80 二人の真祖(後)

 ジガに殴り飛ばされ、後頭部から激しくレンガ壁に叩きつけられたヤーヒム。

 ここで気を失ったら最後だと己を奮い立たせる努力も虚しくその意識はふわりと漂い、幻聴だろうか、あの懐かしき麗しの声が脳裏に――



 ……ヤーヒム……ヤーヒム…………



 あたたかい暗闇と現実との境を朦朧と漂うヤーヒムの胸の奥底に、懐かしきラドミーラの声が聞こえてきた。

 それは掠れがちで、今にも融けて消えそうな儚き声。ヤーヒムの心に染み入るように切々と哀しげに、けれどどこか満足そうに訴えかけてくる。


 ……ヤーヒム……いよいよお別れの時がきたわ…………


 そんなラドミーラの声をよそに、どこか遠いヤーヒムの眼前の現実では憤怒に染まったジガがゆっくりと歩み寄ってきている。

 若返った肌は無数の青い光を浴び、うっすらと青光を帯びはじめている。吸収を途中で阻止はしたものの、それはまるでジガが生ける結晶へと進化してしまったかのような圧倒的な姿だ。カラミタのような、肉体に結晶を併せ持つ存在ではない。ジガという存在自体が青き光になりかけているような、そんな神がかった姿だった。


 ……私、もう貴方の中に溶けてしまうわ……そうすればきっとジガ兄様にも対抗できるし、それに…………


 けれどもヤーヒムはそんなジガをぼんやり眺めているだけで、身動きすらできない。

 これからおそらく自分の息の根を止めるであろうジガ、何やら語りかけてきている懐かしきラドミーラ。満身創痍のはずの身体にはひとつの痛みもなく、全てが現実ではないようで、全てがふわふわと漂っているのだ。


 ……うふふ、そうすれば私たち、本当の意味でひとつになるのよ……ここまで本当に長かった……ようやく全てが整ったの、ケイオスのお導きのお陰ね…………


 そんな混濁状態にあるヤーヒムの胸の奥で、ラドミーラが囁き続けている。

 その言葉の内容はもちろん、胸の中で泣いているかのようなその声にどう答えて良いかも分からない。ただ朦朧と漂い続けるヤーヒムの意識に、ラドミーラの声がぽつりと付け加えた。


 ……ねえ、さすがにちょっと疲れてしまったわ……ひとつになる前に、こう言っておくわ…………


 かつての別れのシーンに似た囁きに、ヤーヒムの意識が嫌な予感と共に僅かに覚醒した。

 ラドミーラが泣いている。

 何故だろう?


 けれども、これ以上その先を言って欲しくなかった。

 そう伝えようとして伝えられず、脳裏に浮かぶ様々な彼女の記憶に、様々な感慨に、ただただ圧倒されるヤーヒム。


 そして、ラドミーラの囁きがその続きを告げた。


 ……さようなら、愛しい人。私の永遠の伴侶、眩いほどに特別な私の子……こうして話せることは本当に最後だけれど……私が遺す力は貴方が自由に使って? だって、もう二人はひとつだもの…………私の全てを貴方に託して……そして、永遠に……一緒に…………


 囁き声が聞き取れないほどに掠れ、静かに消えていく。

 そしてヤーヒムの胸に流れ込んでくる、左手の甲の紅玉で生き続けていたラドミーラの精髄。


 それはこれまでカラミタやラビリンスのコアに牙を突き立てた時以上の、凄まじいまでの力の流れだった。

 単純な量で比べてもこれまで啜ってきた総量を軽く凌駕しているが、何よりそれは、いつも左手の甲からヤーヒムに注がれてきた暖かさそのものだった。常にヤーヒムを気にかけ、導き、後押ししてくれた無償の愛とでも言うべきその力が、根こそぎ流れ込んでくる。あたかもラドミーラの紅玉がその儚い生を終えたかのように――




「ラドミーラ!」




 一気に覚醒し体をガバリと起こしたヤーヒムの視界に飛び込んできたのは、長い牙を剥き出しにジガの顔だった。

 意識が混濁している間にそこまで来ていたのだ。ヤーヒムの頭を鷲掴みにした右手でヤーヒムを吊り上げ、今にも首筋へその牙を突き立てようとしていて――


「退けッ」


 咄嗟に左手でジガの右手を押さえ、体を捻って牙を躱すと同時に膝蹴りを放つヤーヒム。

 ドン、という強い音がジガの鳩尾から零れ、拘束が緩んだその右手をすっぱりとヴァンパイアネイルで斬り落とす。


 ――この力は!?


 先程の一戦では遠く足元にも及ばなかったジガを、不意打ちとはいえここまで一方的に攻め込めている。

 それはまさに、今も流れ込みつつあるラドミーラの精髄がヤーヒムを遥かな高みに押し上げている証。だがそれは逆に、そのラドミーラの精髄がヤーヒムに吸収されて消滅しつつあることも意味していて――


「邪魔だッ! 退けッ」


 左右のヴァンパイアネイルを流星のように煌めかせ、怒涛の連撃を仕掛けるヤーヒム。

 ジガも不意打ちから立ち直って応戦してくるが、その右腕にはヴァンパイアネイルはない。ヤーヒムが手首から斬り落としたからだ。それでも互角に立ち回ってくるジガの一瞬の隙を突き、ヤーヒムの左蹴りがその脇腹に深々とめり込んだ。さすがに堪えきれず、真横に弾け飛んでいくジガ。


 ラドミーラの精髄は今もヤーヒムに流れ込み続けている。

 僅かに作りだせた寸秒の余裕に、どうすればそれを止められるのか素早く考えを巡らす。量が量だけにすぐに終わらないのが救いだが、このままだと全て吸収し尽くてしまう。お陰でジガと対等に戦えているのはありがたいけれども、すぐに止めなければラドミーラの精髄が消滅してしまうのだ。


 と、その時。


 まるで、ヤーヒムの長姉エヴェリーナの最期の時のように。

 左手の不滅の紅玉から、ラドミーラの残留思念が流れ込んできた。それは結晶となっても彼女が手放さなかった強い想い。存在が消滅する最後に溢れ出てくる情念だ。


 蹴り飛ばした先のジガを注意深く見守りつつ、ヤーヒムは忸怩たる思いでそのラドミーラの想いを受け止めていく――




  ◇ ◇ ◇




 今から気の遠くなるような昔。


 五つの影月が全て満ちた<新生の月夜>ホロスコープの夜、風ひとつない霊峰チェカロヴァの山頂。

 現在では短くチェカルと呼ばれているその山の岩だらけの頂上に、人知れず二つの生命が産声を上げていた。


 それはこの世界を宿すヴラヌスの、実に千年ぶりとなる子供たち。争いに疲弊したクラールが眠りに就く直前、最後の望みを託して産み出した特別な双子の兄妹だ。


 力を使い果たした彼は命じる。

 陽と陰で手を携え、共に成長し、力を蓄えた暁には双子で交わり、新たなるヴラヌスを生み出せ、と。

 そして彼らヴラヌスの繁栄を永遠のものとせよ、と。


 理を曲げて同時に二人もの子を作り上げた彼は、そうして深い深い眠りに落ちていく。霊峰チェカロヴァの岩だらけの山頂に残されたのは、命を受けた二人の赤子のみ。


 それは後にクラールを継ぐ真祖と呼ばれる、二人の幼きヴァンチュラがこの世界に現れた瞬間だ。




  ◇ ◇ ◇




『行かないで兄様、独りにしないで!』

『くどい。我は力を蓄えなければならぬ。その手を放せ』


 兄妹が霊峰チェカロヴァで生を受けて十年の月日が流れ。あちこちのヴァンパイアコミュニティを流れ歩いてどうにかここまで成長した二人は、とあるコミュニティの一室で、かつてない深刻な別離の危機を迎えていた。


『我はラビリンスに潜り、先達ヴルタの青の力を奪う。彼等に媚びる必要などない。あれは亜流の存在、正統なるクラールの遺志を継いでいるのは我なのだ』

『違うわ兄様、私たちは二人でひとつなのよ! ここのコミュニティの人たちも二人でいていいって言ってくれてるじゃない!』

『黙れっ! 奴等が求めているのはお前だけだ! クラールの直系を色濃く示すその黒髪、芳醇な夜を連想させるその血の香り……我にはそれがない! 忌々しい太陽のごとき金の髪、飢えた下等な眷属すら顔を顰める炎天のごとき血の匂い! 我はヴルタを狩り、その力を啜り、必ずや奴等を従える存在となってみせる! 我はクラールを継ぐ正統なる真祖なのだ!』


 激情に任せて言い放った兄の言葉。

 それはこれまでどのコミュニティにも歓迎されてきた妹が初めて聞く、兄の鬱屈した本音だった。けれども常に兄と二人で生きてきた妹は、その幼き紅の瞳に溢れんばかりの涙を溜めて兄に縋りつく。


『駄目よ兄様! 二人で生きろって命じられたじゃない! なら私も連れていって! 私たち二人、一緒に永遠を生きる運命なのよ!』

『お前などと共に永遠を過ごしてたまるか! これ以上一秒たりとも顔も見たくないわ! もう二度と我につきまとうな!』


 妹の小柄な体を強引に振り払った兄の手には、青く輝くヴァンパイアネイルが伸びている。それだけ彼が本気だということだ。

 そして、少年ヴァンパイアはほんの一瞬の躊躇いの後、その凶器を妹の腹に深々と突き立てた。つんざくような絶叫が部屋に響き渡る。痛み、驚き、悲しみ――様々なものが混じったその涙混じりの絶叫を背に、双子の兄は振り返りもせずに部屋を出ていった。


『に、兄様!? 待って、行かないで! 私を置いていかないで――!』


 置き去りにされた妹はその後、コミュニティの同胞たちに手当てをされ、事なきを得る。

 だがその心の奥底を抉った傷は、ヴァンパイアの治癒力で治る類のものではない。幼き真祖ヴァンパイアはその後、艶然とした笑みの下で極度に孤独を嫌う存在へと成長していく。狂気を宿した真祖ラドミーラの、原点ともいえるひと駒だった。




  ◇ ◇ ◇




『うふふ、こうして蒼の因子をこの子に蓄積して』

『……母上、それは何をして?』


 闇夜、どことも知れぬありふれた農村のはずれ。

 攫ってきた人間の赤子を腕に艶やかに微笑む傾国の妖姫ラドミーラと、その忠実な唯一の側近、エヴェリーナ。


 偉大なる真祖にして己の母たる主が自らの腕を傷つけ、その血を青く輝く粉末と共に赤子の唇に垂らすさまを、エヴェリーナが一歩引いた場所から不思議そうに見詰めている。


『ふふ、内緒よエヴェリーナ。これはクラールではない、真なる神のお告げとだけ教えてあげる』

『……はい、母上』


 いつになく上機嫌なラドミーラに、エヴェリーナは小さく微笑んで頷く。

 彼女にとって真に重要なのは行動の理由ではない。敬愛する主が満足しているのならばそれで良いのだ。が、狂気をその心に宿した真祖はさらに説明を続けていく。


『これで完成したらヴァンチュラにして、多くの人族の血を啜らせるの』

『……はい、母上』

『多種多様な種族の人族の血には、それぞれ混沌神ケイオスの因子が含まれているわ』

『…………はい』

『そうして人族の血を啜らせていけば、その子は蒼と紅を併せ持つ存在になるの』

『……………………』

『その上で互いに血を啜り合えば、うふふ、私もそうなって。うふふふ、永遠に一緒の、運命の伴侶なの。そしてヴラヌスを救うのよ。あんな人なんていなくても大丈夫。ねえ、エヴェリーナも手伝ってくれる?』

『はい、仰せのままに』


 クラールを継ぐ正統なる系譜の、偉大なる真祖ラドミーラ。

 夜の支配者ヴァンパイアの世界で一大勢力を率いる彼女は、この時から徐々に表舞台から姿を消していくこととなる。




  ◇ ◇ ◇




 …………。


 蹴り飛ばした先で立ち上がろうとしているジガに警戒の視線を置いたまま、ヤーヒムは脳裏に溢れるラドミーラの残留思念を追体験していた。それは、真祖ラドミーラが送ってきた長い長い時間のほんのひとコマ。彼女が特に印象深く記憶していた一瞬の情景を切り取ったものに過ぎない。


 けれども、ヤーヒムには思い出されることもあった。

 それはいつかラドミーラが言っていた、ヤーヒムがブルザーク大迷宮のコアを目指そうと思い立つ切っ掛けになった言葉。


 ――ラビリンスといえば、ヴァンパイアがそのコアを取り込むと大きく強化される、という話はあるわね。そうして力を得た真祖がいたわ……私ではないけれど。


 そんな話をしてくれたのは二人で旅をしていた間のことで、場所や時期などは覚えていない。


 ――でもね、真祖と呼ばれるヴァンパイアは今はもう私だけなの。


 ただ、その後にそう寂しげに微笑んでいたことが強く印象に残っていたのだ。

 ラドミーラの遺念を追体験した今なら分かる。その真祖こそジガ。クラールの直系、双子の真祖としてラドミーラと共に生を受けた、彼女の兄のジガのことだったのだ。


 今、そのジガは途方もない力を手にし、新たなクラール天空神の座に昇らんと突き進んでいる。

 それがかの存在の意図したとおりのことかと言えば、おそらくは違うのだろう。正しいことかと言えば、その答えは分からない。


 けれど。


 ヤーヒムはそれを阻止する。

 神の座などはどうでもよかった。


 フーゴやリーディア、アマーリエといった仲間を守るために。

 自らの娘、ダーシャと暮らす新天地を守るために。


 どこかで何かを間違えてしまった己の母、ラドミーラの想いの一端なりとも叶えるために。


 己が種族ヴラヌスの亜神ともいえるジガに、ヤーヒムは全力で立ち向かう。



「……行くぞ、ジガ。妹の元へ連れ帰ってやる」



 ヤーヒムは背中に神授の翼を召喚し、雄叫びと共に駆け出した。






―次話『神域の戦い(前)』―

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