53 ふたつめの遺物

 ……何かが、来る。


 そうフーゴに口の形だけで答えて、瘴気に覆われ泥濘となった大地を鋭い眼差しで見渡すヤーヒム。

 その荒涼とした惨状は、先程まで叩きつけるように降っていた豪雨の影響というよりも、圧倒的な力を揮った禁呪の爪痕そのものだ。穢れた瘴気は徐々に天へと還っているものの、この大地には未だ濃厚な残滓が漂っているのだ。


 アマーリエの兄、アレクセイ率いる二千の重装騎兵団はもうすぐそこまで近付いてきている。


 ヤーヒムの中で警鐘を鳴らしているのは彼らではない。むしろヤーヒムは彼らに来るなと叫びたかった。何かがおかしい。まるで周辺の瘴気が意思を持ち、こぞってこちらを指さしているような、そんなおぞましい不安感がある。


 それはけして真っ当なものではない。

 時間と共にどんどん危機感が膨れ上がり、今やヤーヒムの全身にはじっとりと脂汗が滲んでいる。


 これは、何だ?

 何かが来ようとしている。

 何かとてつもないものが――


 際限なく膨張する切迫感が恐怖へと変わり、ついにヤーヒムが歯を食いしばって悲鳴を堪えようとした時、唐突にヤーヒムは見知らぬ亜空間に引きずり込まれた。




『『『よや よや 肉叢ししむら常磐とこいはの合ひの子よや』』』




 遥か幽玄の彼方から、正気を捻じ伏せる程に異質な声が何重にも重なって降り注いでくる。

 そこは虚空の底、混沌が螺旋状に渦巻く中心部。全ての物があり、何物も存在しない漆黒の空間だった。声の主はおそらく、戦いの幕開けとなった禁呪の中でヤーヒムが一瞬だけ気配を感じた、あの古の大いなる存在だ。


 あの時ほど直接的な顕現ではない。

 だが禁呪の一瞬、確かにヤーヒムに目を止めたそれが、どうしたことかこの場を作って間接的にヤーヒム個人に語りかけてきているのだ。ヤーヒムが直感的に分かるのは、瘴気として大地に残った力の残滓を使って何かをしたということで――



『『『然ぞ合ひの子 をかし をかし 汝やをかし』』』



 再び混沌の声が唄うように轟き、ヤーヒムの頭上に黒泥の大地が映し出された。

 そこはつい先程までヤーヒムがいたはずの場所。黒泥の瘴気は大半が消え去り、そして唐突に消えたヤーヒムに仲間たちが大騒ぎをしているのが見える。


 ……これは、何だ? 何がしたい?


 ヤーヒムは己をこの超越的な空間に引き込んだ当の相手を探し、警戒の視線を四方に走らせた。

 この存在は自分に向かって「肉叢と常磐の合ひの子」と呼びかけてきた。肉塊と永遠の岩との合いの子――それはつまり、生身でありながら永遠の結晶ヴルタの力を合わせ持つ今のヤーヒムの状態か、つい先ほどエヴェリーナの記憶で見た忌まわしき出自のどちらかを、どうにかしてこの存在が知っていることを示唆している。


 なぜ、どうやって、いつから。


 ヤーヒムの脳裏に様々な疑問が膨れ上がる。 



『『『己 是のまさりし愛し子におり与えむ』』』



 混沌のその言葉と同時に、頭上の光景に大きな変化があった。

 見渡す限りの黒い泥濘に残った瘴気が一瞬で分離し、荒ぶる竜巻となって集束していく。


 そしてそれは、この空間にいるヤーヒムになだれ込んできて――


 何かが唐突にヤーヒムの中へ割り込もうと圧力をかけ、どうしようもなく異質なものが抗いようのない力で侵入してきた。あまりの苦痛に無言の絶叫を上げるヤーヒム。もはや周囲に気を向ける余裕もない。左手の甲に同化したラドミーラの紅玉が何か熱烈な反応をしているようだが、それすら遠い出来事だ。

 その抗いようのない力はヤーヒムの全身を混沌という名の狂気で満たし、存在の根底から上書きしようと――



『『『合ひの子 さらに混じりてもちゐよ』』』



 異質な力がヤーヒムの身の内で暴れ、踊り、未だ未契約だった守護魔獣とのえにしの器に雪崩れ込んだ。

 殺到し、根を張り、融け込んでいって――


「がはああああっ!」


 ヤーヒムが叫ぶ。

 これは断じてまともなものではない。古の存在、大いなる混沌の一滴ひとしずくが、ヤーヒムの身体を無作為に造り変えようとしている。無数の触手が、翼が、鉤爪が、発狂寸前のヤーヒムの身体の至る所から生えては消えていく。


 何が愛し子だ。

 何が己が滓与えむだ。

 ヤーヒムの心に強烈な反抗心が芽生え、途方もない苦痛からそれを糧にどうにか自我を保っている。自分は気紛れで弄ばれる知性なき虫ではない。自分の歩く道は自分で決めるのだ、と。


「ぐぬうううう」


 ヤーヒムは混沌の焔をかろうじて抑え、どうにかひとまとまりに押し潰す。

 これは危険だ。既に外には出しようがなく、己が裡に収めなくてはいけない。ラドミーラの紅玉も左手で眩い光を放ち、ヤーヒムの内部に力のようなものを伸ばして後押ししてくれているのが分かる。どうにかして形を整えて――


「がああっ!」


 ヤーヒムの背中から、肉を突き破って巨大な翼が飛び出した。

 それは世の中全ての闇を濃縮したような、威圧感と神々しさが入り混じった混沌の残滓。


 体内で納めきれなかった部分を、ヤーヒムはその形で背中に逃がしたのだ。翼ならまだ使い道があるという、一瞬の思いつきだ。後はなんとかして狂気の塊りであるそれを、ヤーヒムという存在に混ぜずに分離しなければならない。理想は守護魔獣のように独立した別個体として切り分けること。幸いにもそれは守護魔獣とのえにしの器に強く根を張っている。それを逆利用して、擬似的な守護魔獣の類いとして分離させられれば――



『『『をかし をかし 然ぞ合ひの子よや』』』



 愉悦に満ちた混沌の声が轟き、唐突に全てがヤーヒムの裡、守護魔獣とのえにしの器に収まった。

 極度の緊張から不意に開放され、その場に崩れ落ちるヤーヒム。ラドミーラの紅玉は力を使い果たしたのか、満足気に一度脈動して光を弱め、再び眠りに就いてしまった。


 が、未だ背中には巨大な翼がある。

 孤立した別個体というよりは、ヤーヒムの第二の自我が翼に宿っているという感覚か。ヤーヒムの意識に応じ、動かすことができるようだ。



『『『愛し 愛し 己が徴 更に雑じれりけり』』』



 遠ざかっていく混沌の声は満足そうですらあり、ヤーヒムは背中に巨大な翼を生やしたまま茫然とそれを聞いていた。


 ……いったい何が起こったというのか。


 自らを包もうとした混沌を最低限に抑えた、その一点に於いては成功したといえる。

 が、背に漆黒の翼を持った己の姿は明らかに異常。守護魔獣を作ったというより、それを吸収して己の血肉としてしまった感覚。えにしの器は埋まっている。他の先達達のように強力なドラゴンなどを己の守護魔獣として使役するのと、どちらが良いかも分からない。


 ただ、それはもうあの存在により、問答無用で為されてしまったことだった。

 既に翼以外に変化させることもできず、かく在るべきものとして、混沌の声の帰還と同時に存在そのものが固定されてしまったことが分かる。幸いにも守護魔獣的な要素として唯一、どうにかすれば召喚と送還は可能のようだが――



 ……自我を守れただけで良しとするべき、か。



 周囲の亜空間が薄れ壊れていく中、そうヤーヒムは結論づけた。

 到底理解しがたいあの存在の言葉のとおりであれば、あの存在の残滓をまとめてこの身に与えられた、そういうことなのだろう。理由も使い道もなぜヤーヒムなのかも、小さな生にしがみつく一人のヴァンパイアの理解の及ぶところではない。けれど、今はそれよりも。


 とにかくも自分は無事で、自我も保っている。

 この崩壊しつつある空間を脱して仲間達の元へ間違いなく戻る、それを最優先すべきだ。


 翼を背負ったヤーヒムは頭上に映る<ザヴジェルの刺剣>の面々に目を遣り、帰還の道筋を探った。

 どうやら幸いにも、注ぎ込まれた残滓のお陰でヤーヒム自身の力はかつてないほどにみなぎっている。少し無理をすればすぐに転移はできそうだった。


 皆はどうやら二千の騎兵達と無事に合流したようだ。

 けれど、なんだかきな臭い流れになっているようで、そういった意味でも早く戻って――




  ◆  ◆  ◆




「……妹よ、少しは落ち着け。お前が言うカラミタを討伐したヤーヒムとやらはどこにいるんだ?」

「うるさい兄上! 今はそれどころではない!」

「アマーリエ、俺の目を見ろ。確かにカラミタ討伐はお手柄だ。……だが、お前は転移で俺たちを出し抜いた、違うか? なあ、すっげえ嫌な予感がひしひしとするんだが、お前まさか――」


 瘴気が消え去った戦場、二千の重装騎兵が並ぶ前で。

 <戦槌>騎士団長のアレクセイ=ザヴジェルが、妹姫のアマーリエ=ザヴジェルを問い詰めていた。


 ザヴジェルにこの男在りと謳われる辺境伯家次男、父親譲りの屈強な戦士であるアレクセイ=ザヴジェル。

 獰猛なテュランノスドラゴンを討ち果たして次はいよいよ元凶のカラミタ、彼がそう部下を鼓舞して進撃してきてみれば、そこには意味が分からない光景が待っていたのだ。


 妹のアマーリエがカラミタを既に討伐していたのはまだ理解が届く。

 事前にはけして口を割らなかったが、その通り名のとおりに武辺すぎる姫将軍アマーリエが何かを企んでいたのは知っていたからだ。


 問題はその手段。

 タイミングなどの諸情報を統合して考えれば、どうやらこの無茶な妹は転移を使える何かと共謀していた可能性が高い。そこで真っ先に頭に昇るのは、今は絶滅したと言われる、かの悪名高い闇の種族――



「ヤーヒム!」

「父さん!」



 雨上がりの曇天に青い閃光が瞬き、ふた色の歓喜の声が場に響き渡った。

 声の主はアマーリエの同行者、シェダのリーディア姫と黒髪の少女。彼女たちの視線を辿ったアレクセイは、その栄光と自信に満ちた二十九年の人生の中で初めて言葉を失った。


 何もなかった筈の空中に青い稲光が走り、巨大な漆黒の翼を羽ばたかせた何者かが悠然と舞い降りてきたのだ。


「…………!」


 アレクセイを始めとした二千の重装騎兵に、水を打ったような沈黙が広がる。

 一様に息を呑んだその視線が呆然と眺める先には、信じられない存在が羽ばたいていた。


 それを例えれば天空の覇王。


 圧倒的なまでの瘴気と神々しさをまとわせたその翼は片翼二メートル超。差し渡し五メートルを超えるその中央には、氷の刃を思わせる騎士風の男が辺りを油断なく睥睨している。


「ちょ、何だよそれ、意味分かんねえ……」


 アマーリエが連れてきた高名なケンタウロス、<暴れ馬>のフーゴが漏らした呟きに、アレクセイは心の中で完全に同意する。

 まさしく意味が分からない。翼を持つ人系種族など存在しないはずなのだ。強いて言えば魔獣のハーピーがそれに近いが、目の前の存在は明らかに知性を持った人間であり、ぼろぼろであるがザヴジェルの騎士服を着てさえいる。文字どおり、意味が分からなかった。


「ヤーヒム!」

「父さん!」


 ふわりと地上に降り立った男にリーディア姫と黒髪の少女が一目散に駆け寄り、両手を広げて抱きついた。

 これもアレクセイには意味が分からない。確かに黒髪の少女と男は親子に見える。が、シェダ家のすみれ姫といえば奥手で有名な箱入り娘である。それが、子持ちの見知らぬ男に自分から抱きついた――?


 アレクセイの視線の先では、妹のアマーリエはもちろん、<暴れ馬>や<ザヴジェルの刺剣>の面々が揃って帰還を歓迎するように男を取り囲んでいる。驚くべきことにその中にはアマーリエの剣の師匠、<鉄壁>副団長のマクシムまで含まれているのだ。


 マクシムがアマーリエの私生活までをも「鉄壁」に護っているのは、言わずと知れた辺境伯家の暗黙の了解である。

 ということは、男は信頼に足る相手なのか……首を捻るアレクセイに、更なる衝撃が訪れた。


 シェダ家のすみれ姫に翼を指差された男が、しばしの黙想の後にその巨大な翼を消し去ったのだ。


 同時に息詰まるほどの神気が消え去り、痺れるような威圧感も霧散していく。

 <暴れ馬>に肩を小突かれる男、呆れ顔ながらもふんわりと笑い合う面々。つい今まで確かにあった絶対的上位存在の威圧感、男を囲む面々はそれをさほど感じていなかったように見える。男が心を許していて、威圧感が向けられていなかった、ということなのか。


 それにしても。

 アレクセイが始めてみる種類の、妹アマーリエの笑顔がそこにあった。彼の背後で言葉を失っている二千の騎兵達も、気がつく余裕があればやはり同じ思いを抱くことだろう。なんというか、意外、そんな言葉が浮かぶ光景だ。


 黒髪の少女が何事か口にし、男が再び黙想を始めて――その瞬間、男の背に再び巨大な黒翼が忽然と現れた。


 再現する絶対的上位存在の威圧感、どよめく二千の騎兵達。

 間近に出現したその支配者の表徴は厳しく訓練されているはずの馬たちを激しく怯えさせ、このままでは統制が効かなくなる恐れもある。戦いが終わったこの場で負傷兵など出したくはない。おいお前ら何をやっているんだ、そうアレクセイが文句を言おうと口を開きかけた時。


「……! …………、………………」


 アマーリエが何事か思いついたように翼の男に耳打ちし、挑発するような会心の笑みを浮かべてアレクセイの方へと歩み寄ってきた。


 その笑みをアレクセイは知っている。

 ろくでもないことを企んでいる時の笑みだ。目の中に入れても痛くないくらいに可愛い妹だが、時に暴走することは身に染みて心得ている。共に育った兄としてこれまで散々振り回されてきたのだ。ただ、なぜか最後は驚くほどに良い結果をもたらすことが多いため、妹を愛する兄としては何も言えないのだ。


 そんな危険な笑みをたたえて歩み寄ってくるアマーリエの背後では、リーディア姫や高名なケンタウロスを始めとした<ザヴジェルの刺剣>が、狐につままれたような顔でその後ろ姿をぽかんと見送っている。


 武勇名高き辺境の姫将軍、ザヴジェル家長女アマーリエ=ザヴジェル。

 美しく成長した彼女はその猛禽のごとき美貌を薔薇のように輝かせ、実兄アレクセイの前、二千の騎兵の眼前で足を止めた。



「――兄上、そして勇猛なる<戦槌>騎士団の諸君、紹介しよう」



 挑発するような笑みを更に深くし、アマーリエが高らかに告げる。

 猛烈に湧き上がる嫌な予感に、幼き頃からの反射で思わず胃の辺りを押さえるアレクセイ。


「これが先のブシェク遠征でコアを単独討伐した件の英雄であり、ペトラーチェク平野でツィガーネク子爵を援けてその紋章を授けられたザヴジェルの友、禁呪の元となったコアを提供してくれた恩人でもあり、特務部隊の我ら<ザヴジェルの刺剣>と共にカラミタを討ち果たしたザヴジェル防衛戦最大の殊勲者――」



 そこで思わせぶりに言葉を切り、背後の巨大な翼を持つ男を振り返るアマーリエ。

 二千の騎兵の誰かが、ごくり、と生唾を呑みこんだ。



「――その名はヤーヒム=シュナイドル。失われた天人族の血を持つ男だ」



 アレクセイの顔が壮大に引き攣った。

 妹が堂々と宣言したのは、聞いたこともない種族の名だ。


 何よりも、視線の隅でちらりと見遣った<ザヴジェルの刺剣>の面々やヤーヒム=シュナイドル本人も驚きで一瞬たじろいだこと、それをアレクセイは見逃していない。


 つまり、目の中に入れても痛くないほどに可愛い妹が、また例によって暴走スタンドプレーを始めた、ということだ。


「……て、天人族だと」


 絶対に、嘘っぱちだ――アレクセイの胃がきりりと痛んだ。






―次話『凱旋』―

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