42 提案

「クソ、あのザハリアーシュの野郎まで来てやがるのか」


 二十歩先も見えない濃霧に包まれた木立の奥で、戻ったヤーヒムはフーゴ達に見てきたことを報告していた。


「確かにそこで引き返してきて正解ね。私、あの男がブルザーク大迷宮の出口で【霧化】してたヤーヒムに突然切りかかってきた光景、未だに忘れられないもの」

「……あれは我も驚いた」


 紫水晶の瞳を大きく見開いてその身を震わせるリーディアに、当時の状況を頭の中で再構築したヤーヒムが重々しく相槌を打つ。

 一瞬途絶えた会話を、腕組みをしたフーゴがため息と共に再開させた。


「どうすっかねえ。街道はヤバそうだから、裏街道目指してもうちょい山の中を進むにしても時間ばっかりかかるしなあ」

「時間、かあ……」


 三人に共通してあるのは、少しでも早くザヴジェルに駆けつけたいという強い想いだ。今この瞬間にも、アマーリエやマクシム達は突然襲ってきたという魔獣の群体と戦っていることだろう。

 一番早く、けれど確実にこの場の追手の囲みを抜けるにはどうするのが正解なのか。下手な手を打つと追手が集まってきて、余計に時間がかかることが目に見えている。


 一行に再び沈黙が訪れ、ダーシャが心配そうに幼い視線を彷徨わせていることに気付いたリーディアが、優しくその肩を抱き寄せた。


 うっすらと微笑み合う二人。その光景を見たヤーヒムはゆっくりと息を吸い込み、決意を秘めた眼差しで口を開いた。



「……ひとつ、試したいことがあるのだが」



 それは、密かに感じていた己の力に関するもの。途方もない負担を伴うため、本来なら当面の間は慎重に検証を進めていこうと考えていたものだった。

 だが、ザヴジェルの魔獣に対する嫌な予感が、ヤーヒムに早く行け早く行けと急き立てるように腹の底で鈍い痛みを放ち続けている。それに、己が少し冒険すれば出来るものを隠していることで、ダーシャとリーディアにあんな顔をさせるのはいたたまれなかったのだ。


 心を決めたヤーヒムは、躊躇うことなく説明を始める。


「昨日コアの力を啜ってより薄々感じていたのだが……ひょっとしたら、転移を全員で使えるかもしれぬ」

「ん? どういうことだ?」


 ヤーヒムが改まって三人に告げたのは、ヴァンパイアの伝家の宝刀である短距離転移が、自分の他にも数人なら一緒に行えるかもしれないということ。


 片方は若いとはいえふたつのコアの青の力を啜り、ヤーヒムの空間属性の力は大幅に強化されている。転移はそうそう気軽に使える能力でもないのだが、もしかしたら、そして術者への危険とも思える負担に多少目を瞑れば、今の人数ならいけるかもしれないという淡い感覚がヤーヒムにはあった。


「え、そんなこと出来るの……?」


 目を丸くするリーディアに、ヤーヒムは淡々と説明を続ける。


 そもそも転移とは、今のように緊急避難用などと考えなかった時代には、ヴァンパイア達の旅の手段として使われることもあった能力である。

 転移できる範囲は視線の通る所まで。諸々の制約はあったが、ヤーヒムもかつてラドミーラと旅をしていた短い期間には、見晴らしの良い場所から彼方の山頂まで等々、効率的な長距離移動手段として使っていた記憶がある。さすがに今回、そこまでの長距離は不可能だとしても。


「故に、現状の打開策として一度、試してみたいのだ」


 つまりヤーヒムの言いたいことはこういうことだ。

 再び霊峰チェカルを登って見晴らしの良い場所を探し、そこから一気にザヴジェルに程近いどこかへと転移してしまえば――


「マジか……それが出来たら最高だけどよ。でもひょっとしてヤーヒム、それってお前さんに凄え負担がかかるんじゃねえのか? 俺にはなんだかそんな顔してるように見えるんだけど」


 説明を受けた三人を代表してフーゴが鋭い指摘を入れてきた。

 無表情を保っていたつもりのヤーヒムの内心が、見事に見透かされていたようだ。リーディアとダーシャも同様にいぶかしさを感じていた様子で、ヤーヒムの答えを真剣な面持ちで待ち構えている。


「……確かに、簡単ではないだろう」


 もちろん厳しい制約は生じるだろうし、重大な代償も必要になるだろう――ヤーヒムは正直に認めた。


 だが、この地に集まっている追手の問題がある。

 ザハリアーシュが自ら追いかけてきていることからも、街の上に舞う使い魔の数からも容易に推測できるように、裏社会のゼフトも王家のトゥマ・ルカもおそらく大量の人員を投入して本気で捜索に取り掛かっている。人の目にしても使い魔の目にしても、この霊峰チェカル一帯には厳重な監視網が敷かれていることだろう。


 万が一見つかってしまえば、途方もなく面倒な展開が待っているはずだ。けれどもし転移が成功すれば、彼らを一気に置き去りに出来るのだ。そしてそれは、邪魔者を振り切った状態で心置きなくザヴジェルでの戦いに臨めることを意味する。


「実行するのは一度だけだ。追手の問題も、ザヴジェルへの距離も、それで全てが解消される」

「お、おう。一度だけ、ねえ……」

「私は反対よヤーヒム」


 リーディアがヤーヒムの腕にそっと手を添え、きっぱりと宣言した。


「元々転移なんてしないでこっそり東に抜ける予定だったじゃない。それに、アマーリエ達も私たちがまだ遠方にいることは知っている。早く戻れるに越したことはないけれど、そこまで早い帰還を計算していないはずだわ」


 リーディアはそこで一旦言葉を切り、今度は囁くように話を続けていく。


「……ヤーヒムがそんな表情をしているのは、きっとそれだけのリスクがあるんでしょう? 分かるんだからね。転移のことは良くは知らないけど、貴方のことだから何も言わずに一人で無理をしようとしている気がするの」


 これまでヤーヒムにはおんぶに抱っこだった、これ以上頼る訳にはいかないの――徐々に力強くそう主張していくリーディア。


「ヤーヒムはいつも一人で無理するんだから。私だって……ええと、な、仲間よ。そう、私たちは仲間なの! だからみんなで力を合わせて出来る方法で――」

「あ、あの!」


 しどろもどろで尻つぼみになっていくリーディアの言葉を遮り、それまで黙って話を聞いていたダーシャが唐突に声を上げた。

 一斉に全員の注目を浴び、それでも両手を握り締めて今度はダーシャが話し始めた。


「えとあの、ね、ねえ父さん。……私、その転移ってもの、お手伝いできたりとか、する?」


 ダーシャの全身から遠慮と切望がにじみ出ている。元奴隷という過去を持ち、ほとんど我が儘を言わないダーシャには珍しいことだ。


 縋りつくようにまっすぐにヤーヒムに問い掛けるその姿に、ヤーヒムは胸の内で大きく息を呑み込んだ。その発言をするまでに至った、いじらしいまでの気持ちがひしひしと伝わってくるのだ。


 ヤーヒムは眩暈に似た思いでダーシャと見つめ合いながら、素早く考えをまとめていった。


 ヴァンパイアの転移は完全に個人の技術だ。同じヴァンパイアといえ、他人の転移を手伝うことなどできない。それに、今回の集団転移は有用だが術者にかなり危険を強いる賭けだ。


 ヤーヒムは申し訳なさと後ろめたさとで視線を伏せつつ、形だけでも手伝ってもらうふりをする方向で言葉を紡ごうとして――




「……ダーシャ、それは何だ?」

「え?」




 ヤーヒムのヴァンパイアの五感に、ダーシャの内に盛り上がる青の力がはっきりとその存在を主張していた。

 それは真祖ラドミーラですら持っていなかった、純粋な青の力だ。ヴルタを啜ったヤーヒムはさすがに己の内に取り込んでいるものの、通常のヴァンパイアでは持ち得ないもの。


 ……朝の飲血で伝播したのか?


 ヤーヒムを非常な混乱が襲う。

 確かにダーシャは元々が人狼ライカンスロープであり、その生い立ちからして普通のヴァンパイアとは違う。そして親であるヤーヒムも、種族の成体ヴルタを取り込んだ特異なヴァンパイアだ。だからこんなこともあり得るのだろうか。


 だが、この青の力。

 青の力はいわば凝縮された空間属性の力だ。


 ヤーヒムが転移を会得したのは、ヴァンパイアになって三年目か四年目だった。

 けれど、これだけの青の力を持っているダーシャなら、もしかしたら自力での転移も可能かもしれない。ヤーヒムが転移させる人数が一人減るということは、ぎりぎりの計算をしているヤーヒムにとって非常に助かることだ。


 もし自力転移がいきなりは難しいにしても、ヤーヒムが親としてダーシャの力を導いてやるだけで良ければ――


 ヤーヒムはダーシャの手を取り、力強く微笑んだ。


「ダーシャが手伝ってくれれば、きっと転移は成功する。手伝ってくれるか?」

「え……。う、うんっ!」


 新世代ヴァンパイアの姫君が、満面の笑顔でその父に頷いた。

 これならきっと上手くいく――かつて孤独に心を凍らせていた孤高のヴァンパイアは、不思議な高揚感と共に自らの娘の頭をぎこちなく撫でた。




  ◆  ◆  ◆




「あの遠くに見えるのがハナート山脈でしょ、ドウベク街道はその裾野をずっと走っているのよね。それで――」


 ヤーヒムの自信に満ちた要請により、一行は再び霊峰チェカルに足を向け、その中腹まで登ってきていた。


 時刻は昼、あれだけ濃かった霧もチェカルを西回りに登るにつれて綺麗に消え失せている。同時に広がる絶景に、昼食を終えたリーディアが眼前に広がる大パノラマに向かい、ひとつひとつ指差しながらヤーヒムとダーシャに説明をしてくれている。


 ここチェカルの西側の尾根からは、残念ながらザヴジェル領までは見通すことができない。

 リーディアの話では冬の晴れた朝なら向こうからこの霊峰チェカルの稜線がくっきりと見えることもあるらしいので、どこまで登ったかというよりは時季の問題かもしれない。ただどのみち、ここからザヴジェル領が見えたところで全員が一気に転移することは出来ないのだが。


 転移が可能な範囲としては――


 ヤーヒムは内なる感覚と慎重に相談しながらぐるりと雄大な大自然を見回していく。

 元よりヴァンパイアの視力は脅威的だ。ヤーヒムのすぐ隣で噴き上がる風に黄金色の髪をなびかせ、雄大な景色に目を輝かせているリーディアには見えない細部まで認識できている。


 南方面は端から問題外だ。

 いくら追手を撒くためとはいえ、わざわざザヴジェルから遠ざかる方向に跳ぶことはない。


 候補としては草原が広がる西のパイエル方向か、理想を言えば北方向、蛇行しながらザヴジェルへと伸びるドウベク街道付近へとショートカットできれば万事が好都合だ。


 ヤーヒムは遥か西から北へと斜めに屏風のごとく横たわるハナート山脈に沿って視線を滑らせていく。

 あの裾野にドウベク街道が走っている。パイエルの北でハナート山脈が大きくこちらへ迫り出してきているので、その辺りを上手に狙えばパイエルまで転移するのと同等の距離でドウベク街道のかなりザヴジェル寄りに転移できるはずだ。

 ただ実際はそこまでの距離を転移できそうにない。その手前、どこか手頃な場所があると良いのだが――


「……リーディア、あれは何だ?」

「え、何か見えるの? すごいね、あの辺りならフムル湖かな。綺麗な湖でね、パイエルの街からドウベク街道をザヴジェル方面に四日ぐらい行ったところにあって――」


 朗報だった。

 ドウベク街道は森の中でかなり手前まで蛇行していたらしい。そこまでならばぎりぎりで転移できそうだとヤーヒムの感覚も頷いている。


 残る問題、ヤーヒムが転移可能な距離の他にもうひとつ考慮すべきは、転移先の具体的な環境だ。

 多人数の転移に関する制約として、フラウたち馬も含めた全員が無事に降り立つことができる、安全な空間が転移先には必要なのだ。


 転移先に木や人などの障害物が存在していた場合、一人きりの転移なら最後の瞬間に咄嗟に躱して出現することになる。だが、ヤーヒム以外の馬たちも含めた全員にそれが可能かというと難問であり、安全な空間を選んで転移を行わなければならない。

 ここからだと向こうに人がいるかなど遠すぎて見えはしないし、そういった意味も兼ねてリーディアに色々と尋ねているのだが――


「念のため聞くが、泳げる者はいるか?」

「……え?」


 ヤーヒムの頭にまず閃いたのは、湖上に転移をするという案。

 転移の目標が設定しやすいし、何より湖の上は樹木や人工物などの障害物が一切存在しない広々とした空間だ。ひとつだけ問題を除けば、だが。


 唐突な質問に戸惑うリーディアとダーシャに代わってフーゴが答えた。


「ん? どういう意味か分からんが、この中で泳げるったらスレイプニルのフラウとそこの軍馬ぐらいじゃねえか? スレイプニルはかなり達者だって聞くな。俺はケンタウロスだけど水は苦手だぞ。短時間なら根性で辛うじて、深くない河を渡るので精一杯ってところで勘弁してくれ」


 フーゴのすげない否定にリーディアとダーシャがこくこくと頷いている。

 それが普通だ。昔も今も泳げるのは必要に迫られた者か、ごく一部の種族ぐらいだろう。ちなみにヤーヒムは泳ごうなどと考えてみたこともない。


「……そうか、すまない」


 やはり無理か、ほぼ予想どおりの返答をため息ひとつで受け止めるヤーヒム。

 湖上への転移は理想的ではあったが仕方がない。転移に成功しても溺れるのが目に見えている。本末転倒だろう。


 けれど、湖の位置はお誂え向きなのだ。転移可能なぎりぎりの位置にあり、パイエルに跳ぶよりもザヴジェルへの旅程を大幅に短縮できる、北寄りのドウベク街道沿いだ。更に言えば、追手の目を完全に振り払えることも約束された位置である。

 ヤーヒムはすぐに諦めることはせず、追加の情報をリーディアに求めた。


「……リーディア、湖の周りはどうなっている? 随分と林が後退しているように見えるが」

「うーん、綺麗な湖だってことしか覚えてない……ああでも、周囲もそれに見合った長閑な光景だった気が。一面の麦畑、だったかも」

「ではあれは麦畑の広がりか」

「わ、本当に見えてるんだ。……麦畑ならもうだいぶ育ってる頃だよね。色づく一歩手前、まだ青々としてるぐらいかな?」


 ヤーヒムの強力な視力でかろうじて認識している小さな緑点が、リーディアの話に完全に符合している。

 間違いない、あれはそれなりの広さを持った麦畑だ。収穫前の畑に踏み入ることになるのは心苦しいが――


「……そこだ。フムル湖畔の麦畑を転移の目標とする」


 ヤーヒムは力強く言い切った。

 そしてダーシャを振り返り――いつの間にか隣でフムル湖方向を熱心に眺めていた――、屈んで正面から見つめ合った。


「ダーシャ。手伝い、お願いできるか?」

「う、うん!」


 緊張した面持ちで大きく頷くダーシャ。その瞳にはまっすぐな熱意が溢れている。

 ヤーヒムはそんなダーシャの頭を撫で、仄かに微笑んだ。


「……そこまで難しいことではない。我を信じ、自分の力を委ねれば良いだけだ」


 そうして、その力の流れを覚えれば、自分で転移することが出来るようになる。

 実際ヤーヒムもラドミーラにそうやって教わった。どのヴァンパイアも、初めは親にそうして教えてもらうものなのだ。


 ヤーヒムがそこまで説明すると、ダーシャの顔に嬉しそうな笑みが灯った。

 適度に緊張も抜けている。これでダーシャの準備は整ったとみていいだろう。


「フーゴ、馬たちを集めてくれ。転移を始める。……リーディア、そう心配そうな顔をするな。大丈夫だ」


 ヤーヒムが最後にそのアイスブルーの瞳を向けたのはリーディアだ。

 この生気に満ちた可憐な女性は、ヤーヒムが無謀なことをするのを非常に嫌う。今に至っても心の底では止めるべきか悩んでいるその葛藤が、宝石のような紫水晶の瞳に全て表れている。


「……ダーシャは聞いたことがないほどヴァンパイアとしての素質を持っている。真祖の子として学んだ我と比較しても、その才は比べ物にならぬ程だ」

「う、うん……。それは私も、傭兵としての戦い方を教えた時に凄いって思ってはいたけど……」

「今回の転移、我が独りで行えばぎりぎりの賭けだ。十のうち三は我に軽微な障害が残ったかもしれぬ。だが、ダーシャが協力してくれるのであればそれはない。我には分かる、信じてくれ」

「もう……信じるって決めたって知ってるでしょうに……」


 最後の言葉は囁くほどに小さかったが、ヤーヒムは静かに右肘を水平に上げ、拳で複雑に左胸を叩いた。

 遥か昔に身につけた、古めかしくも典雅な騎士答礼。それは、己に向けられた信頼に対するヤーヒムの最大限の返答だ。誓いに似た思いを込め、相手に感謝を表するものなのだ。


 山肌を昇ってくる風が二人の髪を掻き乱す。

 二人は時が止まったかのように、暫し互いの目を見つめ合い続けた。


「――ヤーヒム、馬たち連れてきたけど、どうすりゃいい?」


 フーゴの声が、止まっていた時間を再び動かし始める。


「あ痛っ、ちょ、なんで俺を叩くの嬢ちゃん? 痛いってば!」


 同じフーゴの声が、霊峰チェカルの山肌に吸い込まれて消えた。






「……基本的にはラビリンスでの転移スフィアと同じだ」


 場が静まった後、ヤーヒムがフーゴとリーディアに向け、これから行う転移についての説明を始めた。


「ただし、あれに比べると一瞬で全てが終わる。注意すべきは――」


 転移スフィアでの転移は体感で二十秒近い時間を要する。その半分が出現に使われる訳だが、それだけの時間があれば出現先に何か障害物があっても自然に避けられる。実際、フーゴやリーディアを始めとした無数のラビリンス潜行者達は無意識のうちに本能的なそれを行っている。


 だが、ヴァンパイアの転移の場合、出現に要する時間はほんの一瞬だ。

 危険な障害物があればその一瞬で咄嗟に避けなければならない。今回の転移先は麦畑。麦穂のような軽微なものであれば、麦穂の方が押し出されて勝手に避ける形になる。

 問題は偶然にも農夫や農具と重なった場合だ。転移物と同等以上の質量を持った物を避けずに重なり、同じ場所に出現した場合は――


「――爆発するんだろ。ラビリンスに潜る人間はみんな知ってるぜ」


 どうにかダーシャと仲直りをしたフーゴが、片手を挙げてヤーヒムの説明を締めくくった。

 そう、人系種族とラビリンスの長い歴史において、それは広く知られた事実であった。


「知っているなら話は早い。だが、これから行う転移ではそれは一瞬の出来事だ。広い麦畑なら問題はない筈だが、何かあったら避ける、それを強く意識しておいてくれ」


 深々と頷くフーゴとリーディア、そしてダーシャ。




「――では、始める。馬を含め、必ず我のどこかに触れているように」




 そう言ってヤーヒムはスレイプニルのフラウとザヴジェルの軍馬に手を伸ばした。

 フーゴがそんなヤーヒムの肩に、横からリーディアが反対側の腕に触れている。ダーシャはヤーヒムの正面、両手でヤーヒムのロングコートの裾をぎゅっと握ってきている。


「ダーシャ、さっきのように青の力を……いや、我を手伝おうと強く思ってくれ。そう、それでいい。そしてあそこの、これから転移するフムル湖畔をじっと見てくれ。そう、これからあの湖の畔に転移するのだ。青く輝くフムル湖、その右奥の緑の麦畑、その中央付近――」


 ヤーヒムがダーシャの意識をゆっくりと導く。

 そして、湧き上がるダーシャの青の力に自らの力を添え、転移先に向けて伸ばしていく。普段は瞬間的な工程だが、ダーシャへの教導という事に加え、転移させる人数が人数だ。念入りに多大な量を伸ばし、次々に麦畑の中央付近へと送っていく。


「ん……」


 ダーシャが肩を僅かに震わせた。

 ヤーヒムが行っていることを直感的に理解したのかもしれない。その証拠に、未だぎこちなくはあるものの、ダーシャが自分でも青の力を麦畑へと送り始めた。驚くべき習得速度だ。ヤーヒムは内心で目を瞠りつつ、視線は麦畑から離さない。


 やがて、充分な量の力が転移先に送られ、そこで定着した。

 残すはいよいよ転移の実行だ。ヤーヒムが静かに息を吸い込み、そして――



 目指すはあの麦畑。

 何よりも、自らにまとわりつく執拗な追手から、仲間全員の身を離すために。


 ここは、何としてでも。

 全員を連れて、跳ぶ。


 さあ、行くぞ。




 ――青く眩い一瞬の光が、存在の全てを呑み込んだ。






―次話『災厄のザヴジェル』―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る