叛逆のヴァンパイア
圭沢
第一部 Vampire & Labyrinth
第一部プロローグ ―誕生―
「ヴァ、ヴァ、ヴァンパイアだああああ!」
騒々しい酒場通りの喧騒を突き破り、極限まで張りつめた絶叫が夜の繁華街に響き渡った。
途端に通りの人混みを支配する水を打ったような静寂。陽気に騒いでいた革鎧の兵士たちが、艶めいた声で呼び込みをしていた酒場の看板娘が、必死に客の気を引こうとしていた幼い街娼が、全てが一斉に動きを止めた。店々から漏れる柔らかいランプの灯りが揺らめく無音の雑踏に、怯えと緊張が一陣の風のように吹き抜けていく。
そして。
一軒の酒場の扉が千切れんばかりに蹴り開けられた。
中から堰を切ったように転がり出てくる上質な衣服をまとった酔客達。彼らの顔にべったりと貼り付いているのは恐怖――そして絶望。
「に、逃げろぉ! ヴァンパイアが出たぁ!」
その一言で通りは大混乱に陥った。
悲鳴と怒声、逃げ惑う群衆、泣き叫ぶ幼き街娼。
理由を知る者が知らぬ者を押し倒し、足蹴にして少しでも遠くへと逃げていく。
――ヴァンパイア。
それは太古の昔から存在する恐怖の象徴。
不老の身体と圧倒的身体能力を持ち、闇に紛れて人を狩り、その生血を啜る者。
その禍々しい牙に、人間は対抗する術を持たない。
「――お、落ち着け! 押すな、騒ぐな! ……誰か騎士団の詰所に連絡を!」
群衆の波に揉まれ、溺れる者のようにせめてもの抵抗をしていた警備兵が叫ぶ。
しかし彼の言葉は周囲の混乱に掻き消され、彼自身も邪魔するなとばかりに群衆に呑まれて消えた。
ヴァンパイア狩りという集団が生まれ、人間の社会からヴァンパイアの姿が消えていくのはまだ数十年も先のこと。この時代はヴァンパイアを止められる者など皆無に近く、通りを大混乱に陥れた存在は悠然とした足取りで街の奥へと向かっていくのだった。
◆ ◆ ◆
大混乱の下町の酒場通りから堅固な城壁を隔てた、王侯貴族が居を構えるアンブロシュ城下の中枢街区。
下町の騒ぎからは隔絶された静けさの中、月明りを浴びた妖艶な美姫が無人の石畳を音も立てず歩いていく。
それは、先ほど繁華街を恐慌に陥れた当の本人。やがて足を止めたのは、とある武骨な屋敷の前だ。そこは尚武の気風で名高いここアンブロシュ王国の中でも、特に著名な騎士一族の屋敷。
この屋敷の一族は代々優秀な騎士を輩出し、珍しいアイスブルーの瞳を持つことでも知られる不断の男家系の騎士一族だ。
この晩、その一族の屋敷ではつい先程まで控え目ながらも宴が開かれていた。二十歳という異例の若さで格式高きアンブロシュ近衛騎士団への昇格が決まった、跡継ぎ息子を祝い労う宴が開かれていたのだ。
今はそれもお開きとなり、屋敷の全ての灯りはひとつ残らず落とされている。どっしりとした切妻屋根が月明りに照らされ、無骨な輪郭が物音一つなく夜に佇んでいる。
本日の主役、しこたま酒を飲まされた跡継ぎ息子は自分の部屋で熟睡していて――
――二階にある筈のその部屋の窓が、外から静かに開かれた。
「可愛い坊や、私の唯一にしてあげる……ふふふ、共に永遠の宴を楽しむのよ」
目の覚めるような美姫が、湿気を帯びた夜風と共にするりと部屋に入ってきた。
揺らめくカーテン越しに差し込む月明りが淫靡に照らし出したのは、上質なドレスをまとった妖艶な肢体。
艶やかな黒髪、染みひとつない白磁の肌に妖しくも眩い傾国の美貌、そして蠱惑的な輝きを放つ人ならざる
人外の妖姫が流れるような足取りで跡継ぎ息子が眠るベッドの傍らまで進み、愛しげにその頬に手を添えた。
「ふふふふ、ずっと待っていたの。坊やが産まれる前から、ずっと。坊やの血がずっと飲みたくて、でも全ての月が満ちる今日まで待っていたのよ」
そうして、ゆっくりと首筋に牙を突き立てた。
ぴちゃぴちゃと首元で艶めかしく血を啜る音が続き、時折美姫が漏らすくすくすという笑い声がそれに混じっていく。
ああ愛しい坊や、妖姫はそう呟いて満足気に顔を上げ、真っ赤な血で染まった口元に蕩けるような微笑みを浮かべた。
嫋やかな弧を描くその血濡れた唇の奥には、異様に長い純白の犬歯が二本、圧倒的な存在感を持って見え隠れしている。
「うふふ、坊やも私の血を飲んでいいのよ? ほら、口を開けて?」
彼女の名はラドミーラ。
五千年の昔から生きる真に強力なヴァンパイアの一人で――真実、狂っていた。
この夜を以て将来を嘱望された誇り高き騎士が一人消え失せ、忌み嫌われ石もて追われるヴァンパイアがまた一人、この世の中に誕生した。
彼の名はヤーヒム。
この先、真祖ラドミーラの永遠の伴侶として特別に育てられていく存在だ。
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