第6話 オズと案山子5

 目が覚めるとそこは見慣れぬ部屋であった。

「なんだ、ここは。」

私はそれほど感情豊かなほうではない。その私でさえ、驚愕に目を剥かぬわけにはいかなかった。

 天井は奇妙な虹のまだら模様。四方を囲む壁は赤と白のストライプ。あまりにもちぐはぐな空間に思わずめまいを覚えるほどだ。いや、そもそもなんだ、あの天井の虹色は。見ていると形容しがたいような不快感がこみあげてくる。その色は、まるで憎しみ、怒気、愛情、哀愁、それらをそのまま混ぜ込み、どろどろと溶かしたような、一言でいうなればそれは、「狂気」に違いなかった。

 そこまで思い至ったとき、本能が私に目を背けさせた。胸中を駆け上がる動悸。恋心など生易しいものではない、抑えきれぬ好奇心と相反する耐えがたい不安が同時に襲いかかり、心がパンクしている。奇跡的に今回は視線を逸らすことができたが、次回はどうなるかわからない。もう今後、かの天井を意識することはやめにしよう。そう決心し、私は改めて周囲の探索を開始した。どういう状態に置かれているかさえわからぬ今のままでいるわけにはいかない。ひとまずは現状を確認し、帰る方法を探してみよう。

 私が探索を始めてわかったことは、まず自分が衣服以外、丸腰であること。次に、奇妙なことにこの空間は灯がないのに暗くも感じないということ。そして、最初に意識を取り戻したのは小さなであったが、そこに一つ、ポツンとあった扉をくぐると、存外広い廊下があったことだ。最初の部屋よりもはるかに高いところにある件の天井、廊下の幅はこれもまた、最初の部屋の両壁よりもずいぶんと広くとられている。困った。広すぎる。素直な感想だった。最初の部屋を見たときは人間サイズの洋館を探索するくらいのイメージであったのだが、これではまるで巨人の洋館を探索しているようだ。廊下を通って次の部屋にたどり着くまでどれほどの時間が必要となるというのか、想定すらできない。いや、巨人の屋敷にしても、向かいの部屋の扉すら見えぬ構造物はそもそもおかしいんじゃないだろうか。さっきからかれこれ数十分歩いているはずなのだが。そもそも、どれほどの時間が過ぎたのかすらよくわからない。

 時間、時計があれば。そう思ったときに、私の耳には先ほどまで聞こえていなかったコチコチという、心地よい音が聞こえてきた。それは、私の体から聞こえる。つい昨日から、なじみになった音だった。私は、身に着けているズボンのポケットに手を入れ、懐中時計を取り出す。自分の手の中には、確かに時を刻む懐中時計があった。そういえば眠るときも枕の下に入れていたのだった。もしかして、そのせいで今も時計を持っているのかもしれない。そう思うと、いつもは思い出すだけでも腹立たしいあの男の言葉が少しだけありがたい。以外の方向性ではあるが、あんな男の言葉も役に立つことはあるものだ。見慣れない空間で、正直心細かったところだ。少しでもなじみのあるものが手元にあると嬉しいものだ。おまけに。

「リット。」

 時計を中空にかかげ、時計に魔力を込める。すると、その空間に小さなオレンジの光の玉が浮かぶ。暖かい光だ。この空間は暗くはないが、正直気味の悪い明るさである。落ち着かない。この時計は本来なら魔力を込めて時間を示すための回路を起動させるわけだが、そこに仕込まれた魔力回路を無理やり利用することにより魔法触媒とすることもできる。マジックワンドもない状態で、魔法すら使えないのかと絶望していたのだが、何とか触媒を見つけることができた。

 手の中の時計を見つめると、頼もしく感じる。しかし同時に、苦しくもある。今どこにいるかわからない自分の所有物の顔が脳裏に浮かぶ。あいつはどうにも容量が悪く、魔力自体は持て余しているくせに、上質な魔法触媒を与えてやってもろくに攻撃魔法を使うこともできない。唯一扱いのうまいものといえば、家事のために使う低級の炎魔法や電気魔法というものだ。まあ、あいつの職務を遂行するにはこれ以上ないものなのかもしれないが、こんな状況では。

 と、そんなとりとめのないことを考えつつ通路を進み続けると、重そうな鋼鉄の扉が見えてきた。さっさとあいつを見つけてやらないと、壊れて使いものにならなくなってしまっては面倒だからな。私は扉に手を添え、力を籠める。が、そのままでは当然びくともしない。そこでそのまま前傾姿勢を保ち、魔力を使い、ポテンシャルアップの魔法を使う。が、まだ開かない。より多くの魔力をつぎ込んでみるも、まだまだ開かない。それならば、と一度に自分が使いうる最大限の魔力を込める。今の私は数トンの物質であっても軽く振り回せるほどの膂力を手に入れている。が、それでも一向に扉はひらかない。これは予想外だった。これほど自分が力を入れているのだ。並の物質なら壊れていても何もおかしくないところだが、壊すどころか開くことすらできないとは。私はいったん扉に充てていた手をのけ、魔法を解除する。

 先ほどまでは直接的に開いてみようとした。しかし、あれほどの膂力を用いて、びくともしなかった以上、これは別の方面からアプローチする必要があるということなのだろう。さてどうしたものか、そう思い一度扉から距離を取り、じっくりと観察してみる。鋼鉄の扉は大きく、高さと幅がちょぅど同じほどで、数メーターはある。これといって目立った装飾はない、というより、細かな模様すらない。取ってがあり、奥開きになっているということ以外には何にもわからない。私はもっとよくしっかりと扉を見ようと先ほどまで漂わせていた。光の玉を近づけてみる。

「ん?」

 光の玉を近づけると、その部分が震える。まるで、水面のように柔らかく波打つように見える。

「…そういう仕掛けか。」

 どうやらこの扉は光がカギの代わりになっているらしい。力でダメなら魔術的な何かを必要とするのだろうと思ったが、ビンゴだったか。しかし光か、存外簡単な仕掛けでよかったよ。私は時計ににぐっと魔力を込める。そして、目を閉じ、時計をぐっと前に突き出す。刹那、目を開いていることも難しいほどの光があたりに満たされる。光が消えてから元の状態に戻るまで、ほんの一瞬であった。しかし、その一瞬、私が目をつむっている間に目の前の扉はことごとく消え失せていた。そしてその先を見て、嗚呼なるほどと感じた。鋼鉄の扉は厚さ一メートルほどであり、そしてその奥には壁と、一回り小さい豪華な装飾の扉。もともとあの扉は、開けるために作られたものではなかったのだ。道理で開かないはずである。

 私は、歩みを進める。そして、豪華な扉の前に立ち、取っ手に手をかける。そして、軽く力を籠める。すると、今度は見た目通りの重厚さで、しかし確かに少しずつ開いていく。今度こそポテンシャルアップの魔法を使い、楽に扉を開け切った。中に広がるのは、どうやら写真展のようだった。再び続く長い廊下、そして距離を置きつつ左右の壁に写真が飾られている。幸いなことにこの写真展示部屋は今までの部屋とは違い、気品のあるオレンジ色の照明が準備されており、まともな天井もある。少し気が休まる。いや、少し、というかなぜかすごく落ち着く。始めてきたはずの空間だが、どこかで私はこの雰囲気を知っているのだ。ああ、そうだ、思い出した。壁紙、床、天井、照明、この空間を作るすべては、今は失われた私の生家であったものだ。

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