10 最果ての出会い(後)

 ヤーヒムが移動を開始して一昼夜。

 いや、夜はついに来なかったので二昼間というべきか。灼熱の凶悪な太陽は雲一つない青空を昇っていき、天空を横切って沈みかけてまた昇り始め、再び天空を縦断して今また嘲笑うように戻り始めている。


 そんな気狂いじみた灼熱砂漠の中、ヤーヒムは未だ移動を続けていた。


 砂漠の熱気は満身創痍の身体に容赦なくのしかかり、凶悪な日差しは激しい脱力感と共にヴァンパイアの肉体を内側から焼いてくる。忍び寄る飢えと渇きとも戦いながら、ヤーヒムは数えるのも馬鹿らしくなるほどの砂丘を超えてきた。


 が、青く静謐な光を放つ転移スフィアは一向に見つからない。


 唯一の救いは執拗に追いかけてくるサンドワームの移動速度がそれ程でもなかったことか。

 走る必要はなかった。砂中表層を進むサンドワームの速度はそこまで速くなく、早歩き程度で同じ距離を保てるようだった。


 今、ヤーヒムの後ろには、砂丘五つを挟んでおびただしい数のサンドワームが追随してきている。

 振り返れば、じわじわと移動する無数の砂の盛り上がりがヤーヒムを頂点とした巨大な三角形を描いているのが見えることだろう。空を飛ぶ者がいれば、サンドワームの群れとそれが砂面に残す移動痕はまるで、一風変わった大海原を敢然と突き進む船団のようにも見えるのかもしれない。


 だが、これはそのように勇壮なものでも、高尚な目的があるものでもない。

 少しでもヤーヒムが足を止めれば――砂中表層を潜行するサンドワームの群れは着実に距離を詰め、そして急激に深く潜ってそこから地表のヤーヒムを一気に襲撃し始めるだろう。


 ヤーヒムは一度だけ、執拗なサンドワームを引き離そうと速度を上げて走ってみたことがある。

 結果はまさに無駄足。

 確かに引き離すことには成功したが、前方にいた別のサンドワームを引き連れることになっただけだった。唯でさえ枯渇している体力を無駄に消費した、そんな結果だった。


 それであれば、残された体力を出来るだけ引き延ばすようにギリギリの速度で移動しつつ、出来るだけ広い範囲を探索して転移スフィアを発見できるよう努めた方がいい。


 そう決めて愚直なまでに只々移動を続けてきたヤーヒムだったが、今のところ転移スフィアの青く静謐な光はその気配すら見つかっていない。

 広大な砂漠はどこまで行っても行き止まりがなく、転移スフィアの手がかりもなくただひたすら無数の砂丘が連なっているだけだった。ヤーヒムは知る由もないが、それはブルザーク大迷宮の最深層更新を目論む大勢のディガー――迷宮採掘者達がぶつかり、何十年にも亘って苦渋の撤退を選択させ続けている難問だった。


 じりじりと照りつけ続ける灼熱の太陽、いくら進んでも手がかりすら見つからずに延々と続く砂漠。


 ヤーヒムの脳裏にも前階層への一時撤退の文字は浮かんでいたが、そもそも上空から視認した地平線へと転移してきたのだ。蜃気楼が揺らめいていた地平線までどのくらいの距離を跳んだのか定かではないし、はるばる戻ったとしても前階層へ戻るスフィアに迷わず辿りつける自信もない。ラビリンスがわざわざこれだけ広い階層を作ったということを考えると、少なくとも多少は奥地であるこの辺りに次層へのスフィアがある可能性はありそうだった。


 そんなことを深々とかぶったフードの奥でぼんやり考えつつ、サンドワームの大群を引き連れ黙々と砂丘を踏破し続けるヤーヒム。左手の甲に同化した、ラドミーラに贈られた不滅の紅玉ルビーの結晶の輝きも黒くくすんできている。今まではどこか、この紅玉がヤーヒムに力を分け与えてくれているような気がしていた。懐かしいラドミーラの温もりが静かに、しかし力強く心の片隅に浮かんでいたのだ。だが、それも弱く掠れてきていて――


 どれだけ時間が経ったか、そんなことすら分からなくなってきた、そんな時。


 ヤーヒムの耳に、こんな場所で聞くとは思ってもいなかった響きが飛び込んできた。




「おおーい、おおーい!」




 朦朧とした意識をくぐり抜け、遠く微かに聞こえるそれ。

 ヤーヒムがフードの奥から視線を彷徨わせると、左前方の砂丘のひとつに人影があった。


 急速に意識が覚醒する。

 人影は……六つ。

 先行するケンタウロスに騎士系五人のその一団は、前六十三階層の終点で隠れて休息を取っていたヤーヒムを追い抜いて行ったパーティーではないか。



 ――新鮮な、血だ。



 飢えと渇き、負傷と体力の枯渇に苛まれていたヤーヒムの脳裏に、ヴァンパイアの本能が甘美な囁きを流し込む。

 あのケンタウロスには力に満ちた美味そうな血が大量に流れていそうだ。そして……この場所からでも分かる、極上の処女が二人。降り積もったばかりの雪のように純粋無垢で穢れの欠片もなく、麗しい生気に溢れ、芳醇で甘美なる血の誘惑。


 ……あれを、飲みたい。


 特に左の金髪がいい。

 色濃く漂うエルフの血の匂いに混じって、かつて一度だけ血を飲んだ人間の娘と同じ懐かしい匂いがする。

 あの娘と同じ穢れなきしなやかな首に牙を突き立て、溢れ出る甘美を思いのまま啜り、最後の一滴まで貪るように――



「……おおーい、まさか、黒衣の剣士なのかあー? おおーい!」



 コクイのケンシ?

 己に対する妙な問いかけに、ヤーヒムの意識が現実に引き戻された。


 フードの下で知らぬ間に牙が伸び、左手の甲に同化したラドミーラの紅玉がドクリドクリと脈打っている。

 コクイのケンシは分からないが、自分が暴走する一歩手前だったのは分かった。危うく誓いを破り、獣のように人に襲いかかるところだった。そんなことをしては己はもちろん、ラドミーラに申し訳が立たない。


 ラドミーラ…………まだ何処かで生きているのだろうか……。

 ヤーヒムはそっと左手の甲の紅玉を撫で、牙を隠すようにフードを深くかぶり直した。



「おおい、あんた黒衣の剣士だろ!? ちょっと待てって! 知り合いが何人もあんたに命を救われてんだ、せめて礼を言わせてくれ! それにあんた、随分とボロボロじゃねえか。手助けは要るか――」



 視線を上げると、巨大なハルバードを小脇に携えた重装備のケンタウロスが後ろの一団を引き離して砂丘を軽快に駆け上ってきている。

 これは……けして良くはない展開だ。

 今そばに人系種族にいて欲しくなかったし、何より――


 ヤーヒムは反射的に背後を振り返った。


 そこに広がっていたのはこちらを包囲するようにじわじわと接近する無数の小山。

 残るは砂丘三つ分の距離しかない。

 このまま接近されると自分もこのパーティーもサンドワームの大群に呑まれてしまう。特に盾を持った重装備の騎士三人、彼らが地中から飛び出してくる荒ぶる巨獣の群れから機敏に逃れられるとは思えない。


 どうすべきか――


 と、ヤーヒムの視線が一点に釘付けにされた。

 三つ目の砂丘を超えて迫り来る無数の小山が、ある一点だけ避けるように迂回しているのだ。……まさか!


 ヤーヒムは脱兎のごとく駆け出した。

 唖然とするケンタウロスを置き去りにし、どこからともなく湧いてきた力で限界まで砂地を蹴り、サンドワームの群れに向かって疾風の如くひた走る。


 おい、待てって! 背後でそんな声が上がるが頓着しない。目の前に迫り来る無数の小山が混乱したように乱れ出すがそれも無視する。


 あのパーティーから唐突に逃げ出したように見えるかもしれない。

 いや、あの強烈な血の誘惑から逃げ出したのは事実なのだろう。だが、一緒にあの場にいる訳にはいかなかった。何より――


 ヤーヒムの頭にあるのは、ここまでで目にしたラビリンスの魔獣のひとつの習性。

 かなり浅い階層にいた頃、負傷したディガー――迷宮探索者パーティーが必死に魔獣から逃げていたのを見かけた時に目にした光景。


 その時、助けの手を差し伸べる間もなくそのパーティーは転移スフィア前の空き地に転がり込んだ。そして次の瞬間、魔獣に追いつかれ――はせずに、魔獣達は空き地の周囲を狂ったように駆けまわるだけだったのだ。そして、スフィアを目の前にして転移するでもなく、悠長に互いの無事を喜び合っていたディガーパーティーの面々。


 それはどういうことか。

 ディガー達の中では常識となっている、ひとつの習性が魔獣にはあるのではないか。


 無数の小山が避けて迂回している砂丘の一点を凝視する。

 あの時と同じだ。

 あそこに転移スフィアがあって、それをサンドワームが避けているとしたら。


 ――ッ!


 目の前の砂面から飛び出してきた巨大な口を寸でのところで回避する。

 爪は出さない。

 爪で僅かな攻撃をしても巨体に意味はないし、こちらを凝視しているであろう背後のパーティーに余計な詮索をさせたくはないからだ。


 砂中から次々とサンドワームの巨体が飛び出してくる。

 が、ヤーヒムはそれら全てを文字どおり人外の反応速度を以て尽く躱し、前に進み、そして。



 ついに目指していた砂丘の一点、荒れ狂う無数のサンドワームの大群の中にポツンと空いた十メートルほどの絶対領域に飛び込んだ。






―次話『前人未到』―

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