41 凶報

 ヤーヒム達一行が<呪いの迷宮>を出てひと晩が経ち、和やかな朝食を終えてからしばらく。

 彼らは予定どおり、現在の追手状況を確認するために霊峰チェカルを下っていた。


 霞たなびく山林の中、警戒を怠らずに先頭を行くのはヤーヒム。昨日の<呪いの迷宮>を進んだ時と同じ隊列だ。

 違いがあるとしたら、中央でダーシャが純白のスレイプニルに乗り、リーディアがヤーヒムの軍馬の轡を引いているくらい。


 もし即座に逃走となった場合を考えると、馬たちも同行させておいた方がいい。そして悪路に滅法強い八本足のスレイプニルがせっかくいるのなら、身体の小さいダーシャはそこに乗せておいた方がいいだろう。そういった判断でこのような形になっているのだが。


「ねえ、なんだか私を乗せている時よりも恭しくない?」


 リーディアが悪戯めいた笑みを浮かべて横を歩くスレイプニルに話しかけている。

 スレイプニルは主人を選び、よほど相性が合わないと近づく事すら許してもらえない誇り高い軍馬だ。それが主ではないダーシャを嬉々として乗せ、少しでも揺れが少ないよう妙に丁寧に脚を運んでいるように見える。まるで、リーディアはリーディアで個としての主だけれども、ダーシャはそれとは別次元、種として敬うべき上位存在であるかのような――


「――わっ! うそうそ、分かってるってば」


 スレイプニルがブルルと鼻を鳴らし、リーディアの白桃のような頬に頭を擦りつけた。

 リーディアは楽しそうにその純白の毛並みを撫で、「そういえば名前、何がいい?」と尋ねた。スレイプニル程の知能になると自分の名前を理解するのはもちろん、ある程度の意思疎通も可能になってくる。スレイプニルは返事の代わりにぐいぐいと更に自分の頭をリーディアに押し付け、甘えたような鼻声を漏らした。


「ふふふ、リーナ姉さん、何でもうれしいって」


 馬上でダーシャが笑みを零す。

 気品ある純白のスレイプニルに乗る黒絹の髪の優美な乙女、その姿を遠くから見ればまさに夜の姫君だ。だが、近くでその邪気のない清らかな微笑みを見れば、また違った印象を与えられる。

 そんな二人と一頭の会話に、最後尾のフーゴも加わってきた。


「お、そいつの名前か。そうだな、シェングヴィーデとかどうよ? 超絶かっこいいだろ」

「えー駄目よフーゴ、だってこの子は女の子なのよ? もっと柔らかい……そう、フラウ! この子はフラウよ!」

「ふふ、フラウだって。よかったね」


 ダーシャが真っ白な首筋をぽんぽん、と叩くと、満足そうな鼻声を漏らして隣を歩くリーディアにまた頭を擦りつけるフラウ。

 少し離れて先頭を進んでいたヤーヒムは、肩越しに聞こえるそんなやり取りに仄かな笑みを浮かべ――


 不意に立ち止まって後ろ手に「待て」の合図をした。


 そして、手近な木の陰に向かって滑るように移動するヤーヒム。

 そのアイスブルーの瞳が木々の梢ごしに凝視するのは、遠く彼方の空を舞う数羽の鳥だ。

 その下には霊峰チェカルと古代迷宮群の玄関口、ファルタの街がある。うっすらと霧が出始めた空にゆったりと鳥が舞うその軌跡にはやや不自然さがあり――


「――ありゃ使い魔、か?」


 足音を殺してヤーヒムの隣の木の陰に進んできたフーゴが呟いた。

 リーディア達も一緒についてきている。


「数が増えてんなあ。今のところまだチェカルを重点的に捜索……いや、主だった古代迷宮も見張られてそうだな。ほら、向こうにも飛んでる」

「うーん、使い魔ってことは王家の<闇の手>――トゥマ・ルカの方かしら? この様子だと魔法で警告したゼフトもめげずに来てそうね」


 形の良い眉をひそめて嘆息するリーディア。

 既に二人には追手の詳細は説明済だ。ブシェクのラビリンスから力ずくで追いかけてくるゼフト、使い魔を駆使して搦め手で肉迫してくるトゥマ・ルカ。


 逆にヤーヒムは二人から、裏社会のゼフトの後ろにはおそらく有力な各地の貴族領主がいて、トゥマ・ルカの黒騎士達の所属はこのスタニーク王国の王家であることを聞いている。

 それぞれの勢力の大きさに加え、ブシェクで剣を交えたザハリアーシュを筆頭に危険な使い手も混じっている。どちらの追手も侮ることなど到底出来ない存在であった。


「ザヴジェルに入っちゃえばそこまで露骨なことは出来ないと思うんだけど……」

「あそこは半分独立国みたいなもんだからなあ。それに、姫さんの実家に行けばそれだけでどこも手出しできなくなりそうだわ。姫さんが覚悟を決めて、婿です、ってヤーヒムをシェダの一族に紹介するだけでいい」

「ちょ、ちょっとフーゴ、なななな何を――っ!」


 小声のフーゴのからかいに見事なほどに狼狽えるリーディア。そんなリーディアをダーシャまでもが訳知り顔でにこにこと見詰めている。


「ふくく、冗談冗談。さあて、どうするねヤーヒム? あれだけ使い魔が飛んでりゃ奴らの必死さは目に見えて伝わってくるよな。ちょっと数が多すぎるのが気になるけど、今のところはまあこっちの目論見どおりってとこか」

「……予定だとここから更に東進して海に出て、船でザヴジェルへ、だったか」


 それが当初からの予定だ。

 多くの古代ラビリンスが散在するこの霊峰チェカルで姿をくらませば、追手の両勢力を惑わすことができる。数多あるラビリンスのどこかに潜伏しているのかもしれない――追手達にそんな可能性を提示しつつ、早々にこの地を抜け出し、海路で悠々とザヴジェルに向かって北上する、そんな計画。


 もちろんリーディアやフーゴと同行している時点で行き先にザヴジェルが想定されるのは仕方がない。けれど、パイエルの街からまっすぐザヴジェルへ北上せずにチェカル方面に逸れたことで、こちらの行動が読めなくなっていると期待される。

 あとはこのまま見つからずに、どうにか海まで行ければ――


「そだな。ここで更に意表を突いて、チーシュ街道を戻ってパウエルから北上するって手もあるけど、あの大草原の街道は使い魔で空から探されたら一発で見つかっちまう。やっぱり予定どおりとっとと東に向かうのが良いんだろうな。そっちも見張られてるかもしれねえけど、チーシュ街道に比べりゃ人通りも多いし、林の中を通る裏道もあるから――――って、何だ!?」


 フーゴが素早くハルバードを振りかざし、ヤーヒムが猫のように飛び退いた。


 木々の梢を貫通して空から何か小さいものが、煌めく流星のようにリーディアの足元に降ってきたのだ。それは誰もが忘れていたとある存在。


「え、ザヴジェルの使い文? なんで?」 


 リーディアの手元に収まったその小さな流星は、草原のチーシュ街道で一度彼女が受け取っていた、ザヴジェルからの魔法による通信文だった。

 その時はザヴジェルが無事に危機を脱したことを知らせるアマーリエからの気安い文面だった。何かあったら連絡するとは書かれていたが、それから何日も経っていない。


 リーディアが屈み、使い文を拾い上げる。

 首を僅かに傾げながらもざっとその通信文に目を走らせ――


「……たいへん」


 ――るなりリーディアは息を呑んだ。


 そのまま無言でヤーヒム達に差し出されるそれ。三人は顔を揃えて覗き込むなり目を見開いた。


「こいつは……」

「…………」


 ヤーヒムの胸に、理屈では説明できない嫌な予感が広がっていく。

 誰からともなく視線を上げ、全員で顔を見合わせる。


「なんてこった……」


 そこに書かれていた内容は以下のとおり。



『緊急召集。突如として防魔結界内外に数千規模の魔獣の群体が複数出現、北部開拓村は全滅した。ザヴジェル各地に被害が広がりつつあり、一人でも多くの戦力が必要だ。フーゴを連れて至急帰還し、ザヴジェル伯軍または防衛諸侯軍への参加を乞う。アマーリエ=ザヴジェル拝』



 彼らのザヴジェル行きの日程に、のんびりしていられる余裕はなくなった。




  ◆  ◆  ◆




「……では、ここで待っていてくれ」

「ああ、頼むわ。気をつけんだぞ?」


 ファルタの街から東の海へと伸びる街道付近。アマーリエの帰還要請を受けて足早に霊峰チェカルを下った一行は、思わぬところでその足を止めざるを得なくなっていた。


 山肌の東側に迂回するにつれて周囲の霧は徐々に深さを増していたのだが、街道まで下った時には真っ白な霧がしっとりと全てを覆っていた。そしてその中から何やら聞こえる、物騒な人声や物音。

 それは彼らが恐れていたある事態を強く連想させるものであり――


「何かあったらすぐ戻ってくるのよ? 早くザヴジェルに戻りたいのはあるけれど、それはヤーヒム一人が無理をすることじゃないからね」

「あ、あの、気をつけて」


 二十歩も離れればぼんやりとした影しか分からない濃霧に包まれた街道沿いの木立の中、リーディアとダーシャが心配そうにヤーヒムを見詰めている。

 この霧の中、なにやらきな臭い街道の様子をまずはヤーヒムが単身で偵察に行くことになったのだ。


「……どうだ?」

「おお、全然分からねえ」

「まあこれなら……」


 木立に潜んだフーゴ達の前で、ヤーヒムの姿が霧に溶け込むように消えていく。周囲の濃霧をこれ幸いと、霧の中で【霧化】を使ったのだ。

 今やヤーヒムの存在は五歩も離れればもうほとんど周囲の霧と区別がつかない。おあつらええ向きの隠密手段であった。


 ヤーヒムが残る三人の目の前てゆっくりと移動をしてみても、彼らの目には何も分からないようだ。霧と化したヴァンパイアは独り静かに頷き、街道へ向かってゆっくりと漂っていった。



 ……それにしても。



 霧の木立を抜け、街道で騒がしく動いている人の気配に接近しながらヤーヒムは考える。

 この街道のきな臭さは確かに問題だけれども、それ以上に頭を離れないのは、アマーリエが連絡してきたザヴジェルの異常事態のことだ。


 帰還の要請はリーディアとフーゴだけだったが、全員で向かうということで合意が成り立っている。

 ヤーヒムもダーシャも元々ザヴジェルに向かう予定だったし、ヤーヒムにアマーリエやマクシム達の危機を見過ごすつもりはない。何より、彼の胸の奥で嫌な予感がどんどんと大きくなり続けているのだ。


 それは、彼の【ゾーン】に微かに感じる妙な気配と密接に結びついている。ラビリンスに乗り込んだ訳でもないのに、覚えのありすぎる独特の気配がザヴジェルのある北方向に蠢いているように感じるのだ。


 ……確かめなければならない。


 呪いのラビリンスとなったヴァルトルは、今も真祖ジガが彼を呼んでいると言っていた。見えないところで何かが進行している、そんな漠然とした疑いもヤーヒムの心の底に広がっている。

 ザヴジェルに現れたという魔獣の群体にそれらが関連しているという根拠は一切ない。だがしかし――


 いや、それよりもまずは、今だ。


 ヤーヒムはやもすれば彷徨いがちになる思考をぐっと引き締め、眼前の街道の偵察へと意識を切り替えた。ザヴジェルに急ぎ向かうにしても、まずはこの不穏な街道をすり抜けなくてはいけない。


「………………!」

「…………!」

「…………、…………!」


 一面の霧の奥、街道上では未だに言い争うような声が続いている。

 居丈高に命令するような複数の声と、それに抗議する声。そして何かを殴るような重い音と、女の小さな悲鳴――その声色こそ別人であるものの、先ほどから同じような展開が繰り返されている。


 ……やはり厄介なことになっているようだ。


 ヤーヒムは心の中で毒づいた。これらの声が物語ることはひとつしかない。

 霧と同化したヴァンパイアは嫌な懸念を確定させるため、更に【霧化】を深めて慎重に接近していく。


「……んて知らないって言ってるだろ! さっきから何度も何度も――」

「うるせえ、黙ってろ! お前ら、荷馬車の中を検めろ! その女はひん剥いて人相を確かめるんだ!」

「いやああああああ」

「やめろっ! ミラダから手を離――ぐはっ」


 霧となって進むヤーヒムの視界に入ってきたのは、夫婦の行商人を取り囲む柄の悪い数人の男達――その不揃いな革鎧には見覚えがある。パイエルの街の外でリーディアが石壁の中に閉じ込めた、ヤーヒム達を追ってきたゼフトの一角だ。


 そして交わされている言葉から察するに、この街道で動いているのは目の間にいる数人だけではない。この霧に紛れて逃げられないようにということもあるのかもしれないが、「さっきから何度も何度も」との言葉のとおりに彼らの他に何組も同じことをしているに違いない。


 ……やはりここまでやっていたか。


 面倒なことになった、ヤーヒムは懸念どおりといえば懸念どおりの街道の状況にため息を吐いた。単身での偵察の第一目的は達した。裏社会のゼフトがここまで我が物顔で振舞っていることには驚かされるが、それだけ彼らの勢力が大きく、そしてそれだけ本気であるということなのだろう。


 ならば、素早くザヴジェルに向かう為にも、この追手の包囲網がどこまでかを確認したいところなのだが――


 ヤーヒムの脳裏に、彼らゼフトの親玉ザハリアーシュがブシェクの街門の外で待ち伏せしていたことが思い出される。

 最悪の場合、下手な迂回路にはあの時のように罠がかけられている可能性もある。さすがにそこまでは考え過ぎと思いたいけれども――



「チッ、夫婦揃って薄汚い蚕人族か。人違いだ、行っていいぞ」



 行商人の夫婦は手荒く扱われながらも無事に解放されるようだ。彼らの災難はヤーヒムにも原因の一端があるのかもしれないが、かと言ってこの場でヤーヒムに何が出来るでもない。


 ……すまない。


 背中を丸めてよろよろと遠ざかっていく行商人夫婦を見送るヤーヒムの耳に、ゼフトの男達から溢れた聞き捨てならない単語が飛び込んできた。


「――リアーシュ様の命令だけどよ、本当にこんな霧の中でこの街道を通るのかねえ。こんな日は女と酒でも飲んでるのが一番なのによ」

「馬鹿お前、そんなこと言ってザハリアーシュ様の耳に入ったら命が幾つあっても足りねえぞ? 唯でさえ殺気立ってんのを目の前で見せつけられたばっかじゃねえか」

「ああ、アーモスの奴は災難だったな。一歩間違えりゃ俺達だった」

「おう、つまんねえこと言ってねえで続けるぞ。それにホンザの場合は女と酒っても酒場女のカモにされてるだけだろ。その証拠に――」

「なんだとこの野郎――」


 ……今、ザハリアーシュと言っていたか?


 ヤーヒムの警戒心が一気に跳ね上がる。あの油断ならない巨人族の男がここに来ているとすれば、それは非常に危険なことだ。

 考え過ぎと思っていたが、だとすると罠を張っての待ち伏せも充分にあり得る。そして奴はどうしてかヤーヒムの【霧化】も看破する男なのだ。


 ……撤収だ。


 ここは一旦フーゴ達の元へ戻り、善後策を慎重に検討するべきだろう。ザハリアーシュがこの街道に出てきているとは限らないが、万が一ここで発見され、この街道にこれ以上の人手を集められてしまうのが一番の悪手だ。


 アマーリエからの使い文から受けた嫌な予感は、胸の中で早くザヴジェルに行けとヤーヒムを急かし続けている。けれど、追手が執拗にまとわりつき、安易な行動が思わぬ瑕疵になりかねないこの状況。



 …………。



 先の見えない深い霧の中、その霧と同化したヴァンパイアは、もどかしさを押し殺しながら仲間達の元へと移動の速度を早めた。






―次話『提案』―

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