15 石段の戦い
ヤーヒムは疾駆する。
薄闇に包まれた無人の地下墳墓を、目にも止まらぬ早さで音も立てず。時折行き止まりに阻まれるが何事もなかったかのように折り返し、最初に目に入った横道に後塵を上げて突入していく。
魔獣の姿は一切ない。
階層入口の広間で殲滅したのが全てだったのだろう。他に何者もいない無音の空間を、独りただひたすらに走り抜けていく。
供があるとすれば左手の甲に同化した紅く輝く宝玉か。彼の凍りつきひび割れた心を優しく慰撫するかのように、倦むことなく柔らかい温もりを放ち続けている。
まるでヤーヒムの孤独を知り尽くし、寄り添って共に歩もうとしているかのように。
◆ ◆ ◆
どのくらい走っただろうか。
昼も夜もない薄闇の地下墳墓に時の概念はない。だが、いくら人外の体力を誇るヴァンパイアとはいえ何日も無限に走り続けられる筈もなく、元々疲労の極致にあったヤーヒムの足がついに鈍ってきた頃。
左手の甲に同化したラドミーラの紅玉もさすがにその輝きが薄れ、弱々しくヤーヒムに寄り添っているだけになってきた、まさにその頃。
幾つ目かも分からぬ大広間に突入したヤーヒムは、久方ぶりに前方に何かの気配があるのを察知した。
巻き起こされた土煙の向こうで、何かが激しく戦っている。
いつしか感覚を失っていた足の回転を緩め、荒い息を吐きつつ立ち止まるヤーヒム。負荷から解放された膝が笑い、それまで背後に置き去りにしてきた体の熱が一気に彼に追いつき、だが視線だけは油断なく前方の騒動を注視する。土煙立ち込める激しい戦い、その土煙が気まぐれな風に煽られた拍子にヤーヒムの目に映ったのは――
遠く彼方の石段の頂上に浮かぶ青き転移スフィアと、その石段の手前で魔獣に囲まれ劣勢に陥っている<ザヴジェルの刺剣>の面々だった。
囲んでいるのは数百に及ぶ邪悪な石像、ガーゴイル。長大な石段の左右には無数の空の石座が残されており、転移スフィアの門番としてそこで無数の彫像よろしく侵入者を待ち受けていたようだ。
そして一斉に襲いかかられたのだろうか、分厚い包囲網の中で<ザヴジェルの刺剣>は防戦一方に追い込まれている。
リーディアは既に魔力が枯渇気味なのか魔法に勢いがなく、騎士達はガーゴイルの硬い体に剣が一切通じず、盾で猛攻を凌ぐのが精一杯のようだ。
フーゴは囲まれて自慢の機動力を封じられ、一人離れた場所で窮地に陥っている。巨大なハルバードを猛然と振るって豪快に悪魔像を殴り飛ばしてはいるものの、硬く重い悪魔像の数が減っていく気配はほとんどない。そして切り札、アマーリエの緑白に輝く魔剣もガーゴイルを薙ぎ倒すには至っていない。風魔法を宿し切断力が劇的に上がった魔剣ではあるのだが、相手が硬すぎるのだ。生身の魔獣や通常の防具ぐらいなら二メートルの緑白の軌跡は止まることなく切り裂き円を描いて振り抜かれるところ、ガーゴイル相手だと一体ごとに剣身が喰い込み受け止められてしまっている。そうして群がる敵に押し込まれ、時が経つほどに熾烈で不安定な戦いを強いられているのだ。
「…………ッ!」
ヤーヒムはギリリと奥歯を噛みしめ、<ザヴジェルの刺剣>の苦闘をまじまじと凝視した。
先を越されたことなどどうでもいい。大事なのはとにかく彼らが重厚な囲みを突破し、安全地帯であるスフィアに辿り着くことだが――
「きゃああっ!」
「リーナ!」
「リーディア様ッ」
足をもつれさせ魔法をファンブルさせたリーディアが、眼前のガーゴイルに激しく殴り飛ばされた。もんどり打って転がる小柄な魔法使いを<ザヴジェルの刺剣>の騎士達がすかさず囲んで守りに入るが、ここぞとばかりに群がるガーゴイルの大群に飲まれ、その姿がヤーヒムの視界から隠されていく。
――ああああ、糞ッ!
声にならない怒声を上げ、全力で地面を蹴るヤーヒム。一歩ごとに更に速度を増加させ、両手の爪を伸ばし、蒼い軌跡を引いていって――
その時、雲霞の如く一点に群がっていたガーゴイルの動きがピタリと止まった。悪魔を象った顔が一斉に振り返り、全てが矛先を変え、ヤーヒム目掛けて怒涛の突撃を開始する。数百の邪悪なる石像が地を駆け空に舞い上がり、視界一杯に広がって押し寄せてきたのだ。
それは脅威と認めた存在をラビリンスが排除する行動。
一説によればラビリンスは生き物だという。
その生き物であるラビリンスが生存本能に従って、危険視する存在に一気呵成に魔獣を集中させるのだ。
だがヤーヒムにしてみれば、それはもはや見慣れた光景だった。ここ数層、そんな状態でしか魔獣と戦っていない。やる事はただひとつ。五感に触れるもの全てを己が無双の爪で斬り払うのみ。
押し寄せるガーゴイルの大群がヤーヒムを包み込んだ。煌めく五本二対の蒼い閃光。アマーリエの風魔法を宿した魔剣では分断するところまでは至らなかったガーゴイルの硬い体も、空間ごと斬り裂くヴァンパイアの爪の前には無抵抗も同然だった。胴体を歪んだ背骨ごと呆気なく分断され、悪魔を象った顔面を上下に斬り飛ばされ、漆黒の翼を根元から断ち切られて、命をなくしたただの石像となり果てて鈍い音と共に次々に地面に転がっていく。
圧倒的な身体能力で振るわれるそんな五本二対の蒼い爪は、魔剣のように長大な攻撃範囲こそないものの、絶対的な暴虐を以て乱戦を支配する高位ヴァンパイアの代名詞なのだ。
舞い踊る破滅の爪、群がるガーゴイルを無視して虚空に描かれる無数の蒼の軌跡。雲集する大群にも一切速度を落とさず、全てをなぎ倒す突風の如くヤーヒムは突き進んでいく。
そして。
一面ガーゴイルで埋め尽くされる視界の中、かの騎士達が持っていた赤く長大な盾がチラリとヤーヒムの目に映った。
あそこか!
更に速度を上げ、ガーゴイルの分厚い囲みを一気に突破して置き去りにするヤーヒム。視界が開けた途端、前方に<ザヴジェルの刺剣>の姿を捉えた。
石段の手前、地面に殴り倒されたままのリーディアの脇に膝をついている白銀鎧のアマーリエ、その二人を護るように囲む騎士三人と満身創痍のフーゴ。地面に散らばる無数の
……まさか。
ヤーヒムの背筋に猛烈な悪寒が走った。
体感時間が一瞬で歪んだ飴のように引き延ばされ、全速力で駆けている筈なのに一向に近付かない。
――うふふ、こうやってでもお話できてすごく嬉しいわ。ずっと貴方とお話ししたかったの。
頭に流れるのは通信魔鉱石で聞いた、春を連想させる心地良いお喋りの数々。生気に満ち満ちたその溌剌さに、確かにあの時は心が温もったのだ。
今、リーディアは力なく地下墳墓の地面に横たわり、目を瞑って口の端から血を流している。
黄金色の髪に不思議なほど乱れはなく、うっすらと微笑んでいるようにも見えるが、その蝋細工のような白いだけの顔にはあれだけ溢れていた生気は一切感じられない。
ヤーヒムには分かっていた。
あの時、己が勝手に感情を暴走させ、せっかく歩み寄ってくれたリーディアから背を向けて逃げ出したことを。
リーディアは何も悪くないのだ。
もしかしたら、ヤーヒムが一歩前に踏み出しリーディアに全てを打ち明けていたら、少しは違った未来が待っていたかもしれない。
だが、まさか、まさかもうあの紫水晶の瞳は二度と開くことがないのだろうか。
ヤーヒムの脳裏に二百年前の少女の死に顔が甦る。
同じ黄金色の髪、同じ生気を失った白い顔。
あれだけヤーヒムが慈しんだ幸薄き少女は、ヤーヒムの腕の中でうっすら微笑んだまま、もう二度と紫水晶の瞳を開くことはなかったのだ。
今また同じことが起きようとしている。
死ぬな、頼むから死ぬな。生きてくれ――
その刹那、アマーリエに揺さぶられた蒼白な顔の中に紫水晶の光が灯った。目を開いた――生きている!
時間が一気に動き始め、ヤーヒムは声の限りに叫んだ。
「走れ! スフィアまで辿り着け!」
そしてそのまま疾風のようにリーディアに駆け寄った。己が手で横抱きにして安全な領域へ運ぼうとしたのだ。
だが、ヤーヒムの叫びに我を取り戻した白銀鎧のアマーリエがひと足先に、渡すものかとばかりに猛然とリーディアを抱え上げた。ヤーヒムとぶつかった気の強い琥珀色の瞳は……泣いて、いるのか。
「リーナは腹を……内臓をやられて……ポーションも効かないんだ……リーナに持たせていた帰還の宝珠もあの一撃で壊されて……」
「行け! まずは安全なスフィアの所まで行くんだ!」
ヤーヒムは勝気な美貌を歪めて泣きじゃくるアマーリエを激しく叱咤し、リーディアを横抱きにした白銀鎧の背を乱暴に押し出した。
押されながらも振り返ったアマーリエの言葉にならない問いかけに、力強く頷いて更に怒鳴る。
「いいから行け! 生きてさえいればどうとでもなる!」
アマーリエはそれで多少なりとも気力を取り戻したのか、石段に向かって涙も拭わず駆け出していく。
無言の頷きを交わした騎士達もその後に続いて走り出した。一人この場に残ったのはフーゴ。その歴戦のケンタウロスは、ヤーヒムと目が合うなり実に嬉しそうな笑顔でガーゴイルには全く通じていなかった巨大なハルバードを振り回して叫んだ。
「がはははっ! 戻ってくるって信じてたぜ! 一緒に戦おうや!」
「この阿呆! お前も行け! 一人で充分だ!」
満身創痍のフーゴの馬腹を蹴り飛ばし、ヤーヒムは方向転換を済ませたガーゴイルの群れに突っ込んでいこうと――
だが。
数歩走って、ヤーヒムの膝ががくりと折れた。
遂に限界を超えたのだ。
過酷な砂漠の階層からこの階層に移り、激闘を経て野営に入ったかと思えばすぐに感情に任せて暴走を始めてしまった。そのまま駆け続け、この大広間に辿り着いた時には既に限界を迎えていたのだ。
それでも目の前の危機がヤーヒムを駆り立て、ここまで動けたのが奇跡のようなものだ。ガーゴイルが血を飲める魔獣だったら少しは違ったかもしれない。だが、現実は違った。高密度の魔獣の生血で活力を補充することもなく、最後の灯火の如く、残る力を燃やし尽くしてしまったのだ。
「――おい、ヤーヒムどうした!? ヤーヒムっ!」
フーゴがハルバードでガーゴイルを威嚇しながらヤーヒムに駆け寄ってくる。
――この、阿呆! 何故逃げてない! お前、囲まれればどん詰まりだろうが!
ヤーヒムは肩で息をしながら素早く周囲を確認した。ガーゴイルはヤーヒムとフーゴのすぐ傍まで迫り、アマーリエ達は薄闇に青く灯る転移スフィア目がけて長く急な石段を駆け上がっている。
この状況、ヤーヒム一人ならヴァンパイアの最後の手段、瞬間移動でスフィアに跳べる。だが、フーゴは石段を登っている途中で間違いなく空飛ぶガーゴイルに囲まれる――
こうなれば!
ヤーヒムは自分の手首に激しく牙を突き立てた。
自らの血は苦く毒にしかならないが、それでも真祖直系の高位ヴァンパイアの血だ。群がってくるガーゴイル全てを相手にするのは無理だろう。だが、十の体力を捨てても刹那の一の力を得れれば、なんとかスフィアまで辿り着ける!
「ちょ、おま、何やって――」
「――行くぞッ!」
ヤーヒムは自らの血から得たひと滴の活力を即座に燃え上がらせ、稲妻の如く跳ね起きてフーゴを追い立てるように石段目がけて走り出した。
「あそこまでッ!」
「チッ、仕方ねえ! 途中でくたばんじゃねえぞ!」
急勾配の荒れた石段の遥か頂上、薄闇に青く清澄な光を放って静かに浮かぶ転移スフィア。
まるで見えない結界があるかのように魔獣を寄せ付けない、ラビリンス唯一の安全領域。あそこまで行けば――ヤーヒムは徐々に青くなっていく顔で、逞しい馬脚で疾駆するフーゴに負けじと懸命に足を動かす。
石段に辿り着き、フーゴのすぐ後ろを七段飛ばしで駆け上がっていくヤーヒム。
が、そこでやはり速度が落ちた。
ヤーヒムは反射的に蒼き爪を振るい、いつのまにか背後に迫っていたガーゴイルを薙ぎ払った。いくつもの部位に分かれ、重い音を立てて石段を落ちていく悪魔の石像。一瞬だけ振り返ると、迫り来るガーゴイルの大群が一斉に空に舞い上がったところだった。
「もっと早く走れ、この駄馬ッ!」
「だ――おま、どさくさ紛れになんつうことをッ」
先行するアマーリエ達が石段を登りきって姿を消した。
ヤーヒム達にとってはあと百メートル少々。ガーゴイルはまだ後ろだ。追いつかれてはいない。
急速に燃え尽きつつある最後の活力に気力をねじ込み、ヤーヒムは強引に石段を駆け上っていく。
あと八十メートル。
飛ぶように階段を駆け登るフーゴとヤーヒムの周りを、二十を超えるガーゴイルが空から取り囲んだ。
ヤーヒムの顔は今や蒼白となっており、先ほど喰らった自らの血が身体の内側をじくじくと焼き始めている。が、ヤーヒムは歯を食いしばり、足は止めずに両手の爪で襲い来るガーゴイルを斬り落としていく。
あと五十メートル。
ずっと温もりと力を注いでくれていた左手のラドミーラの紅玉からついに輝きが失われ、黒く濁り始めた。支えを失ったヤーヒムのスピードが一気に落ち、勢いを保ったままのフーゴとの距離が開き始める。一気に攻勢を強める無数のガーゴイル。
頂上まであと四十メートル。
ヤーヒムの体内に毒となった自らの血が回り始めた。
ここが正念場とばかりヤーヒムは気力を奮い立たせ、足を止めて強引に周囲のガーゴイルを叩き斬っていく。が、足がもつれ、転びそうになった勢いで石段を踏み外し、身体が大きく下に傾いて――
「こんの駄ンパイアが! 途中でくたばんなって言ったろうがッ!」
いつの間にかフーゴが石段を駆け戻っていた。群がる大量のガーゴイルの中、最後にヤーヒムが斬り落としたその僅かな隙間をくぐり抜け、馬背にヤーヒムを放り上げてそのまま頂上目がけて一目散に走り始める。
あと三十メートル。
二十メートル。
十メートル。
そして。
長い石段を登り切った先には、青く静謐な光を放つスフィアがひっそりと浮かんでいた。
特務部隊<ザヴジェルの刺剣>とフーゴ、そしてヤーヒムは全員揃って、安全領域である第六十六階層への転移スフィアへと辿り着いたのだった。
―次話『注がれた血』―
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます