05 束の間の出会い

 屋敷の門の外では、雑多な種族が入り混じった野次馬が遠巻きに様子を窺っていた。

 背後の騒動とは打って変わり、取って付けたような重苦しい沈黙が月明りに照らされた大通りを押し包んでいる。


 夜空に轟々と燃え上がる太守の屋敷、去って行った明らかに正規兵と思われる屈強な軍勢、ヴァンパイアと叫びながら逃げていく傭兵達――誰もがとばっちりを恐れ、だが好奇心に勝てない者もいるらしい。

 ここで走って姿を消すのは簡単だ。だが、そうすればこの野次馬達に強い印象を残すこととなる。ヤーヒムは改めてフードの奥深く顔を引っ込め、努めて平然を装って淡々と足を進めていく。


 その歩みを冴え冴えと照らしているのは、見事なほどに満ちて真円となった月の明かりだ。


 そう、ヤーヒムにとって百余年ぶりの夜空に浮かぶのは奇しくも満月。しかも人の目に映らない五つの影月も全て満ちているという、ヤーヒムがヴァンパイアになった晩と全く同じ<新生の月夜>ホロスコープと呼ばれる夜だった。

 その神秘的なまでに静謐な月明りが、百余年ぶりのヤーヒムの新たな生を見守ろうとするが如く、青味を帯びた白光で全てを明瞭に照らし上げている。そしてその中を淡々と、ただ独り堂々と歩んでいくヤーヒム。


 静まり返った大通りの両脇には、豪奢な屋敷がずらりと並んでいる。そして、僅かに左脚を引きずり、血の匂いを漂わせるヤーヒムを誰も引き留めようとしない。関わり合いになりたくないのだろう。


 幸いなことに、逃げる傭兵達があれだけ大声で叫んでいたヴァンパイア云々はそこまで真に受けられてはいないようで、雑多な種族の野次馬達は逃げもせずに恐るおそる遠巻きに視線を投げかけてくるだけだ。


 純粋な人族はもちろん、兎人族や犬人族、矮人族――いわゆるドワーフ――など、それぞれが特徴的な装いをして逃げる気配もなくひそひそと囁き合っている。


 それはこの場のヤーヒムにとって有難い反面、人系種族にとってそれだけヴァンパイアという存在が遠いものとなっている証なのかもしれない。ヤーヒムの知る百年前ならば、今ごろ街は蜂の巣をつついたような大混乱に陥っているだろう。


 ともあれ、これだけの騒ぎになってしまっている以上、できるだけ早く穏便にこの場を離れるべきだった。世間の認識はどうであれ、ヤーヒムはヴァンパイアだ。ダーシャが見せた最初の反応を考えても、早々に夜の街に紛れてしまった方がいい。


 幾つもの視線を浴びる重苦しい緊張感の中、ヤーヒムは必要以上の注目を集めぬよう、殊更ゆっくりと歩いていく。


 屋敷から出てひとブロック弱。

 深々と被ったフードの奥から窺う限りでは、ヤーヒムの記憶にある百年前の街の姿よりも格段に栄えているようだった。魔法灯が月明り以上に明るく大通りを照らし、両脇にぎっしりと並ぶ屋敷群は軒並み二階建てか三階建てだ。家々の細かい造作ひとつとっても、百年前にヤーヒムがこの街を訪れた当初より更に金と権力の匂いが増している。


 ……大陸屈指の迷宮都市の呼び名は未だに健在のようだ、ヤーヒムの頭の片隅にそんな言葉が横切っていく。


 通りに出ている野次馬以外にも、両脇に並ぶ屋敷からこっそり覗ういくつもの視線がヤーヒムの張り詰めた神経を刺激してくる。もし騒がれるようだったら即座に逃走に移る心づもりではいたが、ヤーヒムは誰にも止められることなく、ようやくブロックの終わりの大きな十字路まで辿り着いた。


 ……この十字路。


 様子はかなり変わっているが、ヤーヒムには微かに見覚えがあった。右に行けば繁華街が広がり、左に行けば職人街を経てこの都市の繁栄の源、ラビリンスの入口へと道が続いているのではなかったか。街の外門は確かまっすぐ進んでいけばそのうち辿りつけたと思われる。


 けれど、記憶と違って外門へ行くまっすぐ方向にも繁華街が進出してきている。立ち並ぶ魔法灯に加えてずらりと並ぶ店や酒場らしき建物から漏れる灯りがあるからだろうか、右方向も正面もこれまで以上に明るく照らされた大通りが続いている。……どちらも野次馬以外の人影はなく、相変わらず緊張を孕んだ上っ面の沈黙に包まれてはいるが。



 ……あれは、もしかして?



 十字路のかなり先、何人もの野次馬が緩く遠巻きに輪を作っている。その中心、見覚えのあるぼろぼろの貫頭衣にヤーヒムの視線が引きつけられた。


 野次馬の密やかな視線を浴び、身なりのよい数人の男女に気遣われるように話し掛けられている裸足の少女。哀れなぐらいに痩せた細い背中、ぼさぼさの髪――間違いない、ヤーヒムに先立って逃げ落ちたあの忌み子の少女、ダーシャだ。


 僅かに歩みを緩め、鋭く見詰めるヤーヒムの視線の先で、背後に護衛らしき男を従えた若い女がダーシャの前に屈んでしきりに話し掛けている。距離があるため種族や女の顔立ちまでは分からないが、ダーシャを気遣い、落ち着かせようとしているのは雰囲気で伝わってくる。


 ヤーヒムは意を決し、少し距離を取るように通りの端に寄りつつもそのままゆっくりと歩き続けた。

 乗りかけた船だ。彼らが善意の保護者ならよし、さもなければ――


「……おい、あの子供、屋敷から逃げてきたんだよな? 勝手に保護したらマズくないか? 守備隊に連絡した方が……」

「……馬鹿、あれシェダの姫さんだぞ。お貴族様に関わったら何をされることか」


 ヤーヒムが十字路にさしかかった時、遠巻きに見守る野次馬達の囁きがヤーヒムの鋭敏な耳に飛び込んできた。


 ……貴族、だと?


 ヤーヒムの胸に、自らを捕らえていた欲望塗れのバルトル一族の姿がまざまざと浮かぶ。もしダーシャが辿り着いた先が似たような輩ならば、もう少し手を出すことに躊躇いはない。


 だが、ダーシャに話しかけているあの若い女。

 ダーシャが忌み子ということはもう分かっているだろうに、忌避するどころか、その態度からは慈愛すら感じられる。ダーシャへ手をゆっくりと差し伸べ――


 魔法だ!


 女が指先を光らせ、複雑な魔法陣をダーシャの眼前に描いている。

 あれは通常、神殿にしか使い手のいない光属性の高度な魔法だ。完成した魔法陣から柔らかな光がダーシャに降り注いでいく。けして悪い魔法ではない。むしろ神々しささえ漂っている。もしや、忌み子の魔の血を抑えようとしているのか――


 ヤーヒムが息を呑んで見守る中、ダーシャの背中から強張りが抜け、そのまま魔法をかけ終えた女に抱き締められた。

 ダーシャの嗚咽が漏れ聞こえてくる。これは、ダーシャが遂にささやかな幸運を手に入れたということだろうか。それならば――



 と、その時。



 ヤーヒムのヴァンパイア特有の鋭い聴覚が、遠くを走る複数の足音を捉えた。

 ……十人、二十人、いやもっと多い。馬もいる。


「退けえ! 邪魔だ!」


 乱暴な叫びを上げ、ダーシャ達のいる外門方向へと伸びる大通りに、横道から数騎の騎兵が飛び出してきた。続いて駆け足の兵士の集団が姿を現す。屋敷に来た軍隊とは違う揃いの革鎧を着た彼らは、躊躇いなくこちらの方へと駆けてくる。


「…………ッ!」


 ヤーヒムは痛む脚を無視して左の大通りへと飛び込んだ。さらに手近な路地へと滑り込み、顔を半分だけ出してそっと様子を窺う。

 息を殺して見守るうちに、馬蹄を高らかに響かせた騎兵が先行して燃え盛る屋敷の方へ十字路を駆け抜けていった。同じく純粋な人族だけで構成されているとはいえ、屋敷から引き揚げていった軍勢に比べてかなり素朴な装備だ。あの軍勢を名のある騎士団とすれば、こちらは街の守備兵といったところだろうか。


 少し時間を置いて、兵士達が一団となって騎兵を追いかけていく。全部で三十人少々。

 彼らが街の守備兵だとすると、あの太守の屋敷に救援に向かったのだろうか。明らかに手遅れだが――そこまで考えたヤーヒムは思わず息を止めた。


 いや、それはおかしい。

 街の守備兵があの大規模な軍勢の侵入を知らぬ訳がない。では彼らはなぜ今になって屋敷に向かう――


「館の庭にはいなかった! 散開して捜索しろ! 正門にも伝令を!」


 曲がり角の奥で蹄の音が戻ってきたと思えば、途中で怒鳴り声が響いた。

 兵士の足音がバラバラと止まり、小さなどよめきと共にこちらへと方向転換をしたようだ。戻ってくる。もしかして、彼らの目的は――ヤーヒムはすぐさま路地の入口から飛びずさり、裏路地のさらに奥へと身を翻した。


 庭にはいなかった、と言っているということは、庭で目撃された何者かを追っているということ。

 それはつまり、つい先ほど庭で暴れた己を追っている可能性が高い。


 動きが早すぎる!

 ヤーヒムは闇雲に裏路地を駆けながら舌打ちをした。太守の屋敷が炎上しているというのに、それを放置して捜索を始めるぐらいだ。自分とは無関係ということもあり得るが、甘い夢を見てはいけない。伝聞で聞いただけの野次馬達はともかく、直接ヤーヒムを見たダーシャや傭兵達の反応を考えると、人系種族のヴァンパイアに対する恐怖は未だ強く残っていると考えるべきだろう。


 あの傭兵達を逃すべきではなかった、ヤーヒムは忸怩たる思いで迷路のような路地をひた走る。

 あの時はダーシャの逃亡をより確実にするため、ヴァンパイアだと叫ぶ傭兵達の声が街にパニックを引き起こすことを期待していた。それがパニックは起きずに街は静かなもので、勇敢にも兵士達が猛然と追いかけてくるこの状況。


 今の世相はどうなっているのか。

 ヴァンパイアが怖れられているのかどうなのか、立ち位置がさっぱり分からない。


 だが、再び捕まる愚は絶対に犯さない。

 脚の負傷を考えると、逃げの一択だ。整然とあの屋敷を退出していった軍勢を含め、この都市の権力者達がどう繋がっているか全く見えないからだ。情報が広く回れば回るほどヴァンパイアである自分は包囲されて――


「いたぞ! 黒ローブだ!」

「足を怪我してるぞ! 追い詰めろ!」


 迷路のような裏路地の先に唐突に兵士が現れた。

 先回りされるような鈍い逃走ではなかった筈だが、地の利は彼らにあるということか。ヤーヒムが一瞬躊躇した隙に、兵士の一人が革鎧の胸元から素早く笛のようなものを取り出して吹き鳴らした。鋭く甲高い音が周囲に鳴り響き、周辺のあちこちから呼応の声が夜空に立ち昇っていく。


「……ッ!」


 ヤーヒムは咄嗟に大きく跳躍し、脇の建物の二階の窓に飛びついた。危険な展開だ。追手が集まってくる前にこの場から離れなければ。飛びついた窓から路地を挟んだ反対側の家へと飛び移り、そのまま壁を蹴って一気に上へとよじ登る。魔法傷を負った脚に走る激しい痛みを無視して突き出た破風に手を掛け、更にその上へと――


「うおお! なんだあの動きは!」

「上だっ! 屋根に登って逃げたぞ!」


 五月蠅いほどに吹き鳴らされる笛の音を置き去りにして、月明りに照らされた家々の屋根上を飛ぶように駆けていくヤーヒム。

 左脚の傷が開き、オレンジ色の屋根瓦の上に血を点々と残しつつもひた走る。状態は良くない。馬の血はたらふく飲んだが、元々が衰弱しきっていたのだ。遠からず体力が尽きる。


 あの小男が言っていたことは本当かもしれない、集中が途切れ始めた意識の中でヤーヒムは考える。

 恐怖の象徴である筈のヴァンパイアを、人族の兵士がここまで恐れずに追って来るとは。人族にとってヴァンパイアはもはや狩りの対象であり、自分は本当に最後のヴァンパイアなのか。


 いや、全ては自分の思い込みかもしれない。

 兵士達はただ単に屋敷の関係者を追っているだけ、そう、地下牢で骸となっているあの女当主を探しているだけかもしれないではないか。


 違う、さっき黒ローブがどうのと声がしていた。

 あれは明らかに黒ローブを目印に誰かを追っていたのだ。それはつまり庭で暴れたヴァンパイアのことで――


 ――集中しろッ!


 ヤーヒムは強く頭を振って、迷走しがちな思考を引き締めた。とにかく血が足りない。

 どこかに身を隠しつつ、獣の血を大量に取り込んで傷を癒さなければ。いや、力ある魔獣の方が手っ取り早い。


 すぐにでもどこか良い場所を見つけないといけない。

 どこか良い場所――

 どこか――


 そうだ! ヤーヒムの脳裏にひとつのアイデアが雷光のように閃いた。

 ここは迷宮都市ブシェク、うってつけの場所があるではないか!


 そもそもそれを目指してこの街に来たのだ。

 囚われの百年という忌々しい時間を挟んだものの、ここでそこに向かわないという手はない。


 ヤーヒムは荒い息を吐きながら鋭く顔を上げ、僅かに方向を修正して屋根の上を力強く走り始めた。






―次話『潜伏と始動』―

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