59 電撃戦

 森から雲霞のごとく溢れ出してきた魔獣の大群。

 魔獣はデヴィルバイソン、体長四メートル近い弩級の牛型狂獣だ。腹の底を揺さぶるような地響きを立てながら、口々に狂気の咆哮を上げて難民の眠る篝火目掛けて突進していく。


 真紅のその巨体は非常に重い頭部を持ち、荷重で頭を地面に擦るように低く垂らしながらも、その疾走は驚くほど速い。弩級の重量と怪力も併せ、前に立ちはだかるものは人どころか家ですら跡形もなく蹂躙されてしまうだろう。


 姿を現した数はあっという間に数千を超えた。

 まるで紅い波のように大地を埋め尽くし、更に勢いを増して全てを踏み潰し侵襲していく。


「な、何だありゃあ! 逃げろおおおお!」

「逃げろってもどこに!?」

「いやああああ」


 抗いようのない暴威の前で難民たちが恐慌に陥っている。

 家族単位で立ち尽くし、絶望の叫びを上げ、盲目的に逃げ出し――


 彼らの命は文字どおり風前の灯だ。

 あの巨獣の群れの突進を受け止められるものなど周囲には何もなく、そのまま難民たちを踏み潰し、何事もなかったかのようにパイエルの街すら粉砕してしまうのだろう。


「……ッ!」


 上空を旋回するヤーヒムには何も出来ない。

 十や二十程度までならばこの真紅の狂獣の突進を処理できるかもしれない。だが、この数――万を軽く越える群体に対しては、それは焼け石に水の行為だ。


「………………」


 ヤーヒムは忸怩たる思いで眼下に迫る惨劇を見詰める。

 難民たちの恐慌は制御不能の域に達し、死の紅い波はすぐそこまで迫っている。


 ヤーヒムは、全くの無力だった。

 複数のコアの青の力を啜り、古の神の力を宿した翼を得、装備も整えて更なる強さを手にしたと考えていた。新たに【虚無の盾】を編み出して魔法に対抗できるようになり、これまで相手にすら出来なかった空を飛ぶ魔獣をも蹴散らし、けれどそんな自分はこの光景に対しては何も出来ないのだ。


 痛みを堪えるようなアイスブルーの瞳が、地響きを立てて押し寄せる狂獣の大波をじっと見詰めている。



 …………………………いや、もしかしたら。



 ヤーヒムの頭にひとつの可能性が閃いた。

 こんな自分でも出来ることが、いや、そんなヤーヒムだからこそ出来ることがある。


 ならば。


 ヤーヒムは万に一つの可能性に賭け、上空から猛烈な勢いで急降下を始めた。




  ◆  ◆  ◆




 重苦しい夜気が耳元で轟々と唸りを上げる。

 流星のような急降下を続けるヤーヒムのアイスブルーの瞳が見詰めるのは、パイエルの街の西、ハナート山脈側の森のとある一点だ。


 そこにいるのは分かっている!


 みるみるうちに迫る森、いや増す圧倒的な速度。

 夜空の覇者は邪魔な翼を思い切りよく背中から送還し、そのまま左腕のバックラーをかざして月明かりに照らされた木々の梢を一瞬で突き抜けた。

 鬱蒼と茂った枝葉をものともせず、狙い定めた相手に刹那の強襲をかける。


「ッ!」


 が、相手に軽やかに躱された。

 激しく地面に転がるヤーヒムを無表情に眺めるのはカラミタ。


 ヤーヒムが狙った起死回生の相手。

 そう、それは魔獣の群体の召喚主だ。ヴァンパイアネイルは使わない。まだここで安易に殺してはいけないのだ。


 視界にちらりと捉えたカラミタは風変わりな衣服を着た老人のヴァンパイアで、やはり上半身の半分以上が青く結晶化していた。

 ミロやエヴェリーナのように見覚えはない。けれど、もしかすると自分が相手を察知できるが如く、元同族ならば自分のことを察知できてもおかしくはない――決死の突撃を回避されたヤーヒムの脳裏にそんな懸念がよぎるのも一瞬のこと。


 過負荷の治癒の証である湯気を全身にまとわりつかせ――高高度からの自由落下にも近い突撃で、満身に多大な損傷を負っていたのだ――、それでもヤーヒムは人外の身体能力を発揮して、懸命に地面に転がる自身の制御を試みる。


 猶予は既にないのだ。

 森の外からは難民たちの叫喚が聞こえはじめている。デヴィルバイソンの大群が遂に無力な彼らに殺到したのだろう。惨たらしい蹂躙劇の幕はもう上がってしまっている。


 ヤーヒムは眼前に迫る大木の幹を蹴って自身の勢いをいなし、手近な太枝に手を掛けてその勢いを殺さぬままぐるりと転回する。

 更に木々を利用して方向を調整すること数度、ジグザグに虚空を跳ねながら見知らぬカラミタに再度の急襲をかけた。


「ガハッ」


 ヤーヒムの膝蹴りがカラミタの顔面を弾き飛ばした。

 よろめくところに、着地したヤーヒムが地面から抉るような肘打ちで鳩尾を突き上げる。


 ――ピシリ!


 老人の姿をしたカラミタの上半身から、結晶に割れが走った音が漏れた。

 殺してはいけない。ここは一気に攻めるしかない。


 ヤーヒムは眼前で崩れ落ちようとしているカラミタの後頭部に、組んだ両手で破城槌のごとく――



「――ッ!」



 横から炎が螺旋を描いて襲ってきた。魔法だ。

 カラミタへの追撃を寸前で放棄し、咄嗟の【霧化】でやり過ごすヤーヒム。


 螺旋の炎はカラミタを避けるように曲がり、猛烈な熱気を残して霧を貫通していった。

 隣界から戻る手掛かりとなる霧がいくらか蒸発したが、この程度なら大きな問題ではない。それよりも。


 守護魔獣の援護か――振り向けばいつの間にか木立の中にダークリッチがいた。アンデッド化した魔術師のなれの果て。大切な召喚主を守ろうと、無限の魔法を秘めた髑髏の杖をピタリとヤーヒムに向けてきている。


 リッチときたか、【霧化】したまま内心で舌打ちを漏らすヤーヒム。

 【虚無の盾】という魔法に対する防御手段を得たとはいえ、さすがにここまでの魔法の使い手には分が悪い。何より、周囲のデヴィルバイソンも一斉にヤーヒム目掛けて突進を始めているのだ。


 それはブシェクのブルザーク大迷宮やカラミタのミロとの戦いで経験した、召喚主の脅威となる存在を排除しようとする強制的な動き。特にヤーヒムは召喚系の魔獣には敵視され、見境なく殺到されやすい。


 森の中に視線を走らせれば、付近に残っていた数百の狂獣が猛然と向きを変えて集結してきている。地響きを立て、森の木々を薙ぎ倒し、召喚主に危険を及ぼす者を抹殺しようと――




「それを待っていた」




 ヤーヒムが瞬時に【霧化】を解き、背中に翼を再召喚しながらカラミタを引っ掴んだ。

 羽ばたきながら全力で真上へ跳躍し、そのまま梢を抜けて夜空に舞い上がる。老人姿のカラミタが暴れるが、羽交い絞めに締め上げて抵抗を潰しておく。


 ダークリッチが魔法を放ってくる。

 が、召喚主を傷つけたくないのだろう、翼を狙った弱いものだ。ヤーヒムはひらりと躱して、カラミタを拉致したままパイエルの街の方が見える斜め上空へと羽ばたいた。


 高度が上がるにつれて、徐々にパイエルの惨状が明らかになってくる。


 街壁は先頭のデヴィルバイソンに一蹴で破られたのであろう、街から幾筋もの煙が立ち昇っている。

 街壁の外の難民たちも当然無事では済んでいない。が、救いは巨獣が群れをなして塊りで突進していることだろうか、先頭集団のその進路は帯のような地獄絵図となっているが、そこ以外の難民には幸いにも未だ被害はない。けれど彼らには後続の群れがすぐそこまで迫っていて――



 ――そんな危急存亡の状況の中で、先行して突進していた群れも、これから難民に突進しようとしていた夥しい数の群れも全て、ぴたりとその脚を止めている。



 それは明らかに異常な光景。

 一瞬の間を置き、そんな無数のデヴィルバイソンがくるりと踵を返した。そして猛然とこちらへ駆け戻ってくる。その矛先はもちろん――カラミタを抱えて夜空に浮かぶヤーヒムだ。


「こっちだ、間抜け牛」


 万力のような力で腕の中のカラミタをぎりぎりと締め上げながら、ヤーヒムは低く呟く。

 激しく暴れる老人の姿の上半身から、高く澄んだ音が連続して生じている。結晶化した体が万力のような締め付けに負け、砕け始めているのだ。どうやらヴァンパイアだった頃の名残りで肉体に治癒は働いても、青く結晶化した部分までは治らないらしい。


 ヤーヒムの視線の先では、見える範囲のデヴィルバイソンが全て自分に向かって引き返してきている。

 難民たちは何が起こったのか分からず、眼前まで迫った挙句に不意に来た道を戻っていく魔獣の群れを呆然と眺めているようだ。


 これがヤーヒムの狙っていたこと。

 その予想以上の反応ぶりに驚きつつも、彼は人質としたカラミタを更に締め上げていく。……戻るルートはそれでいい、来い、もっと来い、と。


 過去に何度も見境なく魔獣に殺到されたヤーヒムにとって、雲霞のように己に押し寄せる魔獣はある意味で見慣れた光景である。

 今回のカラミタの位置は分かっていた。上手く立ち回ればもしかしたら……と、藁をも掴む思いでその再現を狙ってみたのだ。


 惜しむらくは、間に合わずに魔獣の先頭集団が運の悪い難民たちに被害を与えてしまったことと、こちらに戻る全てのデヴィルバイソンが来た道を通るのではなく、何頭かが戻りがけに幾許かの難民たちを巻き込んでしまっていること。

 それでも咄嗟のヤーヒムの行動のお陰で、未曾有の惨劇は回避できたのだ。



 ……良しとするべき、なのだろうな。



 ヤーヒムは一抹の悔しさを胸の奥にしまい、カラミタを締め上げたまま高度を下げて後退した。

 起死回生の一策は想像以上の結果となった。後はリーディアやダーシャに約束したとおり、余人に姿を見せることなく撤収すればよい。この位置取りならば背景に黒々とそびえるハナート山脈を背負っていることもあり、そうそう見咎められることもない筈だった。


 眼下の森では、狂ったように突入してくる万単位のデヴィルバイソンによって端から木立が薙ぎ倒され、途方もない森林破壊が始まりつつある。


 ……もう少し奥まで引っ張っておくか。


 ヤーヒムは置き去りにしたダークリッチからの魔法を避けつつ、ハナート山脈の懐深くへと黒き翼を羽ばたかせた。




 それにしても。

 森を破壊しながら追尾してくる狂獣の群れを誘導しながら、ヤーヒムは腕の中で未だ暴れるカラミタを改めて観察する。


 どうみても知らないヴァンパイアだった。

 感じる気配からすればそこまで高位のヴァンパイアではない。先日戦った子供姿のミロよりも確実に格下、虚無のブレスを吐く気配もなく、カラミタとしても実力は下だろう。


 ヤーヒムが気になっているのは、このカラミタが子供よりも珍しい老人の姿ということだ。

 ほとんどラドミーラとしか接点がなかったとはいえ、そんなヴァンパイアがいたら噂ぐらいは耳に入っているはずだった。もしかしたら……ヤーヒムは思う。


 これは、ハナート山脈の裏側の国のヴァンパイアだったのかもしれない、と。


 ハナート山脈の裏側――それは、山脈が険しすぎるが故に伝承でしか国の存在が伝わっていない地域だ。

 だが、そもそも今回の遠征軍の原因となったカラミタは、全てハナート山脈から出現してきているという。そう考えてみると、この老人カラミタが着ている衣服が風変りなのも説明がつく。


 けれどもまあ、ヴァンパイアとしての出自がどうであれ、これからやることは変わらない。

 森を片端から破壊して追ってくる狂獣の大群を上空から眺めながら、ヤーヒムは再び前方に向かって飛び始めた。



 ……そろそろ潮時か。



 暫し狂獣の群れを誘導し続けたヤーヒムは、見上げるほどに近付いたハナート山脈を見上げながら翼の羽ばたきを緩めた。

 ここまで奥地に引き込めば、さすがにもうパイエルの街に影響を及ぼすことはないと思われた。今は操られているに近い魔獣群だが、ヤーヒムはそれを自然に戻す方法を知っている。そうすれば野生の魔獣と同じく、この地で魔獣らしい生活を始めるのだ。その為には――



「さらばだ、ご老体」



 ――ヤーヒムは未だ暴れ続ける腕の中のカラミタ、その首筋に深々と牙を突き立てた。


 パイエルの街に迫っていた存亡の危機。

 無惨に蹂躙される運命にあった無数の難民の命。

 翼を持つ新世代のヴァンパイアによって、それらが辛くも救われた瞬間だった。


 眼下の森では、唐突に召喚主の呪縛から解き放たれた万単位の狂獣が早くも同士討ちを始めている。

 夜空に響き渡る無数の咆哮、無茶苦茶に薙ぎ倒されていく一帯の木々。自然の状態ではここまで高密度に集まることなどない凶暴な魔獣なのだ。安易にあの場でこのカラミタを殺さなくて正解だったと思うが――


 ……彼らデヴィルバイソンとこの地に棲んでいた他の魔獣達もまた、被害者なのかもしれぬな。


 腕の中で砂となって消えゆく老人カラミタの骸を抱きながら、ヤーヒムはその首筋から荒々しく牙を抜き去った。

 そして、かろうじて形を残している胸からコアを抉りだし、せめて猛り狂う魔獣達に踏み潰されろとばかりに残骸を狂乱の森へと放り込む。


「…………」


 上空からしばし眼下の光景を眺めていたヤーヒムだったが、やがて大きく翼を羽ばたかせ、その場から飛び去っていった。


 パイエルの街の難民たちのその後も気になるが、やれることはやった。

 状況を思えば勲章ものなのかもしれない。けれども。


 彼が向かうは心許せる仲間たちの元。

 なぜか無性に彼らの顔が見たくなっていたヤーヒムだった。






―次話『進軍』―

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