01 百年の虜囚

「うわはは! 服か、宝石か? 欲しいものは何でも買ってやるぞ!」

「旦那、うちの店も見ていってくだせえ! 品揃えは大陸一ですぜ!」

「最高級の魔鉱石が入荷したよ! 早い者勝ちだよ!」

「ちょいと兄さん、うちの店で遊んでいきなよ――」


 喧騒と人いきれと砂埃。富と欲望の都ブシェク。

 それは知らぬ者などいない、ハルバーチュ大陸屈指の大都市だ。眠らぬ街とも呼ばれるそこには亜人も含めた様々な種族が無秩序に入り乱れ、夜になっても灯りが落とされることはない。


 その繁栄の源はブシェクが抱える迷宮ラビリンスと呼ばれる存在にある。その内部には広大な亜空間が何重にも迷路のように連なり、その濃厚な魔素を含んだ貴重な資源や素材の宝庫となっているのだ。

 大陸でも有数な規模の亜空間層を持つブシェクのラビリンスには、高額な魔素資源の採掘で一獲千金を夢見る者が雲霞の如く集まってくる――金の匂いに群がる欲深き商人達や、様々な欲望を滾らせた邪な者達もまた同様に。


 ブシェクの通りはラビリンス産の魔鉱石を使った街灯で夜でも煌々と照らされ、人間や獣人、貴族や奴隷などありとあらゆる種族と身分の人混みで常にごったがえしている。

 酒と女が用意された密室で後ろ暗い商談が夜毎に進められ、刃傷沙汰が絶えず、無数にある酒場からは嬌声と下卑た笑い声、怒号と悲鳴が昼夜の別なく響き渡っている――そんな荒んだ街の最奥部に。


 大都会ブシェクの最奥部、ひときわ豪奢な屋敷の地下に、ひっそりと一人の男が囚われていることは誰も知らない。



「……ヤーヒム……ああ、なんて逞しいのかしら……わたくしだけの秘密…………」



 陽の光も、夜の喧騒も一切届かない閉ざされた地下牢。カンテラの弱い光に照らされているのは、十字架に磔にされ、幾重にも鎖で繋がれている男が一人。そして、だらしなく太った半裸の女が意識のないその男の身体にしなだれかかり、恍惚とした顔で囁きかけている。


 女の名前はアデーラ=バルトル。この豪奢な屋敷の主であり、迷宮都市ブシェクを治めるバルトル家の今代の女当主だ。そして、厳重に秘匿されたこの地下牢を継続的に訪れるたった一人の人間……いや、四代目の人間、というべきか。


 磔にされた男の名はヤーヒム。

 欲望の街ブシェクから遠く離れた尚武の気風で名高いアンブロシュ王国、その誇り高き騎士一族の将来を嘱望された跡継ぎ息子――



 ――――だった。ほんの二百年ほど前までは。



 そう、普通の人族がそこまで生きられる訳がない。今のヤーヒムは人ではない。世間では絶滅したと思われている、忌み嫌われ続けた悪名高き存在だ。


「……うふふふ、血の出は相変わらず悪いけれど、しっかり溜まってるわ。さすがねヤーヒム」


 女が下卑た視線を落とした先にあるのは、十字架の根元に置かれた深皿。そこにはピチャン……ピチャン……と鮮血が滴っている。血の出処は磔にされたヤーヒムの脇腹。そこに太い鉄杭が容赦なく打ち込まれているのだ。

 杭の先端からゆっくりと、しかし絶えることなく滴る鮮血は深皿の半分ほどにも溜まり、単調な水音と共にひとつまたひとつと深紅の波紋を作り出していく。


 十字架に磔にされ、その上から銀の鎖で雁字搦めに縛られ、脇腹に杭を打たれても死なぬ生命力を持ち――そう、ヤーヒムはヴァンパイアだ。ヴァンパイアとしては未だ若き、けれど真祖直系の貴種中の貴種。


 人系種族にとってヴァンパイアは太古の昔から存在する恐怖の象徴だ。不老の身体と圧倒的身体能力を持ち、闇に紛れて人を狩り、その生血を啜る者。

 が、今のヤーヒムは十字架と銀の鎖に加えて、地下牢の床と四方の壁、天井に大きく描かれた封魔の六面魔法陣によって身動きすら封じられている。


「……ああヤーヒム、貴方はいつも美しいわね。わたくしだけの秘密……永遠の下僕……」


 ヤーヒムがこの場所でこうした囚われの身になって優に百年以上が経つ。

 大陸屈指の迷宮都市、ブシェクが誇る広大なラビリンスの亜空間に潜んで一人ひっそり静かに暮らそうとしていたところをヴァンパイア狩りに遭ったのだ。そして目の前の女、アデーラ=バルトルの三代前のバルトル家当主に秘密裏にここで磔にされ、以後バルトル家四代に亘って延々とこうして血を垂れ流し続けている。


 錬金術師の家系であるバルトル家は代々、驚異の自己治癒能力を持つヤーヒムの血を使って禁断の秘薬を製作し高値で売り捌いてきたのだ。


 秘薬の名はブラディポーション。どんな怪我でもたちどころに癒してしまう奇跡の霊水だ。製法は極秘、しかも他のヴァンパイアは狩られ尽くして大きく数を減らし、ここ数十年は怪しげな目撃情報すらない。秘薬の製法を秘匿した上に最後のヴァンパイアも手の裡に収め、バルトル家の繁栄は留まるところを知らない。


 巨万の富を築き、他の貴族家を屈服させ、大都市ブシェクの太守に君臨し続けているバルトル家。その権勢たるや王にも迫り、特権階級の贅沢に爛れ、ブシェクに蔓延した腐った文化はバルトル家が元になっていると言っても過言ではない。


「……ああヤーヒム、わたくしにご褒美を頂戴……その禁じられた瞳でわたくしを嬲って……ねえヤーヒムお願いよ……」


 醜く肥え太った体であられもなくヤーヒムにしなだれかかるバルトル家女当主が、退廃的な欲望を込めた囁きと共に未だ意識のないヤーヒムの体に荒くなった吐息を零し始めた。



 ……ヤーヒム……ヤーヒム…………



 永遠とも思える朦朧としたヤーヒムの意識の中に、執拗に繰り返されるその響きが染みとおっていく。いつしかそれはヤーヒムにとって、あの懐かしきラドミーラの声に変換されていた。


 ラドミーラ。それは二百年前にヤーヒムをヴァンパイアにした元凶。今なお残る憎悪の対象であり、そして永遠の恋人でもあった存在。太古の昔から生きる真に強力なヴァンパイアの一人で――


 真実、狂っていた女。


 けれど、ヴァンパイアの真祖と呼ばれる高貴な存在でありながら、ヴァンパイアになったばかりで不安定なヤーヒムを何くれとなく導き、甘やかし、戸惑うほどの愛で包んでくれた真正の恩人でもあった。


 ――ああ愛しい坊や、貴方が望むものは私が全てあげるわ。気高い栄光も、些細な欲望も、その全てを。だから永遠に一緒よ、ねえ愛しい坊や。


 妖艶で蠱惑的な肉体とそれを蝕む森厳なる狂気の奥深く、ヤーヒムに嫌われることをひどく恐れる乙女のように繊細な心を秘めたラドミーラ。初めは恐怖と戸惑いしかなかったヤーヒムの心も、どこまでも一途でそして脆いラドミーラの有り様に徐々に絆されていったのだ。


 隠れ家に拉致されて一年が過ぎる頃には寄り添うように、けれど互いの血を貪るように飲ませ合っていて――。




「……ああヤーヒム、ヤーヒム……」




 カンテラの妖しい光に照らされた地下牢では、四十を超えたバルトル家の女当主がしきりにヤーヒムの名を囁き続けている。そのおぞましい現実から逃れるよう、浮上しかけたヤーヒムの意識は再び深い霧の中へと彷徨っていく。


 ――ああ愛しいヤーヒム、貴方は特別なのよ。私の最高傑作、眩いほどに特別なヴァンパイアなの。永遠に二人で宴を続けるのよ。


 麗しのラドミーラと暮らし始めて一年が経って、ヤーヒムの身体はようやく完全なヴァンパイアとして花開いた。


 華やかな黄金色だった髪が漆黒に変わり、先祖伝来のアイスブルーの瞳は透明度を増し凍えるほどの冷たさとなった。小麦色に日焼けした肌は抜けるような白さとなり、犬歯が目立ち牙に近づいてきた。


 逞しく健康的な好青年といった顔立ちは鋭くも優美に整った闇の種族のそれとなり、元々の長身はそのままに筋肉が締まって、しなやかで鞭のような身体つきになった。


 そして、もがく獣から直接吸血する甘美を覚え――人間の血は最後まで無理だった――、ヴァンパイアとしての驚くべき身体能力が覚醒し、人間の騎士だった時には夢にも見なかった武の高みに踏み入る日々が続く。


 太古の昔から生きるラドミーアが武においても良き師となり、それをきっかけに甘美な血の狂気に溺れる二人の結びつきが更に解きがたいものとなったのは間違いない。


 ――ああ愛しい人、貴方は私の唯一の存在なの。ずっとこんな日が来るのを待っていたわ。二人で永遠に時を過ごすのよ。




「…………ああヤーヒム、もう随分と弱ってしまっているのね。仕方ないわね、お食事をあげるわ」




 地下牢では、バルトル家の女当主がようやくヤーヒムからその身を離したところだ。背後を振り返り、無言で全てを見守っていた奴隷の少女に顎で何やら指示を出している。

 ヤーヒムに目覚める気配はない。

 その意識は、現実を拒否するように更に記憶の深みへと潜っていく。



「ヤーヒム、目を醒ましなさいヤーヒム」



 しつこく呼びかける甘ったるい女の声が、囚われのヤーヒムの意識をゆっくりと浮かび上がらせた。

 それはラドミーラの声ではなかった。うっすら目を開けると、いつもの地下牢が視界に入ってくる。すえた臭い、じめじめと湿気て冷え切った空気。いつの間にか磔になったまま十字架ごと床に寝かされており、半裸の太った女がそんなヤーヒムの脇に立ち、粘つく笑みを浮かべて見下ろしている。


 ……今代のバルトル家の女当主。この冷え切った地下牢を継続的に訪れる四人目の人間。そして、出来ることなら目にすることも拒否したい相手。


「ああヤーヒム、やっと起きたのね。かなり弱っているようだけれど死んだら駄目よ。貴方はバルトル家の永遠の下僕なんだもの。ほら、お食事を用意したわ。今日は特別よ?」


 豪奢なドレスの肩紐を肉付きの良い肩に戻しながら女が微笑み、たるんだ顎を振って背後を指し示した。

 その先には、ぼろぼろの貫頭衣を着た奴隷の少女が、物音ひとつ立てずに佇んでいる。七歳か八歳といったところだろうか、やせ衰え、珍しい緋色の瞳には何の表情も浮かんでいない。


 ……忌み子、か。


 ヤーヒムは冷めた眼差しでその人族の少女を見詰めた。

 紅き瞳は魔の証、人系種族ではそういった迷信がある。この手の瞳に生まれた人族は、満月の晩に凶暴な獣に変貌するという。だが、ヤーヒムは知っている。それは数十年に一人いるかどうかの稀少な例だ。この娘の瞳はそこまで純粋な赤ではなく、単に迷信の犠牲となっているだけだろう。


 けれどもこの娘が辿ってきた過去は、傷だらけの身体だけでなく、首に嵌められた鉄製のものものしい首輪が明白に物語っている。

 哀れなことだ……ヤーヒムはそっと視線を逸らし、己の胸に湧いた同情に静かに蓋をした。


「うふふ、どうかしら。最近は闇奴隷も少なくてね、でも今日のはとびきりでしょう? 貴方のために頑張って手に入れたんだから。感謝してくれていいのよ?」


 だらしのない体でしなを作る女をそれ以上視界に入れておきたくはなく、ヤーヒムは仕方なく再び忌み子の少女にそのアイスブルーの視線を戻した。


 緋色の瞳を持った少女は遅ればせながら己が「食事」と呼ばれたことに気がついたのか、十字架、銀の鎖という地下牢の異様な道具立てに大きく目を見開いている。そしてその意味が頭に浸透していったのか、徐々にがくがくと震え始め――



 ――力なく開いたヤーヒムの口から覗く、未だ発達途中の二本の牙を見るなり絶叫した。



「いやあああ! ヴァ、ヴァ、ヴァンパイアアアアア!」

「――お黙りッ!」


 バルトル家女当主の鋭い叱責に、少女の口が強制的に閉じられた。

 更に少女の首輪がぎりぎりと締まり、痩せて目ばかりになった少女は不自然な体勢で硬直したまま、痛みと恐怖にぼろぼろと涙を流し始めた。


 ……隷属の首輪。


 人系種族に絶対の効果をもたらすそれは本来は凶悪な犯罪奴隷にのみ嵌められ、主人の命令に対し一切の反抗を許さない。そしてヤーヒムの眼前で繰り広げられるこの光景は、月に一度繰り返されるお決まりのもの。


 ヤーヒムにはこの先の展開が分かりきっていた。今回はこの大きな緋色の瞳をした少女が憐れな犠牲者らしい。そんな瞳で生まれたというただそれだけで、最期はヴァンパイアの生贄として生を終えることになった不憫な少女。


 だが、ヤーヒムにしてみても。


 人の血は飲まぬ、ラドミーラと訣別したあの運命の日にそう誓ったのに。

 誓いはこうして幾度も踏みにじられ、心の何処かがまた冷えて死んでいく――まだ冷える余地が残っていたことに、冷めた驚きを感じる自分がいる。


「さあ貴女、これで自分の首をかっさばきなさいな。ちゃんと血がヤーヒムの口に入るような位置でやるのよ? どうせたいして量は出ないんだから、周りに零して無駄になんかしないように」


 下卑た笑みを浮かべる女当主がナイフを差し出しつつ、少女に理不尽な命令を下す。その目はギラギラと輝き、人の命を弄ぶ退廃的な興奮に震えているのが丸わかりだ。


 ……この、変態女め。


 ヤーヒムの冷えきった心に侮蔑の炎が灯る。毎度変わらぬ胸糞悪い展開だが、何度繰り返されても受け入れることなどできない。


 ヤーヒムを生かすには必ずしも人の血でなくても良いのだ。

 事実、外の世界で暮らしていた間に人の血を飲んだのは一度だけ。通常は獣か魔獣の血で事足りたし、図らずも高位のヴァンパイアである彼は最悪、この街のラビリンスのような魔素の濃い場所に行けば周囲の魔素だけでも最低限の生を繋ぐことができるのだ。


 人の血を飲まずに過ごす、そんな穏やかな生き方を願ってこの迷宮都市に来たはずなのに。


 身動きすら封じられ、罪なき乙女の血で無理やり生かされて、血を流すだけの道具に成り下がって百余年。

 確かに人系種族の穢れなき乙女の血はヴァンパイアにとって得難きご馳走ではあるが、人の血を飲まぬと誓ったヤーヒムにしてみれば、うら若き少女達の命を己の糧に強要するなど外道の極み。もうたくさんだった。


 いっそ飢えて至る死こそが己にふさわしい。それを切望し、けれど叶うことはけしてない。


 ヤーヒムの身体は百年前と同様、周囲に刻まれた封魔の魔法陣によって身動きすら多大な労力を要する。

 なす術もなく、この百年間そうされてきたように、十字架に磔られたままバルトル家の欲望に従って生かされるしかなかった。


「……や……あ……うう…………」


 激しく震えながら、だが、痩せさらばえた少女の身体は命令を忠実に実行しようと動いていく。

 仰向けのヤーヒムの顔に少女の汚れた髪がかかり、震え怯える少女と目が合う。


「……いやぁ…………」


 ヤーヒムは少女の緋色の瞳に絶望を見た。

 眼前に横たわるヴァンパイアという根源的な恐怖。

 生贄としてそのヴァンパイアに血を飲まれて死ぬという未来が、抗いようもなく少女に迫っていく。



 ――すまない。



 ヤーヒムは声に出さずに唇だけで少女に語りかけた。

 それはヤーヒムの奥底に色濃く残る人間時代の名残りが発露したもの。身体を動かすことのできない彼にとって、それが精一杯の行動だった。


 少女はそこに何を感じ取ったのか、目をいっぱいに見開いてその緋色の瞳の奥から狂おしいほどの生への執着を必死にヤーヒムに訴えかけてくる。



 ――すまない。



 ヤーヒムは繰り返し息だけで囁き、冷えきった心を更に殺すようにそのアイスブルーの瞳を閉じた。
















 そんな無間地獄のすぐ傍に。

 地下牢の外、遠く階上のどこかで何者かが激しく争う音が、冷たく閉ざされた牢の扉を微かに揺らし始めていた。


 それは待ち焦がれた解放の足音。

 だが、奴隷の少女もヤーヒムも、未だその存在を知らない。


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