45 カラミタ

 ザヴジェル領北西部、ペトラーチェク平野で繰り広げられている激しい戦闘の、そのほとり。

 戦場から離れた疎らな林の奥の広場でオーガやトロルの大群を次々と召喚していたのは、ヤーヒムにとって見覚えのある子供ヴァンパイアだった。


「お前は……!?」


 凄まじい勢いで広場に駆け込んできたヤーヒムの足が、ゆっくりと止まる。

 不老であるヴァンパイアで子供の身体を持つ者は少ない。人間でいう十歳ほどの身体、肩口で切り揃えられた亜麻色の髪、あどけなさと妖艶さを併せ持つ不思議な美貌、深く精緻なヴァンパイアレッドの瞳――それは間違いようもなく、先日ヤーヒムが訪れたドウベク街道脇の古城にいたはずのヴァンパイアの一人だった。


 ……たしか、名前はミロスラヴァ、だったか。


 ミロと呼ばれ可愛がられていたヴァンパイアの少女はしかし、かつてラドミーラと共に訪れた時には持ち合わせていなかった強烈な冷気を身にまとい、感情の宿らない虚ろな瞳で侵入者であるヤーヒムをぼんやりと眺めている。


 かつてと同じ存在ではあり得ない。

 擦り切れた上質な外套の下から覗く首元まで青く結晶化している上半身が、離れていてもまざまざと感じ取れる冷酷なまでの青の力が、ミロがヴルタに成りかけていることを物語っている。けれど完全なヴルタからは程遠く、彼女のまとうその青の力はどこか不自然で――



『……邪魔者……殺す……ジガ様……命令……』



 ミロがぶつぶつと独り言を漏らしながら、操り人形のように両手を前に持ち上げ始めた。

 片袖が切れ落ちた外套の下から、真っ白な腕に血管のように青い結晶が幾筋も走っているのが見える。無表情のまま揃えた両の掌がまっすぐにヤーヒムに向けられ、そして。


『…………喰ラエ』

「――ッ!」


 ミロの手から虚無のブレスが迸った。

 咄嗟に飛び退いて回避するヤーヒム。


 振り返れば、背後のオーガの群れがブレスの軌道のままに漆黒の虚無に飲み込まれている。

 半身を虚無に喰われた巨獣達の絶叫が響き渡り、森の広場に大混乱が巻き起こった。まさか召喚主がそこまで問答無用の攻撃をするとは思っていなかったようだ。


『……喰ラエ』


 ミロはそんなことは構いもせず、再び両の掌から虚無のブレスを放った。

 大きく横に跳躍して射線から遠ざかるヤーヒム、更に虚無のブレスを連続して放つ無表情のミロ。ヤーヒムが躱すたび、背後で獰猛な巨獣達の断末魔が湧き上がっていく。


「ヤーヒム、何なんだそのヤバい嬢ちゃんは!?」


 森の広場の外周を迂回しながら逃走するフーゴが叫んだ。

 広場のオーガやミノタウロス、トロルの大群は大混乱に陥っている。召喚は止まっているが、狂ったような召喚主のブレスが召喚直後の密集地帯を薙ぎ払い、飲み込み、どうして良いか分からずに右往左往しているようだ。


 と、ミロの傍らに控えていた一角竜がけたたましい咆哮を上げ、猛然とヤーヒムに突っ込んできた。

 地竜の上位種ならではの逞しい四本足で地面を抉り、十メートルはある巨体で矢のように加速してくる。低く下げた頭の先にある長い角には紫電がまとわりついていて――


「逃げろヤーヒムッ!」


 フーゴの叫びと同時、一角竜の角から幾筋もの雷が扇状に迸った。

 耳をつんざかんばかりの爆音が轟き、次の瞬間には一角竜の巨体が猛烈な勢いで迫ってきている。


「…………ぐふ」


 圧倒的な力で広場を蹂躙していく一角竜が通り過ぎたその後ろ。霧が集まって人の輪郭を形成していくのは、躱しようがない雷撃を前に瞬時の判断で咄嗟に【霧化】し、致命的な突進をやり過ごしたヤーヒムだ。


 が、その輪郭は地面に片膝をつき、顔は苦悶の表情で染まっている。霧となって一角竜の突進は透過させたものの、その前の雷撃は霧となったヤーヒムにすら多大なダメージを与えていたのだ。


 けふり。

 実体化したヤーヒムの口から鮮血が零れた。


 強烈な雷撃は広がった霧の全てを帯電させ、実体化の際に全身を内から焼き焦がしていた。

 今のは危なかった――ヤーヒムは口元の血を拭い、実体化しつつ力が入らない脚で無理やりに立ち上がる。


 霧となり威力を拡散させてこれだ。いくら高位のヴァンパイアとはいえ、あの雷撃を生身で受けていたら少なくとも意識は刈り取られていただろう。そして当然、その直後の突撃で鋭い角に串刺しにされていた筈――。


 背後ではオーガらが阿鼻叫喚の大混乱となっている。振り返るまでもなく、天災の如き一角竜の突進に巻き込まれたのであろうことが分かる。さすがは守護魔獣というべきか、先の戦場にいた同じ地竜のズメイとは次元が違う破壊力だ。そして、ヤーヒムにそれを振り返る余裕はない。なぜならば。


『……喰ラエ』


 半身を青く結晶化させた少女が、前方から更なる虚無のブレスを放ってくるのだ。

 不恰好に地面に転がり、かろうじてブレスの射線から逃れるヤーヒム。この虚無のブレス相手に【霧化】は使えない。虚無に呑まれて霧が消えてしまえば隣界から戻ることが出来ないし、ひょっとしたら隣界ごと虚無に喰われてしまう可能性すらある。


『……喰ラエ、喰ラエ、喰ラエ』


 右へ左へ地面に転がるヤーヒムに、壊れた人形のように虚無のブレスを撃ち続けるミロ。

 背後では一角竜がひしめくオーガやミノタウロスを跳ね飛ばしつつ、再びヤーヒム目掛けて突進しようと大きく右に迂回しながら方向転換を始めている。


『……喰ラエ、喰ラエ、喰ラエ』


 ならば!

 ヤーヒムは追い詰められ余裕がない中で徐々に転がる先を調整し、そして――


 ヤーヒムの真後ろで、背中越しに一角竜のけたたましい咆哮が聞こえた。


 さあ来いッ!


 転がった先ですっくと立ち上がったヤーヒムと、かつてミロスラヴァという名の少女ヴァンパイアだった何かの視線が一瞬だけ絡み合う。


 彼女はもはや自分の記憶にあるミロではない――ヤーヒムにはそれがはっきりと分かった。ヴァンチュラでもヴルタでもない、壊れた操り人形のような意思なき存在。


 かつてミロと言う名の愛くるしいヴァンパイアだったそれは何の感情も見せずに両の掌を掲げ、ヤーヒムに向けて十何発目かの虚無のブレスを――


『……喰ラエ』


 力が尽きかけているのだろうか、初めよりかなり威力の落ちているそれを、ギリギリまで引きつけてからひらりと躱すヤーヒム。

 ひと抱えほどに痩せ細った虚無の奔流が脇腹を掠め、ヤーヒムが振り返ったその三歩先で。


 不快極まりない濁音が響き渡った。

 虚無の奔流と、すぐ背後まで迫っていた一角竜の雷撃がぶつかったのだ。


 濡れた布を勢いよく引き裂くような連続音、そして鼻に刺さるようなオゾン臭。質量を持たず、エネルギーでしかない雷撃は片端から虚無に吸い込まれ、一瞬でその姿を消した。そして、僅かに速度を落とした虚無の奔流が向かう先には。


 矢のように突っ込んできた一角竜が、その巨体からは信じられない反応速度で身を捩る。

 が、方向を変えようと踏ん張った左前脚に虚無の奔流がぶち当たった。即座に虚無に喰われる前脚。そして、そのまますれ違いざまに左の後ろ脚と尻尾も引きちぎるように虚無に持っていかれ、一角竜の巨体は大きな音と共に地面にもんどり転がった。


 立ち込める土煙、苦悶の咆哮を上げる一角竜。ヤーヒムは素早く己の位置を調整し、そして――


『……喰ラ……エ』


 ヤーヒムの竜皮のコートがひるがえり、当初の勢いが嘘のように痩せ細った虚無のブレスが一緒前までヤーヒムがいた空間を貫いていく。

 背中を揺るがす一角竜の断末魔をよそに、大きく跳躍するヤーヒム。一気に距離を縮めるその先にいるのは、かつてのヴァンパイアの少女、ミロだ。



「眠れ」



 ヤーヒムは少女に肉薄し、一瞬の躊躇いの後、その細い首に牙を突き立てた。




  ◆  ◆  ◆




「結局、何だったんだ?」

「…………」


 大混乱する魔獣の群れがひしめく森を後にしたフーゴとヤーヒムは、ぽつりぽつりと会話を交わしながらリーディア達が待つ丘の陰へと向かっていた。


 あれほど雲霞のように押し寄せてきていた魔獣達は、今やすっかり統率を失い、魔獣同士で互いに争い始めている。

 それはもはや大きな脅威ではなく、整然と隊列を組んだ諸侯軍がじきに殲滅してしまうだろう。


「……我にも分からぬ」


 暫しの沈黙の後、ヤーヒムはフーゴにそう答えた。

 あの時、首に突き立てた牙から流れ込んできたのは、ほんの僅かな青の力と味気ない血が少しだけだった。そして次の瞬間、かつて少女ヴァンパイアだった何かは、ヤーヒムの腕の中で砂になってさらさらと崩れ落ちて滅んだのだ。


 残されたのは小指の先程の大きさのラビリンスコアと、統率を失って一斉に同士討ちを始めた魔獣群。

 それはまるで、討伐されたラビリンスの末路のようだった。違いは残ったコアがお粗末だったことと、それに反して残された魔獣の群れが驚くほど大規模だったこと。


「あれは、歪んだヴァンパイアのなれの果て、なのだろうか……」


 ヤーヒムは誰にともなく呟きを漏らす。

 乱発した虚無のブレスで力を使い果たしたのかもしれないが、ヴルタになりかけの身を以てして、牙を突き立ててあれだけしか青の力を持っていなかったことが信じられない。今のヤーヒムが持つ量とは比較にもならず、ダーシャと比べても数分の一しかないのではないか。 


 かつての少女ヴァンパイア、ミロスラヴァはたしか千年程度の若手中級ヴァンパイアだった筈。

 普通に考えればあの青の力の量は順当なのかもしれないが、それだと逆にどうしてあそこまで歪なヴルタとなっていたのかが分からない。


 そして、成長が空間属性に特化している、ヤーヒム自身との違いもある。

 今のヤーヒムは転移やヴァンパイアネイル、【ゾーン】や【霧化】など空間属性の力ばかりが強化されている。そして、魔獣の召喚は一切できない。どうみても別の路線に進んでしまっているようだった。


「ジガ様、命令、などと口走っていたが……」


 対面するなりそんなことを口から漏らしていた。

 またしても出てきた真祖ジガの名前。つい最近、呪いのラビリンスになっていたヴァルトルもその名前を口にしていたのだ。判断するには情報が少なすぎるが、嫌な胸騒ぎが――



「――なあ、ひょっとして知り合いだったのか?」



 隣を行くフーゴが小声で聞いてきた。

 広場に飛び込んで対面した時の様子や、今のヤーヒムの黙りぶりを見て心配しているのだろう。危うく黙殺するところだったヤーヒムはしかし、フーゴのそんな顔を見て思い止まった。ここは話しておくべきだろう、そう決めてゆっくりと話し始めた。


 そうか、でも面倒くさくなっちまったな――これが話を聞いたフーゴの感想だった。

 そうか、はミロという個人に対するヤーヒムの感情が落ち着いていることでほっとしたような言葉で、面倒くさくなった、はザヴジェルを襲っている魔獣の群体にヴァンパイアが絡んでいることへの懸念だ。


 今回のザヴジェルの魔獣騒ぎに関連する被害は莫大なものになる。

 その元凶であるカラミタの正体がヴァンパイアであると知れ渡った日には、ここ数十年音沙汰がないことで落ち着き始めたヴァンパイアに対する偏見が、再び炎のように燃え上がる可能性が高い。


 ましてや今、ヤーヒムとダーシャは安住の地になればと希望を持ってこのザヴジェルを見ている。

 辺境の地、ザヴジェル。種族がどうというより本人の資質が尊ばれる土地。フーゴの勧めもあり、願わくば一緒に小さな傭兵団でも立ち上げて、慎ましやかに暮らしていければと仄かな期待をしているのだ。


 このタイミングでヴァンパイアに対する忌避感が強まるのは非常に具合が悪い――そうフーゴは溜息を吐く。

 が、何を思いついたか、唐突に「おおお」と手を叩き、ニンマリとヤーヒムに笑いかけてきた。


「ま、ピンチをチャンスにとはよく言うし、ちょっとリーディアの姫さんに相談してみるか。安心してくれ、たぶんイケるぜ?」


 ニヤニヤと笑ったままそれ以上は語らないフーゴ。

 ヤーヒムは僅かに逡巡し、この磊落なケンタウロスの友に任せることにした。それはけして嫌なことではなく、心さえ決めてしまえば胸がふわりと温かくなるような不思議な経験だった。冷たく凍りついた顔にも僅かに出ていたのだろう、ヤーヒムを覗き込むフーゴの瞳が得意げに輝いた。


「よおし、そうと決まればさっさと戻ろう。――走るぞヤーヒム、競争だ!」


 逞しい馬体で唐突に駆け出すフーゴに一歩遅れ、ヤーヒムは負けじと走り出した。

 激しい同士討ちを続けつつ人間の軍隊に斃されていく魔獣達の上に、ケンタウロスの上機嫌な笑い声が霞のように流れていく。






―次話『面会』―

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