第10話 オズと案山子9 

 次の部屋にあったのは、いやにぼろくさい空間だ。そしてどうやら、私はこの獣臭いというか、汚い空間に覚えがある。

「奴隷小屋か。」

 そう、私がたった一度だけ、買い物をした場所だ。

「相変わらず汚いな。」

 つまらない場所だ。できるならば、もう二度と来たくもなかった。なんといってもここは、人間とも獣ともつかないようなひどい臭いが充満するのだ。息苦しい。そしてどうやら今度は、左右に檻が準備されているようだ。その中には、写真が無造作に放置されている。

 私は、一番近くにある檻の中をのぞき込み、写真を見る。すると、奴隷商人らしい屈強な男が鞭を振り上げ、小汚い身なりの少女を痛めつけている。この少女、見事に自分の記憶と一致する。長くてぼさぼさの黒髪。油や泥でどろどろに汚れ、まるで烏の羽のようだ。

「スケア。」

 そうだ、この様子だ。今は私がそこそこ小奇麗に整えてやっていることもあるため、名前の由来が烏であるということも少々忘れ気味になっている。しかし、出会ったときのスケアはこんな感じだった。…次に進もう。

 私は、檻の中をちらりと覗いていく。そこにあるのは同じような写真ばかり。奴隷商人や拷問の専門官らしき屈強な男たちから痛めつけられ、慰み者にされている様子を映したものだった。むごたらしいその様子に私の気分もだいぶ参ってくる。しかし、立ち止まってばかりもいられないだろう。スケアのことを何とかしてやらないといけない。

 そうして考えると、私は少しイライラしていることに気が付いた。どうして私はこんなにも彼女のことを考えているのかと。場の雰囲気も手伝っているのか、心の中で怒気のようなものがもやもやと立ち込める。耳鳴りがする。声にならない悲鳴、下卑た嬌声、自己満足の悦楽に浸った笑い声。いろいろなものが頭の中でガンガンと衝突事故を起こしている。そうか、これは、この空間に充満する怨嗟の声か。

 私は、足を速めた。この空間には長居したくない。しかし、どれほど頑張ってもこの空間は広すぎだ。足を前へ前へ突き動かすが一向に次の扉が見えない。次第に、靄のようにぼんやりしたものでは収まらない、胸中に明確な不快感が沸き上がる。頭が痛い。

 私はいったん目を伏せる。そして、次に瞳を開くと、左右の写真から人が出ていた。現れた人間は二人。ぼさぼさの長い黒髪をした少女と、その少女が言うことを聞かないことに対して不快感をあらわにした大柄の男だ。男は少女の手を乱暴に引き、抵抗した少女を逆に突き放し、おもむろに腰に下げていた鞭を手に取る。まるでその男はか弱い子犬や子猫をいたぶり自身の優越心を満たすかのように、同じ人間であるはずの少女を鞭で打ちつける。少女のもろい皮膚は破れ真っ赤な肉がのぞく。少女は声にならない悲鳴を引き絞る。魔法で傷を治せば確かに傷物にはならないだろう。体は。だが、心はどうにもならない。見えなくても、頭が悪くても、簡単に理解できる。少女の心がいびつに傷ついていくのが。少女の思いが歪んでいくのが。ボロボロと心が崩れていくのが。悲鳴が聞こえる。もはや声を出すことすらできず、ただぐったりと地面に体を伏せ、されるがまま鞭を打たれ続ける少女から、確かに、悲鳴が聞こえる。

 ゴォ!というすさまじい音がすると同時に少女を鞭で打ちつけていた男が蒸発する。私が放った魔法で局所的な炎を呼び出した。男に感じる憤りのままに私は男を消し去った。触媒たる時計を持つ手は怒りの興奮で震え、逆の手は無意識のうちに強く握りしめ、爪が皮膚を突き破り真っ赤な鮮血がぼたぼたと流れている。

「スケア!」

 しかしそんなことはもはや私の頭の中にはない。私は少女に呼びかけ、手を伸ばす。間を阻む檻は魔法でこじ開け、ぐったりとした彼女の体を抱える。大丈夫か――私がそう声をかけようとした瞬間、今までの様子が嘘のように彼女は私の腕の中に抱えられつつ、こちらの首を目いっぱいの力で絞めてきた。

「ス、スケ、ア!?」

 驚愕に目を見開き、私は反射的に彼女の目を見てしまう。そこにあったのは恐怖でも、解放された安堵でもなかった。そこにあったのは、強烈な非難の光。その光は鋭く、それはまさしく、今まで彼女が拷問を働く男に向けていたものそのものだった。

「ーーッ!」

 私は思わず彼女を強く押し飛ばし、檻に打ち付けてしまう。しまったと思いすぐさま、少女の様子を見るが、そこにあったのは変わらず、こちらを非難する強い光を携えたボロボロの少女だ。

 鋼鉄の板で灰をすりつぶされてしまったかのように胸が厳しい。息ができなくなり、さっと全身から血の気が引いていく。やめてくれ、そんな目で私を見るな。私は後ずさる。それに続くように少女はこちらに向かって一歩、距離を詰めてくる。

 私は彼女の発する光に耐えることができず、息を吸い込むことさえ忘れて両足をぐるぐると回した。自分にできる限り速く。しかし、そうしている間に通路の両側では最初の檻と同じように彼女が奴隷商人に打ち付けられる様子が永遠と繰り返されている。そして、打ち据えられぐったりした彼女は、先ほどと同じ、避難の光をたたえてこちらを見るのだ。私は両足の回転をさらに速める。不快だ。やめてくれ。やめろよ。

「やめろと言っているんだ!」

 私は大きくこぶしを振りかぶり、たたきつける。すると、その先には、いつの間にか壁があった。―この部屋の行き止まりだ。解呪の方法を探る。そうすると、この壁は炎で燃やせばよいようだ。ようやくこれで、この部屋を抜けられる、抜けられるというのに…。

「…くそ。」

 私はどうしてもこの部屋を出ていくことはできなかった。…認めない、いや、認めたくない。それでも、こうありありと突きつけられると、認めざるを得ない。そう、最初はスケアをいたぶっていたのは、確かに私が彼女を買い取った奴隷商人だったが、今は、今彼女を傷つけているのは、まぎれもない、私だ。その事実を表すように、いつの間にか檻の中で少女をいたぶっているのは最初の男ではなく私自身にすり替わっていた。

 …いつから、いつからのことだろうか。気が付くと、私は彼女に負い目を感じていた。奴隷として買い付け、自分の都合のいいように使うだけ。そのくせ、私は彼女を、もはや奴隷としては見れなかった。

 奴隷として買ったはずなのに、いつのころからか彼女は私の多くを占領するようになった。最初の頃は本当にくだらないただのがきんちょだった。だが、そのがきんちょが成長する姿を見ることがいつの間にか楽しくなった。覚えたての文字で本を読む姿を見ると安らいだ。たどたどしいフォークとナイフの使い方で頑張って食事を口に運ぶ姿を愛おしいと思った。日がな一日、彼女の成長を見守った。彼女が紅茶の入れ方を覚えると、いつもうまい紅茶が飲めるようになり、一日が楽しくなった。悪態をつきつつ彼女の紅茶をすすることが幸せだと感じた。彼女のことばかり考えるようになった。さして裕福でなくても、彼女のために何かをしてやりたかった。

 私は、いつからこんなに愚かしくなったのだろうか。自分が彼女を最も苦しめているのに、こんなにも彼女を愛おしく思ってしまうのだ。どうして彼女のことを思うと心が苦しいのだ。

 そんなくだらない自問など数千回は繰り返した。答えなんて決まっている。それでも私は考えずにはいられない。私は、どうすればいいのだ。

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