31 三つ巴

「隊長、早く来てくだせえ! ゼフトの野良犬がこの場から逃げて――」


 集団で襲いかかる覆面のゼフトに防戦一方となったセルウスが、接近する気配に向かって悲鳴のような大声を上げた。

 すると、その叫びに応えるように、渓流の下流側の木立から音もなく一人の男が姿を現した。


「――スレイブ、こんなところで何を遊んでいる。奴はどうした?」


 くすんだ黒革鎧に身を固めたその男を見た瞬間、渓流を挟んだ藪の中で様子を窺うヤーヒムの背筋に緊張が走った。覆面のゼフト達も一斉に退いて距離を取っている。

 この男は危険だ。ザハリアーシュにも劣らない、真に油断できない相手――全神経を剃刀のように研ぎ澄ますヤーヒムの視界に、更に何人もの黒革鎧の男達がバラバラと進み出てきた。


 ――ッ!


 ヤーヒムは思わず息を呑んだ。

 後続のセルウスの仲間達の中に、砂漠の階層でアマーリエが帰還の宝珠をせしめた三人組が混じっていたのだ。あの鷹型の使い魔を使役していた者達だ。


 そうか、昨日投石で仕留めた鷹はやはり彼らの使い魔だったか――ヤーヒムは冷ややかな目で彼らを見詰める。ひょっとするとセルウスがヤーヒムに接近してきたのは、あの使い魔からの情報が元になっていたのかもしれない。

 そして彼ら後続の黒革鎧の男達は、姿を現すなり一斉に覆面のゼフトに向けて剣を構えている。どうやら本当に敵対関係にあるようだ。


 ……いや、己のヴァンパイアの血にたかる競争関係、そう言った方が正解かもしれない。


 ヤーヒムを捕らえようと力ずくで執拗に追ってくる裏社会のゼフト、人数は少ないながらもヤーヒムを的確に追尾し、騙し討ちで鹿人族の家族ごと毒を飲ませて捕えようとしたセルウスとその黒革鎧の仲間達。


 ――彼らは全て敵、それだけのことだ。


 ヤーヒムの中で何かがすっと冷えていく。

 子供達を救うために必要な解毒剤は、ほぼ間違いなく奴のマジックポーチの中に入っている――ヤーヒムの氷のようなアイスブルーの視線の先で、セルウスが肩で息をしながらその猿顔に卑屈な笑みを浮かべて黒革鎧の仲間達に何かを釈明しようとしている。


「隊長! 違うんです! ちょうど奴に毒を仕込んだところでこいつらが寄ってきやがりやして! 奴は今ごろ間違いなくあっちでお寝んね――!?」


 猿顔の卑屈な笑みが、振り返った途端に凍りついた。

 渓流から僅かに離れた藪の中から、ヤーヒムがゆらりと立ち上がったからだ。


 この男だけは絶対に逃がさない。

 全てを凍てつかせるような冷たい怒りの中でヤーヒムは考える。


 自分を謀って捕えようとしたことはまだいい。が、この卑劣な小男は関係のないあの家族まで巻き込んだ。再会した親の腕に抱かれる子供達のいとけない笑顔が、粗末なスープを皆で分け合う家族の幸せそうな光景が、切ないほど鮮やかに目蓋に甦る。それを、この男が――


 到底許せることではない。

 追手同志が敵対していようと、そんなものはどうでもいい。

 ヤーヒムの中で怒り狂う何かが断固として要求しているのは、目の前の卑劣な小男が持つ解毒剤と、この場にいる、あの家族に害を及ぼす可能性のある全員の死。


 知らず知らずのうちに全身から凍てつくような威圧感を撒き散らし、怒れるヴァンパイアは藪からゆっくりと歩み出た。それは、数千年に亘って人類を恐怖に陥れてきたヴァンパイアの、立ち塞がる者全てを殲滅する覇者の歩み。


「……だだだ、旦那?」


 暴力的なまでの圧力に呑まれたセルウスが、腰を抜かして外聞もはばからずに後ずさっていく。


「コココ、コレは違うんでやす! 私の出身の西の方では、奴隷のことを差別的にスレイブと呼ぶことがありやして! この隷属の首輪を見てくだせえ! あっしは忠実な旦那の奴隷のセルウス、こいつらが襲ってきたからあっしが仲間と露払いを――」


「黙れ」


 ヤーヒムがゆっくりと歩みを進めながら、背中からすらりと片手剣を抜き放った。

 セルウスだろうがスレイブだろうがどちらでもいい。そのアイスブルーの瞳は絶対零度の冷たさで、無辜の家族に毒を盛った眼前の小男を睨みつけ続けている。


 隷属の首輪は未だに本物にしか見えないが、それもこの卑劣な小男が標的を油断させるいつもの手口なのだろう。油断させて、無差別に毒をばら撒く。実に下衆で、虫唾が走るやり方だ。今もあの家族は苦しんでいる。まずはこの狡猾な小男を血祭りに上げて、懐から解毒剤が入っているであろうマジックポーチを――


 ヤーヒムは凍てつくような威圧感を放ったまま一歩、また一歩とセルウスに近付いていく。



「――者共! この機に<闇の手>トゥマ・ルカを返り討ちにするぞ!」



 と、眼前の状況を機敏に掴んだ覆面のゼフト達が咄嗟に戦略を変更した。

 ヤーヒム捜索中に思いもよらぬ横槍が入り、態勢を整えきれていなかった彼らゼフト。彼らはヤーヒムの怖さを痛いほど知っている。恐るべきヴァンパイアが邪魔者相手に暴れようとしているこの状況を利用して、まずは先に邪魔者たちを殲滅しようと目論んだのだ。


「野良犬風情が! ヴァンパイアごと叩き潰せ! 行くぞ!」


 負けじと<闇の手>――トゥマ・ルカと呼ばれたセルウスの仲間の黒革鎧達が、一触即発の戦場に暴風の如く突入してくる。


 トゥマ・ルカ――

 彼らは表向きには存在しないと言われている、王家直属の近衛第四騎士団に所属する者達だ。

 王家と貴族領主の熾烈な権力闘争の闇で暗躍する、手段を選ばない汚れ仕事を主任務とする通称「王家の闇の手」。彼らは彼らでブシェク太守交代劇の裏にあったブラディポーションの秘密を嗅ぎつけ、王家とユニオンでその莫大な利益を横取りすべくヤーヒムの身柄をブルザーク大迷宮からずっと追っていたのだ。


 そしてドウベク街道のすぐ手前、パイエルの街まで目と鼻の先のこの森の中で、遂に彼らは直面した。

 ブシェク太守他多数の大貴族をバックに持つ大陸規模の闇組織ゼフト。

 ユニオンと手を組んだ王家直属の隠密部隊トゥマ・ルカ。

 そして最後のヴァンパイア、ヤーヒム。



 ――三者が入り乱れる戦いが今、その幕を開けた。



 渓流の岩だらけの足場を物ともせず、激しく入り乱れて戦うゼフトとトゥマ・ルカ。

 初めに優勢だったのは黒革鎧のトゥマ・ルカだ。彼らは全員が現役の騎士であり、一気に場を呑み込もうと怒涛の如き攻勢で押し込んできた。


 が、雑多な武装に覆面をしたゼフトの男達も負けてはいない。彼らは彼らで巨大武装組織生え抜きの使い手で揃えられていて、しぶとく劣勢を押し返して互角の戦いへと戦局を立て直しつつあった。そもそもがヤーヒムを追っていたところに思いもよらぬセルウスの奇襲を喰らい、更にその仲間の黒騎士達の乱入もあって浮き足立っていただけなのだ。


「……だだだ旦那、どうやらその様子だとあっしの特製スープは飲んでくれなかったようで」


 怒声飛び交う熾烈な乱戦の端、そこだけぽっかりと時が止まったような空間で、ヤーヒムが後ずさるセルウスをじりじりと追い詰めている。


「アレを飲んでくれれば、ああああっしでも旦那に少しは太刀打ち出来たと――」

「死ねスレイブッ! お前の猿芝居はもう沢山だ!」


 敵味方入り乱れる激しい乱戦は空白地帯など許しはしない。ヤーヒムに全神経を集中していたセルウスに、覆面のゼフトの一人が背後から曲刀を煌めかして切りかかった。が、「させるかッ!」とそれを追ってきたセルウスの仲間の黒騎士が長剣を振るって割り込み、その場で目にも止まらぬ命がけの斬り合いが始まる。


「お前はこっちだ!」


 曲刀のゼフトが長剣を力ずくで撥ね退け、その勢いのままヤーヒムの前へと転がり込んできた。そしてヤーヒムの剣の間合い一歩手前で自分だけ真横に跳ね、追撃してきた黒騎士をヤーヒムの眼前に置き捨てて離脱していく。


「待ちやがれこの――」


 置き去りにされた黒騎士の言葉はそこで文字どおり断ち切られた。ヤーヒムの片手剣がその上半身を切り裂いたのだ。

 ヤーヒムにしてみれば、もはやこの場にいるのは全て敵。順番などどうでもよく、後顧の憂いを絶つべく片端から切り捨てればそれでいいのだ。そして一刻でも早くあの家族に解毒剤を持ち帰る。ヤーヒムに迷いは一切ない。


「この野郎っ!」

「ゼフトよりこっちだ! 囲め!」


 双剣遣いの絶叫に引き寄せられたかのように、その仲間の黒騎士達がゼフトから矛先を変えてヤーヒムを取り囲んだ。真っ先に無力化しなければならない厄介な相手がここにいると気付いたのだ。


「気ィつけろッ! 奴のその剣は飾りじゃねえ、何処で盗んだかアンブロシュの剣術を遣いやがる!」


 いつの間にか場から離れて新手のゼフトと激しく切り結んでいたセルウスが、芝居をかなぐり捨てて仲間の黒騎士へ警告の叫びを上げた。それに機敏に反応して足を止め、警戒の眼差しでじりじりとヤーヒムを取り囲んでいくトゥマ・ルカの黒騎士達。


 ほう、そこまで見ていたか――ヤーヒムはニヤリと口の端を釣り上げ、片手剣の切っ先を地面に向けたまま一歩前に進み出た。どうやら祖国の剣術は今、相当に名前が売れているらしい。


 が、それを知られたところでやることは変わらない。逆に、己の剣術がどこまて通用するか、そして実戦の中でどこまで磨き上げられるかを試す絶好の機会が来たというだけだ。


「――ッ!」


 ヤーヒムが打って出た。

 疾風のような逆袈裟からスルリと黒騎士達の中へと切り込み、流れるようにひらりひらりとその片手剣を煌めかせていく。


「ぎゃああ!」

「――な、なんだこいつは!」

「手強いぞ! 押し包んで動きを封じろ!」


 絶え間なく上がる断末魔、みるみる崩れ行くトゥマ・ルカの包囲網。

 【ゾーン】による空間認識とヴァンパイアの身体能力によって一流の高みまで引き上げられたヤーヒムのアンブロシュ剣術は、なみいる黒騎士達の長剣をかいくぐり、いなし、力に逆らわずに後の先を取っていく。


「――ッ!」


 ヤーヒムが乱戦となった囲みを蹂躙しかけたその時。

 周囲を流れる無数の刃とは異質の斬撃がヤーヒムに襲いかかった。虚実混交、払うと見せかけて薙ぎ、薙ぐと見せかけて突いてくる。理を極めた剣捌き、しかもただの長剣ではない。紫電をまとった魔剣だ。


 咄嗟に身体を捻り、そのまま捉えどころのない流水の如く背後の男達に斬りかかって、同時に魔剣から距離を取るヤーヒム。


「――ほう、これを躱すか。中々やりおる」


 阿鼻叫喚の乱戦の中、傲然と笑ったのはトゥマ・ルカの隊長格の男だ。

 チリチリと紫電をまとう魔剣を掲げ、ヤーヒムの動きをその目でピタリと追ってきている。相当の達人、これはザハリアーシュにも劣らぬ危険な男だ――ヤーヒムが警戒も露わに距離を置こうとしていると。


 その瞬間、不意にヤーヒムは悪寒を感じて鋭く振り向いた。




「……囮役ご苦労。共に喰らっとけ」




 振り返ったヤーヒムの視線の先、トゥマ・ルカ達との乱戦の外から、こちらに短杖を向けるゼフトの覆面男の姿があった。その短杖の先には呆れるほどに大規模な魔力が集束している。


 あれはマズいっ!

 ヤーヒムは咄嗟に手近な黒騎士の脾臓に当て身を入れ、その体を盾に身をかがめた。


「うぎゃあああ!」


 黒騎士達がヤーヒムに集中したことにより余裕が出来たゼフトの魔法使いが放ったのは、空間を埋め尽くすほどの無数の風の刃。第二級に分類される凶悪なその上級魔法は、ヤーヒムを取り囲む黒騎士ごと周囲の全てを切り刻んでいく。


 ――チッ!


 ヤーヒムは反射的に短距離転移を発動させた。

 放たれた上級範囲魔法は脅威であり、盾にした黒騎士の身体だけでは防ぎきれない。霧化も間に合わず、咄嗟にそれを放った魔法使いの背後へと転移をしたのだが――


「かかったなッ! 単純な奴!」


 ヤーヒムの姿がそこに現れるや否や、何本もの剣が唸りを上げて殺到した。

 ヤーヒムと戦い始めて早くも学習した裏社会のゼフトが、単純だが効果的な罠を予想転移先に置いて待ち構えていたのだ。ヤーヒムは即座に地を蹴って死地を逃れるも、剣撃のひとつがその右腕を深々と切り裂いた。これでは剣は使えない。激痛の中で地面を転がり、ヴァンパイアならではの高速治癒を待ちつつ反撃の機を窺うヤーヒム。


「よし、ヴァンパイアは転移を使った! これで打ち止め、逃げられることはないぞ! インチキ騎士どもを殲滅しつつ奴を追い詰めろっ!」


 覆面のゼフトの一人が高らかに指示を出した。

 ヤーヒムが必死にゼフトの男達による追撃を躱しつつ周囲を見回すと、未だ激しい乱戦の中、確かに多くの黒騎士が先の魔法で痛手を負っているのが分かる。戦いの天秤はトゥマ・ルカから離れ、決着に向けて傾き始めたようだ。


 だが、名だたる黒騎士達もそう簡単に崩れはしない。三者が入り乱れる戦いは泥沼化の様相を見せ始めている。

 それは、ヤーヒムを焦らせる展開。

 いつまでも戦っている場合でもないのだ。子供達には一刻も早く解毒剤を飲ませてやりたい。特に幼いリジーは毒を多く取り込んでしまったのか、ひと際顔色が悪かった。あの小さな体に、あとどのくらい体力が残っているか――


 ヤーヒムは即座に方針を変更し、肝心の解毒薬を持っているはずのセルウスを探して視線を走らせた。

 ここまでくれば、ふたつの集団はもう勝手に潰し合うだろう。ヤーヒムは自分しか出来ないこと、セルウスを屠って解毒剤をあの家族の元へと持ち帰ることを最優先とするのだ。


 糞、肝心のセルウスはどこに――いた!


 先ほどの上級魔法の餌食になったのか、血まみれで河原に転がっている。まだ息はあり、自分の隷属の首輪に触れてうわ言のように何やら呟いているようだ。


 好機だ。

 奴の懐からマジックポーチを奪いこの場を離脱する。戦いたい奴らは勝手に戦わせておけばいい。ヤーヒムの正体は初めから露見しており、この期に及んで出し惜しみする意味もない。


 高位ヴァンパイアの治癒力をもってしても未だに自由が効かない右手の剣を駆け出しながら背中の鞘にしまい、同時に左手から青く輝くヴァンパイアネイルを伸ばしていくヤーヒム。


 執拗に迫るゼフトの剣撃をそのヴァンパイアネイルで斬り飛ばし、瀕死のセルウスの元へと【ゾーン】の空間認識を最大限に活用して戦場を駆け抜ける。あと数歩、血汚れたセルウスへと手を伸ばして――瞬間的に飛び退いた。


 どうみても重傷を負っている筈のセルウスが、不死者のごとく唐突に手にした剣を突き出してきたのだ。


「……フフフ、避けおったか。我は奴隷、命令次第で痛みや不調を無視して動けるとは知らなかったか?」


 ガラリと変わった口調で薄ら笑いを浮かべながら、ゆらり、と体を起こすセルウス。


「こんな怪我で動かざるを得ないなど流石にいつぶりか。フフフ、まあひとつ教えてやると、我の主は貴様ではなく、我なのだよ…………『奴を殺せスレイブ』」


 首輪に触れてそう言葉にした途端、セルウスが阿修羅のごとくヤーヒムに斬りかかった。


「くははは! 『もっと早く動け』『限界を超えろ』『奴を切り刻め』」


 怪我や身体の限界など全てを無視し、ぐんぐんと斬撃の速度を上げるセルウス。気味が悪いほどに不自然な動きだ。自分で自分に命令を下し、それに従って隷属の首輪が強制的に身体を動かしているのだ。


 これがセルウス――手段を択ばないことには定評のある<闇の手>所属、通称「暗殺奴隷のスレイブ」の切り札。普段は奴隷を装い毒などの搦め手を好むが、いざ戦いとなれば、隷属の首輪の効果によって肉体の極限まで酷使する狂騎士として戦い続けるのだ。


「フハハ、その右腕はどうしたんだヴァンパイア! 剣を使えない貴様など赤子の手を――――は?」


 蒼い閃光が弧を描き、セルウスの肘から先が剣ごと地面に転がり落ちた。

 ヤーヒムの左手のヴァンパイアネイルだ。次いで反対側の腕も肩から綺麗に切断される。


「な、な、な――?」


 唐突に戦う術を取り除かれ、唖然とした顔で目を丸くするセルウス。が、隷属の首輪はそれでも忠実に命令を遂行しようと、本人の思考をよそに残った短い片腕で猛然とヤーヒムに殴りかかっていく。


「……愚かな。本当の奴隷の哀しみと絶望を、その身でしっかり噛み締めるがいい」


 ヤーヒムは蒼く輝く無双の爪で蛇人族セルウスの鱗に覆われた喉笛を軽く切り裂いた。

 飛び散る血潮、そしてごぼごぼと零れる言葉にならない悲鳴。己に新しい命令を出すことを封じられたセルウスは、咽ることすら出来ずにただ我武者羅に片端になった体でヤーヒムに殴りかかり続ける。


「これは貰うぞ」


 ヤーヒムはそんなセルウスを軽く躱し、【ゾーン】の空間認識に異彩を放ち続けていたマジックポーチをその懐から奪い取った。途端にバランスを崩し、頭から地面に転倒するセルウス。ヤーヒムがすれ違い際に、背後からヴァンパイアネイルでセルウスの両脚の腱を断ち切ったのだ。


 と、そこに背後の乱戦から誰が放ったか魔法の弾幕が襲来した。

 ヤーヒムは咄嗟に跳躍して避けたが、立つことも逃げることも出来ない奴隷の狂騎士はその弾幕を全身で受けた。明らかな致命傷を負ってもなお、ヤーヒムを殺せという命令を遂行しようと地面で愚直にもがき続けるセルウス。


 そこに更なる魔法の弾幕が飛んでくる。いつしかゼフトとトゥマ・ルカの戦いは、魔法飛び交う殲滅戦に移りつつあったのだ。



「撤収だ! 一度退いて体制を立て直す!」



 いつの間にか渓流の奥の方でゼフトと戦っていたトゥマ・ルカの隊長が叫んだ。

 同時に幾人もの黒騎士達が一斉に魔法を放つ。それは相手の撤退の叫びに追撃に入ろうとした覆面のゼフト達を正面から捉え、その半数を吹き飛ばした。


 勝手にやっていろ!

 ヤーヒムは鹿人族の家族に毒を盛った卑劣な奴隷男の最期を横目で見つつ――未だしぶとくもがいていた――、疾風のように戦場を離脱していく。


「く……我らも一旦引くぞ! 本隊に合流するのだ!」


 背後ではついに裏社会のゼフトも撤退を始めたようだ。

 ヤーヒムは尾行者がいないことを【ゾーン】の空間把握で確認しつつ、奪ったマジックポーチに手を突っ込んで解毒剤らしき小瓶を取り出した。二本あったうちのひとつ、空になっていない方だ。


 これで合っているだろうか。

 ヤーヒムは僅かに走る速度を落とし、小瓶の蓋を緩めて中の白い粉の匂いを嗅いだ。スープに混入されていた不自然な鉱物臭とは全く逆の、何かの葉を煎じた青臭い匂いだ。小瓶自体にごく最近封を切った形跡があり、それがセルウスが昼食を準備しながら服用した証ではないだろうか。

 おそらく間違いない。ポーチの中にそれらしき物は他にないし、何より、これを飲ませるしかないのだ。残る問題はあとひとつ。


 頼む、間に合ってくれ――


 二組の追手との戦いを切り抜け、どうにか解毒剤らしきものは手に入れたものの、いかんせん時間がかかっている。その上魔獣に対する備えもなく、無力な草食系鹿人達をそのまま森の中に放置もしているのだ。


 ヤーヒムの胸中に、親の腕の中で無邪気な笑顔を見せる子供たちの姿が執拗に蘇る。残虐なノールから紙一重で解放された家族の、あのかけがえのない光景。あの幸せな光景を、絶対に取り戻さなくてはならない。



 待っていろよ――



 午後の光差し込む静寂に包まれた木立の中を、ヤーヒムは全速力で駆け抜けた。






―次話『再会』―

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