51 乱戦

「――ッ!」


 ヤーヒムは空中で咄嗟に身体を捻った。

 無双のはずのヴァンパイアネイルが五本まとめて綺麗に切断され、逆に鋭い斬撃が襲いかかってきていたのだ。


 際どいところで相手の斬撃を躱し、そのまま地面を転がるヤーヒム。

 これまで斬れぬものなどなかった己の必殺武器ヴァンパイアネイル。だが、この状況が何を意味しているかヤーヒムは即座に理解していた。


 斬れぬものなどない、全ての物質を空間ごと切り裂くヴァンパイアネイル。その事実に誤りはない。

 けれど、ただひとつだけ例外がある。それは、そのヴァンパイアネイル同士がぶつかった時だ。


「くッ――」


 地面に転がり、目にも留まらぬ怒涛の追撃を五感だけで辛うじて躱していくヤーヒム。

 まばゆい蒼光の尾を曳き唸りを上げて襲いかかってくるのは、己のものではないヴァンパイアネイルだ。ヤーヒムよりもひと回りは長いそれが、右から左から容赦なく振り下ろされてくる。


 そう。

 二人のヴァンパイアが振るうヴァンパイアネイルがぶつかった時、その身に宿す空間属性の力――青の力が少ない方が斬り負ける。


 この最後のカラミタは、事前に【ゾーン】で感じていたとおり、ヤーヒムより遥かに青の力をその身に宿していた。


 ヤーヒムもこうなる可能性を考えてはいたのだ。

 先日対戦したカラミタ、ミロスラヴァは元ヴァンパイアだった。ならば今回まみえるカラミタもその可能性はある。が、半ば人形と化していたミロスラヴァの魯鈍な印象が尾を引き、このカラミタがここまでヴァンパイアとしての能力を残しているとはまるで想定しておらず――


「ぐっ」


 カラミタのヴァンパイアネイルが、地面からどうにか飛び起きたヤーヒムの腹をズブリと貫いた。

 そのまま横に払われ、鋭利な五本の蒼爪が内臓を細切れにしながらヤーヒムの左手首をも斬り飛ばす。次いで強烈な回し蹴り。

 ヤーヒムは体をくの字にへし折られ、そのまま真横に蹴り飛ばされた。肋骨が枯れ枝のように砕け、口から深紅の血潮が飛び散っていく。


「――ヤーヒムっ!」


 満身創痍で地面に跳ね飛ぶヤーヒム。だが、カラミタは容赦なく追いかけてくる。

 猛る猟犬のように追随し、蒼く輝くヴァンパイアネイルを振り上げて――




「罪深き黒よ、貫け! ――グレート・ランスShoggoth!」




 真横から放たれた漆黒の槍がカラミタの腕を貫いた。

 次いで緑白に輝く斬撃が、鋭い弧を描いてカラミタの脚を薙ぎ払いにくる。それはアマーリエの魔剣。ヤーヒムの危機にリーディアと二人しゃにむに駆けつけたのだ。


「もらったッ! くたば――クソッ」

「きゃあああああ!」


 突貫してきたアマーリエの渾身の一撃が躱されるのと、その後ろでリーディアが蹴り飛ばされるのは同時だった。

 カラミタが圧倒的な速さでその身を翻し、目にも止まらぬ攻撃を仕掛けたのだ。標的はリーディア。ヴァンパイアの弱点である魔法を放った彼女を、深々とかぶったフードの奥、妖しく光る紅玉ルビーの瞳が憎々しげに見据えている。


「ぐがっ」

「がああ」


 そのリーディアを守ろうと騎士達が駆けつけるが、一瞬ももたずに次々と蹴り飛ばされる。

 凄まじいまでのパワーとスピード。続いて立ちはだかった歴戦の戦士である上級騎士のマクシムまでもが赤子のように翻弄され、大きな盾ごと強烈な蹴りを喰らって襤褸切れのように地面に崩れ落ちた。救いはリーディアの魔法に貫かれた腕が使い物にならないようで、死に直結する危険なヴァンパイアネイルを使っていないことぐらいか。


「てめえっ!」

「父さんになんてことをっ!」


 瞬く間に四人を無力化したカラミタに、フーゴとその背に騎乗したダーシャが猛然と斬りかかった。

 が、カラミタは意にも介さず軽く躱し、魔法を使ったリーディアに向かって猛然と襲いかか――



 鈍い音と共にカラミタが弾け飛んだ。



 横から突っ込んできたヤーヒムが体当たりしたのだ。

 二人揃って地面に転がり、同時にぱっと飛び退いて互いに距離をとる新旧のヴァンパイア達。


「ヤーヒム無理すんな! 怪我は大丈夫なのか!?」


 フーゴの叫びに、ヤーヒムは肩で大きく息をしつつも安心させるように小さく頷いた。


 深手だった腹の傷はヴァンパイアならではの治癒力で既に出血だけは収まっている。先ほど斬り飛ばされた左手首は右手に握られ、癒着を促すように切断面に押し付けられている。全身から微かに昇る蒸気は、今この瞬間も急速に傷が癒えていっている証拠。


 斬り飛ばされた際に手袋が破損したのか、その左手の甲に同化したラドミーラの紅玉が弱々しいながらも紅の輝きを取り戻し始めているのが見える。

 アマーリエやリーディア達が彼を守ろうと体を張ってくれた時間が、ヤーヒムにここまで回復するゆとりをもたらしてくれたのだ。


 対するカラミタは、リーディアの魔法で穿たれた右腕を庇うように立ち上がっている。ヤーヒムに与えた傷ほど深手ではないが、ヴァンパイアにとって魔法での傷は極端に治りが遅い。それはカラミタであっても同じようで、既に傷が癒え始めているヤーヒムと比べれば現状で互角、時間を追うごとにヤーヒムが有利といった状況だ。


「チッ! 雑魚どもが集まってきたっ! アマーリエの姫さん、ここはヤーヒムに任せてまずは怪我人を回復させるぞ!」

「くそ、魔獣風情がリーディアに近付くな! マクシム、ポーションは使えるかッ?」


 周囲では召喚されたキマイラが一様に戻ってきつつあり、フーゴとアマーリエが倒れた四人を守るよう、ヤーヒムの邪魔をさせないよう、目まぐるしく立ち回り始めた。


 対峙するヤーヒムとカラミタは一触即発の状況だ。

 カラミタが深々とかぶっていたフードは脱げ、特徴的なプラチナブロンドの髪が黒泥に塗れて顔を覆っている。

 それはなぜか、ヤーヒムの記憶のどこかを刺激し――







「な……?」







 唐突にヤーヒムがそのアイスブルーの瞳を大きく見開き、驚きの声を漏らした。


「……まさか、エヴェリーナ、なのか?」


 ヤーヒムの口からひとつの名前が零れ落ちた。

 白に近いプラチナブロンドの髪に隠れていたのは、鮮やかなヴァンパイアレッドの瞳、そしてどこか自分に似た冷たい美貌――


 ――それは間違いようもなく真祖ラドミーラの直系第一子その人であり、系譜で言えばヤーヒムの長姉に当たる古のヴァンパイアだった。


 かつてラドミーラに引き合わされた時を遥かに凌ぐ強烈な覇気と、感情の宿らない虚ろな瞳。

 そしてくたびれた外套の下、ぼろぼろの上着の首元から僅かに覗く、半分以上が青く結晶化している滑らかな肌。


 かつてと同じ存在ではあり得ない。

 だが、懐かしさすら感じるその風貌は、ヤーヒムの記憶と寸分違わぬもので。


 真に強力なヴァンパイアの一人にして、真祖ラドミーラに絶対の忠誠を捧げる第一の配下。

 二百年前の当時は、ラドミーラの命で何かを探して各地を飛び回っていると聞いていたのだが。


『………………ヤーヒム?』


 エヴェリーナが口を開いた。

 その声は四方八方から木霊するようにヤーヒムの脳裏に響いてくる。


『それに、母上……?』


 エヴェリーナの視線が、ヤーヒムの左手の甲で弱々しい光を放つラドミーラの紅玉で止まった。そのまま凍りついたように静止するエヴェリーナ――ヤーヒムの長姉、真祖ラドミーラの直系第一子。


 ラドミーラの紅玉もエヴェリーナを認識したのか、微かに驚いたような脈動をヤーヒムに伝えてくる。

 かつての娘、唯一信頼していた懐刀。

 互いに大きく姿を変えている今となっての、まさかの邂逅だった。


 無言の時が流れ、やがて。

 ヤーヒムと正対するエヴェリーナのヴァンパイアレッドの瞳から、ひと粒の涙が音もなく頬を伝って流れ落ちた。


 ゆっくりとヤーヒムの顔へと戻ったその視線からは虚ろさがこそげ落ち、燃えるような紅に彩られている。

 そして口から吐き捨てられた、絶対零度に凍った言葉。




『………………貴様、母上に何をした?』




 ドン、という衝撃と共にヤーヒムの視界が左にブレる。

 瞬時に間合いを詰めたエヴェリーナに殴られたのだ。続いて流れるような三連の蹴り。ヤーヒムは咄嗟にその脚を掴んで捻り、巻き込むように体幹を回転させて肘打ちを返――そうとして飛び退く。


 背中に走る激痛。エヴェリーナの右腕は負傷して動きが悪いが、健在の左腕が死角からヴァンパイアネイルを振るってきたのだ。

 エヴェリーナは激昂して我を忘れており、今の斬撃は【ゾーン】の刹那の警告に身を委ねなければ危なかった。そして今度はその【ゾーン】が、エヴェリーナが背後で体勢を微かに崩しかけていることを教えてくれている。負傷した右腕が動かず、動作のバランスがズレているのだ。


 ヤーヒムは眼前の地面に強く踏み込み、低く独楽のように回ってエヴェリーナの負傷した右腕側に回り込んだ。

 狙うはエヴェリーナの右脚。身体を泳がせて踏ん張ろうとしたそこへ、短く斬られたヴァンパイアネイルで――


「ぐはっ」


 攻撃を受けたのはまたしてもヤーヒム。

 電光石火のカウンターで鳩尾を蹴り上げられたのだ。そこへ嵐のような連撃が追加される。目にも止まらぬ早さで展開する打撃と防御の応酬。


 エヴェリーナは執拗に必殺のヴァンパイアネイルで勝負を狙ってくるが、ヤーヒムとてそれは同じだ。

 むしろ互いに互いのヴァンパイアネイルを強く警戒し、それだけは確実に回避している。従って有効になってくるのは蹴りや体捌き、一連の流れといったそれ以外の要素。ヴァンパイアネイルでの一撃に繋げられるよう、虚々実々の駆け引きが行われていく。


 身体能力とヴァンパイアネイルはエヴェリーナが上、それをアンブロシュ剣術の理を体捌きに組み込んだヤーヒムがかろうじて凌いでいる。

 リーディアの魔法を受けたエヴェリーナの右腕がまともに動かせていないことが、ここに来て戦いの大きなポイントとなっている。ヤーヒムから見てそこに隙があるのはもちろん、身体の微妙なバランスがどうしても崩れ、動きが激しくなればなるほど精彩を欠いていくようなのだ。


 二人の身体からはしゅうしゅうと蒸気が立ち昇りはじめている。

 それはそれぞれの身体でヴァンパイアならではの高速治癒が過負荷気味に働いている証。互いに致命傷は紙一重で避けているが、無数の傷が全身に生まれ、即座に癒えてを繰り返しているのだ。


 まさに人外の戦い。

 目まぐるしく入れ替わる攻防、過激な攻撃と強靭な生命力。


 いつしか周囲のキマイラの召喚は止まっている。

 エヴェリーナがヤーヒムとの戦いに集中し始めたのだ。跳ね上がるパワーとスピード。余人の入る余地のない苛烈な攻防が、更にその激しさを増していく。


 そして、黒い大地の向こうからは守護魔獣の咆哮が立て続けに上がり始めた。

 騎兵部隊がテュランノスドラゴンに到達し、あちらはあちらで熾烈な戦いが始まっている。同時に、エヴェリーナの動きが更に早くなっていく。暴虐のドラゴンに倒された<戦槌>騎士団員の命を、トカーチュ渓谷一帯を擬似ラビリンスとした彼女が片端から吸収しているのだ。


 徐々に追い込まれていくヤーヒム。

 ギリギリで持ち堪えているのはエヴェリーナの右腕がまともに動いていないからに過ぎない。けれど、それを裏返せばそこにまだ一抹の勝機があるということ。出来れば殺さぬ程度に無力化し、そうして――



『死ね、簒奪者め』



 ヤーヒムの顔面に五本の蒼光が襲いかかった。

 ヤーヒムの躊躇いを逆手に取ったエヴェリーナが敢えて攻撃を誘い込み、最後の瞬間に負傷していたはずの右腕で奇襲を仕掛けたのだ。


 攻撃を中断して上体を仰け反り、かろうじて死の蒼爪を躱すヤーヒム。

 瞬時に己の失敗を痛感する。時間をかけ過ぎたのだ。


 狙い澄ましたエヴェリーナの五本の青光はヤーヒムの胸に四本の深い傷跡を残し、のこる一本が無防備に晒された喉笛を切り裂いた。そして繰り出される追撃の回し蹴り。ヤーヒムは再び血飛沫と共に空を舞い、何度も地面にバウンドして――




 ――GGGWAAAAAAA!




 憤怒の咆哮が穢れた大地に響き渡った。

 声の主はヤーヒムでもエヴェリーナでも、そしてアマーリエ達に周囲から駆逐されつつあるキマイラでもない。

 ましてや彼方で暴れ回っているテュランノスドラゴンでもない。もっと近く、もっと身近な位置からの咆哮だ。


 次の瞬間、目にも止まらぬ速さで黒い何かが、捨て身の攻撃後で未だ体勢を崩したままのエヴェリーナに突っ込んだ。


 堪えきれずに弾け飛ぶ女ヴァンパイア。

 そのまま激しく黒い何かと共に地面を転がり、そこで組んずほぐれつの猛烈な戦いが始まった。


 女ヴァンパイアのしなやかな肢体に圧し掛かっているのは二メートルをゆうに超える漆黒の狼。

 牙を剥き出しにして左の二の腕――魔法傷を負っていない、健在の方の腕――に喰らいつき、そこを支点に激しく頭を振り、全身をバネにして暴れ回っている。エヴェリーナはその勢いに抗いきれず、有効な反撃が出来ないままに何度も地面に全身を叩きつけられている。


 そして。

 湿った鈍い音と共に女ヴァンパイアの左腕が食いちぎられた。開放された彼女が即座に飛び退いて距離を取ったのは、さすがに古のヴァンパイアといったところか。


「――嬢ちゃん!? くそ、なんてこった!」


 そこにケンタウロスのフーゴが猛然と駆け込んできた。

 その背にダーシャの姿はない。

 そう、フーゴが援護するように轡を並べた漆黒の狼こそダーシャ。

 ヴァンパイアの血に抑えられていた人狼ライカンスロープの魔性が、度重なるヤーヒムの危機についに再覚醒したのだ。


 それはヤーヒムの首が切り裂かれ、襤褸布のように蹴り飛ばされた瞬間だった。


 惨劇を目の当たりにして憤怒の咆哮を上げ、フーゴの背から飛び降りて矢のように女ヴァンパイアに襲いかかったダーシャ。しなやかな体躯、流れるような闇色の体毛に反り立つたてがみ――その姿形は準伝説級の幻獣ナイトウルフそのものであり、今、フーゴの隣で憤怒の唸り声をあげている。


「父さんに……私の父さんに……許さない…………」


 唸り声に混じる、かろうじて聞き取れる人語。

 氷刃の如く研ぎ澄まされたアイスブルーの瞳が、激しい怒りを叩きつけるように片腕となったエヴェリーナを睨みつけている。低く抑えられた体躯は文字どおり、いつでも飛びかかれるように無限の力を溜め込んでいる。


「フーゴ! そっちはどうなっている!?」


 突然ダーシャとフーゴに離脱されたアマーリエが、緑白に輝く魔剣レデンヴィートルを縦横に振り回しながら叫びかけてきた。

 彼女の後ろには未だ地に伏せたままのリーディア達がおり、未だキマイラの残党に取り囲まれている。が、フーゴにこの場を離れる選択肢はない。ヤーヒムは首を裂かれて倒れたままであり、怒れる幻獣となったダーシャが暴走寸前の状態なのだ。


「嬢ちゃん……。ええいくそったれ、こうなったら一気に片を――え?」


 フーゴが覚悟を決めて戻した視線の先、エヴェリーナの様子がおかしい。

 唐突に全身を硬直させ、がくがくと震え始めている。食いちぎられた左腕の先が青く結晶化を始め、結晶化した端から赤黒く濁っているようだ。意味をなさない狂気の絶叫が口から零れている。左腕で始まった結晶化が瞬く間に首筋に伝播し、胸元からのぞいていた青いコアまで赤黒く濁りだして――


『ヲヲヲアアアアアアアアアアアアア』


 エヴェリーナの叫びがどんどん高くなっていく。

 そのヴァンパイアレッドの瞳はくるりと裏返り、結晶化がついに顔に浸食し始めた。赤黒く半透明になっていくそのおぞましい外観は、ヴァンパイアどころか既存のいかなる生物の枠組みからも遠く離れているものだ。真っ当な進化を辿った通常のラビリンスコア――種族内の呼び名でいうヴルタ――とも勿論違う、歪さと狂気を強く感じるそれ。


 そう。

 それは強制的で歪な進化の上に辿り着いた、際どいバランスの上に成り立つ「歩くラビリンス」の暴走だ。

 この場にいる全員が、このまま放っておくと取り返しのつかない、とんでもない事態になるということをまざまざと感じ取っている。カラミタ――「災厄」という文字どおりの終着点。


『アアアアアア――、――――、――――――』


 末期のカラミタの甲高い絶叫がついに声にならず、悲鳴を通り越して音なき慟哭に変わった時。

 ダーシャの唸り声がひと際低くなり、そのしなやかな体躯が忽然と掻き消えた。


「!?」


 フーゴが目を瞬いた次の瞬間、暴走するカラミタの足元から漆黒の巨狼が踊り出た。それはまさにシャドウウォーク――古より民間伝承に語り継がれる、親の言うことを聞かない子供を貪り喰らうという闇の獣の伝統的な行動手段だ。


「ほわ!? いや嬢ちゃん、今はヤバい――ッ!」


 取り残されたフーゴの目の前で、影から飛び出したダーシャが返り討ちにされた。瞬殺だった。

 上半身がほぼ結晶化していてもその動きは変わらない。顔面を目掛けて振るわれたナイトウルフの強烈な前脚の一撃をかいくぐり、伸びあがったその体躯の脇をすり抜け、そして漆黒の脇腹に痛烈な反撃が繰り出されたのだ。


「ギャンッ!」


 漆黒の巨狼がもんどりうって泥濘の地面を転がる。

 暴走し爆発寸前のカラミタの拳は、巨狼のやわらかい内臓を深々と抉っていた。カラミタに唯一残されたその右腕の拳は既に赤黒く結晶化しており、そこからヴァンパイアネイルが消え失せていたのが唯一の僥倖といえば僥倖か。


 そしてカラミタはその場で棒立ちになり、再び音なき慟哭を始めている。

 赤黒い結晶化が遂に口から鼻へと達し、声を出そうとしても出ないのかもしれない。


「嬢ちゃんっ!」


 絶好のその隙に、フーゴがぬかるんだ地面を蹴ってダーシャの元へと駆け寄っていく。

 そのダーシャは深刻なダメージを受けたせいか狼の姿が融けるように崩れ、口から血を吐いたダーシャ本来の姿へとわななくように戻り始めている。


「嬢ちゃんっ!」


 が、それでもダーシャは戦いを止めようとしない。

 透きとおるような白い肌に散った血を幼い腕でグイと拭い、フーゴが伸ばした手を掴まずにゆらゆらと立ち上がって――






「……もう、大丈夫だ。無理を、するな」






 そんなダーシャの肩をそっと抱き寄せたのは、死の淵から立ち戻ったヤーヒムだった。

 幽鬼のようにダーシャに歩み寄った、血と泥に塗れたその身体。切り裂かれた喉は未だ塞がりきっておらず、声はふいごのように掠れている。もう一歩踏み込まれていたら、完全に首を斬りおとされていただろう。


 ダーシャを見下ろす顔は蒼白そのものだ。

 苛烈な戦闘によって激しく体力を使ったことに加え、首を裂かれて大量に血を失っている。限界はとうに超えていた。


「父さん……よかった、無事だったんだね……」


 だが、ダーシャの肩を抱く手はどこまでも力強く、そして優しい。


「……ダーシャ、こそ。少し休んで、いろ。頑張った、な。……フーゴ、ダーシャを、頼む」

「お、おう」

「父さん……」


 ダーシャをフーゴに託したヤーヒムは、ゆっくりとかつてのエヴェリーナを振り返った。

 今や顔の大部分が赤黒い結晶に侵されており、濡れて泥をかぶった髪だけが以前のプラチナブロンドの色を残している。


「…………を……け」


 切り裂かれた喉笛から空気を漏らしつつ、ヤーヒムが何事かを低く呟いた。

 体力は既に使い果たしている。が、ヤーヒムの裡にはふつふつと熱い何かが燃え上がりつつあった。


 眼前の化け物は、もはや同族の長姉ではない。

 ヴラヌスの幼生ヴァンチュラでもなく、ましてや成体ヴルタでもない。歪な進化に堕ちてしまった邪な何かだ。


 そしてそれは、ヤーヒムにとって何よりも大切なものを傷つけた。

 目の前で自分の娘、ダーシャを傷つけられた。その前にはリーディア達も攻撃を受け、未だ起き上がっている気配もない。


 申し訳なかった。

 情けなかった。


 眼前のカラミタ――エヴェリーナがどんな経緯でそこに堕ちたのかは分からない。

 長姉の歪で不安定すぎる姿を見るに、自然に自らの意思でそうなったとは到底思えない。先日遭遇したもう一体のカラミタ、かつてのミロスラヴァなどもまさにそうだ。ダーシャと変わらぬ年恰好のあの子供ヴァンパイアは、明らかに自我を失って操られていた。


 何者かの悪意ある介入が強く感じられる。最も怪しいのは、<呪いのラビリンス>となっていたヴァルトルが口にしていたラドミーラと同格の存在、何千年も前に姿を消したはずの真祖ジガで――


 けれども。


 経緯はどうであれ、カラミタとなった時点でエヴェリーナやミロとは既に道を決定的に違えているのだ。

 それが冷厳たる事実であり、けして元に戻ることはない。残り少ないヴァンパイアが、何故にこうなってしまったのか。


 もはや躊躇いはない。

 今、ヤーヒムの心にあるのは心を抉るようなやるせなさと、そして、全てを焼き尽くすほどに赤熱した怒り。


 自分に対する怒り。

 歪んだ進化を受け入れてしまった同朋への怒り。

 そして、数少ない同朋を弄ぶ理不尽な黒幕への憤怒。


 ……すまない、が。


 ヤーヒムは未だ弱々しい光しか宿していない左手の紅玉を軽く撫で、次の瞬間。


 怒れるヤーヒムは目にも止まらぬ速さでカラミタに肉迫した。

 荒ぶる感情を爆発的な力に変え、その力の限り拳を振り抜く。


 結晶が砕ける音、弾け飛ぶカラミタ。

 カラミタは先ほどダーシャがシャドウウォークで突貫した時と同様に迎撃の動きを取ろうとはしていたが、今のヤーヒムの方が早く、そして強い。


 宙を舞うカラミタに追撃の蹴りが叩き込まれる。次いで振り下ろされる、組んだ両手による戦槌のような一撃。


 カラミタは音なき慟哭を止めて自らの防衛に専念しようとしているが、嵐のように続くヤーヒムの連撃になす術を持たない。その怒涛の攻撃をどうにかして止めようと、かろうじて反撃を繰り出そうとするが――


『ァアア!?』


 ――鋭さを欠いたその捨て身の反撃は、【霧化】したヤーヒムの身体を虚しく突き抜けただけだった。


 体勢を更に崩したところへ再開される、即座に実体に戻ったヤーヒムの容赦のない攻撃。上下左右から降り注ぐ猛攻にやがてカラミタの動きが止まり、そして。


 蒼光一突。


 燦然と輝くヤーヒムのヴァンパイアネイルが、カラミタの眉間を真っ直ぐに貫いた。



「……さらば、だ」



 ザヴジェル領に前代未聞の惨禍をもたらしたカラミタは全部で六体。

 その最後にして最大の力を持った一体が、ここにその活動を終えた。






―次話『残されたもの』―

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