55 神の翼(前)

 ヤーヒムとダーシャの大々的なお披露目となった凱旋から半月。


 トカーチュ渓谷に展開していたザヴジェル伯軍は役目を終えて解散し、一躍時の人となったヤーヒム達一行はザヴジェル領都、ザーズヴォルカにあるシェダ家の屋敷に滞在していた。


「ヤーヒム君、今日は何の研究をするかい? やっぱり君たちは凄いよ。ここまで強い空間属性を持ってるなんて」


 朝から上機嫌でヤーヒムに語りかけているのはローベルト=シェダ、名門シェダ家の当主その人だ。

 魔法騎士団<白杖>を率いる団長でもある彼は、ヤーヒムとダーシャが稀少な空間属性の持ち主だということで、どこよりも早く諸手を挙げて二人を受け入れたのだ。


 そこに娘であるリーディアの後押しもあったのだが、そもそもローベルト=シェダにはそれは必要なかったかもしれない。新たに誕生したザヴジェルの英雄に騎士団や貴族、はては傭兵団までが取り込みに動き出そうとするその前に、いち早く自分の屋敷に連れ帰ってしまったのだ。逆に父親の研究にヤーヒムを取られたと、娘のリーディアが口を尖らせるような状況にさえなっている。


「うちの魔道具はお陰でだいぶ進化したし、透明なコアの理由もだいぶ分かってきた。ここはやっぱり転移を見せてもらおうか……いや、亜空間魔法も捨てがたい……」


 ローベルトが言う「うちの魔道具」とは、国やユニオンの上層部しか持っていない通信の魔道具のこと。

 それはシェダの一族にしか作れない繊細かつ重要な魔道具だ。一族の半数がなぜか使える、人には使えない筈の空間魔法を最大限に活用したものなのだ。


 そしてそこに、極めて強力かつ純粋な空間属性をもつヤーヒムが彗星のごとく現れた。英雄としての肩書きはさておき、ラディム=ザヴジェル辺境伯の盟友にしてザヴジェル魔法界の重鎮、魔法研究家としても名高いシェダ家当主のローベルトが見逃すはずもない。

 魔道具の知識など一切持たないヤーヒムではあったが、そこは熱心なローベルトに言われるがまま、先日よりずっとあちこちの魔道具やら魔鉱石やらに魔力を注ぎ、どうやら幾ばくかの進歩を得ることができたようなのだが――


「あらあら、男の人たちはまた研究の話? じゃあダーシャちゃんは私とお茶会でも開きましょうか。ヘルツィーク卿の奥様がダーシャちゃんに会いたがっていてよ。とっておきのお菓子のレシピを手に入れからぜひって」


 リーディアに良く似た紫水晶の瞳を持つ貴婦人が、当主ローベルトの話を華麗に流しておっとりと微笑んだ。

 ローベルト、ヤーヒム、ダーシャの他に朝食の卓についている最後の一人、リーディアの母のアドリアナ=シェダ当主夫人だ。


「あ、でも今日はアレクセイさんとフーゴおじさんが……」

「まあ! そういえばそんなことも聞いた気がするわ。仕方がないわね、ヘルツィーク卿の奥様にはまた今度って言っておくわ」


 可愛らしい衣装の中で困ったような上目遣いになっているダーシャに、アドリアナ夫人は「いいのよ、気にしないで」と慰めるように笑いかけている。


 今やザヴジェルに住む人々にとって、ヤーヒムとダーシャは文字どおり時の人なのだ。

 カラミタ禍に喘いでいたザヴジェルに忽然と現れ、禁呪の原動力となった特上のラビリンスコアを提供し、更には西部と中央のカラミタを立て続けに討伐した大英雄。有翼の天人族というミステリアスな種族であり、その中でも由緒正しいアンブロシュ剣術を修めたやんごとなき貴公子であり、西の英雄ツィガーネク子爵からは全権委任の紋章をも授けられていて――ザヴジェルの領都ザーズヴォルカでは、今やヤーヒム親子に関するありとあらゆる噂でもちきりだ。


 そしてダーシャも、ここザーズヴォルカの上流貴婦人たちの間で茶会の招待が絶えない程の大人気になっている。

 英雄ヤーヒムの娘であり、今を時めく天人族という肩書き、磨けば磨くほど輝く天与の麗質に控え目で素直な性格。それを知った、特に子育てを終えた貴婦人たちがこぞってダーシャを構いたがり、全ての茶会に応じることなど到底出来ない相談だった。


 半ば強引ともいえる流れでこの屋敷に逗留しているヤーヒムとダーシャだったが、そういった意味では大いに感謝している。

 ザヴジェル伯の盟友である重鎮シェダ家が、大騒ぎとなっているらしいザヴジェル社会から二人を守る防波堤となってくれているのだ。人付き合いに不慣れで、かつヴァンパイアという絶対的な秘密を抱えた二人にとって、それは非常にありがたいことだった。


 ちなみにこの場にいないリーディアは、今朝も早くから忙しく飛びまわっている。

 一族に課せられる成人の課題を無事達成したとして、あちこちへの挨拶回りがザヴジェルに帰った彼女を待ち構えていたらしい。いつぞやヤーヒムと約束した昔の伝承に詳しいという祖父への紹介も後回しにせざるを得ないほど、彼女の予定は目白押しだ。今朝は今朝で城から急に呼び出され、挨拶回りの前に顔を出すと暗いうちから出かけたらしい。


 フーゴも初めは一緒にこの屋敷に来たのだが、肩が凝ると早々に飛び出して騎士団に合流してしまった。先日の戦いで顔を合わせたアマーリエの兄、アレクセイが色々と面倒を見てくれているらしい。共に出撃しては未だ散在している魔獣狩りに顔を出したり、傭兵団の立ち上げに向けて騎士団上層部と顔つなぎをしたりと気ままに過ごしているようだった。


 そんな訳で今のヤーヒムとダーシャにとって、ローベルトとアドリアナのシェダ夫妻が日常を過ごす主な相手コンパニオンとなっている。

 昼の間はヤーヒムがローベルトと、ダーシャがアドリアナとそれぞれ賑やかな時間を送る。夜になって帰宅したリーディアと語らい、深夜になれば広大な敷地に出てダーシャと秘密の鍛錬を行う。


 ヤーヒムの翼に関しては大々的に広まっているが、さすがにヴァンパイアを強く連想させるヴァンパイアネイルについては伏せているし、ダーシャのナイトウルフ化に関しては<ザヴジェルの刺剣>だけの極秘事項だ。


 ダーシャ自身がその変貌を未だコントロールできていないということもあり、家人が寝静まった後、時にリーディアも混ぜた三人で屋敷をこっそりと抜け出して地道な探求と鍛錬を続けている。


 誰に見られても良いアンブロシュ剣術を基礎とし、ヤーヒムは更なる磨きをかけつつ、ダーシャにも伝授する。

 日課のそれが終わったら、ヤーヒムは己の裡の青の力の熟練に努め、ダーシャはヴァンパイアネイルを使った戦闘の鍛錬とナイトウルフ化に対する探究をしていく。


 ナイトウルフ化については、今のところあまり分かったことはない。

 そもそもあれから一回も変貌していないのだ。ダーシャ本人がヤーヒムと同じヴァンパイアであることを強く望んでいるため、そこから離れる人狼化を心のどこかで忌避しているからなのかもしれない――とはリーディアの談。


 数日に一度、ヤーヒムが翼を広げて真夜中のザヴジェル領の空に飛び立ち、徘徊する魔獣を狩ってその生血を補充する。ダーシャがヤーヒムの血を幸せそうに啜るのはその時だ。


 もはや名実共にヴァンパイアの親子となったヤーヒムとダーシャにとって、それはそれで満足のいく日々だった。というのは――


「その二人の名前が出てくるという事はアレかい、ヤーヒム君たちの防具を作ってるとかの絡みかな? てことはうわぁ、今日はヤーヒム君を取られちゃうってことじゃないか……」

「うふふ、あなたもたまには騎士団に顔を出した方がよくてよ? 団の奥様方からまた私に哀願が届き始めているもの」

「ええぇ、あそこは僕がいない方がうまく行くんだよ。でもアドリアナがそう言うんじゃなあ……。じゃあヤーヒム君、お互い出掛ける前に亜空間のアレだけ試してみよう。麦作に適したフルム湖畔の環境を出来るだけ亜空間の中に再現してだね、季節と天候も――」


 まるで子供のように粘るローベルトに、ヤーヒムとダーシャがそっと目を見交わして微笑んだ。


 二人にとって、ここの生活は驚くほど平和なものだった。ヤーヒムは予想外のローベルトの研究熱意にやや引き気味ではあるものの、悪い人間ではけしてないし、何より隠さなければならないと思っていた自分の能力が何かの役に立っていくのが非常に嬉しい。

 ヴァンパイアネイルなどのきな臭いものはもちろん伏せたままだが、空間属性系のものについては積極的にローベルトに明かしており、自分で検証しきれていなかった部分が驚くほどに解明もされていくのだ。


 ダーシャはダーシャで慣れない上流階級の生活に気疲れはあるものの、会う人がみな優しい目で自分を見ていて、それはダーシャにとって奇跡のように幸せなことだった。


 エヴェリーナのコアから判明した、ヤーヒム誕生の秘密。

 禁呪で呼び出された存在がヤーヒムを呼んだ、「合ひの子」という言葉。

 そして、背中に生えた異形の翼。


 もはやヤーヒムは完全に既存のヴァンパイアという枠に収まらない存在であり、それは、半ヴァンパイア・半人狼という特殊な立ち位置にあるダーシャも同じだ。


 自分達の種族ルーツが何なのかすら説明することが難しい彼らにとって、ここでの慌ただしくも賑やかな生活はいつしかかけがえのないものとなっていたのだった。


「ダーシャちゃん、街中を歩く時はお父さんから離れては駄目よ? それと、お父さんが翼を出しそうになったら止めるのよ。翼を出した途端、絶対に人だかりになってしまうから。天人族は街の人にとって大英雄なのだから……」

「アドリアナ、そんな事は二人も分かっているさ。それに、あの翼については説明してあるからね、もし神殿関係者に目を付けられたらとんでもないことになるって。それよりもヤーヒム君、早く食事を終わらせて亜空間の……」


 そう。

 ここの人達は拍子抜けするくらいに温和で善良であり――ローベルトは外に出ればまた違った顔があるのだが、家族と身内しかいないこの屋敷でけしてそれは出さない――、リーディアの手前もあってか、ヤーヒムとダーシャを文字どおりの身内、親しい家族として遇してくれている。


 そうした暮らしが縁遠かった二人にとって、この屋敷で過ごす平和な時間は脆く割れやすい宝物のような輝きを放つものだった。

 強いて難点を挙げれば、リーディアや他の仲間達と過ごせる時間が少ないことぐらいか。それもこうして折を見て――



「旦那様、奥様、お客様がお見えになっております。フーゴ様と仰るケンタウロスの方で、ヤーヒム様とダーシャお嬢様にお約束があるとか」



 かけがえのない仲間は、折に触れ彼らの元を訪ねてくれる。

 会話の切れ目で控え目に告げられた執事の言葉に、この半月ですっかり柔らかさを増したダーシャの顔に、隠しきれない笑みが弾けた。




  ◆  ◆  ◆




「よーし、じゃあヤーヒム、ちょっと翼を出してみてくれ」


 フーゴが満面の笑みでヤーヒムの背中を見詰めている。

 場所はザヴジェル城付属の練兵場、周囲はぐるりと騎士団関係者に囲まれている。


「ふん、儂が作ったものに不具合がある訳なかろ――ふおっ!」


 ヤーヒムが背中に翼を召喚した瞬間、背後で重いものが転がる音がした。

 己が作った鎖帷子の具合を間近で確認しようとしていた鍛冶師ドワーフが弾け飛んだのだ。


 ヤーヒムが振り返れば片翼二メートル超の漆黒の翼の向こうで、老鍛冶師が髭に埋もれた顔を真っ赤にして何かを叫んでいる。


「がはは、じいさん、だから離れてろって言ったろ」

「うるさいこの腐れ馬、儂は近くで見たかったんじゃ!」


 今、この場で行われているのはヤーヒムの防具の試着。

 カラミタとの激闘で襤褸切れと化したものの代わりに、辺境伯家がじきじきに防具一式を新造してくれることになっているのだ。


 一度は断ったヤーヒムだったが、結局断りきれず。

 せっかくならばと防具に出した希望は三つ――背中に翼を出しても破損しない、動きを阻害しない、そして魔法に対する防御性能が高い、この三点だ。


 背中に翼を出しても破損しないのは当然のこととして、動きを阻害しないことはヤーヒムの戦闘スタイルからすれば重要なポイントだ。


 多少の負傷なら即座に癒えるヤーヒムにとって、高速の身のこなしを阻害されるくらいなら防具はいっそない方がいいぐらいのものだ。けれどもし、弱点である魔法を少しでも克服できる防具があるのならば、と相談を持ちかけてみたのだ。


 そして出来上がってきた試作品のひとつが今身にまとっている鎖帷子だ。魔の森との最前線にあるザヴジェル領、武器も防具も非常に需要が高いこの地にいる最高の職人が手掛けた逸品である。


「ほうほう、さすがリボルのジジイだ。良く出来てんな」


 フーゴがその馬体の上から覗き込むように試作品を検めている。

 肩が凝ると言ってリーディアの実家を早々に飛び出した彼は、騎士団に合流して未だ散在している魔獣狩りに顔を出したりしている。その関係で辺境伯家が主導するヤーヒムの防具作りにも初めから首を突っ込み、鍛冶師たちとも昵懇の仲になっているらしい。


 元々が高名な傭兵なのだ。

 目は確かであり、ざっくばらんな性格は頑固な職人と相性がいい。最近ではアマーリエの兄、<戦槌>騎士団長のアレクセイとも意気投合し、鍛冶師のリボル老と三人で毎晩のように酒を酌み交わしていると聞いている。


「当たり前だ、この底なし馬が。誰が作ったと思っておる」

「ま、じいさんの腕は認めてるぜ。後は着てる本人の意見だな」


 仲が良いのだか悪いのだか分からない二人の言葉を聞き流し、ヤーヒムは軽く身動きをしてみた。


 ……驚くほど軽い。


 希少な魔鉱銀ミスリルのみで造り上げられたこの鎖帷子は、低位の攻撃魔法ならその威力を吸収分散してくれるという。

 背中に仕込まれた精巧なスリットが翼への干渉をも最低限に抑えており、鎖の装備感がほとんどない。素晴らしい出来だった。この上に<鉄壁>騎士団の紋章が入った特別なサーコートを羽織る予定らしいのだが、今日はこの鎖帷子のスリットの試験だ。


「……うむ、素晴らしい。悪くなさそうだ」

「おお、本当かヤーヒム! さすがはジジイだ、早速ちょっと飛んでみろよ」

「悪くなさそうとは何だ! 素人が勝手に判断せずに儂に翼の根元を見せろ! この後にダーシャの娘っ子の分も作るんじゃ、むしろそっちが本番だと何度言えば――」

「うるさいジジイ! ヤーヒム、仕方ねえからこのエロドワーフに背中を見せてやってくれ。そしたらちょっと模擬戦をしようぜ。最近体が鈍っていけねえ。嬢ちゃんもやるか? ヤーヒムと二対一とかどうよ? 俺の背に乗ってもいいぜ」


 ヤーヒムは傍らで展開についていけずに固まっているダーシャに小さく頷き、翼を見せるように鍛冶師の前に後ろ向きで屈んだ。

 調整に必要なこととは分かっているが、少なからず緊張する体勢だ。なぜならヤーヒムは、背中の翼をあまり人にじっくりと観察させたくはないのだ。


 それはヤーヒムの中に強烈に焼き付いている、リーディアの父、ザヴジェル魔法界の重鎮ローベルト=シェダの忠告によるものだ。

 彼は家庭で見せているような、温和なだけの人物ではない。


 その彼が凱旋の直後、初対面でヤーヒムに告げた翼に関する考察は次のようなことであり――






―次話『神の翼(後)』―

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