初仕事
七月七日。
世間が七夕祭りだと盛り上がる中、俺たちは粛々と準備を進めていた。
そう、今日は初仕事だ。
皆が諸々を終えた頃、夜子さんが声を上げた。
「対象は得物を持っているから、気をつけてください。と言っても、実際赴くのは私なのですけれど――ともかく、誰にも何も起こらぬよう、仕事をしてまいりましょう。準備はよろしいですね?」
夜子さんの号令に、波場さんはPCを掲げ、岩山さんは拳を握り、三浦さんは舌を出してコンディションの抜群たる態度を示した。
それを見て夜子さんは頷き、では出発しましょうと席を立った。
翻される、お世辞にも動きやすいとは言えないロングスカート。
体動の必要なく、事態を収束してみせようとでも言うのだろうか。
穂坂さんの話によればそれは十二分に可能なのだろうが、少し心配でもあるな。
何せ、相手は刃物を持っていて、事実過去に殺された仲間もいるという話だ。
どうしてそれで止めようという気にならなかったのか不思議なところではあるが、今はまあ、せっかく雇われたからには、その組織が掲げる仕事を全うしようではないか。
無能力の俺に、何が出来るとも限らないけれど。
事務所たる雑居ビルを出て三十分。
バンで移動してこの経過だから、ここ一丁目はどれ程広いのだという話だ。
ともあれ二丁目に着いた俺たちは、それぞれ持ち場に着く。
波場さん、岩山さん、穂坂さんの三人はバンに残って波場さんのPCに群がり、前を整然と歩く夜子さんの後を俺が追う。
残る最後、三浦さんはと言うと。
『位置に着いた。指示で偵察を始めるが?』
右耳に着けていた小型の無線通信機から声がした。
三浦さんは、対象が待ち受ける廃屋から少し離れた別の場所でスタンバイしている。
暗視ゴーグルを用いて、対象の動向を探る役目だ。
「まだ構いません。待機しておいてください」
『――了解』
もはや軍だ。
やり取りが、ただ趣味でやっているのではないと改めて実感させられる程緊張している。
そして、更に五分程歩いた頃。
夜子さんが三浦さんに「ちょっと見て見てください」と指示を出した。
通信機から小さく『了解』と応答があった後、すぐにそこから別の言葉が聞こえて来た。
『いる。が、おかしい』
夜子さんが立ち止まる。
「おかしい? 一体、何がです?」
『人影が二・つ・ある』
「二人…!? 自殺ではないのですか?」
『分からない。が、向かい合って立っている』
「――分かりました。そのまま監視を続けてください」
『了解』
そうとだけ指示して、再び歩きだす。
少し速くなった足取りの夜子さんを慌てて追いかけ、問うてみた。
「どう考えます?」
「協力者か何かでしょうか」
「協力者? 自殺にですか?」
「自分では踏ん切りが付かないけれど、死にたいのはどうしても。そんな時、法に触れないギリギリのラインで、殺してくれる相手というのがいるのよ」
「それは初耳ですが――だとすると、少しまずくないですか? このまま突っ込んで大丈夫なんですか?」
「あまり得策ではないけれど、説得の余地ならあります」
頼もしい限りだ。
しかし、何なのだろうか、この胸騒ぎは。
そこから五つ目の角を曲がった辺りで、夜子さんは右手を出して俺を制した。
すぐ後ろで腰を屈め、頭だけでその先の様子を見る。
ある一つの建物の中――リビングと思しき広い空間内に、二つの人影が確認できた。丸腰の男が一人、強盗なんかにありがちな穴あきのニットをかぶった男が一人。前者は首を縮め、後者が刃物を突き付けている。
情報と、まるで違っていた。
「夜子さん?」
「おかしいわね……芳樹くん、今の時刻は?」
言われて取り出したスマホが表示するのは、七時十五分。
予定では三十分だからそう遠くはないのだが、洋子さんは浮かない顔をしている。
「私の『千里眼』が見るのは、その人が死ぬ瞬間のビジョンなの。今まではこんなことなかったんだけど――そうよね。自殺前に起こっていることなんて、どんな状況も有り得るわ」
「どうしたんです、ちょっと…?」
「いい、芳樹くん。この世は善と悪に分かれるのは当然のことよ。でも、それぞれに分類もあって――そう、悪の中にも、色々な人がいるの」
「色々って…?」
「直接人を痛めつける人もいるし、間接的に痛めつける人もいる。でも、もっと卑劣なのは――」
三つ目を言いかけた瞬間、無線機から『お嬢!』と叫ぶ三浦さんの声が響いて来た。
「み、三浦さん……?」
『新人か、お嬢を連れてそこから離れろ…!』
「え? で、でも――」
『対象は二人じゃない、三人だ!』
そう叫ぶ三浦さんと反して、夜子さんは冷静に「やはり」と呟いた。
「三つ目は、『人の弱みに付け込む悪』です」
「つけこむ…?」
「続きは走りながらにしましょう」
夜子さんは身を翻して走りだした。歩幅は狭い。
それでも、男の俺が全力で走っても追い付ける速さ。ジーンズで着ていれば、あるいはもっと俊敏に動けそうだ。
来た道を戻り、バンを目指す。
しかし、それは失策だった。
戻れ、と三浦さんが言わなかったのは、こういうことだったのか。
最後の角を飛び出したところで、夜子さんに首根っこを掴まれて引き戻される。
そして「よく見て」と言われた先、バンの三十メートル程奥に、一人の男が忍び寄っていた。
どうしましょう!
と冷静さを欠いていた俺には、新人という言葉が本当によく似合う。
夜子さんはスマホを取り出し、画面を操作する。
そして『穂坂茜』と記された番号を表示し、通話ボタンを押して耳に充てた。
スピーカー設定にこそされてはいないようだが、この静けさの中では、穂坂さんの声はよく通った。
『夜子さん? どうかしたの?』
「動かないで、黙って言うを聞くこと。良いですか?」
『緊急事態ですか…?』
「不安な程にね。でも、大丈夫です」
夜子さんは冷静に続ける。
「男が一人、そちらに近付いています。自殺者ではありません。まずはアクションを――そう、電気を点けてください」
『車内のですか?』
「はい。カーテンを備えていたのが幸いでした」
夜子さんがそう答えたすぐ後で、灯りを点けることで穂坂さんはそれに応じた。
「それで、車内に誰かが乗っていることは伝わりました」
『ちょ、それって大丈夫なんですか…!? 屈んでやり過ごした方が――』
「悪の種をみすみす逃がすわけにはいきませんから」
『……分かった。次はどうすればいいですか?』
応える穂坂さんの声は少し元気がなかったが、はっきりとしていることは分かった。
「状況を見て聞き分けのいいところ、貴女の美点ですよ。ですが――そうですね。紘輝さんに代わってください」
『え? あ、はい。ゴリラ、夜子さんから』
受話器の向こうで岩山さんがどんな表情をしているか、容易に想像できる。
呆れたところで、岩山さんの声で『変わりました』と聞こえてきた。
「やっぱり、茜さんを危険に晒すわけにはいきませんから。貴方の力を見込んで、頼みがあります」
『何をすれば?』
「はい。男の移動先は――」
まずは岩山さんを、後部座席右扉に構えさせる。
そして、残る二人には普段通りにしてもらうよう頼む。
不安はあろうが、と心配した夜子さんに対し、しかし二人が『信じてますから』と返したことは驚きだ。
そこまで指示をした夜子さんは、俺に振り返ってスマホを渡す。
「芳樹くん、時間合わせお願い出来ますか?」
「へ…?」
「当初の配役通り、やはり直接動くのは私にした方がいいかと」
「え…!? ちょ、さっきの状況見てたでしょう、あれは自殺者とは異なる人間なんでしょう…!? 危険です…!」
「その危険に、家族が襲われようとしているのですよ?」
「……っ……!」
反論できない俺に、夜子さんは微笑む。
「大丈夫です。家族を守る母は、強いものです」
そう言って、裏手からさっさと走り去ってしまった。
「時間合わせって――はっ…!」
男は既に、十メートルのところまで距離を詰めていた。
時間合わせとはおそらく、タイミングを計れということなのだろう。
しかし、夜子さんの話した作戦は、まだ途中のような気がする。
次のアクションを起こすのは岩山さんだが、そこ止まりなのだ。
つまり、その先は夜子さんがアドリブで対処するということ。
大丈夫だと口では言っていながら、その実、作戦というのは、家族にも話せない危険賭け。
腕ずくでも引き止めなかった後悔が今になって押し寄せる。
しかし、俺が焦る気持ちを無視して、男は更に、徐々にバンとの距離を詰める。
否応なしに、やるしかないのだ。
「岩山さん、準備は良いですか?」
『いつでもオールライトだ。しくじるなよ、新人』
その一言が、俺に更なるプレッシャーを与える。
しかし同時にそれは、聊かの『期待』も込められているのだと分かる。
「スリーカウントで行きます」
『おうよ』
岩山さんが力強く応じる頃には、男は既に番のすぐ後ろ。
そして夜子さんの言った通り、そのまま右の方へと回っていく。
俺から見て左を前にしているバンの向こうは目視出来ない。
ここからは、俺の匙加減一つで結果が変わってくるということだ。
すると、緊張に固唾を飲んだところで、
『君なら出来るよ、芳樹』
穂坂さんの優しい声が耳を打った。
迷いは消えた。
深呼吸を一つ。
意識を集中させる。
スリー。
ツー。
ワン。
「今です!」
『おらぁ!』
バンの中から外、こちらにまで届く怒号と轟音が響く。
岩山さんが叫ぶと同時に、夜子さんが指示した後部座席右扉が蹴り飛ばされ、外にいる男の寸前を通り抜けて遥か十メートル先で落下した。
対象を外れた不意の攻撃に、しかしスマホからは『へっ』という余裕の笑い声が聞こえ、そのすぐ後で『ぐっ……!』と聞き慣れない声がした。
間髪入れずにバンの前で倒されたのは、早くも両腕を締められている先ほどの男だった。
それを押さえているのは勿論この人、
「流石はお嬢!」
「お嬢、たまにはゴリラも役に立っ――誰がゴリラや!」
「お疲れー筋肉ゴリラ。ありがと夜子さん!」
珍しく仲良くバンから降りて来た三人が、口々にその人の名を呼ぶ。
対して地面でバタつくも動けない男が、皆を順番に睨みながら言った。
「くっそ、何なんだてめえら…! まだ何もしていないだろう…!」
「口を開かない方が墓を掘らずに済みそうですよ。随分とお馬鹿な頭をお持ちなのですね」
顔色一つ変えず、汗もかかずに、夜子さんは自分より身の丈の大きい男を、見事に押さえてそんなことを吐いた。
珍しくそんなことを言ったものだから、当然他の人たちも少したじろいでいる。
すると、急に男の力が抜けた。
動かしていた。両手足を落ち着かせ、はぁと溜息を吐く。
それで油断した夜子さんも、釣られてか少し力を抜いてしまう。
「あっめえんだよ…!」
吠えた刹那、男が靴の爪先を地面に打ち付ける。
同時に踵部分から、仕込みの短刀が姿を現した。
しかし、腕、頭を押さえて乗っかっている夜子さんの目には、それが見えていない。周りの三人もすぐにそれに気付き、咄嗟に駆けだそうと姿勢を変えるが、
周囲にいる俺たちに向かって、湯谷夜子は微笑んだ。
その直ぐ後だ。
笑顔の意味が読めず立ち止まった俺たちの耳を、男の悲痛な叫び声が強く打った。
正確には、夜子さんが男の頭に添えていた右手を肩にやった瞬間の出来事だ。
コキっと小気味良くも無慈悲な音が響く。
夜子さんは、男の肩を外したのだ。
そして、再び頭を押さえなおし、口調を変えて言い放つ。
「痛みが辛ければ答えなさい、下郎」
なるほど、怖いと言われるわけだ。
おそらくは逮捕術。食らいたくはない。
ひとまずは男を近くに落ちていた廃れ縄で身動きを制限。不測の事態に、次の行動を考え始めた。
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