71 幻の王国

 フメル王朝。

 それはハナート山脈の裏側にあるとされていた国。魔獣の領域、ハナート山脈が険しすぎるがゆえ、伝承でしかその存在が伝わっていなかった幻の王朝だ。


 山脈の稜線を越えた後はその漆黒の翼をほぼ固定し、ヤーヒムはハナート山脈の北斜面に沿って高速で滑空を続けていた。

 今のところ、遥か下の山肌に見え隠れする魔獣はスタニーク王国側と比べそこまで変わったものはいない。植生も樹木限界がやや低いぐらいで、ほぼ似たような種類と分布を見せているようだ。


 一度手頃な魔獣を狩って手早くその血を啜った後、ヤーヒムがこの先目指すべき場所は既に分かっている。

 稜線を越えた途端、【ゾーン】に強い反応を感じ始めているのだ。それは――


 再び上空に舞い戻り滑空を続けるアイスブルーの瞳が鋭く見詰めるのは、遠く北東方向、遥かな森の中に煌めく五連の巨大湖。

 位置的にはハナート山脈を挟んだ王都の北側というより、直線距離で考えると迷宮都市ブシェクやもしかしたらザヴジェル領の方が近いと思われる、そんな場所に。


 その遥か北東に深い緑の絨毯に零れ落ちた宝石のように、五つの大きな湖が午後の陽光を反射して鮮やかに光り輝いている。【ゾーン】の感覚が指し示すのは間違いなくそこだ。ヤーヒムの人外の視力をもってしても今はまだ詳細が分からないが、湖の上に何やら巨大な人工物らしきものがせり出しているような気配もある。


 ……行くぞ。


 ヤーヒムは大きく翼を羽ばたかせ、更にその速度を上乗せした。




 耳元で轟々と唸る風切音。

 ヤーヒムは濃密な液体のようにも感じる大気の抵抗をねじ伏せ、受け流し、その翼で大いに利用しながら高高度を飛翔し続ける。

 その軌跡はハナート山脈高地から彼方の湖を結ぶ最短距離に変わっている。気紛れな強風に押し流されないよう【ゾーン】に映る目標に集中しつつも、遥か地表付近を飛んでいる好戦的な魔獣達への警戒も忘れない。


 ――そして同時にタイミングを計っているのは、どこまでこうして飛んで接近するかということ。


 過去の経験では、相手の擬似ラビリンスの領域内に入らなければ、まずヤーヒムの接近が察知されることはないと思われた。

 だが、今回の相手はヤーヒムの生みの親のラドミーラと同格の真祖、ジガである。こうして山脈を越えた今【ゾーン】でひしひしと感じるその強大さは、これまで戦ってきたカラミタ達とはまさに別次元のものだ。擬似ラビリンスの領域など関係なしにヤーヒムが相手の存在を感じ取れるように、ジガもまたヤーヒムの存在を察知できると考えておく方が無難だ。


 左手の甲に同化したラドミーラの紅玉も疼くような警告をしきりに送ってきている。

 【ゾーン】に感じる気配はジガのものだけではないのだ。ヤーヒムの深層意識をしきりに刺激する、無数に蠢く仄かな予感。左手から送られてくる警告の強度と間隔がどんどんと切迫したものになってきているのは、それだけヤーヒムに警戒しろということなのだろう。


 では、どこからどういう接近手段に切り替えるか。


 もし真祖ジガがヤーヒムを察知する能力を持っていた場合、今している全力での高高度飛行は途轍もなく目立つ。

 飛行中も【霧化】が出来れば気配を誤魔化せるのかもしれないが、翼を背中に召喚している間はそれが最古の神ケイオスの残滓で出来ているせいか、その存在が強すぎて並行しての【霧化】は不可能なのだ。


 ならば地上に降りて翼を消し、【霧化】をした上で接近するか。

 それは安全性は高まるが移動速度がほとんどなくなる手段だ。


 時間も無限にある訳ではなく、【霧化】をすれば絶対に察知されないという保証もない。むしろ今のまま高速飛翔で突入した方が結果として安全な場合だってあるのだ。


 ……ならば。


 高速で飛翔する際の暴力的なまでの空気抵抗に、その艶やかな黒髪をなびかせながらヤーヒムは決断する。


 このまま湖の畔まで高速で侵入。

 地上に降りたら限界まで深く【霧化】し、即座にその場を離れて様子を窺いつつ偵察を行う。


 電撃突入からの隠身、そして偵察。

 察知されてヤーヒムという存在を知られる危険はあるが、それはスタニーク王国側に攻め込んだカラミタ達の殲滅が伝わればいずれ知られることだ。この場は手早く情報を得て、難敵に囲まれる前に速やかに離脱する――


 よし。

 それで行く。


 ヤーヒムは鋭く翼を羽ばたかせ、更にその速度を上げた。




  ◆  ◆  ◆




「私は宮廷魔法師団長のユリウス=シェダだ。諸兄らの参陣を大いに歓迎する」


 スタニーク王都の白壁、大きく開かれた正門の前。

 魔法騎兵による分厚い炎壁ファイアーウォールを立てて快進撃を続けるザヴジェル軍は、北部ユニオン召集軍三千をここまで無事に導き入れることに成功していた。


 守備兵達の大歓声に迎えられるザヴジェル・ユニオンの両軍勢。

 白壁周囲のアンデッドは出撃時に比べ格段にその密度を落としており、一時の危機的状況はもはや過去の話となっている。守備兵達の士気は天井知らずだ。今も両軍の接近を視界に入れた彼らが集中的に正門前に斉射を行い、ザヴジェル軍の燃え盛る炎壁が近づく頃にはほとんどのアンデッドが掃討されていた。


「……マクシム、兵を集めてさり気なくここに壁を作れ」


 歓声で沸きかえる正門前広場の真ん中で、アマーリエが隣で騎乗する腹心に小声で指令を出した。

 先程から妙な視線が後方、誘導してきたユニオン召集軍の方から刺さってくるのだ。初めは探るような、今は獲物を狙うような不快な視線。それはアマーリエにというより、周囲に呼び寄せたリーディアとダーシャ、フーゴに注がれているように感じている。


 確かにリーディアとダーシャは目立つ。

 荒々しい戦場の只中で、名家の可憐な姫君と未だ幼い優美な少女が稀少な純白のスレイプニルに相乗りしているのだ。それでも行軍中はまだそこまで見られてはいなかったが、こうして行軍が止まると荒くれ者の集団であるユニオン召集軍の視線を磁石のように吸い寄せている。


 不躾な好奇心や下衆な眼差しが入り混じるその中に、妙に鋭すぎる視線が混じっていることにアマーリエは警戒心をかき立てられていた。

 過敏になっていると言われればそれまでだが、ユニオン召集軍の中に<闇の手>――トゥマ・ルカを率いていると噂のフベルト=ベルカの姿を見たばかりである。


 今はまだまだ王都にアンデッドが押し寄せている非常事態の真っ最中だ。

 こうしてザヴジェル軍の中核にリーディア達を入れ、厳重に周りを囲んでいれば尚更に妙な気は起こさないと思われるのだが――


「……心配しなくていいぞ、ダーシャ」


 向けられる視線を敏感に感じ取っているのだろうか、父親譲りのアイスブルーの瞳を不安げに揺らすダーシャに、アマーリエはニコリと笑いかけた。そしてリーディアとフーゴとゆっくりとした頷きを交わし合う。素早く指揮下の兵を動かしているマクシムやダヴィット、テオドルとも同様に無言のやり取りが交わされる。


 それだけで通じる。数多の戦いを乗り越えた彼らには確かな絆があった。

 援軍の到着に沸き立つ正門前広場の中、特務部隊<ザヴジェルの刺剣>は静かな厳戒態勢に入っていた。




  ◆  ◆  ◆




 ……こうなっていたか。


 【霧化】で限界ギリギリまで実体を隣界に雲隠れさせたヤーヒムは、眼前に広がる光景に奥歯を噛み締めていた。

 それは、想定していた中でも最悪に近い事態だった。夕陽を浴び、深い森の只中で満々と水をたたえる広大な湖。その中央、水上二メートルほどの高さに音もなく浮かぶ豪奢な城塞都市――そこまではまだいい。古より続く幻のフメル王朝、その伝説の一端がこの幻想的な都市なのだと納得することはできる。


 が、周辺の森の木々は禍々しく捻じくれて腐臭を放ち、果ての見えない湖の水面は不気味なほどに静まってさざ波ひとつない。

 そして人々の喧騒で満ち満ちていたであろう浮遊都市、そこから漏れ聞こえるのは活気溢れる生命の営みではなく、無数のアンデッドの怨嗟の呻き声だった。


 言葉になっていないそれらの呻き声が無数に重なって禍々しいどよめきとなり、湖を越えてこちらの穢れた森にまで届いてきている。

 時おり人間の悲鳴や断末魔が混じることから全てがアンデッド化している訳ではなさそうだが、荒廃した建物群を見るに、それら生者が置かれている境遇は想像するまでもないだろう。


 ここまで接近したヤーヒムの【ゾーン】に映るカラミタの気配は、大小合わせて二十を下らない。

 真祖ジガと思しきひと際強大な反応はそれらカラミタを従えるように最奥部にある。そこからヤーヒムに向かって接近してくるカラミタの気配がふたつ。これはヤーヒムの飛翔が察知され、その確認に出てくる者達だろう。


 ……そこでどこまでこの【霧化】が通用するか、だが。


 ヤーヒムは【霧化】を維持したまま、ゆっくりと移動していく。

 どうやって湖上の浮遊都市からこちら岸に移動してくるかは不明だが、この場にいて良いことはひとつもない。外見上はうっすらとたなびく一叢の霧となり、水際を漂うように着地地点から離れていく。


 そうしてヤーヒムが百メートルほど移動をし、ふたつのカラミタの気配が夕陽を浴びる浮遊都市の外縁まで到達した時。


 湖の表面が唐突に盛り上がった。

 浮遊都市からヤーヒムの前方までを一直線に結ぶように、幾本もの噴水が次々と天高く打ち上がっていく。思わず足を止めたヤーヒムが見詰めるその目の前で、無数の水柱が隣同士で混じり合い、壁のように連なって――


 その噴水の壁が、浮遊都市側から光と共に成型されてくる。

 迫り来る光の後ろに残されているのは、まごうことない一本の橋。こんこんと湧き続ける噴水の上端がまっすぐに均され、欄干まで備えた幅数メートルの立派な水の橋となっているのだ。


 言葉もなく立ちつくすヤーヒム。

 が、その橋の上を十人ほどの一団が駆け渡ってくるのを見て、一気に我に返った。


 その人影のうち、ふたつはカラミタだ。【ゾーン】に映る反応からして間違いはない。

 かつて戦ったエヴェリーナや竜人族カラミタほどの強敵ではないが、かと言って油断して良い相手ではない。


 そして、残る数人は――





 ……ヴァンパイア。





 やはりいたか、ヤーヒムは霧となった実体をさらに薄める。

 接近中からそんな気配は感じていたのだ。【ゾーン】で見ればカラミタほど青の力で輝いてはいないが、それでもここまで近付けば只の人間でないことははっきりと分かる。


 何より、人外の身のこなしと夕陽を受けて複雑に輝く紅の瞳、そしてその身にまとった同族の空気。

 見覚えのある顔はひとつとしてないが、彼らは間違いなくヴァンパイアだ。百余年の地下牢生活から脱して初めての真っ当な同族との邂逅。周囲を赤く染めつつある夕陽をものともしていないことからそれなりに高位の者と思われるが、それらがカラミタと一団となって橋を駆け渡ってくる。


「急げ、まだ遠くには行っていない筈」

「単独で動くな、ジガ様のお言葉のとおりならゲーアハルト様を下した岳南のヴァンチュラだ。油断するな」


 瞬く間に橋を渡りきった彼らは、【霧化】しつつ身構えるヤーヒムの脇をそのまま走り抜けていった。

 彼らが向かった先はヤーヒムが着陸した地点。そこで一旦立ち止まり、カラミタの一人の「散開!」という言葉に従って疾風のように散らばっていった。


 ……危なかった。


 ヤーヒムは深々と【霧化】したまま、ゆっくりと息を吐き出した。

 カラミタにはなっていない、百年ぶりに遭遇した純粋なる同族。その身にまとう同族ならではの懐かしき空気に思いのほか心底が揺さぶられ、【霧化】の集中力が乱れて姿を現すところだった。【ゾーン】に薄っすらと映るその反応の仕方は、カラミタよりもダーシャに似ているものだった。間違いない。あれは己が同族、ヴァンパイアだった。


 彼らはみな知らぬ顔だったが、おそらくはこの地に根付いてきたヴラヌスの系譜なのだろう。

 今のヤーヒムが戦ってそうそう後れを取るとは思わないが、二体のカラミタを含めたあの数を相手に完勝できるとも思えない。【霧化】状態で気付かれなかったのは重畳だ。真祖ジガの目を欺けているかはまた別の話だが、【霧化】は青の力を啜って得た新世代の能力だけに、通常の同族やカラミタ相手ならば誤魔化せるということか。


 ……さて、これでどうするか。


 ヤーヒムは禍々しい森の中に散って行った一団の後を眺めながら考える。


 ひとつ。

 ジガの居場所、カラミタの数、ヴァンパイアの生存情報――これだけでもかなりの収穫を得ている。既に夕刻の太陽は大きく傾いており、夕闇がすぐそこまで迫っている。生者相手なら夜の侵入はお誂え向きだが、アンデッドやヴァンパイア相手と考えればむしろ逆だ。アンデッドだけならばまだともかく、陽の光を避けていた下級ヴァンパイアが一斉に動き出す可能性もある。ならばこれ以上の危険は冒さず、ここで慎重に離脱を図るのも悪くはない選択肢だろう。


 ふたつ。

 今の遭遇で【霧化】がカラミタまでなら察知されないことが分かった。ジガさえ出てこなければ、まだ情報を探れるのだ。いざとなれば転移するか翼を召喚して空に逃げればいい。何よりヴァンパイアがいたのだ。しかも、カラミタと行動を共にしていた。彼らはどのような関係で、どのくらいの数がいて、そして真祖ジガとはどう繋がっているのか。カラミタとは何なのか。


 振り向いたヤーヒムの視線の先では、水の橋が夕陽を浴び、未だにしっかりと維持されている。すぐに消えるような気配はない。

 途方もない秘密がすぐその先で待っている。あの橋を渡れば、その先に。そんな予感がヤーヒムの胸をじわりと焦がす。行くな、やめておけ、左手の甲のラドミーラの紅玉は激しくそう伝えてきている。


 ……行こう。


 ヤーヒムは心を決めた。

 そう何度もこの手の偵察ができるとも思えない。この都市は危険すぎるのだ。それだけに今後に備えもう少し、アマーリエやザヴジェル軍の助けになるような情報が欲しい。


 ……危険な兆候があれば即座に翼を召喚し、空へと離脱する。


 決断を下したヤーヒムはより深く【霧化】し、夕陽に染まる霞となって水の橋に向かって慎重な移動を始めた。




 絶え間なく湖から噴き上がる、ひと続きの噴水で出来た水の橋。

 その上は磨かれた鏡のように平らで固く、その平面にぶつかった豊かな湧水が泡で複雑な文様を描いては横に逃げ、滝のように湖面へと溢れ落ちている。


 数百メートルにも及ぶその橋を【霧化】したままゆっくりと渡ってきたヤーヒム。

 今、彼の前には古より続くフメル王朝、その象徴たる巨大な浮遊都市が堂々とその姿を誇示していた。


 外壁には露台付の出窓がそこかしこに取り付けられ、数多くの旗や植木鉢が並んでいる。

 が、湖畔から見た時の荒廃した印象は変わらない。むしろ、近づけば近づくほどその悲惨さが見えてくるというべきか。色鮮やかだったであろう旗はくすんだ襤褸切れになっており、植木鉢の花々は枯れ果て瘴気を放っている。幾つかの出窓からは古い血痕が外壁に長々と垂れ伸びており、窓の奥の薄暗い部屋に垣間見えるのは彷徨うアンデッドの影か。


 ……これは、酷い。


 夕闇迫る外壁の中から延々と流れてくる、地鳴りのようなアンデッドの呻き声。戦闘の音は一切なく、時おり悲鳴と断末魔がそこに混じっている。

 今、この浮遊都市の支配者は、明らかに生者ではない。


 ここにどれだけの人口があったかは分からないが、その大多数が血生臭く陰惨な末路を辿ったのは明らかだ。ハナート山脈からここまでの間、他の都市や街などは見当たらなかったが、やはりフメル王朝は滅んだということなのだろうか。


 深々と【霧化】したまま、止まることなく水の橋をゆっくりと渡り続けるヤーヒム。

 やがて橋の終着点、外壁からせり出した大きな石舞台へと到達した。その接続部の形状から見るに、水の橋と繋がるのを前提として造られているようだった。


 視線を左右の外壁に走らせれば他にも何ヶ所か同様の場所がある。この浮遊都市と外部を繋ぐのは水の橋、そういうことなのだろう。

 湖の上という場所に加えてその通行手段――極めて安全な場所だったはずだ。


 ……ヴァンパイア達が乗り込んでくるまでは。


 ヤーヒムはゆっくりとした速度を保ったまま、外壁にぽっかりと口を開けた暗闇のトンネルへと入っていく。

 荒れ果てた石畳、すえた臭い。いつのものか分からない血の染みと、打ち棄てられた誰かの背負い袋、意味ありげに転がる片方だけの子供の靴。


 短いトンネルの向こうには、破壊の限りを尽くされた石造りの街並みが広がっている。

 宵闇が訪れつつあるその街並みには、見える限りでも十を超えるアンデッドがうろついており――その服装は、山向こうで召喚された無数のアンデッドと同じものだった。先程のカラミタとヴァンパイアも同じ系統のものを着ていたが、これで確証を得た。


 ……やはり、ここのアンデッドを召喚していたのか。


 ヤーヒムは【霧化】を解くことなく宵闇の街に進入しながら、状況を整理していく。

 スタニーク王国側に召喚されたアンデッドの数は最低でも二十万、おそらく三十万以上はあっただろう。いくらこの浮遊都市が大きいとはいえ、今もここに残るアンデッドの数も考えると、ここの人口だけでは計算が合わない。


 ならばやはり、フメル王朝全体が滅ぼされた、ということか。

 ハナート山脈のこちら側全てを制圧し、そこで得たアンデッドを集結、満を持して山脈を越えてスタニーク王国へ侵攻を始めた――そういうシナリオなのかもしれない。


 急速に暗くなっていく浮遊都市の荒れ果てた街並みを、無目的に彷徨うアンデッドに触れぬよう慎重に進むことしばらく。

 左手の甲から狂ったように警告を送ってくるラドミーラの紅玉をどうにか宥め、ヤーヒムはゆっくりとその歩みを止めた。


 …………これは、なんという。


 半ば分かっていたことだが、この浮遊都市を支配しているのは生者ではない。

 そして、アンデッドでもなかった。


 これまでに通りすぎた道端の家々の中、打ち壊された窓の奥のそこかしこに。

 時おり響き渡る生者の悲鳴と断末魔の、その元となる場所に。


 それら全てに見え隠れしていたのは、それぞれに眷属を従えた、中級や下級のヴァンパイア達。


 今や【ゾーン】にも感じる無数の同族の息吹、気配。

 真祖ジガを含めた強力なカラミタ達は、この浮遊都市の奥に固まっている。そしてこの外縁部には、数百のヴァンパイアと眷属が巣食っている。山脈の向こう側では狩り尽されたと言われるヤーヒムの同族が、ここでは当たり前のように、まるでこの世界の支配者と言わんばかりに。


 生き残りの生者は、まるで家畜の餌のようにそれぞれのヴァンパイアに囚われている。

 そして気紛れに血を啜られ、戯れにヴァンパイアの血を飲まされ、生命が尽きればゴミのように投げ棄てられている。眷属にもさせてもらえず、徘徊するアンデッドと化しているのはそういった者達だ。山脈の向こう側へと召喚されていった者を含めれば、この地で生み出されたアンデッドは少なくとも数十万は下らないだろう。それらの全てがこうして生み出されたのではないにしろ、アンデッドが便利な戦力として活用されている事を考えれば、かなりの数が意図的に作られていてもおかしくはない。



 幻の王朝と呼ばれたフメル王朝。

 それは今や、破壊と殺戮に支配されたヴァンパイアの王国と化していた。



 荒れ果てた通りを徘徊するアンデッド達、投げ捨てられたままの死体、そして道端の家々の中で蠢く無数のヴァンパイアと家畜として囚われた人間たち。

 かつてヤーヒムが知るどのヴァンパイアのコミュニティも、ここまで凄惨なことにはなっていなかった。ヴァンパイアにはヴァンパイアの矜持と文化があり、ここまで獣のような生を送る者は存在しない筈だった。だが――


 ゆっくりと街の奥へと侵入していくヤーヒムの目が、通りの石畳の端にうずくまる一団の上で止まった。

 家屋の中に入るでもなく、崩れかけた壁の下で身を寄せ合っているその一団。それは、どこか見覚えのあるヴァンパイア達だった。


 ……ドウベク街道脇の古城にいたコミュニティ、だったか?


 おぼろげな記憶によれば、そのコミュニティの中核メンバー達だと思われる。

 どうやらあの廃城のコミュニティは吹き荒れたヴァンパイア狩りの嵐をくぐり抜け、ハナート山脈のこちら側まで逃げ延びられたらしい。同じコミュニティの子供ヴァンパイア、ミロスラヴァがカラミタとなっていたのだから、それも充分にあり得る話だろう。


 ……だが、なぜここまで落ちぶれている?


 ここにいるのはコミュニティの中核、それなりに力を持った者達ではなかったか。

 他のヴァンパイアが家屋の中で日光から隠れ、家畜のように人間を弄んでいることを思えば、随分と格差のある境遇に見える。もしかしたら山脈向こうから逃げてきた者達は、元々こちらにいる者達から虐げられているのかもしれない――ヤーヒムの脳裏にそんな思考が掠めた、その時。


 沈みゆく太陽が、ついに完全に地平線に沈んだ。

 ここ、荒廃したヴァンパイアの王国に夜が訪れたのだ。


 その瞬間を待っていたかのごとく、一斉に家々から湧き出てくる下級ヴァンパイア達。

 それにやや欠ける数の眷属達も、次々とそれぞれの隠れ家から通りに溢れ出てくる。


 下位のヴァンパイアである彼らは皆、太陽の光を極度の弱点としている。

 その忌々しき光から地上が追放された今、彼らの王国を謳歌せんとばかりに一斉に活動を開始したのだ。


 ……さすがに、これは。


 ひとつの街を壊滅させるだけであれば、一人の中級もしくは下級ヴァンパイアが眷属と共に襲撃すればそれで事足りる。

 夜の闇の中で眷属が眷属を増やし、やがて街の住民全てを呑み込んでいく。眷属に作られた眷属は同族の末端にしかなれないが、それでも一般の人族よりは遥かに強く、同じ末端の眷属なら同様に作り出すことができるのだ。


 そんなヴァンパイアが、この数。

 異常なのは正規のヴァンパイアと眷属の比率だ。確かに眷属はいつでも増やせるし、末端の眷属を多く抱えてしまえば糧となる人族の血が大量に必要となっていく。つまり、これらヴァンパイアは確実に何らかの意図に基き、強固な支配の下に統制されているのだ。


 ヤーヒムはかろうじて【霧化】を続けたまま、動揺を押し殺して周囲の変貌ぶりを観察する。

 周辺だけで数百、全体ではおそらく二千は下らない下級ヴァンパイアとその眷属達が街に繰り出してきている。その規模はもはやヴァンパイアのコミュニティなどという生易しいものではない。文字どおり、まさにヴァンパイアの王国だ。そして、一斉に動き始めた彼らが一様に向かっていく先は――



 ――【ゾーン】に映る、この浮遊都市の最奥で固まっていた二十のカラミタ、そしてジガの反応の元。



 見れば全てのヴァンパイアが旅装束をまとっている。各々が腰に下げている皮袋から漂うのは濃厚な血の匂い。ヴァンパイアの携行食糧だ。


「思い上がりの人族に、正当なるヴラヌスの支配を」

「岳南の家畜の血を啜り尽くせ」

「古のクラールの高みに、いざ我らも」


 合言葉のように口々に囁いているのは、これが統一された予定の行動であるゆえのことか。

 通りの端にいた古城のコミュニティの中核だった面々も、狂信者のように同じ囁きを零しつつ、ふらふらと都市の奥へと歩き出している。


 …………何だと!?


 彼らの囁きの内容を理解したヤーヒムの裡に、猛烈な悪寒が湧き起こる。

 このヴァンパイアの数、洗脳でもされたかのような同じ囁き。


 まさか、アンデッドで失敗したその次は、ジガはこのヴァンパイア達を使って山越えしてくるつもりなのか――?


 持参している血の皮袋、岳南の家畜云々という言葉。間違いはなさそうだった。

 ヤーヒムは【霧化】をしたまま、即座に街並みの外れへと後退を開始した。何が何でもすぐにこの報せを持ち帰らないといけない。


 今、もしヤーヒムの存在が露見すれば確実に捕まってしまうだろう。いくらヤーヒムが飛躍的な成長を遂げているとはいえ、相手もヴァンパイア、この数を相手にかなう訳がない。


 先ほど湖の外に出てきた一団が口にしていたことを考えれば、ヤーヒムが彼らの言う「岳南」の一員であり、山脈の向こうで何をしたかはほぼ知られているということだ。この場で見つかり、捕えられれば、無事に解放されるなどとは思えない。


 ……ならば。周囲に下級ヴァンパイアしかいない、今のうちに。


 ヤーヒムは素早く決断を下し、人目につかない路地の奥で【霧化】を解除した。同時に背中の翼も召喚する。


「――――!」

「――――ッ!」

「――――――!」


 突如として中空に舞い上がった見慣れぬ姿の高位ヴァンパイアに、それを見咎めた下級ヴァンパイアと眷属達が大騒ぎを始めた。


 が、彼らが口々に何かを叫びだす頃には、ヤーヒムは更に高度を上げている。背中の神授の翼が力強く羽ばたき、ぐんぐんと夜空高く舞い上がっていき、そして。


 宵闇の地平線に黒々とそびえるハナート山脈の稜線をめがけ、躊躇うことなく長距離転移を発動させた。






―次話『深夜の帰還』―

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