47 曇天の下

 ヤーヒム達四人が諸侯軍の陣地を出立して二日目。

 出立自体はツィガーネク子爵と面談した翌朝すぐのことだ。改めて派遣された参謀官からアマーリエ達の正確な所在と最新情勢を確認し、そして諸侯軍の方も逃げた魔獣の殲滅を急務としていたこともあり、略式の挨拶だけをして早々に借りた天幕を引き払ったのだ。


 広大なザウジェル領を横断するゼマーネク街道を一路東へと邁進する彼らは、スレイプニルのフラウには相変わらずリーディアとダーシャが同乗し、前か横でその露払いをするようにケンタウロスのフーゴが、後ろを軍馬に乗ったヤーヒムが半ば人目を忍ぶように追随するという隊形を保っている。この形はもはや一行の中で移動時の定型になりつつあり、誰も変えようとは言い出しはしない。


 ただでさえ人目を引く容姿のリーディアとダーシャが、八本足の高級軍馬、しかも純白のスレイプニルに騎乗しているのだ。さらにザヴジェル領内はやはりどこか物々しく、歴戦の傭兵フーゴが堂々とした佇まいで前を行くことでかなりの面倒事を回避できているのが実情だ。


 空は先日までと打って変わってどんよりとした雲に覆われている。

 足早に通過していく辺境らしい荒野と所々に散在する集落、そして、頻々と現れる魔獣と厳重に守られている畑。


 時おり引き締まった顔つきの巡回兵にも遭遇する。やはり厳しい警戒態勢が敷かれているのだろう。

 彼らは見るからに高貴な乙女二人が屈強なケンタウロスに護衛されているのを見て、一様に納得の表情を浮かべて労いと警戒を促す言葉を掛けてくる。民情は悪くない。ツィガーネク子爵の紋章を出そうとしたのは一度きり、要所要所に存在する砦のすぐ傍を通過しようとした時だけだ。それも結局、隊長格の一人がリーディアの名前を知っており、泡を喰った彼によって逆に途中まで護衛をつけてくれる結末に終わった。


 そんな遭遇も今や遥か砂塵の後ろ。

 厚く垂れ込める暗灰色の雲の下、一行はまた再び寂寞とした荒野を延々と走り続けている。次の集落は未だ見えてこない。

 そんな物憂い旅程が徐々に四人の会話を減らし、しばらく無言で平素と違う領内の姿にため息を零していたリーディアが、隣を駆けるケンタウロスにぽつりと声をかけた。


「――ねえフーゴ、なんだか雨が降ってきそうね」

「そうだなあ、今日はもう移動は止めてどっかの村にでも宿を頼むか? 今日の夜は宿営じゃなくて、きちんと屋根がある建物に泊まった方がよさそうだ」

「そうね……こういう日こそヤーヒムも屋根のあるところでゆっくり寝てもらうべきだわ。早く先に進みたいところではあるけど、向こうに着いたら着いたできっと大変なんだから」


 今彼らが目指しているのはザヴジェルの領都、ザーズヴォルカだ。

 初代辺境伯ミラン=ザヴジェルが魔の森開拓の前衛都市として築いてから百五十年。今は広大なザヴジェル領の領都として繁栄を遂げている辺境一の大都市だ。


 そこにアマーリエを含むザヴジェル伯軍が未だ駐屯している訳ではない。

 ザヴジェルの主戦力というべき彼らはとうにそこを出陣し、今は領都ザーズヴォルカの北に位置するトカーチュ渓谷に陣を張っている。かつて第三次開拓戦争が終わるまで古来より魔の森との境だったそこで、未討伐の最後の歩くラビリンス――ヤーヒムの【ゾーン】に際だって反応の強いカラミタ災厄――が召喚した一万五千を超える魔獣の群体を迎え撃とうと態勢を整えているところなのだ。


 トカーチュ渓谷は大地に刻まれた巨大な断裂だ。人間が架けた橋さえ落とせばかなりの時間が稼げる地形だし、まず間違いなくザヴジェル伯軍はその戦法を取るだろうとのこと。人間の軍隊ですら万の規模となれば兵站の維持には多大の労力を要する。相手は統制が取れているとはいえ理性などない飢えた魔獣、断裂で足止めすれば自滅も期待できるし、勢いを失ったところをこちらから強襲してもいい。


 ただ、今回は通常の相手ではない。召喚主であるカラミタが同道しているせいか、一定の規律を持った行動を取っている。予断は許されないがまだ開戦までギリギリの猶予はある、というのが軍関係者の統一した見解らしい。


 ヤーヒム達一行が一旦領都ザーズヴォルカに立ち寄ろうとしているのも、そのあたりの経緯を踏まえてのことだ。

 ツィガーネク子爵との別れ際でも是非と懇願された。今となってはリーディアがザヴジェルを離れた際の一族の課題などは些事に等しいけれども、その報告を入れることでけじめをつければ、リーディアは一族の成人として堂々と防衛戦に臨むことができるのだ。


 旅程的にも一日か二日の寄り道でしかない。実際のところリーディアがザーズヴォルカに行けば、そこで一族の通信魔法、ザヴジェルの使い文を使ってアマーリエを始めとした面々と自由に連絡が取れるようにもなる。彼らの移動速度ならばザーズヴォルカからトカーチュ渓谷まで急げば一日の距離だ。


 いざ参戦となれば文字どおり休む暇などなくなる。

 そして、彼ら全員が無事に帰還する保証はどこにもなくなって――


「ぷくく。素直に今はヤーヒムと少しでも長く語り合いたいと言えばいいのに。昨夜もこっそり石壁の外に出て、不寝番のヤーヒムとずっと喋ってたんだろ?」

「ちちちちょっとフーゴ、そんなんじゃないわよ! もうっ!」

「かかか、冗談だって。姫さんはほれ、そういう顔してないと嬢ちゃんが気疲れしちまってるぜ? ちょっと辛気臭い道のりだったからなあ――って、魔獣さんのお出ましだ。ヤーヒムは……ちょっと遠いし、嬢ちゃん、やってみるか?」


 フーゴが長大なハルバードで指し示すその先に、砂色の毛皮を持つデザートウルフの群れが姿を現していた。数は十五といったところか。


「リーナ姉さん、いい?」

「あー、うん。あれぐらいなら良いわ。例のアレ、使うんでしょう? 私は手を出さないから一人でやってみて」


 リーディアがフラウの脇腹を踵で軽く蹴り、デザートウルフの群れへと駆けさせた。

 リーディアの前に騎乗するダーシャは両腕を左右に垂らし、その指先の爪を伸ばして青く輝くヴァンパイアネイルを出現させていく。が、普通のヴァンパイアネイルではない。青の光は目を凝らさなければ見えない程に薄く、太さも針金程度しかない。けれど、その長さは腕の二倍、疾駆するフラウの足元に届くくらいに長いのだ。


 それはここ数日でダーシャが編み出した唯一無二のヴァンパイアネイル。

 聞けば同じものは憧れる偉大な父、ヤーヒムにも出せないという。膨大な青の力を持つヤーヒムはふた回りほど長いが、一般的にはヴァンパイアネイルの長さは二十センチ程度が上限らしい。そう教えたヤーヒムが言葉少なに褒めてくれたことが天に昇るほどに嬉しく、ダーシャは状況さえ許せば積極的に練習を重ねていた。長く伸ばした分だけ切断力には乏しいが、剃刀のようなその鋭い切れ味は小型の魔獣を圧倒するに充分で――


 風切音が縦横に流れ、フラウが蹴散らしたデザートウルフが次々に甲高い悲鳴を上げる。

 ぱっくりと切り裂かれた五条の斬痕は指二本にも満たない深さだが、大量の血潮を噴き出させ、容赦なく筋をも断っている。瞬く間に十に近いデザートウルフが地面でのたうち、残る数頭が脱兎の如く逃げだしていく。


「うひゃあ、俺が手を出す暇もなかったわ」

「お見事よダーシャ。うんうん、かなり自分のものになってきたんじゃない?」


 すぐ後ろに追随していたフーゴが賞賛の笑い声を上げ、同乗していたリーディアが嬉しそうにダーシャの黒絹の髪を撫でた。


「えと、だいぶ慣れてきた、かも」


 ダーシャは照れ臭そうに笑い、ちらりと後ろを振り返った。

 その透明度の高いアイスブルーの瞳が探しているのは、同じ瞳を持つもうひとりの存在だ。だが、そのもう一騎の同行者は自分達が撒き上げた砂塵の向こうで――


「ほらほら、こういうのはこっそり練習して、成果をまとめて見せた方が驚かれるってもんだぞ? それよりもさ」


 すっかりダーシャの兄貴分となったケンタウロスが、地面に転がるデザートウルフを顎で指してにんまりと笑った。


「今日はこいつらの肉と毛皮を手土産に次の村に泊めてもらって、村の人と一緒にぱーっと騒ごうぜ。どの村もこのカラミタ騒ぎで陰気になってるし、ぱーっと行こう、ぱーっと。金ならブシェクでたっぷり稼がせてもらったし、これまでに狩った他の肉もマジックポーチにたんまり入ってるからな。そうだ、ヘイズルーンの乳酒も持ってんだっけ……よし、こいつを賞品に村の男どもと腕相撲大会でもするか! 優勝は俺に決まってるがな、がははっ!」


 曇天を吹き飛ばせとばかり、空に向かって呵呵大笑するケンタウロス。


「もう、それってフーゴが飲みたいだけじゃない。まったく……でも、ありがと。村の人も喜ぶと思うわ。それに、ヤーヒムにもそういう機会は必要ね。長い目で見て、今後のいい練習になるかも。ふふ」

「くすっ……。ね、フーゴさん。その話題になるとリーナ姉さん、途端に一生懸命になるね?」

「ぷくく。ダーシャも見るツボが分かるようになったなあ。よおし、いい加減ヤーヒムにも合流してもらおうぜ。おおい、おおーい!」


 フーゴの底抜けに明るい大声が向かった先。

 一行から遅れること二百メートル、未だ一行の後塵が漂うその砂煙の中で、独りヤーヒムは自身の鍛錬に没頭していた。


 幸いこの辺りは人目がなく、魔獣が出たとしても、リーディアが魔法を使うまでもなくフーゴがハルバードを振りかざして駆けていけば片が付く環境。ヤーヒムは一行に声をかけ、良い機会とばかりにこの旅の途中何度もそうして自己の能力の検証と練磨に努めていたのだ。


「…………?」


 遠く渡ってきたフーゴの呼びかけに、ぼんやりと白い霧に包まれていたヤーヒムが明確に実体化した。

 今行っていたのは、目まぐるしく【霧化】を繰り返す切替の鍛錬だ。どうやら身体の一部だけ【霧化】することは不可能のようで――それが出来たら相手の攻撃だけ体をすり抜けさせつつ、実体を残した腕と剣で反撃するといった離れ業もヤーヒムは考えていたのだが――、ならば如何に素早くスムーズに【霧化】と実体を切り替えられるかが鍵となってくる。


 重要な鍛錬だが、ヤーヒムはこの旅の中で遅ればせながら気付いたことがある。

 それは、自重を消せる【霧化】を上手に使えば、馬にかける負担を減らせるという事だ。己が騎乗するこの哀れな軍馬は同行の相手に恵まれていない。かなりの良馬ではあるのだが、比較対象が八本足のスレイプニルと体力お化けのフーゴである。悪目立ちを避けるためにヤーヒムがこの軍馬に騎乗せざるを得ないのだが、これまでかなりの無理をさせてしまっていた。

 が、馬の脚運びに合わせてこうして【霧化】を断続的に使っていれば、馬への負担は大幅に減らせる。ヤーヒムの鍛錬にもなり、一石二鳥なのだ。


「今行く!」


 完全に実体化したヤーヒムは体力を温存していた馬に拍車を掛け、先行する三人に言葉を返した。

 軽快なリズムで加速する馬鞍の上、ヤーヒムは左手を突き出して握りこぶし大の【虚無】をその先に作り出す。――未だ構成に時間がかかり、即座に作り出すことはできない。


 ……これはまだまだ、だな。


 ヤーヒムはゆっくりと形成されていく【虚無】の亜空間を眺め、小さくため息を吐いた。

 そうは言っても、一度形成してしまえば、維持だけならそこまでの労力はいらない。人目さえなければ、ヴァンパイアネイルを右手の武器として、左手にはこの【虚無】を維持して戦う方法を定番にしてもいいかもしれない。触れた相手への凶悪なまでの破壊力はもちろん、ちょっとした盾としても使える優れた代物なのだ。攻撃から身を守るだけでなく、攻撃してきた剣や腕ごと亜空間が喰らってくれる。少人数相手の対人戦ならばかなりの脅威となるだろう。


 欲を言えば、守護魔獣や先日戦ったカラミタのミロのようにこの【虚無】をブレスとして放出したり、もしくは投げつけて遠距離攻撃としたり、更に言えば戦いの場に設置してトラップとしたり等々ができれば最高なのだが、どうやら今のヤーヒムにはそれは無理のようだった。どう工夫しても手のひらでしか維持できないのだ。


 けれど、それでも使い方次第では、これまで回避一択だった巨体を持つ魔獣相手にも勝負を挑める。最初から両手に大規模の【虚無】を作る等の下準備はいるだろうが、砂漠の階層で追いかけ回されたサンドワームのような相手でも充分な攻撃力を得られる。それはヤーヒムにとって大きな進歩であることは確かだった。


 残る問題は、世間一般からしてみればヴァンパイアネイル同様に明らかに異質な武装手段であること。

 ヴァンパイアネイルのように悪名高くはないので、上手くやれば特殊な魔法具として誤魔化せそうではあるのだが――



 ……とりあえずは、封印か。



 ヤーヒムは左手の上で漆黒に渦巻く【虚無】を消し、手綱に手を戻した。

 当面の間、人目のある場所では使わない方が良いだろう。腰にはツィガーネク子爵に譲られたばかりの銘剣<オストレイ>もある。この剣はこの剣で素晴らしいものだった。今の己の見た目が高位の騎士に近いのならば、なおさら人前では銘剣<オストレイ>で戦うべきなのかもしれない。


 とはいえ。

 守るものが増えたヤーヒムにとって、いざという時の戦いの手段が増えるのは非常に有難いことだ。

 以前とはまた違った理由で、ヤーヒムはより真摯に強さを切望し始めているのだ。


 今のところこのザヴジェルには裏社会のゼフトや王家の<闇の手>――トゥマ・ルカなどの追手はいない。

 だが、この先に万を超える魔獣の群体との戦いが彼を待ち受けており、【ゾーン】には底の知れない不気味な存在が映り続けているのだ。同じカラミタでもこの間のミロとは違い、それが内包する青の力は彼を軽く凌駕しているようで――


「待たせたか、すまない……これはダーシャが?」

「そうだヤーヒム、今日は飲むぞっ! お前さんも参加だからな、腕相撲で勝負だ!」


 合流するなり高らかに宣言されたその内容に、ヤーヒムがそのアイスブルーの瞳を大きく見開いたのはまた別の話。




  ◆  ◆  ◆




「ウエェ、気持ち悪……飲み過ぎたぜ…………」



 翌日、フーゴは壮絶な二日酔いに悩まされていた。

 それでもきちんと早朝に集落を出発し、前日までと同じペースでの移動を続けている点はさすがというべきか。


「おみやげ、いっぱい貰ったね」

「ほんと。新鮮な野菜をあんなにくれるなんて……まあ、それだけ皆楽しんでたってことかしら」


 スレイプニルの上ではリーディアとダーシャが二人、それぞれのマジックポーチを宝物のように撫でている。

 ダーシャのマジックポーチは、かつてヤーヒムがトゥマ・ルカの奴隷男、セルウスから奪ったものだ。ヤーヒムは容量が小さいながらも自前の亜空間を作れるようになっていたし、ツィガーネク子爵からダーシャも個人として紋章を貰ったことを機に、自分で自分の大切な物を持ち運べるようにとヤーヒムがダーシャに譲ったのだ。


 今ダーシャのマジックポーチの中には、その紋章といざという時の為の現金、自分の着替えなどの他に、今朝貰った新鮮なミニローシが大量に詰められている。ローシはこの時期から実り始める真っ赤な野菜で、その瑞々しさと甘酸っぱさで瞬く間にダーシャのお気に入りとなったのだ。

 昨夜の宴会でその満足気な食べっぷりに頬を緩ませていた集落の女衆が、今朝の出発間際にこれでもかとばかりにダーシャに持たせてくれたのだった。


「ヤーヒムは……二日酔いとか全然平気そうね?」

「ああ、ヴァンパイアは酒には酔わぬ」

「マジか。飲ますんじゃなかった」


 珍しく皆と並走するヤーヒムが、その彫像のような顔で僅かに微笑んだ。

 昨夜の酒宴は彼なりに楽しい時間だったのだ。危険な情勢のせいかどこか暗い顔をしていた兎人系の村人達が、次々と手渡される高価な魔獣の肉や酒に目を丸くし、底抜けに陽気なフーゴにつられて最後は皆で大騒ぎをしたのだ。フーゴ提案の腕相撲大会に始まり、踊りや歌、そしてお決まりの飲み比べ……。


 心配していた雨は結局降ってこなかったものの、あの兎人族の村に泊まれて幸いだった――ヤーヒムは心からそう思っている。

 ふわふわの長耳を持つ村の女衆にあっという間に囲まれ、熱烈な歓迎を受けていたダーシャも楽しそうだったし、ワインでほんのりと頬を染めたリーディアと一曲だけ踊ったことも鮮烈な印象と共に心に焼き付いている。


 リーディアの血は出会った当初と変わらず、いやそれ以上にヤーヒムを強烈に誘惑してくるようになっている。

 他の人間の血の匂いには最近それほど心を乱されなくなっているのに、リーディアの血だけがヤーヒムの心を強く激しく騒がすのだ。昨夜の踊りもその生気に満ちた芳醇な匂いに包まれ、けれど目の前のしなやかな首筋に牙を突き立てることはしなかった。身体を寄せて一緒に踊る、ただそのことが不思議なほどヤーヒムを温もりで包んでいたからだ。


 これから危険な戦いに臨むことは分かっている。

 相手は自分より遥かに青の力を保有する人型のヴルタだ。ヤーヒムの【ゾーン】には日に日にその存在が不気味に映り込むようになっている。あれを止められるのはヤーヒムだけだ。厳しい戦いとなるだろう。ダーシャやリーディアはともかく、ヤーヒムに生還の保証は一切ない。

 だが、もし叶うことがあればもう一度また――


「――な、何?」


 ふとヤーヒムが我に返れば、じっとリーディアを見詰めてしまっていた。

 隣を軽快に駆けるスレイプニルのフラウの上、背筋を伸ばして硬直しているハイエルフの血を引く姫君。同じ紫水晶の瞳を持った彼女のお陰で、最近は最愛の妹ユーリアを思い出しても胸の痛みは小さくなっている。ユーリアにリーディアを上書きしているのとは違う、それは自分でも分かっている――ヤーヒムは小さく肩をすくめて微笑んだ。


「ああ……すまない。考え事をしていた。昨夜のような宴も悪くない、と」

「おお、気持ちは分かるが三日後以降にしてくれ。ちょっと今は酒のこと考えたくねえ」


 絶妙な混ぜっ返しで話を逸らせてくれたフーゴのお陰で、特にそれ以上の突っ込んだ話はなく場は流れていった。

 ただ、ヤーヒムの指ぬき手袋の下、左手の甲に同化した紅玉が拗ねたような、それでいてどこか祝福するような疼きをヤーヒムに送りつけてくる。

 重苦しく広がる灰色の雲の下、彼らの旅はまだまだ続く。




 そして。




 領都ザーズヴォルカまでの距離を着実に縮めていく一行の下に、三回目となるアマーリエからの使い文が飛来した。

 文面は以下のとおり。


『緊急。橋を落として足止めとした筈のトカーチュ渓谷に不可解な地殻変動が生じ、最後のカラミタ災厄が進軍を始めた。奴は本物だ。ツィガーネク侯よりそちらの現況は聞いている。ザーズヴォルカには寄らず、至急トカーチュ渓谷に臨む仮設砦まで来られたし。アマーリエ=ザヴジェル拝』


「不可解な地殻変動? 本物?」

「おいおい、なんか急に言葉使いがキナ臭くなってるぞ。大丈夫か?」

「……アマーリエの魔剣はラビリンスのコアに反応する。よほど強い反応があるのだろう。我にも分かる。相手は間違いなく大型の歩くラビリンス、弩級の危険ヴルタだ。嫌な予感がする。動き出したのを放置しておけば――軍すら飲まれるかもしれぬ。急ぐぞ」


 いつにないヤーヒムの焦った表情に、全ての内容を理解できないにしても残る全員が生唾を呑み込んだ。

 そして、一番幼い少女がゆっくりと口を開いた。


「――私も、その、連れていってくれるよね? 少しは戦える、から」


 思い詰めたようなダーシャの申し出に、全員が断りの言葉を喉まで出しかけ、そして飲み込んだ。

 ダーシャのアイスブルーの瞳に浮かぶ決意が彼らを思い留まらせたのだ。こんな少女を危険な戦場に出したくはないのは共通の想い、だが、少しでも役に立とうと彼女が懸命に努力を重ねているのは皆が知っている。


「……ダーシャ、護りきれないかもしれぬ。それでも、行くか?」


 ヤーヒムの言葉にこくりと頷くダーシャをリーディアが何も言わずに背後からきつく抱きしめ、一行は砂塵を上げて疾駆し始めた。


 いつの間にかその頭上には、重々しい暗雲が空一面に広がっている。

 空気はいやに生暖かく、今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。


 重苦しい静けさに覆われた無人の荒野をただ三騎、ヤーヒム達一行が猛烈な勢いで駆け抜けていく。






―次話『凶嵐』―

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