旅立ち

 まずは一言それだけ添えて、美緒は薄っすらと笑みを作った。

 それを受けた時の清と春子の反応たるや、驚きを越えて声を失っていたものだ。


「お前、さっきまで別の部屋で……」


「それはもういいの。それより――」


 俺に瞬間だけ目をやって、美緒は再び清と春子に視線を戻した。

 そのまま一歩、また一歩と近付いて行き、一人分程の距離を開けたところで、


「ごめんなさい」


 頭を下げ、謝った。


 今回の一件、美緒は自身が能力を持っていた所為で起こった一連の騒動だと思っていたそうだ。

 扉の外から中の会話が聞こえてきて、開けようと伸ばした手を引っ込めて様子を伺っていたら真実を知って、それでも謝らずにはいられなかったのだと言う。

 あの頃は幼かった。子供だった。親を早くに失って、理不尽に最愛の弟を奪われて、それで心が壊れない方が寧ろどうかしている。そう春子はやんわりと伝えたけれど、美緒かぶりを振って「夢の中でこの人に教えてもらったの」と俺の方を振り返った。


「子供だなんて、言い訳にはならないわ。三留のことが本当に大好きだったのなら、あの時私は、男ではなく三留に目を向けてあげるべきだった。結局、最後もあの子に助けられちゃったし……どうしようもない姉よ」


 それは違う、とは言えなかった。

 他でもないこの俺が、正にその方法で美緒を助けたのだから。


 今思えば、やはりあの時の美緒の反応は正しかった。何より人間らしかった。愛する者を奪われた悲しみに、怒りに、大人であってもそう簡単には耐えられるものではない。

 結果的には美緒を助けられたから救われたものの、あれで正気に戻れるとは、正直な話、美緒の心が強かっただけなのだ。実際問題、俺は何もしていないに等しい。


「私が普通に戻ってしまった以上、パパやママ、皆が消えてしまうことは分かっているわ。有栖おばさまの能力でここに居たってことも、実は分かってる」


「え……?」


 二人は驚きに目を見張り、顔を見合わせ、


「どうして……?」


「二人は確かにもうこの世の人ではないけれど、有栖おばさまによって”創られた”という性質上、ものには触れられるんでしょ。それを利用して記録をちまちま残していたの、知ってるの」


「どうしてそれを…!?」


 清の反応に、美緒は更に優しい笑みを浮かべ、困り顔を作って一言。


「だって、パパとママ、二人とも机のお片付けをしないんだもの」


 昔から、何も変わらないのね、と。

 先の両親の自室、そこにあった机の上に、それはあったのだそうだ。


 小学生の頃、それで何度か部屋の手伝いをさせられ、都度都度で汚い部屋を見ていたから、先の片付いたあの部屋は意外だったのだそうだが――それでも、やはり肝心な物ほどなぜか片付けない、という癖だけは、春子も清も変わっていなかった。


 春子は苦笑し、清は肩を竦めてみせる。

 故意か無意識か、どちらとも付きにくい意思の疎通だった。


「幼い頃の記憶しか無いというのに、まったくちゃっかりした娘だこと。よく覚えてたわね」


「当然よ。綺麗好きの私とは全然違うんだもの」


「言われっぱなしだなぁ、どうも。この数年、色々あったようだけど――立派に育っていたようだね」


「大半が自分の所為だって自覚はあるけれど……嘘を吐かれていたのは納得いかないわ」


 頬を膨らませる美緒の反応は、至極当然のことだった。

 しかし――


「素に戻った途端、というか、随分と切り替えの速いやつだな。逆に色々とこんがらがって、時間がかかるものだとばかり思ってたんだけど」


 無理やりに記憶を上書きしたわけであるから、多少の反動は想定していたのだが。

 まさか、ゼロというわけではなかろう。

 しかしどうしたことか、今の美緒からはその気が全く感じられない。

 と、美緒は「ああ、それなら」と置いて、


「私、全部覚えていますから、と言いましたよね。ただ何となく、というわけではなくてですね、どう説明したものでしょうか……意識の鬩ぎ合いと言いますか、もう一つの人格があったと言いますか……」


「イメージ的には取って代わってた。だから全部鮮明に覚えてるってか?」


「そう、正にその通り!」


「なっ……それって――」


 敢えて俺たちが何とかする必要、実はあまりなかったのではなかろうか。

 そう思えてしまうと、急に全身の力が抜けて、膝から崩れて座り込んでしまった。


 しかし。

 続けて言われたのは、春子に見せられたビジョン、話は、全て実際の出来事だということ。

 他者、ひいては有栖の協力はあった。騙しもした。利用もした。

 けれど、その全てが例外なく、正直で真っすぐな気持ちの元であったこと。羽多野有栖という人物が、本気で本当に願った”妹の娘を助けたい”という目的の元であったこと。


 そこまで言われてしまうと、もう今回の件について、満足感を得ないわけにはいかなかった。


「なら、春子さん。あんたの――まあ有栖のかも知れないけど、目的は達成されたってことでいいのか?」


「ええ。想定以上の働きでした」


「随分と上からなことで。――っと」


 目の前の春子、清、その他大勢の死霊がまだ、何の予兆もなくこの場に顕現しているということは。


「最期に、有栖に合わせてくれないか?」


 羽多野有栖。

 鏡の住人である彼女は、まだそこに生きているということだ。


 瞬間渋った春子は、控えめに頷くと、俺を傍らにあった鏡へと案内した。

 訝しみながらも、俺はその後を着いて行き、埃のかかったその鏡を覗き込んだ。

 が――。


「吸い込まれない……いや、有栖は…?」


 鏡面に波が立つことはなく、また、そこからあの瞳が見つめ返すことはない。

 あるのはただ、不安そうな表情を浮かべる、俺の顔。


「羽多野有栖…姉は、もう…」


 春子は俯き、唇を噛んだ。


 は?


 そんな筈はないだろう。

 召喚した者が消えていない以上、本体が消えている訳がない。

 普通は、そういううシステムではないのか?


「自身の命と引き換えに、わざわざ私共に制限時間を設け、一人旅立ったのです」


 それはまた――


「随分と勝手な話だな…」


「芳樹…?」


 だってそうだろう。

 確かにこの二人は美緒の肉親で、ずっと見守って来ていて――それでも、叶えられなかった願いを叶えた、言ってみれば立役者となったのは、誰あろう有栖だというのに。

 彼女は馴れ合いを好まない様子を常に発していたが、果たしてそんなやつが、人の為に何かを成そうとは、そもそも考え得るものだろうか。ただ未来の妹の娘だからという理由で、会ったこともない人の命を護ろうとは思い立つものなのだろうか。


 あの物憂げな瞳は――。


「一言くらい、挨拶をさせてくれたって良かったじゃないか」


 何も言わず、その心意気すら自身からは示さず、勝手に一人消えてしまうなんて。

 それを知っている者たちがここにいるとは言え、それに賛辞を贈らずしては、とても彼女がうかばれない。


「永禮芳樹さん、そして穂坂茜さん。お外に出ていらっしゃるのは波場安高さんと言いましたか。あなた方には、どうにも返しきれない大恩を頂きました。ですが、私たちにはそれを返す術がありません――有栖に合わせることも」


 顔を上げていた春子が、俺たちを順番に眺めて言った。


「姉は――満足していたと思いますよ。もうこれは直感でしかないのですが、私たちに時間を設けたと伝えてくれた際の表情……不満を抱く者が、あんな穏やかな表情を浮かべられるとは思いません」


「春子さん……私も、そう思います。きっと、いえ、絶対に」


「ありがとう」


 春子は穂坂さんに頭を下げた。

 そして俺に向き直って、


「たまに……本当にたまにで構いません。それが何十年先であっても良いです。良いですから、どうか思い出してあげてください。語り継げるようなものではありませんから、どうか、知っている貴方達だけが、覚えていてあげてください」


 まったく。


「忘れるわけ――忘れられるわけがない、こんなこと」


 高々身内の願いだろうと。

 それに関わってきた者たちがいて、少なからず俺たちにも関係がある以上――思い出すどころか、忘れる方が難しそうだ。

 そんな含みが通じたのか否か、分からないけれど。

 微笑んだ春子の目から、ふと一粒の涙が零れた。


 それが他の誰かであったならば、見て見ぬふりでもしようものだけれど。

 しっかりとこの目に焼き付けて、この表情諸共、忘れないでおこうと誓いを立てた。

 なぜなら、


「そろそろ、お迎えですかね……お父さん」


「そのようだな、母さん。色々あったが、満足だった」


 清と春子を始め、その場にいた”死霊”ならぬ人たちが、その身から淡い光を放ち、次第に薄れていっていたから。

 それは、たった一つの目的の為、彼らをこの世に再び送り出した羽多野有栖が設けた”制限時間”のリミットが来たということに他ならない。


 春子はこれで最後だと言って、穂坂さんの手を取った。


「良いお嫁さんになれるわ、きっと」


「えっ…!? な、何を急に…!」


「ふふ。気付いていないとでも思っていたの? あれだけ真剣に怒れるんですもの、貴女の中で、もうとても大切な存在になっているのでしょう?」


「え、えっと……は、はい…」


「もっと自信を持ちなさいな。今のように正直に生きていれば、ちゃんと答えてくれますよ」


「……はい! ――って、最後が私の恋路!?」


 感動的な別れの言葉でも想像していたのか、予想と違ったとでも言いたげな表情で崩れ落ちる穂坂さん。

 その手を離し、優しく抱擁をすると、


「さて。一番の功労者はあなたね」


 俺の方へ向き直った。


 正しくは――いや、明らかに、この現状を作り出したのは羽多野有栖だ。最終的に収束させたのは俺なのかもしれないけれど、それは今まで色々なことを積み重ねて来たあなたたち両親だとか、周りの存在だとか、何より弟、三留の存在があったればこそ。

 断じて、一番が俺だということはない。


 敢えての厚意を、俺は首を横に振って断る。


「それは、この姫様か息子さんに。俺はたまたまここに来て、流れでちょっといじくっただけの、ただの他人ですから」


「あら。ご謙遜はよしてください。茜さんから聞きましたよ、最後は貴方の能力があったからこそだと」


「話したんですか…!?」


 勢い良い振り向きざまに睨むと、借りて来た猫のように縮こまって「だってぇ」と両手の人差し指を合わせて反論を詰まらせる。

 あまり目立つのは好きではないというのに。


「ですから、どうかこの気持ちは、貴方に。この場にいる全員、同じ気持ちでおりますから」


「そ、れは……」


 そこまで言われても、今回ばかりはどうにも納得がいかない。

 我ながら変なところで頑固だと呆れ果てたくもなるけれど、やはりそれを受け取るべきは俺ではないのだ。


「美緒」


「はい?」


 大人しく立ち、先刻のような異常性をすっかり失った少女を呼ぶ。

 素直に応じ俺の横まで来ると、


「こいつを保護させてください。うちの組織は安全ですから。傷を抉ってしまう物言いで申し訳ないと先に謝っておきますが、事実あのようなことがあった以上、息子さんのようなことが起きぬとも言い切れませんから」


「それが、謝礼の代わりですと…?」


「ダメでしょうか?」


 春子は清と目配せをし、二人同時に頷くと、


「よろしくお願いしてもよろしいでしょうか?」


「ええ。ここまで来てしまえば、責任をもっておあずかりさせてもらいますと格好も付けましょう」


 死霊たちが消えるのであれば、この屋敷にいるよりかは、あの小さな事務所の方が何倍も安全だ。

 何せ、構成員全てが能力者なのだから。そう易々と手も出せまい。


 頭を下げて俺の方から礼を言うと、慌てて二人も頭を下げた。

 これで、名実ともにこいつはうちのメンバーになるわけだ。


「では本当の最後……美緒」


「…はい」


 どうしてもやはり少しは寂しいのか、せっかく再開した両親との別れは来るものがあるらしく、その小さな肩は僅かではあるが震えていた。

 しっかりとした受け答えをしていながら、涙を堪えるのに必死らしい。


「一人前の淑女ともあろう貴女はもう、異性の前で易々と裸体を晒すものではありませんよ?」


「お姉さんに続いて私も私情の説教…!?」


 ガーン。

 と聞こえた気がした。


 春子くすくすと笑って誤魔化すと、今度こそ最後の言葉を述べていく。


「美緒。貴女は、私とお父さんの、自慢の娘よ。良く出来る子だから、安心しなさい」


「…はい」


「でも、たまに危なっかしいところがあるのがいけないわね。三留が居なくなった時もそう、三食忘れて探していたでしょう」


「バレてたのね」


「それはもう、四六時中貴女を見守っていましたから。お風呂場で、伸び悩む身長とお胸に苛立っていたことも、ちゃんと知っていますとも」


「よ、余計なこと言わないで…!」


 正気に戻った美緒には、それはもうとてもではないけれど耐えられるものではなかったらしい。


「お胸の成長には大豆がいいのよ」


「分かってるよ…!」


「お友達の作り方は――今更いいかしらね」


「……うん、大丈夫」


「寂しくなったら、いつでもお墓にいらっしゃい。どんなに五月蠅かろうと、どんなに大所帯だろうと、私たちは大歓迎をしてあげるから」


「……うん」


 途中からは、早くも嗚咽が混じり始めていた。

 頭でフレンドリーな言い分をしたかと思うと、次からはいきなり切り替わって真面目な話。不意打ちでも喰らったように、美緒がギリギリのところで押さえていた涙が溢れ出す。


「もう、見失わないで――立派な大人になりなさい」


「……うん…!」


 一拍遅れつつも力強く頷く美緒に、春子は大変満足した様子で笑みを浮かべた。

 それを受けた美緒も笑ってみせるのだが、もうすぐそこまで迫っている別れに、どうしてもぎこちなくなってしまっていた。


「どうか娘をよろしくお願いいたします」


「うん…! 春子さんも、ゆっくりとお休みください」


 穂坂さんの一言に、笑みは一層強くなる。


「さようなら、美緒。元気でね――」


 本当の最後。

 美緒の額に口づけをして、その光は完全に消え去った。


 一つ、また一つと、第二の生を終えた命の火が消えていく。

 だが、これは終わりではない。

 ここから、彼らにも新しい何かが始まるのだ。


 宙を舞い、上へと浮上して天井をすり抜けていく光の波を、美緒はずっと目で追っていた。


 やがてそれらが昇りきるとこちらに振り返り、


「連れて行ってください、皆さんのところへ」


 強がった精一杯の笑みを浮かべて、力強く放った。


―――


 丁度良いタイミングで戻って来た波場さんと合流して、話が纏まった旨を伝えると、早速と夜子さんに再びの一報を入れて屋敷の玄関を開けた。


 そこには、来た時と同じ装いで仁王立つ、双子の門番が――


 ん?


「おや、姫様のご友人方。長い滞在、お疲れ様でした」


 なんとも爽やかな笑顔で兄の方が言った。


「ちょっと待って、あんたたち――え、消えたんじゃないの…?」


「消え……? はて。屋敷の中で何があったのかは存じませんが、私どもはこの地に縛られた幽霊ですから……ある時、有栖さんという方から頼まれて、趣味程度のつもりでこの屋敷の姫様をお守りしていた次第なのですが」


 その瞬間、数日ぶりに穂坂さんがフリーズした。


「いってらっしゃいませ、姫様」


「ええ。行ってきます!」


 最後の最後で、お化け屋敷という噂が本当であったことを知った。

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