78 呪われた街(後)

 炎に包まれつつある大陸有数の迷宮都市、富と欲望のブシェク。

 その正門には、逃げ惑っていた街の人々が着の身着のままで我先にと押し寄せている。大通りに乗り込んだザヴジェルの騎兵達の懸命の避難誘導が功を奏し、多くの人々が安全な街の外へと脱出を図っているのだ。


「正門の安全は確保した! ひとまず街の外に逃げろ!」

「フーゴさん!? 助かった、恩に着ます!」

「おおいっ! みんなこっちだ!」


 そして、その避難誘導にはフーゴも加わっている。ケンタウロスのフーゴは元々この街を拠点としていた著名な傭兵であり、ブルザーク大迷宮を攻略した一人として更に名を上げている。この大混乱の中、そんなフーゴが街に舞い戻って救いの声を上げ始めたのだ。気休めの十字架や銀製品を手に逃げ惑っていた民衆が一斉に正門に押し寄せ、慌ただしく礼を言い残して次々に街の外へと難を逃れていく。


 そんな安堵と恐怖がないまぜになった人々の流れの脇で、純白のスレイプニルに凛と騎乗し、人々の頭上から固い表情で災厄の街を見つめ続けているのはリーディアとダーシャだ。隣にはザヴジェルの小隊長も騎乗したまま厳しい顔で並んでいる。


 今のところ、時と共に増殖し続けている末端の眷属達は別として、二人の正規ヴァンパイアがこちらに向かってくる気配はない。街の奥で暴れているのだ。


 目を紅く染めた眷属たちが逃げ惑う人々を追って散発的に大通りに飛び出してくるが、それらは避難誘導するザヴジェルの騎兵達が騎乗したまま機敏に包囲し、魔法の集中攻撃で片端から屠り去っている。


 と、街の奥に分け入って避難を呼びかけていたフーゴが、ハルバードを小脇に抱えて怒りの形相で駆け戻ってきた。


「クソッタレ、紅目の眷属に襲われた奴は端から眷属になってるらしいぞ! どんどん女子供が殺されてんだ、もう我慢できねえ! 姫さんと嬢ちゃんはもうしばらくここで隊長さんと門を護っててくれ! 頼むヤーヒム、俺と一緒に――?」


 フーゴの怒鳴り声が途中で消え去り、逞しい馬脚もそこで勢いをなくした。


 それまでザヴジェルの隊長の脇で目を閉じて【ゾーン】の感覚に集中していたヤーヒムが、ビクリと体を震わせてそのアイスブルーの瞳を唐突に見開いたのだ。


 予定どおり迅速に正門を制圧し、皆に避難誘導と門の護りを任せて街の中の様子を【ゾーン】で探り続けていたヤーヒム。

 街の中のヴァンパイア勢にどこからどう攻撃を仕掛けるか、どうすればこちらに被害なく最大限に街の人々を保護できるか、その辺りの状況把握に努めていた筈だったのだが――


 その研ぎ澄まされた彼の感覚を、突如として信じがたい事態が襲ったのだ。


 それは。

 先程まで確かにハナート山脈の頂上にあった、三十からなるジガとカラミタの強烈な反応。


 それが、まるで転移したかのように掻き消え、まさに今この瞬間、ブシェクの街の奥に忽然と出現したのだ。


 否。転移したかのように、ではない。

 実際に転移してきたのだ。


 転移はヴァンパイアの奥の手だ。一度使えばしばらくは使えず、何を思って使用に踏み切ったのかは分からない。

 強いていえば、ヤーヒムが【ゾーン】でジガ達の存在を捉えていたように、向こうからもまたヤーヒムが"視られて"いる感覚はあった。彼らが稜線に現れて以降、ヤーヒムは一直線にこのブシェクの街に急行し、今、街の中に攻め入ろうとしている。その行動を警戒し、対応してきたという可能性はあるのかもしれない。そして更にいえば、ヤーヒムは数人を一緒に連れて転移ができる。ジガもしくはそうした転移に特化したカラミタの一人が、三十からなる集団をまとめて転移させた、そう考えた方がいいのかもしれない。


 しかし、それらの推測の是非はどうであれ。

 街の奥に現れた強烈な反応群は、間違いなくジガ達がそこに出現したことを意味している。正門を奪取して民衆を逃がしつつ、ブシェクに潜り込んだヴァンパイアを個別撃破していく――ヤーヒム達が目論んでいたそんな計画は、根底から覆されてしまった。


 ならば……。


 硬直から解けたヤーヒムの思考が対応策を探り始めた瞬間、さらにジガが一手を追加してきた。



「――――ッ!?」



 ヤーヒムにとって覚えのありすぎるその感覚。

 直接的な攻撃ではない。もっと性質の悪い、次元の違う攻撃が今確かに仕掛けられたのだ。


 そう。

 突然のヴァンパイアの襲撃で大恐慌に陥っている、無数の民衆を抱える眼前のこの大都市が、その存在を丸ごと擬似ラビリンスへと上書きされたのだ。


 今この瞬間からこのブシェクでは、炎に巻かれ、ヴァンパイアと眷属に追われる民衆が命を落とす度に、その全てが糧となって啜られていく。

 言葉を変えれば、大都市ブシェクの全住民が、人知れずヴラヌスのニエとされてしまったのだ。


 ヤーヒムの他に気付いたのはダーシャ一人だけ。

 フーゴもリーディアも小隊長も、街の中で逃げ惑う住民たちも、誰も気がついていない。


 けれどもそれは、密やかに忍び寄る惨劇の前触れ。

 ジガは本気で今からこの街を滅ぼそうとしている――そんな確信が、ヤーヒムの顎を固く噛み締めさせていく。


 不安そうに見詰めてくるダーシャを、ヤーヒムは同じアイスブルーの瞳でまっすぐに見返した。

 こうなってしまった以上、ここで撤退するという選択肢もある。だが、それでいいのか。手元にはリーディアが苦心の上に作り上げてくれた、例の試作品も残っている。それを使う絶好の機会でもあるのだ。で、あるならば。


「……皆、聞いてくれ。状況が悪化した」


 ヤーヒムは簡潔に概要を説明しつつ、それぞれにとある依頼をした。

 それは、こんな時にこそ真価を発揮するであろう、封魔のコアを使った逆襲の一手だ。幸いジガ達は一箇所に――おそらくはブルザーク大迷宮の入口付近に――固まっている。ここで使わなければいつ使うのか。フーゴとリーディアが大きく目を見開くが、ヤーヒムの覚悟を孕んだ眼差しとしばし見つめ合い、ゆっくりと頷いてくれた。


 まずはひとつ封魔のコアを起動し、今も避難民が押し寄せる正門をこのまま守ることになった小隊長に託す。

 残るふたつは未起動のまま、フーゴとリーディアが無言で握りしめる。それらを起動するのはヤーヒムが飛び立った後。そうして街の中、街壁沿いをフーゴが左回りに、フラウに騎乗するリーディアとダーシャが右回りに駆けていくのだ。


 ここ正門を起点に、巨大な三角形を広げていって――


「……大迷宮の入口で会おう」


 ヤーヒムは漆黒の翼を背中に召喚し、ブシェクの上空へと舞い上がった。




  ◆  ◆  ◆




 迷宮都市ブシェク。

 スタニーク王国が誕生する前からブルザーク大迷宮という弩級のラビリンスヴラヌスを抱え、夜も眠らぬ喧騒と共に発展してきた大陸屈指の大都市。


 百年に亘ってヤーヒムを拘束していたその街は、今や侵入したヴァンパイアに大混乱に陥れられ、地上全てをジガの擬似ラビリンスに変えられてしまっている。


 矢のようにその上空を飛翔するヤーヒムの眼下では、消そうとする者すらいない猛火が立ち並ぶ家々に広がり、通りという通りには逃げ惑う民衆が右往左往し、徘徊するヴァンパイアの眷属に出くわしては絶望の悲鳴を上げている。

 彼らも眷属となって追う側に変わるのはもう間もなくの運命。そんな追われる者と追う者の数は加速度を持って入れ替わりつつあり、大陸有数の大都市ブシェクは、文字どおり滅亡の淵に追い込まれている。


 …………。


 そんな終末の光景の上を、ヤーヒムは顎を噛み締め一気に飛び越えていく。

 目指すは【ゾーン】にこれでもかと映っている強烈なジガの存在。街の中に見つけていた二人のヴァンパイアの気配も今はジガの下へと集結しており、街で暴れているのは鼠算的に増えゆく眷属だけだ。


 ヤーヒムの後方には、鳥肌が立つような領域が広がりつつあるのが分かる。


 それは封魔のコアによる、正門を起点とした三角形の領域だ。その三角形の残るふたつの頂点、街の左右に別れて街壁沿いを走るフーゴ達は順調に進んできている。逃げ惑う民衆のせいでそこまで迅速に進めてはいないようだが、その三角形の領域に入った眷属が全て動きを止めていることをヤーヒムは感じ取っている。これでこの街も多少は落ち着きを取り戻し始めるだろう。そして。


 ……あの速度ならば、先行した我にはかなりの余裕がある。


 ヤーヒムが狙うは、迫り来る封魔の領域で動きを鈍らせたジガ達への、高高度からの急降下強襲だ。

 リーディアが作ってくれたあの試作品で彼らを完全に封じられればそれでいい。けれどヤーヒムがそうだったように、もしジガの動きがそれで止められなければ。


 ……出来るだけ高所から、落下の勢いを借りて。


 もちろん自身にも多大な損傷が生じるだろう。

 だが、ヤーヒムの動きも封魔の領域で制限される関係上、確実に仕留めるために高高度からの降下の勢いを借り、一撃で終わらせる算段だった。


 まだだ。もっと、もっと高く――


 翼を力強く羽ばたかせ、ぐんぐんと高度を上げていくヤーヒム。

 封魔の領域での己の弱体具合は実験で把握したが、ジガがどこまで弱体化してくれるかは未確定なのだ。想定している高高度襲撃の開始地点はもっと上空。位置的には封魔の三角形に入らない街の奥側の場所から、一直線に急降下して一撃で勝負をつけるのだ。


 滅びゆく街がみるみる小さくなり、ヤーヒムが上空でジガ達を大きく迂回して待機地点へ到達しようとした、その時。




『――久しいな、妹よ』




 全身を四方八方から揺さぶるような、地鳴りを思わせる声が脳裏に響いた。

 咄嗟に気配を感じる方向、黒煙たなびくブルザーク大迷宮の入口方面に視線を向けてみれば。


 人外の視力を誇るヤーヒムの視線の先には、強烈な存在感を放つ真祖ヴァンパイアが盲いた目でこちらを見上げていた。

 

 色が抜け落ちて白く枯れた長髪、老いてなお覇気を放つ高貴な風貌、そして邪視とも思える濁った紅玉ルビーの瞳。

 王族がまとうような華美な衣装をまとったそれは、間違いなくジガだ。ヤーヒムの母ラドミーラの在りし日をどこか偲ばせるその姿は、老いと桁外れに強烈な青の力さえなければ、まさに彼女と双子だと納得できるもの。旧フメル王朝の浮遊都市で感じた、そして先程までハナート山脈の稜線に感じていた凄まじいまでの青の力が、間違いようもなくそれが真祖ジガだと告げてきている。


 周囲に従えているのは三十近いカラミタ。

 ジガやエヴェリーナほどの強敵はいなそうだが、ここまで数が揃っている光景には戦慄を禁じ得ない。


 そして彼らの正面には、二人のヴァンパイアが見るからに豪華な衣装をまとった眷属の一団を引き連れ、恭しく膝をついている。

 【ゾーン】の反応から察するに、その二人はまさしくこのブシェクの街を襲った張本人だ。そしてヤーヒムは知る由もないが、後ろの眷属はブシェクの太守、エリアス=ナクラーダルとその側近集団。遂に降臨した真祖ジガに服従の誓いを立てつつ制圧済の街の状況を報告している、そんな場面だった。


 それらが豆粒のように見える上空から、一瞬でおよその状況を見て取ったヤーヒム。だが、その距離でも視えているのはジガも同様だった。

 呼吸二つ分も間を空けず、再びヤーヒムの脳裏に地鳴りのような声が響いてくる。そこに至ってようやく左手の甲に同化したラドミーラの紅玉が微かに反応を始めるが、まるで眠りから無理やり起こされたかのようにその脈動は鈍い。


『――む、我が妹は既に返事も出来ぬほどに喰らわれていたか。まあそれでも良い。こちらに来るのだ、混じりて雑なる片輪者よ』

「なっ!」


 上空を飛ぶヤーヒムの高度がガクンと落ちた。

 口を開いた訳でもないジガの声が、物理的強制力を持つかのように上空のヤーヒムを引き寄せているのだ。


『――ふふふ、まさか貴様から飛び込んできてくれるとはな。ここのブルザークのヴルタを盗み啜ったのは貴様であろう。さあ、大人しくその青の力を寄越せ』

「くっ!」


 それは強大な真祖の力なのか、若しくは盲いた邪視の力なのか。


 ジガが発する恐ろしいまでの支配力に、少しでも距離を取ろうと背中の翼で必死に羽ばたき抗うヤーヒム。

 が、いくら翼を酷使しようとも、その場に留まるので精一杯だった。いや、じわりじわりと高度が下がっている。ヤーヒムの懸命の努力も虚しく、ゆっくりと引き寄せられているのだ。


『――ほう、力はそれなりにあるのだな。ならば』


 ジガが右手を持ち上げ、正面に跪く二人のヴァンパイアにその手をかざした。

 その盲いた視線が外されたヤーヒムはここぞとばかり離脱を図るが、ジガの手から迸った青い光に目が釘付けにされる。奔流となって二人のヴァンパイアをまとめて包み込んだその光は、狂おしいほどにヤーヒムの根底を掴んで離さないものだったのだ。青の光に包まれた二人から雷に打たれたように身じろぎするのも一瞬、その後は二人とも恍惚とした表情でジガを仰ぎ見ている。


『――我が出来損ないの子らよ、少しは役に立ってみよ。その身を使い、奴を引きずり下ろすのだ』


 かざした手をジガが退けると、消えた青の光の先で二人がゆらりと立ち上がった。

 その首筋は青く結晶化しており、糸が切れたかのように虚ろな表情へと変わっている。それこそまさに新たなカラミタが創られた瞬間。だが、その二人はまるでいつぞやヤーヒムが戦った子供カラミタ、ミロスラヴァを見るかのよう。意思を宿さぬ操り人形としか見えないものだった。


『――ふむ、やはり出来損ないは出来損ないにしかならぬか。仕方あるまい、貴様らも手伝え』


 ジガが再び手を掲げ、迸る青の光で新たなカラミタの背後に控える眷属達――呪われたブシェクの旧支配者たち――をなぞっていく。


 光が進むにつれ、次々とその身を震わせていく華美な衣装の眷属達。濃密な青の光が通り過ぎた後には、それぞれ身体のどこかを結晶化させた存在、つまりまた新たなカラミタが数十も創り出されていた。彼らの表情もまた一切の意思の光が欠如したものであり――


『――さあ、疾く行け』


 底冷えのするジガの声が冷淡にそう告げた次の瞬間。




「なっ――!」




 ヤーヒムは空中で激しく身を捩って突然の攻撃を躱した。

 何者かが唐突に眼前の虚空に現れ、襲いかかってきたのだ。


 ――転移か!


 新しく創られたカラミタ達が次々と上空のヤーヒムの周囲に転移し、捨て身の攻撃を仕掛けてくる。

 前後左右そして上下、どう躱してもその先に出現し、逃げ場のないヤーヒムを地面に落とそうと両手を広げて縋りついてくるのだ。


 短距離転移、それは数日に一度しか使えぬヴァンパイアの切り札。ただの眷属には使えぬそれは、ジガの青の力を注がれてカラミタへと強制進化させられた事で彼らにも使用可能となったのだろう。


 本来のヴァンパイア同士の戦いならばどこで使うか互いに牽制しあい、駆け引きをしながら使う奥の手。いかに多対一とはいえ、それをこうも乱暴に使ってくるとは――


「ごろぜ……」

「捕まえ……がああ!」

「ぐああ!」


 咄嗟に展開したヤーヒムの【虚無の盾】が、後先を考えず抱きつくように転移してきた新造カラミタ達を強引に薙ぎ払う。

 湿った水音を盛大に撒き散らし、片端からその身体を虚空に喰われ欠損させていく幾人ものカラミタ。そこに青く煌めく五本二対のヴァンパイアネイルが複雑な弧を描き、原形を留めぬ残骸がばらばらと地上へと落下していく。


 ――なんて真似を!


 次から次へと転移してくる新造のカラミタ勢を目まぐるしく薙ぎ払い撃墜しながら、ヤーヒムは強く奥歯を噛み締める。


 カラミタにされたばかりの彼らは動きが極端にぎこちなく、かろうじて取り憑かれる前に振り払えている。真に空を飛べるのはヤーヒム一人、間合いさえ保てれば後は遥か地表へと勝手に落ちていくのだ。

 だが、それは見方を変えればこうなる事を前提とした使い捨ての物量攻撃。ジガは一分の躊躇いも見せずにそれができる操り人形を創り出し、惜しむ素振りもなく上空へ転移させ続けているのだ。


『――ふむ、足りぬか。ならば汝らも加われ』


 転移しては落とされていく新造カラミタ達の様子に埒が明かないと判断したのか、ジガがその盲いた視線を己の周囲へと振り向けた。

 そこにいるのは元からいたカラミタ達、ハナート山脈の稜線から共に転移してきた者達だ。


 彼らは先ほどこの場で急遽カラミタにされたブシェクの元支配者達とは異なり、それぞれがしっかりと独自の意思を持ち、油断ならない青の力をその身に宿している謂わばジガの側近に当たる者達だ。

 旧フメル王朝で幅を利かせていた高位のヴァンパイア集団、それが彼らの前身。総勢三十にも及ぶ彼らが各々ジガの盲いた視線を恭しく受け止め、そして。


「……岳南の叛逆者を捕らえろ!」

「……ブルザークの力をジガ様に届けるのだ!」


 そんな叫びと共に上空のヤーヒム目掛けて一斉に転移をし始めた。


「ちっ――」


 次々と周囲に湧き出る強敵達に、ヤーヒムは一瞬で窮地に追い込まれた。

 これまでの新造カラミタと違い、それぞれがヴァンパイアネイルを振りかざして容赦なく斬りかかってくるのだ。中には操り人形と化した二人の元ヴァンパイアを踏み台に、空中で鋭角にその落下軌道を捻じ曲げてくる者すらいる。


 ヤーヒムの脳裏に、自らもどこか彼方へ転移してこの窮地を逃れるべき、そんな判断が浮かぶ。

 だが、一度しか転移は使えないのだ。ジガでもない前座相手に使うのは躊躇われるし、何よりあと少しでフーゴ達が封魔の領域をここまで広げてくれる。おそらくこのカラミタ勢はそれで無力化できるし、懸念しているようにもしジガにその効果が薄かった場合、フーゴ達が駆けつけた時に転移も使えない状態のヤーヒムが遠方に離れてしまっている状況は避けたかった。


 何としてでもこの場で切り抜ける――そう決意を固めたヤーヒムに。


「……逃すかあ!」

「……喰らえええ!」


 危険極まりないヴァンパイアネイルを振りかざすカラミタが、そんなヤーヒムを取り囲むように次々と転移してくる。

 高高度の上空は今や僅かな安全地帯もない戦場だ。ヤーヒムは最大限に【虚無の盾】を活用し、紙一重で空中の包囲陣をこじ開け、かろうじて活路を切り開いている現状。


 刹那の攻撃を躱され、反撃を受けたカラミタはもちろん次々と落下していく。が、ただでさえ細かい身動きの取りづらい上空で、しかも翼を羽ばたく隙間もないほどに彼らは転移してくるのだ。あとどのくらいこの猛攻を躱せるかなど、ヤーヒム自身にも答えられない相談だ。


 ――ならばっ!


 ヤーヒムは背中の翼を送還し、同時に真横のカラミタを足裏で蹴り飛ばした。

 反動で逆方向に躍り出たその先にいるカラミタの右半身を【虚無の盾】に喰らわせ、その残骸を踏み台に今度は上へと跳躍する。次はヴァンパイアネイルで下から脚を切断したカラミタの腹を蹴って左へと己が軌道を変え、次のカラミタを利用して再び上へ跳ぶ。


 上空からものすごい勢いで落下しながら、そうやって不規則に動き回り、周囲のカラミタの数も減らしていくヤーヒム。

 そのお陰か、翼を出して上空に留まろうとしていた時よりも転移してくるカラミタの密度が目に見えて減っている。落下速度も併せ、動き回ることで一発勝負である転移の狙いがつけ辛いのだろう。


 燃え盛るブシェクの街並みがみるみる迫り、ヤーヒムの鋭い嗅覚に煙の匂いが押し寄せてきたその瞬間。


 ――これが、最後だ!


 ヤーヒムは何体目かのカラミタの首を無くした胴体を強く蹴り、狙っていた包囲陣の隙間を抜けて外へと大きく飛び出した。即座に翼を召喚し、眼下に迫る地面から逃れようと死に物狂いで羽ばたかせる。もっと早く離脱するつもりが、周囲の猛攻にここまで時間がかかってしまったのだ。

 この危機に至ってようやく左手の甲のラドミーラの紅玉がその力をヤーヒムに流し込んでくるが、ヤーヒムはそれを片端から背中の翼に注ぎ、少しでも落下の衝撃を和らげようと羽ばたかせること数回。


 背中の神授の翼が羽ばたくたびに大きく落下速度が削がれ、僅かに先行して落ちていく周囲のカラミタが嫌な音を立てて地面に激突し始める中――



「ぐはっ!」



 かろうじて落下の向きを横方向に変え、通りの石畳にその身を削られるように転がり飛んでいくヤーヒム。地面に弾かれるたびに全身の骨が折れていくが死んではいない。何度かの激しい衝撃の後、民家の壁に叩きつけられてようやく止まる事が出来たのだった。


 そして始まる、高位ヴァンパイアならではの高速治癒。


 力なくもがくことしかできないその身体から、シュウシュウと音を立てて蒸気が立ち昇っていく。かつてない程に全身が破壊されており、眩暈がする程に体力が濫費されていくが、どうにか危機は乗り越えることが出来そうだった。けれども。


 ……奴らは、どこだ。


 今のヤーヒムはジガを始めとしたカラミタ勢と戦っているのだ。そのヤーヒムにしてみれば、自分を空から引きずり下ろそうとしたジガがこの隙を見逃してくれるとはとても思えなかった。急ぎ空に舞い上がり、再開されるであろう転移攻勢を凌ぎながらフーゴ達の到着を待たなければならない。


 激しく咽せて肺の中の鮮血を吐き出しつつ、瀕死のヤーヒムがどうにか顔を上げたその先には。






―次話『二人の真祖(前)』―

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