かったようで、契はホッとして安心した微笑みを浮かべる。なんとも言えない立場にもどかしさを覚える弥彦ではあったが、ふと意識をしてしまった感覚は暴走気味に彼女に問い掛けた。


 もはや相談どころかのレベルの問題じゃない。


「念のために尋ねておく。それは今日中」

「学生さん達が冷めるまで、当分は部室に寄ってきても良いんだよね?」


 最後まで言わせて貰えない厳しい現実。

 青春という毒を回避するための逃げ場はトップカーストの美少女の気持ちによって追放される結末に。それは呪われていると相応しいぐらいの災難を経験する弥彦は手元から文庫本を落としてしまう。


 開いた口が塞がらない。

 震えた両手が何も言うことを聞いてくれない。

 怒ってもいいのかもしれないし、泣いてもいいのかもしれない。


 唯一のブレイクタイムでさえ叶わない現状を、本当に現実逃避をしたかったのは恋路部の部長の新藤弥彦本人だった。


 独りにしてほしい願いは何処に。

 思い描いた理想は懸け離れるばかりに、斜め上に歪む学校生活が始まった。

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