笑って、晒って、嗤って
これは何というか、メモしようにもできない内容だ。
まさか、穂坂さんが――いや、どこかで気付いていた。初仕事前の抱擁、先の抱擁、どちらも尋常ならざる柔らかさと弾力――そんなことはどうでもいい。
いや、良くはないけど、どうでもいいということにしておかなければ話が進まない。
屋敷最上階最奥の一室にて。
穂坂さんノーブラ発覚事件から数秒。
当の本人は未だ地べたで泣きじゃくり、少女は穂坂さんに怪しい動きで近寄り、俺はそれを羽交い絞めにして抑え込んでいた。
「穂坂さんがチョメチョメだっていう話題は後でじっくりするとして」
「するの!?」
ようやくの反応は、今は無視だ。
「いくつか質問をするよ」
「お姉ちゃんって呼んでくれたらね」
満面の笑み。
ただの憧れや欲望に、えらく素直というか従順な女だ。
一方的に弟だ何だと言われたが、一体何だと言うのだろうか。
面倒なことにならなければいいのだが。
「じゃあ、お姉ちゃん。お姉ちゃんはここで、何をしてるの?」
「何って。弟を待ってたんだよ?」
「どこに行ってるの?」
「やだなぁ、帰って来たじゃない、今」
「今?」
思わず首を捻った。
先に攫われた穂坂さん、そして俺。この二名以外、少女本人を除けば誰も部屋にはいないし、誰も入って来ていない。
今帰って来た。
弟?
「ほら、ちゃーんとここに! うふふ。おかえりなさい、
三留。それが名前か。
なるほど。
永禮芳樹でも穂坂茜でも、ましてここには今いない波場安高でもなく、三留というのか。
では、何故。
「遅かったじゃない。どこに行っていたの? 怪我はない? お腹減ってる?」
何故、少女は俺の頭を抱き寄せるのだろう。
力はないけれどしっかりとした確かな動きで、俺の目を真正面に捉えて、優しく包み込むようにして、自分の腕の中に包み込んだのだろう。
これ以上ないくらいの慈しみに満ちて、最大限の愛情を孕んだ声音で、そんなことを言うのだろう。
少女はそのまま俺を離さず、
「パパとママも待っているわ。早く下へ行きましょう!」
「え……ちょ、待って…!」
立ち上がって俺の腕を引く少女を慌てて引き止める。
すると少女はすぐに立ち止まって振り返るのだが、その瞳はどこか光彩を失っているようにも見えた。
「どうしたの? あ、ごめんなさい、あまりお腹が空いていなかったのね。私ったら。それじゃあ、何をしましょうか。お庭で遊ぶ? 遊びましょう」
「ちょっと待ってよ…! どうしたの急に、それに三留って……俺は――」
「やだ、三留ったら。一人称は『僕』だって、あれほど言ったじゃない」
「違う、俺は芳樹だ…! 君の弟じゃない」
「……………………」
何を勘違いしているのか、錯乱している様子もなく認識を誤っている。
それを正そうとして名乗ったのだけれど。
どうやら間違っていたようだ。
少女の瞳は更に黒く染まり、俺を見つめるその瞳は聊かの力をも失っていた。
「三留……みつる? ねぇみつる、お姉ちゃんが間違っていたなら謝るわ。謝るから、そんな悲しいことを言わないでくれる? お姉ちゃんはあなたのお姉ちゃんなのよ……?」
違う。
俺は三留じゃない。
俺は君の弟じゃない。
重ねてそう否定したいのに、口は動かない。
見えない何かに押さえつけられているように、指先一つも動かせない。
「お……おれ、は……」
それでも何とか全力を注ぎ、辛うじて動いた唇。
しかしそれが叶うより早く、三人目の侵入者によって憚られた。
俺の手を引く少女の奥――扉の所に、駆け付けた波場さんが立っていた。
「芳樹さん、それに茜さん。人前で易々とその豊満を晒すなんて、淑女としてあってはならないことですが――事情が事情のようで、そうも言ってはいられません」
眼鏡をくいと直し、室内へ。ベッド付近に散らばっていた衣服を集め、穂坂さんに手渡して辺りを一瞥。 俺の眼前で感情を無くしている少女に気が付くや、今度はそちらへと歩み寄る。
何とか危機は脱する。
追い剥ぎに遭った穂坂さんも助かる。
そう思っていた矢先。
「めがね……おとこ……おとこ……おとこ…………おとこ!!」
音を立てて折れるほどに俺の指を強く握り吠えると、半ば放り捨てるようにして俺を倒し、近寄ってくる波場さんの前に出た。
「めがねのおとこ。あなたが、みつるを……どこにかくれていたのかしら?」
かくつきながら首を捻る動作は、さながら機械人形。
声だけでなく身体全体を震わせて、まるで親の仇を見るかのように波場さんを強く睨んで、憎悪にまみれた声で叫ぶ。
「おとこ、かえれ! みつるは、つれていかせない! かえれ!!」
体格に似合わぬ大声を出した所為で喉を傷めたのか、途中から赤い飛沫が飛ぶのが見えた。
それでも尚、帰れ、みつるは、と叫び、暴れ、狂っていく。
終いには波場さんの身体に手を当てて、
「パパ、ママ!!」
そう少女が叫ぶと同時に、どこからともなく現れる影二つ。
外にいた幽霊や先ほど見た骸骨と違って、それは実体を持っているかのように鮮明な形を成して留まり、波場さんを両側から掴んで浮き上がり、部屋を出た。
階段がある辺りで向きを変えて曲がり、更に進んでいった。
来たばかりの侵入者を排除した少女は、さぞご満悦の様子。
肩を震わせ、口元を歪ませ、棒立ったままで笑う。
「いい気味だわ、いい気味なのよ! もう二度と現れない、現れちゃだめ、現れるな! あは、ははは、ふふ、あはははははは!」
自身が零した赤に包まれて、少女は高らかに嗤った。
落ち着き冷静になると、今度は俺の方に向き直った。
向き直って、無言で俺の手を取る。
「お姉ちゃんが守ってあげるから。もう、屋敷からは出ちゃダメよ? 出られないわよ? でもいいよね、心配いらないよ」
もはや文章になっていない。
脈絡がない。
感情をそのまま言葉にして、支離滅裂な繋がりをぶつけて来る。
必死で抵抗するのだが、どこからそんな力が湧いてきていたのか、微塵も動かずに引きずられる。
そしてそのまま、奥にあった牢屋のような小さな部屋へ。
俺を放り込み、鍵をかけた。
「これでもう安心よ。心配ないわ。どこにも行けないから大丈夫になったの」
「芳樹…!」
衣服を着なおした穂坂さんが叫ぶ。
起き上がり、俺の方へ走ってくるのだが。
「あなたはあの人の仲間? 違うの? そうなの。そうなんだ。じゃあ、いらないね」
「待て…!」
伸ばした手は空を掴み、
「消えちゃえ」
冷酷に、冷徹に、無慈悲に放たれた言葉に続いて、再び現れた影によって連れ去られた。
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