姫の訪れない一室にて
向けられた表情が気になって、鏡を出て直ぐに振り返った。
そこでは、蜘蛛の巣を端に引っかけた、古ぼけた鏡面が俺の姿を映しているだけだった。
どうしてあんな表情をしたのか。
気になったから確かめたかったのだが、今は叶いそうにない。
いや、いい。後に機会はあるんだ。
その時、纏めて色々と聞かせて貰えばいいか。
当初の目的を見失う前に気持ちを切り替え、有栖に教えてもらった”左手手前”の扉の前に立った。
先の鏡同様に古ぼけ、多く傷の残っている木製の扉。そっと触れて撫でてみれば、指先が真白になるくらいの埃が溜まっていた。
明らかに今までの部屋とは違う様子。
もし有栖が、助けた二人を敢えてここに入れてくれているのだとしたら、なるほどこの部屋を選んだのも納得だ。あの綺麗好きな美緒が寄り付こう筈もない。
もしそうでなかったら、という可能性を少なからず感じながら、しかし意を決してドアノブを捻った。
鈍い音を立てて重くゆっくりと開いく扉。
中は灯りが付いていないようで、薄暗い。
が、その中に一つ。
不意に奥でぽつりと灯る、何かの光源があった。
「芳樹……?」
聞き覚えのある優しい声。
「芳樹さん……」
次いで聞こえたのは、安心感のある上司の声だ。
一瞬瞑った目は直ぐその光に慣れ、奥で揺れる二つの姿を認識した。
下から見上げるように照らすのはスマホの光だ。
片や、心底ほっとした様子で深く強く息を吐く女性。片や、いつものように眼鏡を直しながら「やれやれ」と漏らす男性。
どちらも、変わりがないようで良かった。
と、俺が言うより早く。
「お変わりは有りませんか、芳樹さん?」
波場さんがこちら向かって歩きながら言った。
差し伸べられた右手は触れる。体温も、足音もある。
幽霊などではなさそうだ。
「危うく虎になってしまうところでしたよ」
「山月記ですね」
「発狂?」
「冗談に返してくれえる辺り、お二人もお変わりないようで」
笑って言ってやると、二人揃って「ええ」と。
本当に良かった。
扉を閉めて奥に腰掛け話しを聞くことには、二人も有栖に助けられたのだそうだ。
パパ、ママに連れ去られたと思いきや、鏡に吸い込まれてそのまま一直線にこの部屋に入れられたと。
パパは、二人をこの鏡に運び入れる折、命令が曖昧なものであれば、ある程度は自分の自由が効くシステムのようだと言った。いつ、誰、どこ、といったポイントを省いた命令に対しては、結果的にそうなっていれば命令違反にならないのだそうだ。
今回の二人に対する命令は、簡単に言えば「消せ」。それは”殺す”という意味でなく、”この場”から消すよいった風に捉えても問題はなかったらしい。
屁理屈にも聞こえる不安定なシステムは、今限りとても有り難い。
自分の能力に対して無自覚な姫様に感謝だ。
「それから次の命令がない故、清きよしさん――ああ、パパさんの方が、二人の面倒を見ていてくれたというわけです」
「こっちも、ママさんの方に助けられました。あ、でも…」
「ええ。問題は、美緒というあの少女が、いつ目覚めるとも分からないということです」
「目覚める…?」
「おや、聞いていませんでしたか。美緒が芳樹さんの傍にいなかったのは、ママさんが美緒に睡眠薬を飲ませたからなのですよ」
「睡眠薬!?」
「隙を突いて飲み物にそっと。あんな方法じゃあ、目覚めた時の方が返って心配になりますね」
まさか、そんな無謀な策を労していたとは。
結果オーライとはいえ、確かに愚策も愚策だ。
下手をすれば、面倒が増えかねない。
しかし、まずは。
「いい加減泣き止んでくださいよ穂坂さん。ここに来てから、泣いてばかりじゃないですか」
「よくそんなことを…! 私、本気で心配してたんだから…!!」
「俺に怒られても……全てはあの美緒って子が――」
彼女に始まり、今の面倒がある。
あるいはその前――依頼と称し仕事を持ってきた俊さん、いや、それを言い出したあの犯人たちが全ての元凶だろうな。あれらさえいなければ、こんなことには――
いや、それも違うか。
過程や中身、自覚無自覚はどうあれ、美緒は能力者なのだ。春子に頼まれたこともある。
やはり、何とかするのは俺たちしかいないのだ。
「安さんの能力で監視してたから無事は分かってたけど、やっぱり心配だったんだもん…」
「波場さんの……確か、”侵入”って」
「ええ」
波場さんは、懐から小さな四角い機会を取り出した。
中心に小さなレンズを入れたそれは、三浦さん手製の量産物である。
それを介して俺の姿を監視していたと言うが――
「いつ…?」
「茜さんの豊満を拝む前です。結果こそ意外でしたが、気付かれると厄介だろうとは思っていましたので、部屋へと入る前に、こちらの自走式の機会に乗せて運ばせました」
隣にトンと置いたのは、四つ足を生やした板状の機会。これは波場さん自身が設計したもので、百グラムまでの物なら乗せて運べるという優れものだ。
扉の影からこれを走らせ、俺の檻の裏で降ろし、再び自分の元へと戻した。
掌大のこんな小さなリモコンで操作が可能とは、何と便利なものだろうか。
いい加減、この組織の何かについては驚かなくなってきたな。
「拝むって……安さん、まさかじっと見てたんじゃないでしょうね…?」
胸元を押さえて睨む穂坂さん。
なかなかの殺気を孕んでいというのに、気圧される様子を微塵も見せない波場さんは流石だ。
言い訳も、悪びれる様子も一切ない。
「さて本題ですが――」
「あ、こら流すな…! 私はもう芳樹にしか見せないって決めたんだから!」
「どさくさに紛れて何を……。ともかく今は、美緒を止める方が先です」
「どさくさに紛れた一世一代の告白が流された…!?」
弾かれたように仰け反り、倒れ込む。
ここ数日で、随分と好かれてしまっているが、俺の方から何かをしてという記憶は一切ない。
悪いけれど。
「その話は、また後にしましょう。幾らでも付き合ってあげますから」
「本当!?」
まったく、感情の起伏が激しいというか――よく言えば天真爛漫過ぎるなこの人。
「本当も本当です。ですからそうしたいのなら、この事態を直ぐに切り抜けましょう」
「了解!」
何かに素直になった女性とは、こうも真っすぐなのか。
今まで自分の中に無かった情報を、思わずインプットして嘆息。
俺が春子から聞いた、否見せられたものは、二人も同じく父の方から見せられていた。
それを加味して作戦を練っていこうとするのだが――そこで、肝心なことに気が付いた。
何が依頼の終着点なのか、はっきりしていない。
娘のことを任されたが、何をすればいいのか、どうしてやれば正解なのか、何一つ聞いていない。
ただ、娘――美緒に関する過去を知っただけだ。
よもや、こんな材料だけで、しかも目的の見えない依頼をこなせとは言うまいな。
「困ったな」
「困りましたね」
「困ったね」
シンクロする言葉に次いで、三人とも同様の溜息が漏れる。
春子は美緒を、一体どうしたいのだろうか。まずはそこからだ。
いい加減楽になってくれと殺したいのか、現実を受け入れて生きて欲しいのか、何もしなくていい、何も必要がないのか。
そこら辺が曖昧な所為で、どうにも動く算段がつかないのだ。
丸投げ――
そんな言葉も浮かんできてしまう。
美緒は弟を亡くして悲しみ、怒りに飲まれ、半ば自我を失っている状態。
ではそれを解してやれば――可能なのか?
現実を伝えようにも、どの手も逆効果。伝えない方法も、きっといい手ではないのだろう。
試してもいない万策が、どれも無意味だ。
「穂坂さんの能力で……いや、ダメですね。私の能力も役には立ちそうにない……」
波場さんも煮詰まっている様子。
隣の穂坂さんも頭を抱えている。
こういう時、夜子さんならどんな手を思いつくだろうか。
説得? 交渉?
いや、あの時――初仕事の檻に見せたあの作戦、一見すれば緻密だが、結果は迎え撃ちだ。説得も交渉も意味がないから、結局はああするしかなかった。
しかし、今回のような場合――
「待てよ」
「芳樹?」
穂坂さんが顔を覗き込んで来た。
「夜子さんは、説得も交渉もしていない。あれはただ、利用したんだ」
「何の話です?」
「前回の仕事の時のことです。夜子さんがバンで立てたあの作戦は、相手の行動を利用したにすぎません。それが、今回も使えるのではないかと思いまして」
「……具体的に聞いても?」
波場さんの顔色が変わる。
「時間は多少かかるかも分かりませんが――あいつが理想とする”弟”というやつになり切れば――」
「ダメ!」
ふと耳を突いたのは穂坂さんの声だった。
下手をすれば外まで漏れていようとも思える声量で言い放ったのだ。
見れば、怒り心頭といった様子で頬を膨らませている。
言いたいことは直ぐに分かった。
「危険なことはさせたくない」
「時には必要なことです。俺一人で作戦が成せるなら、儲けものだとは思いませんか?」
「思わない」
穂坂さんはきっぱりと言い捨てた。
尚も立腹の様子で、俺に顔を近付けた。
「はっきり言うよ。私はもう芳樹が好きなの」
「それ……今、関係――」
「あるよ。大いにある。好きな人には死んで欲しくない。その好きな人は、まだだけど能力者なのよ。忘れたの、夜子さんが言った言葉? 私たちの仕事は『保護』なんだよ。対象者じゃないの」
一瞬、穂坂さんの言っていることの意味が分からなかった。
しかしすぐに、それは「能力者全般の保護」だということに気が付いた。
能力者の保護とはつまり、能力を持つ者全てを保護するということ。そこには当然、作戦を担う者すら含まれる。
犠牲の元に成り立つ救済があってはならないと、穂坂さんは改めてそう言っているのだ。
冷静でなかったのは俺の方だ。
「能力者――芳樹を護ることも仕事なの。護って、護られてるのが、私たちの仕事なのよ」
それは、これまでとは違う声音。
俺を抱き寄せ、安心させるように放たれたそれとは大きく異なる、諭すためのもの。
そう、これは説教だ。何も知らない、知ろうしているようで知ろうともしていなかった俺への、穂坂さんによる喝だ。
好き、と直接的な言葉を織り交ぜつつなのは、それをより立てる為。
好きだから、死んで欲しくない。好きだから、間違いを犯してほしくない。
それを理解するのにまで時間を要した俺は、やはりまだまだ未熟なのだ。
妙案を思いついた気でいたのは、自惚れだった。
心を改めねば――。
思い立ったが吉日、俺は自身の頬を思い切り両サイドからひっぱたいた。
先の穂坂さんの声より大きく、生じた音が部屋に木霊するほど。
急な奇行に、当然二人は目を丸くする。
「すいません……もう大丈夫です。穂坂さん、ありがとうございます」
大人になって、同じくらいの年の大人、それも女性から大きな間違いを指摘されるとは、何ともダサい。ダサいことこの上ない。
夜子さんには「守ってあげたい」なんて大それたことを言っておきながら、あのままの心持ちでは、絶対に成し得なかっただろう。きっと、最終は自己犠牲を格好良さと履き違えていたに違いない。
この痛みに誓って、間違い――いや、勘違いを正そう。
自己犠牲なんて、やはり碌なものじゃない。
俺を大切だと言ってくれる人が目の前にいるというのに、それを残して先に逝くなど、ただの馬鹿がすることだ。
その馬鹿でないことを証明するために。
「しかし、茜さんも気付いているとは思いますが、何も素材がなく、かつ相手が勘違いという欠陥を抱えている以上は、奇しくもそれがベストな手です。如何なさるおつもりです?」
流石は隊の生命線、最年長は頼りになる。
眼鏡と話を本筋に戻す波場さん。
俺は堂々と言った。
「もちろん無策です」
それに対する二人の反応は当然だった。
しかし、今の俺にはどうにも、策を労するということの方が間違いだという気がしてならない。
「策はあった方がいい、それは当然です。が、それが検討違いだった時、すぐに立て直せるほど人間の脳は良くは出来ていないものです。策は、相手に関する何かを大方知った上でないと効果を発揮しません。現状で美緒に関する知識がほとんど無いに等しい以上、一度向かってやられてリスタートでもしないと不可能です。しかし、そのやられるというのが”死”を意味するなら――?」
「道理ですが、寧ろその方がリスクは大きくありませんか?」
「そうでしょうか。体当たりしてみないと分からないことだってあると思います。策を労そうが労すまいが、不測の事態というものは付き物です。言ってみれば、現状だって出立前は予想していませんでした」
「そうですが……体当たりというのは、具体的には?」
切り替えの早さも流石だ。
恐らく納得はしていないのだろうが、一つの案として俺の話を聞こうとはしてくれているらしい。
今の美緒を構成する要素は、弟を失った悲しみとそれを成した男への怒り、恨み。それらが重なり合って曲がり合ってぐちゃぐちゃになって、それでも”美緒”としての人格は残っている。
なら、まず始めないといけないのは明白だ。
「美緒と直接、話しをしましょう。話しをして、氷山美桜という人物を知るんです」
言い張った俺に、穂坂さんはやや驚き、波場さんは目を見開いた。
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