66 黒き魔王(前)
幾筋もの黒煙をたなびかせ、夕刻の斜陽を一面に受けるステクリー大平原。
夥しいアンデッドの大群に襲われた王国を支えるその大穀倉地帯は、今なお未曾有の大混乱に覆われていた。
日の出と共に退却を始めたかに見えた無数のグールやスケルトンが、その後唐突に統制を失って広大な穀倉地帯に広がっていったのである。
アンデッド同士でおぞましい争いをする者もいたが、大半が彼らにとっての敵、数多の村々に隠れて生き残っている人々を探して彷徨い始めたのだ。
穀倉地帯を守るために集結したスタニーク王国・諸侯連合軍はとうに壊滅している。
アンデッドの退却に乗じて追撃に転じたのはいいのだが、その時点ではまだ統一した意思に導かれていたアンデッド群に痛烈な反撃を受け、次々に潰走してもはや跡形もない。統率を失ってから攻撃していればまだ違っていたのかもしれないが、それは後付けの空論だ。スタニークの英雄と称えられたイエニーチェク軍務卿も、アンデッド百体切りや複数のカラミタ同時撃破など伝説に残るような活躍をした大英傑レネーも、皆討ち死にして戻ってきていない。彷徨う無数のアンデッドを追い散らせる軍隊はもう存在しないのだ。
守る者がいなくなったステクリー大平原で、夥しいグールやスケルトンが我が物顔で農村を荒らし続けて一日。
目ぼしい村々を破壊し尽くしたアンデッドの大群は、夕暮れと共に次々と王都の白壁へと押し寄せ始めていた。
そう。
その白壁の中の王都には、穀倉地帯の村々とは比べ物にならない数の人間が未だひしめいているのだ。その匂いを嗅ぎつけ、村人の血の味を覚えたグールやスケルトンが次なる獲物を求めて続々と集結してきている。
もちろん王都の周囲には重厚無比な要害、大陸に名高きスタニークの白壁――千人の魔法使いが二十余年の歳月をかけて造り上げた、白亜の大城壁――が立ちはだかっている。それは、押し寄せるアンデッドを遮断するには充分な堅牢さを持つ。
そしてその白壁上には、可動兵力の中で唯一生き残っている宮廷魔法師団が展開している。
優秀な魔法使いはどうしてもエルフやブラウニーといった、魔法に長けた亜人系種族に生まれることが多い。純粋な人族を尊ぶ風潮があるスタニーク王国内でそれが故に疎まれ、王国軍内の功名争いでも押しのけられて、留守番役として白壁防衛の任に就いていたのが幸いしたのだ。
今となっては彼らひと握りの宮廷魔法使いが王国の命運をその手に握り、地平を埋め尽くし押し寄せてくるアンデッドの群れ――その数、十万単位――を白壁の上から魔法を乱射して懸命な撃退を続けている。
が、それももはや限界に近い。
朝から丸一日、援軍のあてなき防衛戦を延々と繰り広げているのだ。いくら堅固な防壁の上から魔法を撃ち下ろすだけの有利な戦いとはいえ、相手は視界一杯に広がる大軍勢。少しでも手を緩めれば白壁をよじ登ってくるその不死者の大群に、防衛のための魔力も体力も資材も底をつきかけている現状。しかも間もなく日没だ。そうなればアンデッドは更に勢いづいてくる。誰も口には出さないが誰もが心の底に昏い絶望を押し込め、けれど諦めることなく必死に戦い続けている。
「第四班は下がって少しでも魔力を回復させろ! 二班はもう少し踏ん張れ、引きつけて確実に狙うんだ! それと六班、大至急半数を西に援護に向かわせろ! 半分まで城壁を登られているぞ!」
喚声と怒号飛び交う白壁の上に立ち、目まぐるしく防衛の指揮を執っているのは宮廷魔法師団を率いるユリウス=シェダ。
ザヴジェルに本家があるシェダ家、その分家筋の当主である彼は、先祖のハイエルフの血が強く出た魔法の才を引っ下げ齢三十にして宮廷魔法使いの筆頭に登りつめた若き英傑だ。
が、シェダ家に流れるそのハイエルフの血と魔法の才を以てしても、現状は個人ではどうにもならない状況。ユリウス自身の魔力もとうに枯渇し、その翠色の瞳の下にはくっきりと隈が浮かんでいる。
王国・諸侯軍の総大将を務めていたイエニーチェク軍務卿は、王国軍総司令部を擁する第一師団の壊滅以後、戻ってくる気配すらない。まず間違いなく戦死してしまっているのだろう。
たかが最下種のグール、たかが最下種のスケルトン。
けれど数の暴力は圧倒的な脅威となり、出陣した王国軍はあっという間に呑まれて消えた。
今や王都防衛に残された戦力はユリウス麾下の宮廷魔法師団二百名と元々の白壁常備兵三百、王宮を守る近衛騎士隊百、あとは民間武装組織ユニオンから緊急招集されたハンターや傭兵を核とした王都在住の義勇兵若干名のみである。
近衛師団についてはどうにかこの白壁防衛に半数を融通してもらったものの――
「近衛の騎士さん達に魔力回復中の四班の穴を埋めるように言え! 遊んでいるのはもうそこだけだ! 弓も騎士の嗜みだろうとか何とか、適当に煽てて動かせ!」
未だに白壁が持ち堪えているのは、ユリウスの強引な指揮の賜物だ。
統制も何もなくただただ押し寄せてくるアンデッドに対し、彼が採った手は白壁上からの迎撃の一手。現状を知らず、名誉と格式にこだわる近衛の騎士達をどうにか丸め込み、全ての門を固く閉ざして無闇な突出を禁じたのだ。
今のアンデッド達には討ち取って動揺する大将首もなければ、低下する士気もない。
ひたすらに個々の残虐性と欲望に従って押し寄せてくる大群に対し、半端な突出をして目先の小数を蹴散らしても意味がない。王都の周囲にそびえ立つ白壁にこもり、相手の欲望が挫けて群れの生存本能に火がつくまで屠り続ける、それしか生き延びる手立てはないのだ。
隅々まで各個の能力を把握している麾下の宮廷魔法使いをぎりぎりまで酷使し、残る近衛騎士と義勇兵の全てをその魔法使いの予備弓兵として運用するユリウス。
そこに剣術も騎馬もない。
数少ない常備弓兵と頼みの綱の魔法使いたちの配置の穴を塞ぐため、そしてその魔法使いたちに魔力回復のためのゆとりを与えるため、一切の兵科を無視し、総弓兵として追加配備してかろうじて戦線を持ち堪えているのだ。
初めは誇りだ格式だと渋る近衛所属の地位ある騎士も、一度白壁の上に登って戦況を知ればやるしかない。
見ればそこは文字どおり王都存亡の土俵際、守るべき王都の民も義勇兵として数多く参戦し、死に物狂いでアンデッドを防いでいる。
いくら「弓兵五十でようやく一人の宮廷魔法使いと同等」とはいえ、周囲を埋め尽くすアンデッドを見れば、絶対的に手が足りていないのが否が応でも理解できる。迎撃の手が僅かに緩まるだけで、地平を埋め尽くす十万単位のアンデッドが次々と白壁をよじ登ってくるのだ。
白壁登攀に成功してしまったアンデッドには得意の剣で斬りつけるとしても、それ以外は一射でも多く弓を放って敵の数を減らすしかなかった。
それは文字どおりの死力戦。いつ果てるとも分からないアンデッドの大波に、ただ無我夢中で抗い続けるしかできない総力戦だった。
そして。
そんな彼らに戦いの神は微笑みかけた。
それは誰もが待ち望み、けれど期待はしていなかった報せ。もう限界かもと自らに弱音を許そうとしたその瞬間に、その報せは飛び込んできたのだ。
「報告! 北側、ハルーザ丘陵方面に新手の魔獣が出現しました!」
死に物狂いの防衛を続ける兵士達の喚声が満ちる白壁の上、伝令兵の怒鳴り声が司令官ユリウス=シェダの耳を捉えた。
ハルーザ丘陵――その言葉の意味が疲れ果てた頭に浸透するなり、ユリウスは伝令兵に駆け寄って肩を掴まんばかりに詳細を求めた。
「詳しく報告しろ!」
ハルーザ丘陵、そこは、朝に強力な魔法の行使が観測された場所である。
この絶望的な防衛戦の中、ユリウスが心の奥で安易に縋るまいとしていた唯一の希望。それは、未だ音信不通となっているザヴジェル領からの援軍だ。卓越した魔法使いの一族シェダ家の本拠地であり、常に魔の森の魔獣と戦い続け、つい先日カラミタ禍を唯一撃退してのけた武のザヴジェル領。
ユリウスからしてみればシェダ家の本家筋でもあり、交流のある彼らの援軍には多大な期待をかけていた。
が、もう到着しても良い筈なのに未だ何の音沙汰もない。そうこうしているうちに掃討戦に出た王国・諸侯軍が手痛い大敗北を喫し、アンデッドの大攻勢が始まって――
その絶望的な流れの中に、今朝。
ユリウスは忘れもしない。アンデッドが押し出してくるハルーザ丘陵、その奥地で突然、強力な魔法が行使されたことを。
筆頭宮廷魔法使いであるユリウスには分かった。
その魔法は間違いなく合成特級魔法、
つまりハルーザ丘陵でその魔法が行使されたということは、シェダ本家の人間が直々に参加し、かつ優秀な魔法兵を揃えたザヴジェルの軍隊が、そのハルーザ丘陵奥地で戦っているということを意味しているのだ。
だが、その後に大魔法が追加行使された気配はなく、こちらもそれどころではなくなっていた。
突如として退いていくアンデッド勢に、果敢に追撃に打って出たイエニーチェク軍務卿ほか王国・諸侯軍はあっけなく全滅。状況は、残された僅かな兵力と宮廷魔法師団による、より絶望的な籠城戦へと転がり落ちた。
そして、今。
ハルーザ丘陵方面から新たな魔獣が出現したという報告が飛び込んできた。
それはもしかして、ユリウスが密かに願っていた唯一の希望、そのザヴジェルの援軍が壊滅したということを意味しているのでは――
「くそ、もっと詳しく報告しろ! カラミタの守護魔獣が現れたというのか!?」
「はっ! ではその魔獣を発見した、幻視魔法を使った神官殿からの正式な報告をそのまま復唱します! 『飛行型、姿形の詳細は不明ながらも漆黒の小型翼竜かそれに近いものの、翼に魔視が歪むほどの強大な何かをまとっており、その規模より危険度は最低でも災害級と推定される』――とのことでありました!」
最低でも災害級――その言葉に、ユリウスの周辺にいる側近魔法使い達の動きがピタリと止まった。
今でさえ限界ギリギリなのだ。とてもではないが、この上さらにそんな化け物の相手をする余裕などない。
「し、進路は!?」
「ハルーザ丘陵奥地から出現、地上と空を往復しながらゆっくりとステクリー大平原へ侵入してきているようです!」
堪えきれず脇から質問を入れた側近の顔が絶望に染まる。
先にカラミタ討伐に成功したザヴジェルからの情報によれば、カラミタはまさに歩くラビリンスであり、非常に強力な守護魔獣を引き連れているという。
確認されたのは、その守護魔獣。
先日王国軍が討伐したと喜んでいたカラミタにはそんなものはいなかった。
つまり、そのカラミタはただの前座に過ぎず、今、本物のカラミタがいよいよこちらに迫ってきているということで――
「伝令兵、もっと詳しくだ! なんでも良い、知ってることをすべて報告しろ!」
――だが、宮廷魔法師団長のユリウスだけは落胆した様子がない。
むしろそのハイエルフの血を物語る翠の瞳に強い希望の光を宿し、更なる情報を引き出そうと伝令兵に詰め寄っていく。
「確認者の非公式な印象でも構わない! ……もしかして、一瞬だけでも翼を持った人族に見えたとか、そんな言葉は漏らしていなかったか?」
「よ、よくご存じで……。私は発見時にすぐ傍にいたのですが、神官殿はその時茫然とこう呟いていました。『あれは天空神に追放された古の魔人、異形なる邪神の使徒。原初の神託にて語られた、黒き魔王が降臨した』と――」
ふはははは!
突然笑い出したユリウスに、全員が呆気にとられた。
が、その顔は文字どおり希望に輝いている。報告を聞いて彼の頭に浮かんだのはただ一つ、この戦いが始まる直前にザヴジェルの本家筋から流れてきたとある情報だ。
カラミタとの戦いにおいて、ザヴジェルに救世主のごとく現れたひと組の親子がいるという。
彼らは黒き翼を持って天空の覇者のように空を自由に舞い、その類稀なる戦闘力を以てカラミタをほぼ独力で討ち果たし、英雄としてザヴジェルに迎え入れられたとか。
そして今。
ザヴジェル軍が消息を絶ったと思われる方角から、空を飛翔する人影が現れ――
間違いない。
それは新手の魔獣などではない。古の魔人などという神殿の世迷い言でももちろんない。
ザヴジェル軍はアンデッドに呑まれて消えたのではなく、今、そこまで援軍として攻め寄せてきているのだ。
「くくくっ。よいか皆、厳しい戦いを続けてきたのは判るが、物事を悲観しすぎだ。――喜べ、物見兵が見たのは十中八九味方。そう、ザヴジェルの援軍が遂に到着したのだ!」
「なっ!」
「ザヴジェルの援軍ですと!」
「ユリウス卿、それは真か!?」
側近魔法使い達が一斉にユリウスを取り囲んだ。
ザヴジェルはここ最近頻発するカラミタ禍に於て唯一完全にそれを撃退した領地、そして彼ら魔法使いにとっては総本山とも言うべき土地だ。
そのザヴジェルからの援軍。
それは終わりなきアンデッドとの戦いで限界まで消耗していた彼らに、眩いほどの希望を与える知らせだった。
「ですがユリウス卿、神官殿は正体不明の飛行型魔獣を――」
「くく、だからそう悪い方に考えるな。神殿が大袈裟に騒ぐ神の御託にこれまで真実はあったか? そもそもそれは魔獣ではない」
ユリウスは芝居掛かった仕草で両手を大きく広げ、近隣の将兵全てに聞こえるような大声を張り上げた。
「皆の者、余裕があれば北の戦場を見よ! じきに空を舞う、黒き翼を携えた人影が見えてくる筈――」
多くの兵士が何事かと顔を上げ、言われるがままに北の空に視線を走らせる。
「――その者は翼を持つ人族、天人族だ! ザヴジェルに与力し、かの地のカラミタ禍を退けた英雄! その英雄がザヴジェルの援軍と共に我らを助けんと近づいてきている!」
ユリウスの言葉の意味が浸透するにつれ、疲労困憊の兵士達から歓声が沸き起こっていく。
「者共、もうひと踏ん張りだ! 気力を振り絞れ!」
援軍が来たぞ――宮廷魔法使いの、近衛騎士の、義勇兵達の叫び声が次々と黄昏の空に木霊し、白壁全体に伝播していく。
奮い立つ兵士達に新たな力が湧き起こるのが見ていても分かる。なおも押し寄せるグールやスケルトンに向けて雨あられと降る矢は勢いを増し、頼みの綱の魔法はより多くのアンデッドを燃え上がらせている。
「序列二十位以上の全宮廷魔法使い、合成魔法を私に合わせろ! ザヴジェルの進路を少しでも空けるんだ!」
――壮絶を極めたステクリー大平原の戦いは、実に丸一日以上の時を経てようやく最終局面に向けて動き始めた。
―次話『黒き魔王(後)』―
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