72 深夜の帰還

 深夜のスタニーク王都、白壁内の王宮前広場。

 昼間に大車輪の活躍をしたザヴジェル軍八千は、夜間の白壁防衛を免除されて全軍が天幕に入ってひと晩の休息を貪っていた。


 それを可能にしたのは、アンデッドひしめくステクリー大平原、その北の玄関口であるセヴェルの丘から北部ユニオン召集軍三千を無事連れ帰ってきたことが大きい。ラビリンス等で魔獣戦闘に慣れたユニオン所属の荒くれ者達が早速白壁の上に配備され、強力な防衛戦力となっているのだ。


 王宮前広場に林立された無数のザヴジェル軍の天幕の中では、当番兵を除いた兵士達が盛大ないびきを上げて眠りこけている。

 今日もほぼ丸一日にわたって苛酷な従軍が続いたのだ。いくら魔の森からの防衛で鍛えられたザヴジェル軍とはいえ、疲れていない者などいない。


 時おり流れてくる喚声は、未だ白壁で断続的な戦闘が続いている証。

 薄雲が広がった夜空からは月明りもなく、煌々と焚かれたかがり火の明かりが黙々と巡回をするザヴジェル当番兵達の姿を照らしている。


 そんなザヴジェル軍陣地の片隅で、一人の豹人族の当番兵がふと足を止めて振り返った。

 視線の先にあるのはかがり火とかがり火の間の闇。くべられた薪が何かの拍子に爆ぜたのだろうか、奥のかがり火から無数の火の粉がゆっくりと中空へ舞い上がっている。


「………………」


 鋭敏な鼻をひくつかせ、たっぷりと数呼吸の間をかけて警戒の眼差しを注いでいた豹人族の当番兵は、やがて緊張を解いて再び巡回へと歩き出した。


 なにしろここは大都会、スタニーク王都の王宮前広場である。

 ただの野営とは違い、周辺には王都の歓楽街が広がっている。魔獣などの危険がない代わりに、救世主のように現れたザヴジェル軍や、英雄として噂になっている天人族にひと声感謝の言葉をかけようと近づく者も多い。夜になってそうした者が減ったとはいえ、周囲の気配の多さは荒野の野営とはまるで違うものだ。


 更にややこしいことに、王都の住民の中には愛玩用として小型の比較的従順な魔獣を飼う者もいるという。

 ザヴジェルのような辺境の開拓地で暮らす者には理解できない風習だが、さっきもそれだったかもしれないな、そんなことを豹人族の当番兵は考えながら歩き去っていった。


 勝手が違い過ぎてやり辛い、そう小さな溜息をつきながら。









「…………気をつけろズヴェール、亜人は感覚が鋭い」

「…………すまなかった」


 ザヴジェルの巡回兵が去った天幕の陰で、複数の人影が止めていた息を静かに吐き出した。

 小声で叱責された男がひしと抱きかかえているのは猫型の使い魔。彼らは全員がくすんだ黒革鎧に身を固めており、並々ならぬ気配を漂わせている。そう、彼らはトゥマ・ルカ――<闇の手>と呼ばれる王家直属の隠密部隊だ。


 迷宮都市ブシェクの太守交代劇を発端にしたブラディポーションの争奪戦、その製法の鍵となるヴァンパイアを追っていた最中に起きたアンデッドの王都大侵攻。北部都市全体が蜂の巣をつついたような大混乱の中、元より王家と関係の深い武装組織ユニオンの協力を得て、ようやく戻ってきてみれば。


「……今探らせた中では、負傷兵を治療しているような天幕はひとつもなかったな」

「……死傷者も未だ出ていないんだろう? この規模の軍勢であの行軍をして、それはさすがにおかしい」

「ああ、少なくともザヴジェル軍が中央神殿に終油の秘跡を依頼した事実はなかった」


 ひそひそと囁きを交わす二人に、黒ずくめの三人目が加わった。

 そう。圧倒的な強さを持つザヴジェルからの援軍が、彼らの王都を陥落から救ってくれていた――それは確かに有難いことなのだが。


「……ひとりも死んでないとか、軍としてさすがにあり得ない」

「……ここの奴らは辺境の亜人混じりの軍勢だ。信仰心が薄くて神殿に行っていないだけ、ということもあり得る。だが」

「……シェダの娘と<暴れ馬>、そして黒髪の子供。どうやってチェカルを抜け出したかは分からないが、何故かここに奴の同行者が揃っている。しかも調べてみれば異常なほどに将兵の損耗率が低い。我らが作り始めたのとは別、まさに本物のブラディポーショ――」


 周囲の男達が一斉に底冷えのする眼差しで口を滑らせた黒騎士を睨みつけた。

 ピタリ、とその口が閉ざされる。


「……余計なことは口にするなズヴェール。また隊長にドヤされるぞ」

「……まずは事実関係の確認が先、その先は上が判断することだ。何より、今の王都の状況でザヴジェルを敵に回す訳にはいかない。そこは分かってるな?」

「……ああ」

「……奴らが使っているそれらしきポーションをすり替えて持ち帰る、それが今日の俺達の仕事だ。すり替え用の物は持っているな? ズヴェール、使い魔は軍備品集積所も見つけてるか? ――よし、スラムの奴らにそれを伝えろ。行動開始だ。手筈どおりにいくぞ、散開!」




  ◆  ◆  ◆




「――なんてこった」


 王宮前広場、天幕が立ち並ぶザヴジェル軍宿営地の中心部付近。

 周囲よりひと回り大きいとある天幕の中では、氷のようなアイスブルーの瞳を持つ男を囲んで密談が行われていた。


 男はヤーヒム。

 偵察に出ていたハナート山脈の向こう側から風のようにこの宿営地に舞い降り、<ザヴジェルの刺剣>の中核メンバーに緊急の報告をしたところだ。深夜にもかかわらずこの天幕に集まっているのはアマーリエ、マクシム、フーゴ、そしてリーディア。


 リーディアと同じ天幕で休んでいたダーシャはさすがにこの時間は熟睡しており、リーディアは彼女を起こさず、マクシム配下の上級騎士テオドルに引き続きの警護をお願いしてこの場に赴いている。そうして皆が揃うなりヤーヒムから報告された、山向こうの悲惨な現実――


「フメル王朝がヴァンパイアとアンデッドの王国になっていた、だと……」

「ね、ねえ、それでヤーヒムはその……どうなの? 探してたんでしょう、同じ種族の仲間を」


 ヤーヒムが報告した、そのあまりの事態に絶句するフーゴ、眉間に皺を寄せ深々と考え込むアマーリエとマクシム。そして、紫水晶の瞳に切羽詰ったような感情を滲ませ、恐るおそるヤーヒムに尋ねるリーディア。


「……ああ、あの状況からすれば、ひとつの街だけのことではなくフメル王朝全体と考えておいた方が良い。それと、リーディア」


 ヤーヒムはその彫像のように整った顔に張りつめていた厳しさをふと緩めて、見せたことがないような眼差しでリーディアの顔を眺め、そして一同の顔を見回した。


「我の仲間はここにいる。種族よりその人の力が、その人自身が評価される――ザヴジェルではそれが当たり前なのだろう?」

「え、あ、そうだけど……」

「少なくとも、我と、人を糧や使い捨てアンデッドの素体としか見ていないようなカラミタとは相容れぬ。それに今更であろう。我が種族、ヴラヌスとの決別はとうに済ませた。我は己の道を行く。彼等はもはや同胞ではない、今の同胞はここにいる皆だ」


 透きとおったアイスブルーの瞳に鋼の覚悟をみなぎらせ、ヤーヒムははっきりと言いきった。


「――そうか。天空神クラールの巡り合わせに感謝を」

「ヤーヒム……」


 仄かに安堵の表情を浮かべるアマーリエと今にも泣き出しそうなリーディア、そして、馬体の尻尾で嬉しそうに隣に座ったマクシムをばしばしと連打し始めるフーゴ。期待以上のヤーヒムの明確な言葉に、場の空気がやわらかくほぐれていく。


「くく、さすが俺が見込んだ男だぜ。そうこなくっちゃ。……で、話を戻すと、今度はそこにいたヴァンパイアが大群で攻めてくるのか? さすがにそれはちょっとヤバそうだな。今回の数だけ多いアンデッドとは訳が違う」

「ヤーヒム殿、相手の数、襲撃の時期や場所の予測などは立ちますか? 推測でも良いので少しでも情報を」


 熟練の騎士マクシムの問いに、ヤーヒムは再び厳しい顔に戻って口を開く。


「……数は感知した範囲だけでカラミタが二十、眷属を含めたヴァンパイアが二千。襲撃の時期や場所については……かの都市はかなり北に位置していた。ここ、王都の北と言うよりは、ザヴジェルの西と言った方が正確か。距離もザヴジェルの方がよほど近かろう」

「ふむ、なるほど。最初にザヴジェルにカラミタが現れたのはそれが故かもしれぬな。……ならばザヴジェルに再襲撃の可能性があると?」


 瞳を閉じ、僅かに考え込むヤーヒム。

 そしてゆっくりと口を開いた。


「……いや、そうは思わぬ。あの数、戦力に不足がある訳ではない。全ての同族に手っ取り早く血を啜らせることを考えると、人が疎らなザヴジェルよりは充分な人口がある王都を狙うだろう。――そしてこれは完全な憶測だが、手始めにその手前、ブシェクが襲われる可能性が高い」

「ブシェク、だと……」


 マクシムとアマーリエが思わず目を合わせ、共に考え込んだ。

 ブシェクは言わずと知れた大陸屈指の迷宮都市だ。王都ほどではないが、確かに人口も多い。更に今はディガーや傭兵などの潜在的防衛戦力がほぼ根こそぎ出払っている。ユニオンに強制召集され、この王都へ援軍としてやって来ているのだ。労少なくして功多し、戦いに於いて守りが少ないところを狙うのは基本中の基本である。そしてブシェクを抑えてしまえば、それは王都攻略の絶好の足掛かりとなる。実に効果的な一手と言えた。


「なるほど、あり得るな。さすがはヤーヒムだ」

「…………」


 戦略的な観点での蓋然性をざっと説明して賞賛の言葉を告げるアマーリエだが、実はヤーヒムとしてはそういった戦略面を考えてブシェクの名を挙げた訳ではなかった。


 ヤーヒムが考えていたのは別のこと。

 カラミタとなっていたエヴェリーナの青の力を啜った時に流れ込んできた、彼女の記憶――その中で、真祖ジガがこの地を出奔した際に、手頃なラビリンスを片端から狩って行った、というものがあった。


 エヴェリーナはその詳しいところまでは知らなかったようだが、ヤーヒムには分かる。当時のジガは今のヤーヒム同様、ラビリンスコアとなったヴルタから青の力を啜って回っていたのだろう。そして、ブシェクには当時のジガが狩らずに残していった巨大ラビリンス、ブルザーク大迷宮がある。


 長きに亘って探索の手を完全に阻んできたブルザーク大迷宮。

 更なる力を得たジガは「今ならば」とその青の力を狙っているのではないか。


 今のジガはカラミタはもちろん、旧フメル王朝にいた多くの高位ヴァンパイアを配下に収めているのだ。当時からブルザーク大迷宮攻略の壁となっていたと思われる<常昼の無限砂漠>を人海戦術で攻略し、その先に鎮座するヴルタから青の力を啜る――それはかなりの確率でジガが取りそうな行動であり、ヤーヒム自身、不思議と当たっている確信があった。


 もちろん既にそのヴルタの青の力はヤーヒムがとっくに啜ってしまっている。

 だからこそ分かるのだ。あの大陸有数とも言われるブルザーク大迷宮のヴルタが、いかに桁外れの青の力を蓄えていたか。それは今のヤーヒムを形作る重要な土台となっており、それがなければヤーヒムは未だにただの高位ヴァンパイアだっただろう。ここまでエヴェリーナや竜人族カラミタと戦えてきたのも、ほぼブルザーク大迷宮のヴルタのその青の力を啜ったお陰と言ってもいいぐらいなのだ。


 つまり。

 山脈の向こうにいる限り、既にヤーヒムが啜ってしまっているなどという最新情報はどうやっても伝わりようがない。ジガがブルザーク大迷宮の砂漠階層の強烈な陽光をものともしない配下を大量に揃えた今、その青の力を狙ってくるのはほぼ間違いないのではないか。それだけの価値が、魅力が、ブルザーク大迷宮のヴルタにはあるのだ。



「――ヤーヒム殿、ちなみに襲撃がブシェクにあるとして、向こうの移動速度などを踏まえると最短でいつぐらいでしょうか」



 物思いにふけっていたヤーヒムに、マクシムがことさら丁寧な口調で問うてくる。

 彼からしてみれば、先ほどは同胞だと言ってくれたが、同じ種族の同胞に仇なすような質問ではある。気は引けるけれども、非常に大切なことであり是非確認しておきたい、そんな内心がありありと分かる諮問だった。が、ヤーヒムはしばし考えた末にそのままの答えを告げる。


「……そう、だな。あの位置からならば、山脈越えを含めて十二日から十五日、といったところか。大半のヴァンパイアは日光のある昼間に動く訳にはいかぬ。移動は夜だけ、道なき森を集団で動くとなればその程度はかかろう」

「むう、さすがに早いな。どうにかしてブシェクを取られる前に手を打ちたいところだが――現地で若干の余裕を持って待ち構えるには、明日すぐにブシェクに向けて動き始めねば間に合わない。この戦場をおいて勝手に離脱する訳にもいかないのが痛い。む、いかん、ヤーヒムは転移も併用して急ぎ戻ってきたと言ったな? 彼らも同様に転移で一気に接近してくる可能性もあるのではないか?」

「……それはない。二千の大半が下級のヴァンパイアとその眷属だ。バラつきが大きい彼らの転移可能距離を考えれば、集団で最低距離に足並みを揃えた転移などはまずしない――」


 と、全員がそこで一斉に身じろぎをした。


 天幕の外から巡回兵の叫び声が聞こえてきたのだ。

 それぞれが素早く自分の武器に手をかけ、警戒の眼差しで耳をそばだてている。


「――輜重部隊の方だな。盗人でも入ったか? これだから街中の宿営は面倒なのだ」


 アマーリエが、ふう、という吐息と共に予想状況を口にした。

 騒ぎは確かに輜重部隊の宿営地の方角からであり、組織だった警備兵の声に混じって素人らしき数人の悲鳴が漏れ聞こえてきている。騒動はそれ以上拡大する気配もなく、中腰になっていたマクシムが再びゆっくりと腰を下ろした。


 だが。


 唐突にヤーヒムが立ち上がり、天幕の出入り口へと滑るようにその身を移動させた。

 扉代わりに吊るされた防水の白い帆布の脇に身を潜ませ、そこで侵入者を待ち伏せるかのように気配を殺している。


「――ッ」


 一拍遅れて他の面々も一斉に身構えた。

 天幕の外、ザヴジェル軍の高級幹部が天幕を連ねるそこに、複数の気配と足音が駆け寄ってきていたのだ。それは一定以上の武芸者の、存在を押し殺した侵入者の息遣い。警戒していなければ気付かなかったであろう熟練の足運びだ。


 天幕の出入り口の陰に身を潜めたヤーヒムが手振りで一同を押し留める。

 彼の【ゾーン】の空間認識に映っている侵入者の姿は六つ。それぞれがこの天幕からやや外れた進路を取っており、このままであればここには――




「……通りすぎた、か」




 ヤーヒムの呟きに、皆が揃って息を吐き出した。

 が、アマーリエだけが緊張を解かず、機敏な動きでヤーヒムの隣へと歩み寄った。そして音もなく扉代わりの帆布に手を掛け、切れ長の琥珀色の瞳で鋭く外を窺っている。


「どこに向かっている? 今のは只の盗人ではあるまい。そうだとすると、輜重部隊の方の騒動は――もしや陽動か?」


 独白に近いアマーリエの言葉。

 それは皆の頭にも浮かんだ疑問だ。輜重部隊の騒ぎが陽動ならば本命は何だ、続くそんな疑問が緊迫した空気となって天幕を支配する。とりあえずの手掛かりとして、ヤーヒムが【ゾーン】で捉えた情報を口に出した。


「……数は六、あちらから来て向こうへと抜けていったが」

「ふむ、そこまで数がいたのか。向こうにあるのは……兄上の天幕からは逸れているな。そのまま突き抜けていくと……私やリーディアの天幕。その先は衛生兵の詰所――」


「――ダーシャ!」

 リーディアがアマーリエの言葉を遮って喘いだ。


「私の天幕にはダーシャが寝てるの! ここに来るからテオドルにそのまま警護を頼んでおいたけど、もしかして、ダーシャをっ!」

「待てリーナ、そうと決まった訳では……おい待つんだ! ヤーヒムも!」


 アマーリエが制止する前に、もの凄い勢いでリーディアとヤーヒムが天幕を飛び出した。

 彼らの頭にあるのは王都に入った晩にアマーリエが発した警告だ。ヤーヒムを執拗に追ってきた王直属の黒騎士集団トゥマ・ルカが、同行者であるリーディアやフーゴを狙う可能性があるという話。


 そしてつい先ほどアマーリエから聞いたばかりだが、昼間に王都入りした迷宮都市ブシェクからの援軍、ユニオン召集軍の中にトゥマ・ルカの関係者と思われる者が混じっていたという。リーディアとダーシャが眠る天幕に、マクシム配下の上級騎士テオドルが警護についていたのはそれが故なのだ。


 リーディアとフーゴが狙われるのならば、同じようにパイエルの街以降で同行していたダーシャも狙われる可能性がある。

 いや、むしろ歴戦の傭兵や魔法使いの姫が狙われるというより、子供のダーシャこそ危険だった。


「先に行く! リーディアは後から皆と一緒に!」


 駆け出しながら背中に翼を召喚したヤーヒムが、ふわりと夜空に舞い上がりながらリーディアに短く声をかける。

 不審者が向かった方角は分かっている。空を飛んで追いかければすぐに【ゾーン】で捉えられるはずだ。


「気をつけて! ダーシャをお願い!」


 リーディアの抑えた叫びを背にヤーヒムは神授の翼を大きく羽ばたかせ、更に加速していく。

 背中の翼が空気を掴むたびにぐいぐいと速度が上がり、そして。


 ……テオドル?


 【ゾーン】には彼方の天幕に突入する六つの人影を捉えている。

 が、その手前、ヤーヒムがその上を通過した天幕を守るように、ダーシャの警護についているというマクシム配下の上級騎士、テオドルが武器を抜いて警戒態勢を取っているのが視界を掠めたのだ。


 ……奴らの目的はダーシャではなかった、のか?


 一瞬の逡巡の後、ヤーヒムは速度を緩めことなく侵入者めがけて飛翔を続けた。

 テオドルの守る天幕の中にダーシャがいるのなら、それはそれでいい。人一倍任務に忠実なテオドルが見当違いの場所を守っているとは考えにくいし、いずれにせよ侵入者の動きは止めるべきなのだ。


 瞬く間に賊が侵入した天幕まで飛行し、翼で急制動をかけて着地するヤーヒム。

 その人外の聴覚が、その天幕の中でちょうど囁かれていた会話を捉えた。


「――どれも普通のポーションだと!? そんな筈はない、この救護天幕で全ての負傷兵が完全に治されているのだ!」

「いや、ここにあるポーションからはあの独特な匂いが全然しない。つまり全ては市販の一般品、ただ単にザヴジェルの上層部が負傷兵に高級ポーションを大盤振る舞いして片端から治しているという可能性も……」

「それはありえん。たかが亜人の雑兵にそこまでするか? 我らのように安価にポーションを作っているならともかく――」

「クソ、もしかしたら本物の例のポーションは衛生兵のマジックポーチの中か! こうなったら一人二人拉致って帰るか?」

「待て、どの天幕にいるのか誰がその衛生兵なのか全く分からないのだぞ。止むを得ないが今日のところは――」


 それを聞いたヤーヒムの頭に先ほどアマーリエが口にしていたことが、この辺りに衛生兵の詰所があるということが甦った。

 そして同時に、この侵入者たちが何を狙っているのかにも理解が及ぶ。例のポーション、つまりはブラディポーションを探しているのだ。


 彼らが安価なポーションを作っている云々という話も気になるが、ザヴジェルの衛生兵を拉致して帰るようなことも口にしている。

 そんなことをしてもブラディポーションは出てこない。ここが治療用の天幕だと言うのなら、ここにあるものこそがヤーヒムの血を混ぜたポーション群なのだ。アマーリエはかなり希釈して支給したと言っていた。そう、匂いも効果も、市販の高級品との差がなくなるぐらいに。負傷兵たちが高級品を大盤振る舞いされたと、そう信じ込むぐらいに。


 けれど、ここまでしてもブラディポーションを見つけられなかった彼らは、次は更に強硬な手段に出てくる可能性がある。

 例えばそれは、先ほど脳裏を掠めたダーシャの誘拐、など――


 ヤーヒムのアイスブルーの瞳に凍えるような光が灯る。

 ダーシャに危害を加えられる可能性を考えただけで、胸の裡に冷たい怒りが込み上げるのだ。


 それに今は、ハナート山脈の向こうでジガと配下のヴァンパイア達が動き出している状況。

 彼らにかかずらっている暇はない。


 ここはザヴジェル軍八千のど真ん中。

 逃がす可能性は限りなく少ない。

 後顧の憂いを断つならば、今。


 彼らが追手勢力の全てとは思わないが、ここにいる面々を屠れば多少なりとも手足を削ぎ落とすことができる。

 ヤーヒムの血に秘められた富を求め、どこまでも執拗な追手達。

 ふとヤーヒムの脳裏を掠めた思いつきが、彼の心臓を鷲掴みにした。もし万が一、ダーシャの血にも同様の治癒効果があることが知られれば――



 ……絶対に、させぬ。



 ヤーヒムの手から五本二対の蒼光がするすると伸び――かけて消えた。

 ヴァンパイアネイルは未だザヴジェル軍にも秘匿している。ここは宿営地のど真ん中、この場で使う訳にはいかない。


 ならば。

 ヤーヒムは腰に佩いた銘剣<オストレイ>を力任せに抜き放ち、背中の翼を羽ばたかせて決然と宙に舞い上がった。






―次話『火の粉』―

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