79 二人の真祖(前)

 己を取り囲む、幾本もの足。

 見慣れぬ意匠のローブと靴に包まれたそれが、激しく咽ながらも地面から視線を上げたヤーヒムの視界に映ったものだった。


「がはっ」


 次の瞬間、高速で治癒しつつある脇腹を強烈に蹴り上げられる。

 もんどりうって転がるヤーヒム。未だ空中へと転移していなかったカラミタが、落下してきた彼を素早く取り囲んでいたのだ。


「……まだ死んではいない」

「……好都合だ。このままジガ様の下へと」


 ヤーヒムを取り囲むカラミタは数体。

 濃密な血肉の匂いに一瞬だけその向こうを窺えば、何体ものカラミタが地面に倒れ伏している。生きて自己治癒の蒸気を上げている者もいるが、【ゾーン】にその生命を映していない者もいる。あれだけの高度から落下したのだ。生き残っている者も全身が激しく損壊し、しばらくは身動きすら取れないに違いない。


「……立て、この叛逆者め。手間をかけさせおって」


 周囲のカラミタの一体が、ヤーヒムの黒髪を掴んで引きずり上げた。

 見たことのないヴァンパイアだが、かなりの青の力をその身に宿し、何より五体満足だ。空中での攻防に参戦せず、地上で待ち構えていた者たちなのだろう。未だ治癒が追いつかないヤーヒムが彼らに逆らえるはずもなく、石畳の上をずるずると引きずられていく。その先にいるのはジガだ。圧倒的な存在感を放ちつつ、盲いた目でじっとヤーヒムを見詰めている。


 く……。


 ヤーヒムはその危険な邪視から無理やり視線を剥がし、徐々に治癒されていく己の身体に意識を集中した。

 もう少しで動けるようにはなる。それだけでこの危地から脱せるはずもないが、この状況で時間は大いなる味方だ。遠く繁華街の方向から迫りくる鳥肌の立つような気配。それは間違いなくフーゴやリーディア達が広げている封魔の領域だ。おそらくもうじき、あと少しでこの一帯に到達し、包み込んでくるだろう。


 惜しむらくは、それよりもヤーヒムがジガの下へと連れていかれる方が早いだろうこと。


 封魔の領域がこの場所を包み込めば、もちろんヤーヒムにも影響はある。が、少なくともこのカラミタ勢はまとめて無力化できるだろう。彼らの青の力はエヴェリーナや竜人族カラミタほど大きくないのだ。負傷している上に封魔の効果で弱体化したヤーヒムと、その力をどこまで封じれるかは神のみぞ知るジガ――その一対一の形には持っていくことができる。


 問題は、一対一になった後の彼我の力関係だ。

 それまでジガに青の力を啜られたりしないことはもちろん、この満身創痍の身体を少しでも癒しておかないといけない。


 どうにかして時間を稼ぎ、身体の治癒を進めながらその時を待つ。この状況を考えればそれが最善手なのだ。

 故にヤーヒムは激痛を無視して体を起こし、盲いた邪悪な視線を敢えて真っ向から受け止めて言葉を紡ぐ。


「……こうして対面するのは初めてか、我が母ラドミーラの兄君よ」


 ジガの視線を受けとめた瞬間、ヤーヒムの裡に抗いがたいほどの支配の力が流れ込んできた。

 少なくとも興味を引くことには成功している。先ほど上空でジガから掛けられた第一声はラドミーラのことだった。ならばと敢えて名前を出してみたのだが、どうやら間違いではなかったようだ。


 幸いなことにヤーヒムの裡のラドミーラの精髄は今や完全に目覚めている。

 紅玉から滔々と溢れ出てくるその力とヤーヒムの意思の力を合わせれば、ジガの支配を撥ね退けることは充分に可能だった。


 いくらジガの力が強大だとはいえ、ジガと同格の真祖ラドミーラと新世代のヴァンパイアであるヤーヒムを二人まとめて捻じ伏せる、そこまでの力は今のジガにはない。とはいえ同族に対する古の真祖の支配力は生半可なものではないのも事実。ヤーヒムの身体の裡という目に見えない戦場で、激しいせめぎ合いが繰り広げられていく。


 どのくらい争い続けたであろう。そんな得体の知れぬ巨大な力の攻防に当てられたか、いつしかヤーヒムを引きずっていたカラミタはその手を離して後ずさっている。ジガの支配を完全に追い出してその様子を視界の端で捉えたヤーヒムは、よし、とばかりに更にジガへ言葉を投げかけていく。


「……ラドミーラの精髄は我と共にある。そんな小手先の支配が通じると思ったか」


 繰り広げられていた身体の裡の激闘をおくびにも出さず、淡々と、しかし挑発するように言葉を投げるヤーヒム。

 時間稼ぎの話題としてはこの方向が最良だと直感した上でのことだが、案の定、しばしの沈黙の後に言葉が返ってきた。


『――それがどうした。あれは心弱き者であった。我が片割れの同胞はらからとしては恥でしかない。むしろ貴様が喰らってくれて重畳、ブルザークのヴルタの力とまとめて我に捧げてくれればそれで良い。手間が省けただけのこと』


 盲いたジガがそう告げた瞬間、ヤーヒムの左手の紅玉から目も眩まんばかりの深紅の光が迸った。

 ラドミーラが我を失っている。時間稼ぎとして会話を引き出すことには成功したが、繊細な地雷原に踏み込んでしまったのかもしれない。これまで彼女の存在はどこか奥の方でヤーヒムの意識と混じり合い始めているような感覚が続いていたのだが、久方ぶりの鮮烈な感情の発露だった。その深紅の光には悲しみと失望と怒りが入り混じり、全てを拒絶するかのようにヤーヒムの視界を紅一色に染め上げていく。


 と、その時。


 ヤーヒムの身体から急激に力が抜けた。

 数歩の距離を置いていたカラミタ達が一斉にバタバタと地面に崩れ落ちていく。封魔の領域だ。フーゴとリーディア達が展開していたそれが、ついにこの大迷宮の入口にまで到達したのだ。


 ……来たか。


 ヤーヒムの身体から全ての力が抜けそうになったのは一瞬。

 先立っての実験と同じように、ヤーヒム個人としてはすぐに抵抗が可能になっている。小さな悲鳴のような感覚と共に暴走しかけていたラドミーラの紅光をどうにか体内に戻し、二割程度まで治癒が終わった体を歯を食いしばって引き起こして、ぎこちなく己が足で立ち上がっていく。


『……貴様、何を――?』


 眼前では、ジガもまた同様に立ち上がったところだった。

 やはり封じるところまでは届かないか――予想どおりと言えば予想どおりの反応だったが、それでもヤーヒム同様に力を封じられている様子ではあった。いや、ヤーヒム以上、なのかもしれない。ジガの年経た顔にはっきりと苦悶の色が浮かび、盲いた眼差しからはそれまでの迫力がごっそりと抜け落ちてしまっている。


 ……ならば。


 ヤーヒムはだらりと下げた手から青く輝くヴァンパイアネイルを音もなく伸ばし、一歩また一歩とジガへと足を進めていく。


 周囲のカラミタは身動きすら出来ずに地面に横たわっている。リーディアが作ってくれた封魔の領域は滞りなく作用している。ラドミーラの精髄には申し訳ないことをしてしまったが、これはヤーヒムの待ち望んでいた展開だ。体はまだ癒えきっていないものの、カラミタ勢を排してジガと一対一の形に持ち込む……そういった意味では理想的な流れと言ってもいい。




 だが。




 圧倒的なまでの青の力をその身に宿した真祖ジガは、そう簡単に抑えられる相手ではなかった。

 ヤーヒムが封魔への抵抗を覚えたのと同様のことをジガもしたのだろう。その盲いた視線で迷いもなくヤーヒムを見据え、ラドミーラの在りし日を偲ばせるその年経た高貴な顔でニヤリと嗤いかけてきたのだ。


『――なかなか興味深い趣向だったが、ふむ、ならば仕方あるまいな』


 そんな言葉と共に、ジガの全身から途方もない力が放たれた。


 ……なん、だと?


 その力のあまりの巨大さにヤーヒムの足がもつれそうになる。

 それは紛れもない青の力。身動きこそ最低限に封じられているものの、封魔の領域で縛りきれなったジガの剰余の力が、この擬似ラビリンスの支配者は自分だと言わんばかりに周囲一帯に押し広げられているのだ。


 生温い風がジガに集まり、その豪華な衣装と白く枯れた長髪をふわりと持ち上げていく。

 途方もないエネルギーが大気に満ちている。ヤーヒムの肌という肌がびりびりと震える中、ジガはその盲いた眼差しを周囲に倒れたままのカラミタ勢に注いだ。そしてゆっくりと、手の平を上に向けた両腕を左右に高々と広げていき――



『――この役立たず共が。初めからこうしておけば良かったか』



 何本もの青の光が一斉に地面のカラミタ勢から柱となって立ち昇った。

 そしてそれぞれが遥か上空で弧を描き、両腕を広げたままのジガへと降り注いでいく。


「……ぁ……ぅ…………」

「…………ぐああ……ああああ…………」


 それはある意味で、先ほど青の光を与えてカラミタを創り出した、その真逆の光景だった。

 地面で力なくもがくカラミタ達は青の光を放出するにつれてみるみる血の気を失っていき、やがてその身に宿した結晶までもが色を失って――


 反対に、全身に青の光を浴びるジガは呆れるほどにその存在感を増していっていて――


 ジガの年経た顔から皺が消え、若々しい肌へと変わっていく。

 見るからに全身に力が漲り、盲いていた筈の紅玉ルビーの瞳から濁りが消えて、相手を燃やし殺すような邪な眼差しが宿った。


 そして、その深く精緻な紅の瞳で虚空をひと睨みした、次の瞬間。


 周囲を包んでいた封魔の領域が、まるで過負荷に耐えきれなくなったかのように弾けて消えた。

 ヤーヒムの身体に唐突に力が戻り、同時に遠くでフーゴとリーディアの怒号と悲鳴が聞こえる。



『――ふははは! 下僕の癖に、存外に力を殖やしてくれておったわ! さあ盗人よ、諦めて我にブルザークの力を寄越せ!』



 そう叫ぶなり、ジガが猛然とヤーヒムに襲いかかってきた。

 圧倒的な速度と力。先程までの年経た印象は一切ない。牙を剥き出しにした純粋たる暴力が、暴風雨のようにヤーヒムを襲う。


「がっ! ぐは!」


 ヤーヒムの身体が万全であれば多少は対抗できたのかもしれない。

 封魔の領域からはヤーヒムもまた解放されているのだ。けれど今のヤーヒムは未だ治癒が進み切っておらず――文字どおり一瞬で叩きのめされた。弾き飛ばされて地面を転がり、干乾びたカラミタ達の亡骸の中、どうにか体勢を整えて反撃の芽を窺えば。


 若返った真祖ジガが、ヤーヒムに向けてその手をかざしていた。


「――ッ!」


 その先にあるのはほぼ間違いなく、カラミタ達から吸収したようにヤーヒムの青の力が吸われるという展開。

 咄嗟にヤーヒムが飛び退くのと同時に、左手のラドミーラの紅玉から再び深紅の光が迸った。それは半ばがラドミーラの意思、半ばがヤーヒムの意思によるもの。このところ混じり合い始めていたふたつの意思だったが、先程のひと幕で一気にラドミーラ側の張りが失われ、今や混然一体となって動き始めている。そんな紅玉からの光はヤーヒムを護るように真円の結界となり、ジガの眼前に分厚く立ちはだかっていく。


『――小癪な。だがここまでの青の力があれば、あとひと息で良い。そこまで抵抗するならば、こうしてみようか』


 ジガが禍々しいその瞳を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 ぶわり、と背筋を凍らすような悪寒が走り、即座にヤーヒムは理解する。今ジガはその擬似ラビリンスを途方もない範囲へと拡大したのだ。


 そして右手を高々と天に掲げ、不敵にヤーヒムへと嗤いかける。

 そのまま一秒が過ぎ、二秒が過ぎ。


 呼吸を荒げ、極限まで警戒を高めるヤーヒムの眼前に、夜空から青の光の奔流がジガ目がけて降り注いできた。


「なっ、まさか!?」


 思わず驚きの声を漏らしたヤーヒムは、一瞬だけ視線を彼方のハナート山脈へと向けた。

 それで分かってしまった。今、ジガに降り注いでいる青の光は、ハナート山脈の向こう側から立ち昇っている。そう、その元となっているのはおそらく、こちらに進軍している二千からのヴァンパイアの軍勢。


 先ほど周囲のカラミタ達から吸い上げた時とは比べ物にならない量の青の光が、夜空を青く染める流星群のようにジガへと飛来してきている。いくら下級ヴァンパイアが中心とはいえ、数が数だ。その総量は推して知るべし。



『――くははは! 眷属など所詮は我が為の下僕、初めからこうしておけば良かったわ! この力、この高み……遂に届くぞ! 我が、我こそが新たなクラール天空神なり! 衰弱して眠ったままの彼奴に成り代わり、これより我がその座に昇るのだ! ひれ伏せ半端者、ひれ伏せ下等種族! そしてすべからくその身を我が糧として差し出すのだ!』



 己に仕える配下の青の力を一瞬にして吸い尽くし、狂気の高笑いを続ける真祖ジガ。

 無数の青の光を浴びるその全身からは、抑えようともしていない痛烈な威圧感が周囲の街並を物理的に破壊し始めている。無数の窓の鎧板が弾け飛び、屋根瓦が次々と剥がれ、石畳がめくれ。ヤーヒム自身は左手の紅玉が作り上げている深紅の結界に護られ無事だが、それもいつまで保てるものか――



 ――駄目だ!



 ヤーヒムは己に喝を入れ、再びヴァンパイアネイルを伸ばした。

 ジガが何を言っているか今ひとつはっきりしないが、このまま放置しておけばとんでもない事になるのは分かる。


 ――阻止するなら、今。


 圧倒的な青の力を浴びて高笑いを続けるジガに向け、ヤーヒムは結界ごと一歩前に踏み出した。

 まるで大雨で決壊する堤に乗り込むような猛烈な抵抗が全身を押し返してくる。それでも。


 ――アレは危険だ。今、止めなければ。


 ヤーヒムは一か八かの賭けに出た。

 無形の圧力というだけならば、結界よりもこの場に適したものがある。胸の隅々まで大きく息を吸い込み、心を決めて、そして。


「うおおおあああああ!」


 深紅の結界を解除し、一気に飛び出したヤーヒムが掲げているのは【虚無の盾】。

 どんな圧力であろうと丸ごと飲み込むそれを使えば前に進む妨げになることはない。問題は飲み込む総量によっては盾の虚無の容量が尽きる可能性があること、竜人族カラミタと戦った時のように相手の青の力の保持量の兼ね合いでそもそも虚無が働かない場合があること、そして【虚無の盾】がヤーヒムの全身を守れるほど大きくないことの三つだけ。


「うおおおおおおおっ!」


 裂帛の気合いと共にジガ目がけて決死の強襲をかけるヤーヒム。

 目下【虚無の盾】は問題なくジガの物理的ともいえる威圧を飲み込んでいる。それ自体がヤーヒムに向けた攻撃ではないことがひと役買っているのかもしれない。そして問題の最後のひとつ、【虚無の盾】の小ささについては承知済みの事柄だ。


 氾濫する大河のような猛烈な力の奔流が、盾に入りきらない肩や足を嬲ってくる。

 目の前でめくれた石畳がふわりと持ち上がり、そのまま唸りを上げて飛んでくる。


 ひと抱えもある石畳の欠片を【虚無の盾】に飲ませ、ヤーヒムは怯むことなく突進する。未だ高笑いを続けるジガまであと十歩、あと五歩、そして。


「ぐあっ!」


 大きく跳躍したヤーヒムが、その頂点で弾き飛ばされた。

 見ればジガが左腕を振り抜いている。【虚無の盾】ごと殴り飛ばされたのだ。


 そのままジガの威圧の奔流に呑まれ、もみくちゃにされながら通りを跨いだ背後の家のレンガ壁に激突するヤーヒム。

 それを追いかけるようにジガが、憤怒に顔を歪めながらゆっくりと歩み寄ってくる。降り注いでいた青の光は今や空中で拡散し、ジガに注がれるのではなく虚空に消失していっているのだ。


 少なくともヤーヒムの決死の突撃は意味を成した。

 ジガのこれ以上の青の光の吸収は阻止できた、それは間違いない。


 ただ、その代償は大きかった。

 後頭部からレンガ壁に激突したヤーヒムの意識はふわりと漂い、幻聴だろうか、あの懐かしき麗しの声が脳裏に…………






―次話『二人の真祖(後)』―

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