羽多野有栖
暗いわけではなく寧ろ明るいここでは、向かい合わせに立ち並ぶ鏡にどこともない灯りが乱反射して、光が木霊しているのだが眩しくない。
空気も、酸素面には問題が無いようで、暑くも寒くも無い。
あるいは『死んだのだ』と言われた方がしっくりくる程、恐ろしく何も感じないのだ。
入って来た鏡に触れ、吸い込まれないのを確認して辺りを見回し始めると、とてもこの世にいるとは思えない幻想的な風景につい見入ってしまう。
そんな、ひと回りもふた回りも大きい俺のそれを目敏く視界の端で捉えたのは、腰ほどの大きさしかない人形のような少女。
確か『アリス』とか言ったか。さしずめ、彼女の観点から言えば俺の方が大きな変わった人間なのだろうな。
正面を向いていたアリスか振り返り、玉のような瞳で俺を見上げる。
ただじーっと見つめて、何を観察してるのかと思いきや、
「あなた、面白いわね」
と一言、微笑を浮かべてそれだけ放った。
何が、あるいは何に対して言っているのか分からず返答出来ないでいると、アリスはまた正面に向き直り、「ついて来て」と長い廊下を先導し始めた。
言われるがままに後を追う俺の歩幅は、男女の差ということに加えて大小の関係もあって、アリスより幾分も大きく、数歩歩けばすぐに追い抜いてしまう。
気をつけて遅らせるのだがまた追い抜いて、と何度か続ける内、しびれを切らしたアリスが立ち止まる。
慌ててそれに倣って俺も足を止まるのだが、やはりと一歩踏み出したところで静止した。
「いや、ごめん」
「何にかしら?」
小さいと言ったら――というようなニュアンスを含んだ声音だ。
少しの間を置いて何とか言葉を選び、答える。
「色々あって焦っててさ、気持ちが逸るんだよ」
「…そう。まぁ安心して頂戴。味方ではないけれど、敵でもないから」
「中立だと?」
「ええ。今回はやや私にも都合がいいから、春子のお願いに協力しているだけ。運び終えたら、そこからは何もしないわ」
ぶっきらぼうにそう言い捨てて溜息を吐くと、アリスは再び歩き出した。
見た目と反した、落ち着き払った言葉遣いと態度。幼い訳ではないのだろうと思うが、大人と言うには――。
「何かしら?」
正面を向いて足を進めたまま、アリスが声だけで尋ねてきた。
その声音に、先のような雰囲気は感じ取れない。
恐らく、聞かれる内容に対する大方の目星でもついているのだろう。正直に答えても良さそうだ。
「アリスさんは――」
「呼び捨てて貰っても構わないわ」
「じゃあアリス。ここは随分と変わった空間だな、まるで――そう、ワンダーランドのような」
「そうかしら? 別に普通よ」
「見たところ、子どってことはなさそうなんだけど、ここはどういった空間なんだ?」
聞くや、少し道を逸れた先にあった鏡を指差した。
どうやら「覗け」と言いたいらしい。
促され覗いた鏡には、俺が映るばかり。
何を見せたいのか、証明してみせようとしているのか。
と、つい数分前のように鏡面が揺らいだかと思うと、次いでどことも知れない、けれどこの屋敷のものであろう一室が浮かび上がった。
よく見ると、アリスの手が鏡面に触れていて、恐らくそれがこの状態にする条件なのだろうと思える。
どこ、と俺が聞くが早いか、アリスが説明を始めた。
「洗面所の鏡ね。出られるわよ」
「いや、だから説明を」
「実際やって見せた方が早いと思って。見たまんま、これが私の能力よ」
俺が聞きたいのは、そこではなかったのだが。
「質問を変える。君は『何だ』?」
切り返し、短く問うと、アリスは言い淀んだ。
いや、表情に変わりはないから、どう説明したものかと頭の中で整理しているように見える。
やがて
ゆっくりと口を開き、
「
…なるほどな。
「こう言ってはあれなんだけど、また厄介な死霊だな」
「何と言って貰っても結構よ」
有栖はそっぽを向いた。
「小さいのはどうしてだ?」
「貴方が大きいのよ」
「……………………」
「冗談よ。そんな冷たい目をしないでちょうだい」
有栖はムッとした表情で溜息を吐くが、すぐに表情を戻すと訥々と語り始めた。
「お察しの通り、これは私の能力が作り出した空間。鏡の中に思い描いた世界を作り出すのよ」
「思い描く、か。それにしては、個性に欠けると言うか、いや寧ろあるのか。どちらにせよ、何も無さすぎる」
指摘された有栖は「そうね」と短く答えて、そこに立っていなさいと鏡に駆け寄った。
両腕から始まり、頭、こし、足と鏡面に吸い込まれていき、ついぞ爪先まで向こう側へ出ると、
『これが本来の姿よ』
そう響いて来たのは頭の中の方だった。
テレパシーで何とか会話をしていると言う鏡の向こうにいる有栖の姿は、たったの今まで毅然とした態度で話すそれではなく、更に小さく弱々しい、幼児そのものだった。
空想した世界を鏡の中に反映する能力。それ自体に間違いは無いのだけれど、元が元であるが故に、その材料すらなく。
ただ『大人になりたい』という願いだけを纏い、実現された世界がこれなのだと言う。
『幼児にも、ちゃんと自我ってあるのよ。まだ言葉が話せなくても感情は出せるし、訴える術もあるにはあるのに…そんな中で殺されて、出来るのはこのくらいだったのよ』
「自分の――いや、大人というものの意識自体が曖昧だったから、あんな姿に…?」
『満足しているけどね』
そう不満げに言い放つと、再び鏡の中へ。
裾を払い、背筋を伸ばして俺を見上げる。
「概要はこんなものかしらね。あとはこの空間の機能なのだけれど…まぁ、さっきも言ったか」
「好きなところに行けるってことか?」
「平たく言えばね。厳密には、言ったことのある、それも鏡があるって条件に縛られるけど」
「案外頼りにはならないな」
流れで切って捨ててやると、
「あら。貴方がやりたいけど出来ないことが、私には出来るのだけれど? この『鏡渡り』を利用すれば」
「それは…悪かった」
「素直な人は好きよ。着いてきなさい」
薄っすら笑みを浮かべて言い捨てて、有栖は先を歩き始めた。
そういえばと、見ていたのに意識から外していた、廊下の所々に鏡が設けてあったのを思い出した。
曲がり角や客間前、広間。
至る所に鏡があったな。
死霊であるからには、有栖は美緒の部下だということだ。無意識の内に使い勝手がいいと見て、いいように増やしたのだろうか。
配置も等間隔ではなかったし。うーん。
「さ、ここよ」
どこまでも続く長い回廊の一角で止まると、そこにあった鏡に手を触れた。
鏡面に現れたのは、今までと左程変わらない風景だった。
が、
「左手手前の扉に、二人はいるわ」
有栖はぶっきらぼうに漏らした。
協力者とは、なるほどこういうことだったのか。
俺をただ助けるだけでは、あそこから流すだけでは意味がないからな。協力に協力するのは、多い方がいいに決まっている。
加えて言うならば、あの二人は能力者なのだ。
ただの人ではない。
「どうしたの?」
「いや…よくこんなだだっ広い空間で的確に、と思って」
「なぜ貴方は呼吸が出来ているのかしら?」
「なぜって…まぁ障害もないから、当たり前――」
「そういうことよ」
つまりは、何となく分かってしまうということか。
それはまた便利な話だ。
「助かった。ありがとう有栖」
「礼には及ばないわ。言ったでしょう、都合がいいと。それだけのことよ」
「そっか」
「何が、とは聞かないのね」
「人においそれと話せる秘密か?」
「いいえ、決して」
「なら、聞かないよ」
「よく言うわ。散々と私のプライバシーに踏み込んでおいて」
「だからだよ」
有栖が気になったから、という理由もない訳ではないが、それが一番聞きたかったことかと言われればそれは違う。
俺の質問に答える上で、彼女が自身のことを語るのは避けられなかったとは言え――後になってそれらを聞いて、少し後悔した。
だから、よしておこうと思ったのだ。
「早く行きなさい、待っているのでしょう?」
有栖が俺の背中を押す。
背伸びをして、ギリギリといった様子が伺えるのに堂々としている様が何だか可笑しくて。
「何を笑っているの?」
「いや、別に。ともかくありがとう。また、遊びに来るよ」
「――ええ」
瞬間、寂しそうに目を伏せて、有栖はそう答えた。
その表情、言葉の気力のなさ、それが示す意味について、俺はこの時理解できていなかった。
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