02 脱出
時は僅かに遡る。
地下牢のヤーヒムをバルトル家の女当主が訪れていた頃、眠らない街、迷宮都市ブシェクの歓楽街に五百を超える亜人混じりの軍勢が押し寄せていた。
いつもと変わらぬ酒混じりの喧騒が一転、我先に逃げ出す人々、沸き起こる悲鳴と共に大混乱に陥る大通り。先頭の騎兵はそれらを一顧だにせず、邪魔な民衆を馬蹄に掛けながら都市最奥の太守の屋敷目がけて真っ直ぐに突き進んでいく。
「門を開けろ! 邪魔するなッ!」
「なっ……ここをブシェク太守バルトル家の屋敷と知っての――」
「静まれ!」
騎兵の間から、ひと際立派な軍馬に跨った偉丈夫が姿を現した。
「門番、俺の顔は知ってるな? 逆らうと碌なことがないぞ」
かがり火に照らされるたてがみのような赤髪に緑の瞳。
数々の武勇伝を持つその顔をこのブシェクで知らぬ者はいない。
「ひいっ、イヴァン様……!」
そう、この偉丈夫はブシェクを治める三貴族家のひとつ、ナクラーダル家の次男坊だ。ナクラーダル家は太守を務めるバルトル家に金の力で無理やり頭を抑えつけられてはいるものの、その権威自体は同じ三貴族家、太守を務めるバルトル家に勝るとも劣らない。
ましてやこのイヴァン、ブシェクの裏社会と強い繋がりを持つ武闘派ナクラーダル家、その破城槌と呼ばれる荒っぽい男である。ナクラーダル家が争いを起こす時は常にこの男が先頭で突っ込んでいくといっても過言ではない。その男が見慣れぬ多数の軍勢を引き連れ、残虐な笑みをかがり火の下で浮かべているのだ。
そしてそのイヴァンの後ろからもう一人、神経質そうなやせ型の男も轡を並べてきた。
「ペイシャ家のご当主まで…………いったい何事が……」
ペイシャ家はブシェクを治める三貴族家の最後のひとつだ。
財政破綻が囁かれ表舞台に立つことが少なくなってはいるものの、そのペイシャ家とナクラーダル家が珍しくも揃って、残る三貴族家のバルトルの屋敷前に兵を連れて押しかけてきているのだ。しかもナクラーダル家のイヴァンの背後にいるのは、純粋な人族のみで編成された、夥しい数の王国正規兵だ。状況をうっすらと理解した門番の顔がみるみる青ざめていく。
「バルトル家はやり過ぎたのだ、これを見ろ! 当主アデーラ=バルトルに売国および反逆罪の容疑で王から召喚令状が出ている! 見てのとおり王都からも捕縛の兵が派遣されているのだ! おとなしく本人を突き出せ、さもなくば屋敷に火をかけるっ!」
懐から文書を取り出し居丈高に叫び始めるペイシャ家当主オレク。その神経質そうな顔は愉悦に歪んでいる。
王からの召喚令状――それはどんな貴族でも恐怖する代物だ。王都に集う宮廷貴族とのコネとパイプ次第で白が黒とも断じられ、利権や財産の没収は当たり前。その分け前にありつこうと無数の貴族がハイエナの如く群がってくるのだ。
「ひいっ! しょ、少々お待ちを――た、確かにアデーラ様は本日在宅しておりますのですぐに取次ぎを――」
「ええい、まどろっこしいわッ! 者共、突っ込め! アデーラのクソ婆ァを捕えて財宝を片っ端からおさえろ!」
「なっ――ナクラーダルに後れを取るな! ペイシャ家再興の絶好の機会だ、多少の狼藉は許す! 錬金施設を探せ! ブラディポーションの製法だけは我が方で確保するのだ!」
荒ぶるイヴァンが一刀の下に門番を斬り捨て、先陣を切って屋敷に突入していく。
続いてなだれ込むナクラーダル家の私兵に遅れ、黒ローブを着たペイシャ家の私兵達も目の色を変えて屋敷に飛び込んでいく。
「糞ッ! 田舎貴族に負けるな! 我が近衛連隊でバルトル家の富を可能な限り押収するのだ、総員突撃!」
隊長格の号令一下、五百名の王国正規兵も喚声を上げて突撃を始めた。驚くほど効果の高いポーションを独占販売し、百年四世代に亘って栄華を極めたバルトル家の屋敷が今、より強大な欲望の炎に飲み込まれようとしていた。
◆ ◆ ◆
すまない――ヤーヒムが震える少女の下で心を閉ざしてしばらく。
いつまで経っても少女の血が零れてこないことに不審を覚え、ヤーヒムはゆっくりと静かに目を開いた。
少女は未だ自分の上でナイフを握りしめており、だが、その向こうで女主人が手振りで「待て」と少女の行動を寸止めしている。
そしてその女主人は僅かに首を傾げ、何かに耳を澄ましているかのよう。
……誰か、争っている?
無意識に閉ざしていたヤーヒムの鋭敏な聴覚が外部の騒動を拾い始めた。
五十、いや少なくともそれに倍する人数が階上で大立ち回りを演じているようだ。大きな爆発音と共に数人の絶叫が上がり――魔法だ。
ヤーヒムの脳裏に、百年以上前に己が捕らえられたヴァンパイア狩りの光景がまざまざと甦る。
ヴァンパイアにとって優秀な魔法使いは天敵だ。階上から断続的に響き始めた爆発音が自分に向けられたものではないと分かっていても、ここに囚われる直接的な原因となったその忌まわしい音がヤーヒムの心の裡に警鐘を鳴らし、その感覚を研ぎ澄ましていく。
「お、お前! ちょっと上の様子を見てきなさい! 何が起こっているの!? このバルトル家の屋敷でいったい何事――」
女主人が奴隷の少女の襟首を掴み、扉の外へと乱暴に押し出した。
「すぐ戻ってくるのよ! それとケイヒムに命じて屋敷の兵隊を大至急集めなさい、状況を確認してすぐに対処させて! それからどこの誰がこんな狼藉をしているか首謀者を突き止めて、ブシェク騎士団を動かして徹底的に報復を――ひいっ」
たかだか奴隷の少女に向かって無理難題をまくし立てる女主人の耳障りな喚き声を、ひと際大きな爆発音が遮った。
地下牢の中で唯一木造の天井がたわみ、ヤーヒムの身体にパラパラと土片が落ちてくる。
――!?
ああ、
爆発音で腰が抜けたようにへたり込んだ女主人をよそに、ヤーヒムはゆっくりと顔を起こした。
――間違いない。力が戻ってきている。
長きに亘って自分の力を奪ってきた、天井床壁の封魔の六面魔法陣の吸引力が緩み始めているのだ。
もしやと思い階上の爆発で大きくたわんだ天井を見上げると、そこに精緻に描き込まれた魔法陣に衝撃で綻びが生じ、パチパチと火花を上げて暴走を始めている。
……鋭くも優美に整ったヤーヒムの顔に、百年ぶりに表情が浮かんだ。それはやつれ果て、だが凄惨極まりない会心の笑み。
己をここに囚え続け、必要のない無垢な命を散らし続けた元凶は未だ扉の外に顔を向けたまま呆けている。
磔にされた十字架の上、右腕に力を込めてみる。……動く。幸いなことに、長きに亘って身じろぎすらしていなかったお陰か、銀の鎖はそこまできつく縛られていないらしい。
フンッ!
気合いを込めて右腕を引き抜く。
手のひらを十字架に打ち止めていた太釘が引っかかり、激痛と共に掌が裂けるが努めて無視をする。すぐにヴァンパイア特有の治癒力で癒えるし、それより何より、百年ぶりに右腕が自由になったのだ。
――女は未だ気付いていない。
込み上げる歓喜を押し殺し、自由になった右手で左腕を十字架に打ち止めている太釘を引き抜く。まとわりつく銀の鎖を音もなく払いのけ、ヤーヒムは百余年ぶりに拘束から逃れた上半身をゆっくりと起こしていった。
身体が十字架から離れるにつれ、加速度的に力が戻ってくる。
煙を上げて傷が塞がっていく両手を確かめるように握り締めてみる。左手の甲に同化した不滅の
間違いない、実に懐かしいこの感覚――
「ヤ、ヤーヒム……あなたまさか……」
女が目を丸くして、十字架から上半身を起こしたヤーヒムを見つめていた。
振り向いたまま不自然な体勢で凍りつく醜く肥え太った女の向こうでは、今なお続く階上の爆発音が繰り返し響いている。微かに煙の臭いも漂い始めたようだ。
そして、その煙の臭いに触発されたように、地下牢内においても四方で火花が飛び交い始めていた。封魔の魔法陣の、天井床壁、六対の調和が崩壊して全体の暴走が始まったのだ。
終末の足音が迫り来る中、バルトル家女当主が引きつった金切り声で喚きだした。
「……な、や、そ、そうだわっ! 貴方も上を見てきなさいな! これまで散々奴隷の血を飲ませてあげたじゃない、その位の恩はあるはずだわっ! それに、狼藉者を成敗したらわたくしの愛人にしてあげるわ! わたくしずっと夢見ていたのよ、貴方を自由にして昼も夜も二人で堂々と愉しむの――」
「黙れ」
下半身を十字架の戒めから解き放ったヤーヒムが、ひときわ激しい火花と共にゆっくりと立ち上がった。己の脇腹に打ち込まれた鉄杭にチラリと目を遣り、表情も変えずに躊躇なく引き抜く。掌の傷は既に塞がり始めている。高位ヴァンパイアならではの驚異的な自己治癒能力だ。鉄杭が抜かれたばかりの脇腹もまた、みるみるうちに血が止まっていく。
今や地下牢の壁という壁がバリバリと紫の放電を繰り返し、封魔の魔法陣は既に何の効力も発していない。
百余年ぶりに己の足で立ち上がったヤーヒムの脳裏を占めるのは、これまでさんざん己を弄んできた眼前の変態女の爛れた欲望だけではない。
何よりも許せないのは、この一族と、この下衆女が下したおぞましい命令の数々。それによって無垢な命を散らしていった無数の奴隷少女の瞳が、まざまざと脳裏に蘇っている。
碧、翠、鳶――様々な色の虚ろな瞳が、最後に決まってその奥に浮かべるのは深い絶望の色だった。うら若き彼女達の命と、その血の上に生かされてきた罪深き自分。償うことなど出来ないが、この汚い欲望にまみれた茶番を今この場で終わらせることは出来る。
「――言い残すことはそれだけか」
ヤーヒムの右手の爪がするすると伸び、周囲の紫電に負けぬほどの青白い光を放ち始めた。――ヴァンパイアネイル。高位ヴァンパイアが相手を皆殺しにする時に使う、悪名高き殺戮手段だ。
「ひいっ! ヴァヴァヴァ、ヴァンパイアネイル! なんでそれを今……だ、だ、誰かたすけ」
言葉はそこで途切れた。
目にも止まらぬ早さで近付いたヤーヒムが右手を一閃、醜き女の首元から顔にかけて剃刀のような蒼い残光を走らせたのだ。
飛び散る鮮血、真っ赤に染まるヤーヒムの身体。
青白の光を放つ五本の爪が、恐るべき切れ味で女当主の喉から上に五本の斬痕を斜めに刻み付けていた。
「妄言は要らぬ」
喉笛を切り裂かれ、悲鳴だったものがごぼごぼと血の泡となって噴出している。
女の目に浮かぶ痛みと恐怖の声にならない叫び、そして立ち込める濃密な血の匂い。
それは飢えきったヴァンパイアを
体の根源的な部分が狂ったように沸き立っている。それを飲め、と。
けれどヤーヒムはその欲求をねじ伏せ、アデーラ=バルトルの髪を鷲掴みにして語りかけた。
「覚えているか、五百を下らない、貴様が我に血を啜らせた罪なき乙女の数を」
凍える刃のようなアイスブルーの瞳が、血塗れの女を冷え冷えと見下ろしている。
「この場で終わらせる。これ以上はさせぬ。――自らと一族の罪を地獄で悔いろ、変態女め」
青光一閃。
青く輝く五本のヴァンパイアネイルが、ヤーヒムの左手に吊り下げられた肉塊を六つに分断した。
そしてもう一度、左手に残った頭部をそのまま落下させ、宙にある間にそれを細切れにする。
末期の地下室の光景は凄惨を極め、血の匂いが一段と濃さを増して立ち込めている。
「……お前の臭い血など誰が飲むものか」
崩れ落ちる女の残骸を無造作に蹴り飛ばし、ヤーヒムは百余年ぶりに地下牢の外に向かって歩みを進めた。下衆女の末路としては生ぬるいにも程があるが、今はここから出るのが先――
と、ヤーヒムはそこで彫像のように足を止めた。
無様に倒れゆく亡骸の向こう、扉の外に、顔に血飛沫を浴びた少女の姿があった。階上の様子を見に行かされた奴隷の少女が戻ってきていたのだ。
「あ……や……あ……」
蒼白な顔に点々と血飛沫を浴び、目の前で行われた惨劇に哀れなほど怯えている少女。床にへたり込み、ガクガクと震えて意味もなく口をぱくぱくと動かしている。その緋色の瞳が宿すのは、全てを塗りつぶす恐怖と新たな絶望。その光景にヤーヒムの胸は鈍く疼き、無意識の内に右手の光る爪が解除されていった。
「動くな」
ヤーヒムは無表情で少女に歩み寄ると、その細い首に両手を伸ばした。
「……ゃ…………」
声も出せないほど怯える少女の首輪を掴み、無言のまま両手で押し開くヤーヒム。左手の甲に同化した紅玉が鈍く輝き、幅のある厳つい鉄の首輪が飴細工のように千切れて床に投げ捨てられた。
「……ぇ……あ……?」
何が起こったか理解できず、露わになった己のか細い首に恐るおそる手で触れる少女。
「――逃げろ。今度は奴隷狩りになど捕まるな」
ヤーヒムは己の言葉に驚いた。
まさか百年ぶりに自分の口から転がり出たまともな言葉が、奴隷の少女に向けたそんな言葉だとは思ってもいなかったのだ。
首輪を外す際に微かに触れた少女の首は匂い立つように甘美な血を予感させ、衰弱したヤーヒムの理性を激しく揺さぶってきている。目の前の少女に流れるこの穢れなき甘い血を飲み干せば、それだけでかなりの回復が見込めるだろう。
だが、せっかく理不尽な運命を断ち切ったばかりの命を、またヤーヒムの勝手で散らす訳にはいかない。何より、人の血はもう充分だった。
それに……
緋色の瞳に生まれたが故に捕えられ、理不尽な運命を押し付けられていた少女に、ヴァンパイアであるが故に百年に亘ってこの理不尽な地下牢に囚われていた自分のこれまでが重なっていた。少女への言葉は自分への言葉でもあったのかもしれない。
この理不尽な地下牢から出る。そしてもう二度と囚われはしない。ヤーヒムのアイスブルーの瞳に強い決意が漲り、少女の向こう、扉の外に続く薄暗い廊下の先を鋭く見つめた。
「我が先に上に出る。少し経って物音が落ち着いたら騒動に紛れて――」
ヤーヒムは正面から少女の顔を覗き込んだ。そこにあるのはただの混乱のみ、先ほどまでの絶望は隅に追いやられている。
そうだ。
まずはこれでいい、そう思った。
「――娘、お前の名は何という?」
「………………ダーシャ」
「そうか。ならばダーシャ、我が出た後、物音が落ち着くのを待って静かに逃げ出せ。そして……」
ヤーヒムはそこで言葉を止めた。
少女の身体にある無数の傷に改めて気が付いたのだ。彼女が受けていた扱いの酷さを物語る、生々しい傷や痣の数々。ヤーヒムは微かに眉をしかめ、茫然と己を見上げるダーシャの顎に優しく左手を添えた。
そして、右手の小指を素早く食い破り、溢れ出る己の血を有無を言わさずダーシャの口に滴らせた。
「やっ……あ…………あ?」
突然の出来事にもがいていた生贄の少女はしかし、やがて唐突に身体の力を抜いた。そして、自らの手を持ち上げ、信じられらないといった面持ちでそれを眺め始めた。じくじくと痛みを訴えていた生傷が、痣が、みるみるうちに消えていっているのだ。
それは、高位ヴァンパイアの血による奇跡的なまでの治癒効果。
薄められたブラディポーションどころではない、高貴な原血そのものがもたらす圧倒的な現象だ。
ヤーヒムが顎の手を離すと、今度は自分の身体のあちこちを見て、触って、最後に少女は目を真ん丸にしてヤーヒムを見上げてきた。
これでいい、再びヤーヒムは思う。
首輪はなくなり、傷もなくなり、忌まわしい過去を思い出させるものは消し去った。瞳の色は如何ともしがたいが、ここにいるのはただの少女、ダーシャだ。
「……我が先に行く。物音が落ち着いたらお前も逃げろ。そして今度はもう捕まるな。お前はもはや奴隷ではない、自らの意思で強く生きていけ」
ヤーヒムはそう言うと、その冷たいアイスブルーの瞳でダーシャの緋色の瞳を見詰めた。
そこに込められているのは少女の未来に対する祝福と、自らの未来に対する強い決意。
そしてヤーヒムは少女の向こう、扉の外に続く薄暗い廊下の先に決然と視線を移した。服としての役割を果たしていない己の身に纏わりつくボロ切れを躊躇なく破り捨て、返事を待たずに歩きだす。
力強い足取りで向かう先は薄暗い廊下に続く登り階段。
何の争いが起きているのかは知らないが、百年もの間熱望し、諦めていた平穏がそこにある。
―次話『地上へ』―
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